5.教師らしくない大先生たち

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 自宅から通勤することになって、それはいいですななどと人から云われましたが、ぼく自身、あんまりよくなかったんです。だいいち、前みたいに、学校のチャイムが聞えません。朝に弱いぼくは、よく電車に乗り遅れました。
 五、六年前、学校の健康診断で、低血圧気味ですと告げられたので、自覚症状はありませんが、どういう症状が起こるんですかときくと、そのお医者さんは、
「朝が起きられません」
と答え、ぼくはハタと手を打つ気分で、大喜びで、
「そうですか。そうでしょう。ぼくはもうずっと前から低血圧だったはずです」
 おまけに、彼は「お酒を飲むと血圧が上がるので、正常になるので、きっと調子がよくなるはずです」 といい、ぼくはますます大喜こびで、
「そうです、その通りです」
と、合槌をうったものでした。
 ところが、そのすぐ後で、カラコルムに遠征登山に行くことになりました。隊のドクターで、ぼくの山の後輩のタカヒコは、「右と左とは同んなじとちがうんやで」といいながら、えらく真剣に測定してから、
「どうもあらへんやん、タカダはん」
ぼくは必死になって、
「いやそんなことない。低いはずや」
5-1.jpgと、がんばりました。
「そやけど、この通り正常でっせ。その時たまたま低かったんやろ」
 な−んや、あほらしい。あれは間違いやったんか。そうすると、オレの寝呆うは、やっぱり、ぐうたらの所為なんか。ぼくは、ガックリきてしまったのでした。
 さて、遅刻してはならんと、オフクロに、「起こしてナ」と頼んでおいても、自分も学校勤めで、自分が遅刻せずにゆくだけで精一杯の母親は、一声かけるだけで、飛びだしてしまうのが常でした。
 起こされてサッと起き、顔を洗って、さて、少し早く起きすぎた。ちょっとうたたねする位の時間は充分にある。もうしばらくウトウトするか、などと思っていると、なんのことはない、それが夢で、まだ寝込んだままでした。
 顔も洗わずに、駅まで全力疾走。枕木の柵に張った鉄線を足場に、柵を飛び越して、入って来た電車に飛び乗り。国鉄の車中でまた眠り込んで、亀岡駅につくと、学校まで、またひと走り。いまチャイムが鳴り終った所です。正門まで廻るのは時間が足らないし、遅刻したのがバレてしまいそうな気がしました。生垣の隙間から学校にもぐり込むと、目の前が、一時問目の授業のクラスでした。そのまま、教科書なしで授業を終えると、生徒にカバンとオーバーを渡し、
「これ、分らんように、ソッと、ワシの机の上に置いといてえな」
と頼んだのです。

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 ある日の昼さがり、まだその中学へ行って数日しかたっていない頃だったと思います。 隣の机のオヤブンが、ぼくに、突然声をかけました。ちょっと出掛けようというのです。
 このハマダ先生は、なんか、ジャン・ギャバンによく似ているのですが、ヒョロッとしているので、なんだか栄養失調にかかったジャン・ギャバンという感じです。ぼくが、初対面で、
 「ジャン・ギャバンに似てますなあ」
というと、彼は、わが意を得たりという顔で、目をギョロッとむいて、
「ワシ、むかしなあ、ギャバンの〈ペペルモコ〉ちゅう映画がきて、似てるいわれて、スケペペゆうあだ名ついたんや」
 「はあ?」
 「あんな、スケベーなペペルモコゆうことや」
 ほんとに、もの腰が、古きよき時代のギャング映画の主役そっくりなんです。
5-2.jpg ぼくは、直ぐ、彼に、オヤブンというニックネームをつけました。もちろん、この命名は、ぼくだけしか知りません。でも、そう思っていると、態度まで、親分に対する子分の様になったのか、少したって、彼が誰かにぼくのことを、若いのに見どころのある奴や、といっていたということをききました。ただ、その理由というのが、なかなかケッサクで、オレがタバコをくわえると、サッと火を出しよる、というのです。
 オヤブンは、ぼくを伴って外に出ると、カブの後ろに「乗れ」と命じ、ぼくを乗せると校門を走り出しました。ぼくたちは、学校の近くの美容院へ行ったのです。そこのマスターは、彼のクレー仲間のようでした。オヤブンは、クレー射撃の名手で、国体選手なのだそうです。その美容院で、ぼくは散髪させられたのです。若い美容師さんが、たくさんいるので、ぼくは少しテレていました。
数日して、オヤブンは、またぼくを連れだすと、こんどは9号線を東に向かいました。
気がつくと、ヤギセンや、フジムラはんや、フクチはんも、一緒に走っています。どこへ行くのかと思っていると、老ノ坂の上にある茶店が目的地で、そこへ、「ぜんざい」を食べに行ったのです。
 みんなほんとにゆかいな仲間という感じで、全然先生らしくありません。ところが、ひとたび会議となると、彼等は教育論をとおとおと述べるのです。少しびっくりしました。 ある時、陸上競技部の部員が急増したので、スパイクが全然足らなくなり、なんとか買い足してほしいと、ぼくはクラブ予算担当の先生に頼み込んでいました。その先生も、他の先生も、
「そら無理ですよ」
と、全然取り合ってくれません。その時、オヤブンが横から口をはさみ「ワシの部の剣道部の金を廻したる。残りは出してもらえ」といってから、少し声を高くして、
「タカダ、若いうちや。思う通り存分にやれ。骨はワシが拾うたる」
 スパイクはみんな買えたんです。

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 フジムラはんは、職員会議の時、ぼくの隣りで、ノートにメモを取りながら、時々ぼくに耳うちしてくれました。
「あの人の発言、よう聞いててみ。面白いで。賛成とも反対とも分らんようにしゃべっとるやろ。ああしながら、みんなの様子を見とるんや。それで、どっちが多数かということを見極めたら、最後に多数の方に賛成の意見にして締めくくりよる。そんで状勢がつかめんかったら、そのまま終りよるんや。まあ、そういう風に観察しながら聞いとったらオモロイで‥‥‥」
 なるはど、そう云われてみるとそうみたいでした。まあ、職員会議で発言するしないに関係なく、こうした風な教師は、けっこう多いんではないか、とぼくは思っています。
 フジムラ先生は、「川遊び」 が趣味で、夏休み中、保津川で素もぐりをやるんだそうです。ぼくも、中学・高校を通じて、木津川で素もぐりに熱中した経験があったので、話が合いました。
 夏休み前、彼は、全く突然に、
「オレには夢があってなあ」
と、話し出したので、一体なんのことかと思ったら、水の底でウンコしてみたい、というんです。
5-3.jpg ぼくの山の後輩にも似たようなことを考えた奴がいて、彼の場合、正月元旦の朝、日本アルプスの白馬乗鞍の二九〇〇米の頂上雪原にしゃがみ込み、初日の出と、ウンコの出を一致させるというものでした。彼は、三年越しで、このトライアルを成功させたんです。
 このことを、フジムラはんに話すと、ワシもやるで、などといっていました。それにしても、水の底で、息がつづくのかしらん、とぼくは心配になりました。
 夏休みがすんで、学校にゆくと、彼はぼくを見るなり、
「タカダはん。やったで」
 頭のうえの方で、水面がキラキラと輝いていて、そこへ向かって、ウンコがスーツと浮上していったんだそうです。その様を頭に画いて、きっと美しかっただろうなあ、とぼくは思い、少し感激していました。
 さて、オヤブンは、あの美容院の二階で、時々、8ミリの映画会を聞いていました。来いといわれてゆくと、彼のクレー仲間や連れの教師が集まっていて、自分が写した「きじ撃ち」のハンティングの映画をやっています。
 ストーリーも何もない、犬がポイントし、ハンターが構え、鳥がストンと落ち、犬が獲物を口にブラブラさげて帰ってくる。そんなカットの、全く単調な繰り返しです。ほんとうにうんざりしました。時々、ブルー・フィルムがはさまることがあって、こっちの方は、あんまりうんざりしませんでした。
 ある時、校長が来ていて、ブルー・フィルムを見ていました。全然悪びれず、
 「うーん。おもしろいなあ」
などといっているので、ぼくは、なるはどこれは大親分だと思ったのです。

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 今までに、ぼくが出合った校長 --般的には、こういう時は、仕えた校長といいます--は、のベ七人なのですが、あの校長は、その中でも少ない大校長の部類に属していたように思います。
 事実、大校長や、ということになっていました。巨躯をゆったりと保たせて、常に鷹揚にかまえ、口数は少ない方で、だいたい「ハッハッハァ」と笑ってるだけという感じでした。時としてしゃべると、身体に似合わぬ細い声で、冗談とも皮肉ともつかめぬようなことをゆうんです。
 まだ、海外旅行が珍しかったその頃、彼は教育視察団として、訪米しました。その報告会をやるというので、ぼくも聞きにいったのです。当時ぼくは、海外での山登りをめざしていて、英会話の勉強をしたり、英文タイプの練習をしたりしていました。きっちり聴いて何かを盗んでやろうという気分でした。
 ところが、彼の話は、羽田飛行場を飛びたつ所から始まったかと思うと、
「さすがに飛行機は高い所を飛びます。なにしろ、雲が下に見えるんです」
 いや、びっくりしたというか、アホらしくなりました。そんなもん、山に登っても雲ぐらい下に見えるわい、とぼくは思いました。
5-4.jpg アメリカに渡ってからの話で、町を歩いていると、立看板があって、NO COVER と書いてあったのだそうです。連れの校長が、
「ノーカバーちゅうのは、カバーがないんやから、これはきっとストリップや」
そういったんだそうです。
 中に入っても、どうも様子がおかしい。そこは大食堂で、
「ノーカバー」というのは「ノーチップ」つまり「チップいりません」という意味だった。
「やはり、英語ぐらいは使えるようにして行かないと、こういう失敗をします」
てな調子で話は終り、ぼくは、はぐらかされっぱなしだったのです。
 でも、こんな愚ともつかぬ話を大真面目でやれるとは、やっぱり大したもんだ、とも思ったのでした。
 この学校は、校長室の真横に教室があって、そこでの授業の話は、校長室につつ抜けに聞こえるという話でした。大方の教師は、この教室で授業するのをいやがっていたようです。でも、ぼくは全然気になりませんでした。人が聞いていようがいまいが、自分でやれるようにしかやれんではないか。ぼくはそう開き直っていたのかも知れません。
 大体、どの校長も、教師の授業を聞こうなどとはしない。そういうことをしてはいけない、と思ってるかのようです。どうしてそうなのか聞いたことはありませんが、変な話だという気がします。
 ところで、あの校長は、やっぱりぼくの授業を聞いていたらしいのです。ぼくの離任式の時、ぼくのことを「極めてユニークな授業をなさいました」などといったのです。