SWATマナリ・アン1969—マナリ・アン(マナリ峠)の位置の同定
〜京都府山岳連盟西部カラコルム教育調査隊1969年の記録〜
スワットというところは、あまり高い山もなく、いくつもの7000メーター級の未踏峰が残っていたその当時、訪れる人は少なく、未知の要素が多かった。
マナリ・アンのことを知ったのは、1965年のディラン峰の遠征隊で同僚隊員だった土森君からの話だった。
彼は、1967年、車とバイクでインドから北欧までを走破するという大遠征を行ったが、その途中スワットに立ち寄ったのだった。
この文献でのみ知られる峠に興味を持った彼は、その所在を突き止めようとしたが果たさなかった。
1969年、ディラン隊の隊員をそのままメンバーとする京都カラコルムクラブが、カラコルムの未踏峰カンピレディオールに隊を派遣することになった。
ディラン峰登山の後、山ではなく人に的を絞った山登りなり旅なりをやってみたいと思い続けていた私は、これを好機と捉え、西パキスタン辺地教育調査隊を組織することにした。
メンバーは、大学以来のザイル仲間の関田和雄、勤務していた高校の山岳部OBの安田越郎、中村達と私の4名。
1965年のディラン峰遠征時、京大による日パ親善事業としてのガンダーラ合同発掘調査が行われており、そのために持ち込まれたトヨタのランドクルーザーがあった。その車はそのまま日本大使館に保管されていることを知っていたので、これを使うことを画策した。
今川書記官の話では、この車は京大が無税で持ち込んだものであり、大使館でも処置に困っている。結局ペシャワールのミュージアムに寄贈することになったという。そこでその陸送を任せてもらえないかと持ちかけ、さらにじっくり話をつめて、渡す日取りにはいつまでという期限はないことにしてもらった。
調査に関しては、京大人文研の梅棹忠夫教授に指導を仰いだ。各国女性のポートレートを見せて行う嗜好調査や音楽の嗜好調査などは、「そういう調査はパキスタンに限らず初めてでしょう」といわれた。調査には、ウルドー語が必要と思われたが、私たちはすでに、1年位前からウルドー語の勉強会を継続して行っていた。
記録映画の作成も計画した。松竹映画社が、篠田監督による『白きたおやかな峰』の映画化を計画しているという話を聞き及んでいた。
松竹映画社にボレックスの撮影機2台の貸与とフィルム10時間分の提供をお願いし、渋る相手を「あの映画化の話を諦めておいででなかったらOKしてくださいよ」と説得した。
撮影は関田が担当し、帰国後、京都市役所広報課の映画製作のプロ、寺島卓二氏の編集協力によって、「ハラハリ〜幻の峠を求めて〜」(25分)の制作に取り掛かった。ナレーターは、劇団京芸の主任俳優にお願いし、インタビュアーは、桂高校放送部の女生徒に頼んだ。完成には約2ヶ月を要した。
パキスタンはこの年、1958年の軍事クーデター以来ずっと軍政を敷いてきたアユブ・カーンが副官のヤヒア・カーンに取って代わられ、政情不安で戒厳令が敷かれているという状況であった。
【トヨタランドクルーザー。ルーフ・キャリーはカラチの鍛冶屋であつらえた】 6月28日、カラチを出発した私たちはランドクルーザーを駆ってシンド砂漠を突き切りラホールにいたる。さらに北上を続け、7月12日ラワルピンディーに到着した。走行距離2900km。
ハラハリ谷に入った私たちは、ゴジリー語といういまだ学会にも報告されていない言葉をしゃべる部族の夏村に達した。ここで、マナリアンを越えたことがあるという60歳の老猟師、アドラム・カーンを見つけ出す。4名のポーターを連れた彼の案内によってマナリ・アン越えは成功した。高度計によるマナリ・アンの標高は、4680mであった。
後に彼の語ったところによると、これまでいくつかのヨーロッパの隊に依頼されたことがあったが、意思疎通のできない者と危険地に赴く気にはなれなかったという。私たちのウルドー語の勉強が実を結んだというべきか。
【滞在して調査を行った放牧夏村ハラハリ村の少女メラージ】 ハラハリ夏村に戻った私たちは、ここに定着して、調査を行った。この地の人たちが歌う民謡とその歌詞。子供の遊び、ゲームとそのルール。各家の配置および財産調べ(羊の頭数)など。
スワットを後にした私たちは、カイバー峠をこえてアフガニスタンに行くことにして、まずはカブールを目指した。アフガニスタンのビザはもちろんイランのビザも取ってあった。ところが、カイバー峠を少し下ったところの検問所でストップをくらった。ロードパーミッションが必要ということだった。それに、車を無税で持ち込むにはカルネ(無税通関証)が必要だった。引き返さざるを得なかった。
(注:カルネとは他国に車を持ち込む際に、普通支払わねばならない関税を免除するための書類で、各国の自動車連盟が発行する。交付を受ける際には、当該自動車を売却しないように、かなり高額の保証金のデポジットが必要となる)
そこで今度はギルギットに向かうことにした。
【ハラハリ氷河サイドモレーンを行くポーター】
いったんスワットに戻り、検問のないシャングラ峠を越えてインダス川へくだり、遡上することにした。
私たちの服装といえば、全員白のパキスタン服。時に応じてランドクルーザの腹に日章旗を貼り付けたりした。
インダス川沿いのべシャンから川上に向かったが、パタンの工兵部隊にとめられた。
スパイ容疑で部隊長のテントに留め置かれた。スパイ容疑とはいえ、毎夕部隊長と食事をともにして、いろいろと質問されるだけである。2日後に開放されたが、その時にはランドクルーザーは完全に整備されていた。
次は、道を変えて、バブサル峠(4173m)を越えてパタンより上流のチラスに出ようと考えた。峠は越えられたが、しばらく下ったバタクンディ村の検問所で追い返された。
車でのギルギット入りは、無理であった。
たいした用事もないのに空路ギルギットに飛んだ私たちは、陸の孤島ギルギットで、帰りのフライトがなく、1週間の待機を余儀なくされた。
ようやくラワルピンディに戻った私たちは、ペシャワールのミュージアムに行き、ここで、大使館との約束どおりランドクルーザーを渡し、カラチからペシャワールへのランドクルーザーの陸送は完了した。
ランドクルーザの全走行距離:5108km。
この60日に及ぶドライブ遠征は、その日々がドラマにあふれ、実に楽しく、この思い出は消えることがないだろうとその時々に思ったものだったが、本当にその通りであった。(高田直樹記)
スワットというところは、あまり高い山もなく、いくつもの7000メーター級の未踏峰が残っていたその当時、訪れる人は少なく、未知の要素が多かった。
マナリ・アンのことを知ったのは、1965年のディラン峰の遠征隊で同僚隊員だった土森君からの話だった。
彼は、1967年、車とバイクでインドから北欧までを走破するという大遠征を行ったが、その途中スワットに立ち寄ったのだった。
この文献でのみ知られる峠に興味を持った彼は、その所在を突き止めようとしたが果たさなかった。
1969年、ディラン隊の隊員をそのままメンバーとする京都カラコルムクラブが、カラコルムの未踏峰カンピレディオールに隊を派遣することになった。
ディラン峰登山の後、山ではなく人に的を絞った山登りなり旅なりをやってみたいと思い続けていた私は、これを好機と捉え、西パキスタン辺地教育調査隊を組織することにした。
メンバーは、大学以来のザイル仲間の関田和雄、勤務していた高校の山岳部OBの安田越郎、中村達と私の4名。
1965年のディラン峰遠征時、京大による日パ親善事業としてのガンダーラ合同発掘調査が行われており、そのために持ち込まれたトヨタのランドクルーザーがあった。その車はそのまま日本大使館に保管されていることを知っていたので、これを使うことを画策した。
今川書記官の話では、この車は京大が無税で持ち込んだものであり、大使館でも処置に困っている。結局ペシャワールのミュージアムに寄贈することになったという。そこでその陸送を任せてもらえないかと持ちかけ、さらにじっくり話をつめて、渡す日取りにはいつまでという期限はないことにしてもらった。
調査に関しては、京大人文研の梅棹忠夫教授に指導を仰いだ。各国女性のポートレートを見せて行う嗜好調査や音楽の嗜好調査などは、「そういう調査はパキスタンに限らず初めてでしょう」といわれた。調査には、ウルドー語が必要と思われたが、私たちはすでに、1年位前からウルドー語の勉強会を継続して行っていた。
記録映画の作成も計画した。松竹映画社が、篠田監督による『白きたおやかな峰』の映画化を計画しているという話を聞き及んでいた。
松竹映画社にボレックスの撮影機2台の貸与とフィルム10時間分の提供をお願いし、渋る相手を「あの映画化の話を諦めておいででなかったらOKしてくださいよ」と説得した。
撮影は関田が担当し、帰国後、京都市役所広報課の映画製作のプロ、寺島卓二氏の編集協力によって、「ハラハリ〜幻の峠を求めて〜」(25分)の制作に取り掛かった。ナレーターは、劇団京芸の主任俳優にお願いし、インタビュアーは、桂高校放送部の女生徒に頼んだ。完成には約2ヶ月を要した。
パキスタンはこの年、1958年の軍事クーデター以来ずっと軍政を敷いてきたアユブ・カーンが副官のヤヒア・カーンに取って代わられ、政情不安で戒厳令が敷かれているという状況であった。
【トヨタランドクルーザー。ルーフ・キャリーはカラチの鍛冶屋であつらえた】 6月28日、カラチを出発した私たちはランドクルーザーを駆ってシンド砂漠を突き切りラホールにいたる。さらに北上を続け、7月12日ラワルピンディーに到着した。走行距離2900km。
ハラハリ谷に入った私たちは、ゴジリー語といういまだ学会にも報告されていない言葉をしゃべる部族の夏村に達した。ここで、マナリアンを越えたことがあるという60歳の老猟師、アドラム・カーンを見つけ出す。4名のポーターを連れた彼の案内によってマナリ・アン越えは成功した。高度計によるマナリ・アンの標高は、4680mであった。
後に彼の語ったところによると、これまでいくつかのヨーロッパの隊に依頼されたことがあったが、意思疎通のできない者と危険地に赴く気にはなれなかったという。私たちのウルドー語の勉強が実を結んだというべきか。
【滞在して調査を行った放牧夏村ハラハリ村の少女メラージ】 ハラハリ夏村に戻った私たちは、ここに定着して、調査を行った。この地の人たちが歌う民謡とその歌詞。子供の遊び、ゲームとそのルール。各家の配置および財産調べ(羊の頭数)など。
スワットを後にした私たちは、カイバー峠をこえてアフガニスタンに行くことにして、まずはカブールを目指した。アフガニスタンのビザはもちろんイランのビザも取ってあった。ところが、カイバー峠を少し下ったところの検問所でストップをくらった。ロードパーミッションが必要ということだった。それに、車を無税で持ち込むにはカルネ(無税通関証)が必要だった。引き返さざるを得なかった。
(注:カルネとは他国に車を持ち込む際に、普通支払わねばならない関税を免除するための書類で、各国の自動車連盟が発行する。交付を受ける際には、当該自動車を売却しないように、かなり高額の保証金のデポジットが必要となる)
そこで今度はギルギットに向かうことにした。
【ハラハリ氷河サイドモレーンを行くポーター】
いったんスワットに戻り、検問のないシャングラ峠を越えてインダス川へくだり、遡上することにした。
私たちの服装といえば、全員白のパキスタン服。時に応じてランドクルーザの腹に日章旗を貼り付けたりした。
インダス川沿いのべシャンから川上に向かったが、パタンの工兵部隊にとめられた。
スパイ容疑で部隊長のテントに留め置かれた。スパイ容疑とはいえ、毎夕部隊長と食事をともにして、いろいろと質問されるだけである。2日後に開放されたが、その時にはランドクルーザーは完全に整備されていた。
次は、道を変えて、バブサル峠(4173m)を越えてパタンより上流のチラスに出ようと考えた。峠は越えられたが、しばらく下ったバタクンディ村の検問所で追い返された。
車でのギルギット入りは、無理であった。
たいした用事もないのに空路ギルギットに飛んだ私たちは、陸の孤島ギルギットで、帰りのフライトがなく、1週間の待機を余儀なくされた。
ようやくラワルピンディに戻った私たちは、ペシャワールのミュージアムに行き、ここで、大使館との約束どおりランドクルーザーを渡し、カラチからペシャワールへのランドクルーザーの陸送は完了した。
ランドクルーザの全走行距離:5108km。
この60日に及ぶドライブ遠征は、その日々がドラマにあふれ、実に楽しく、この思い出は消えることがないだろうとその時々に思ったものだったが、本当にその通りであった。(高田直樹記)