21.「四ない運動」は思考の暴走かも
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もう十年近くも前、初めてバイクに乗り始めた頃、ぼくは面白いことに気付きました。その当時はまだ、自動販売機などまずなかった。それでバイクでタバコ屋に乗りつけ、タバコを買おうとする。すると、タバコ屋のオバチャンが、まず例外はないといっていいくらい、なんともぞんざいなロのきき方をするんです。
初めの頃は、なぜそうなのか分らず面喰らう仕末で、腹を立てていたのですが、そのうちに、原因がバイクにあるらしいことが分りました。いかにもうさん臭げな対応をされると、ぼくも少しひがんで、この人は、バイクに乗る人間に対してなんか差別意識のような偏見をもってるのではなかろうか、などと考えたものです。
あるいは、もしかして、ぼくが、えらく若僧に見られたのかも知れません。オートバイには、まさかスーツで乗る訳にもゆきませんから、それなりの服装になるし、ヘルメットなどかぶっていると、年など判別できなくなるようなのです。それにしても、年が若いからぞんざいな応待をするというのも、やっぱりあんまり程度のいい話ではありません。程度悪いオバはんや、ぼくはひそかにそう思ってうっぷん晴しをしていたものです。
考えてみれば、こうした嫌悪感を表に出した拒否反応みたいな眼差しは、もっと以前にも、たしか経験した記憶がありました。それは、まだ学生の頃、山登りにゆく途中、汽車の中などで、出会ったものでした。その頃、山の大量遭難が新聞の社会面をにぎわわし、山登りは反社会的なものとして糾弾されており、最低のスポーツなどとこきおろされていたのです。群馬県や富山県などでは、冬期の登山禁止条例まで制定する騒ぎでした。まあいってみれば、いまの暴走族みたいに捉えられていたのかも知れません。
でも、当方のぼくたちとしては、若気の至りか浅はかさか、なにいうとんねん、お前ら素人に何が分るか、てなもんでした。むしろ、そうした社会的な圧迫があり、白眼視されることで、より一層結束し、もっと山にのめり込むみたいな心情が生れていました。
この頃では、えらく状況が変ってきたようで、山の遭難があっても、昔ほど騒がれないようです。山登りでは死ぬこともある、と遭難死が当り前みたいになって、みんな慣れてきたのでしょうか。
そして、この頃では、バイクでタバコ屋へ行っても、昔みたいな応待をされることは、ほとんどない。それほど、バイクが普通のものになってきて、オバチャンの偏見がなくなってきたのか。ミニバイクが大はやりで、家庭の主婦が、道路を暴走し初めたからなのか。ほんとの話、オバチャンの中には、暴走族みたいに蛇行走行はしないにしても、飛び出し等の信号無視に等しいような全く常識を逸した暴走みたいなことをやる人も多いのです。
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時代も時代だったのですが、ぼくが、自動車に興味をもったのは、大学を卒業して少したってからのことでした。それまでは、全くといっていいくらい関心がなかったようです。今の若者からすれば、えらいおくてということになる。
母親が四輪免許の教習に通い始め、クランクコースがどうの、幅寄せが難しいだの話しても、「ふうん」「へえ」てなものでした。ところが、ブルーバードがガレージに入った時から、急に様子が変ったようでした。
夜中、少々の興味を覚え、ドアを開け運転席に座ってみました。プンと独特のぼくがまだ知らない不思議な匂いが鼻をつき、計器類が青白く浮かんでいます。衝動的に、ぼくは、動かしてみたくなりました。オフクロは、駄目だめと、キーを渡してくれませんでした。
翌日、勤めからの帰り、ぼくは教習所にゆき、一時間の教習を申し込みました。云われた通り、ギヤを入れ、そっとクラッチをつなぐと、ずんぐりと大きい車体がスルスルと動きだしたのです。ぼくはただもう夢中で、ドキドキし、ウキウキしながら、何回も何回も周回コースを回り、ちょうど、遊園地で電気自動車に乗った子供みたいな気分でした。そして、ようし免許を取るぞ、と心に決めたのです。
その頃は新車を買うと、販売店のサービスで、教習チケットがついていました。つまり、このチケットがあれば、ある指定された教習所にゆくと、府の試験場で合格するまで、無料で練習ができるのです。
ぼくは、母親から、このチケットをもらうと、デルタ自動車教習所へ出掛けた訳です。
ぼくの担当になった教官は、「あんたを教えても、ワシー銭にもならんのや。このチケットでは……」といい、「動かせるんやったら、勝手に走り」と、何ともぶっきら捧この上なしでした。でも、ブチ当りそうになった時には、横でパッとブレーキをかけ、「殺さんといてや」などといっていました。なんでも彼の話によれば、彼は特攻隊帰りなのだそうです。そういえば、何となくニヒルな感じでした。
何回か通ううちに、ぼくはもう、かなり自在に車を操れるようになり、けっこうスイスイと走っていました。ふと気がつくと、鼾が聞こえ、見ると彼が傍で眠っているのでした。ぼくを信頼しないことには、眠れるはずがないのです。その頃すでに教師で、毎日生徒を教えていたぼくには、彼のように、自由にやらせることが、口やかましく教えることより難しいことが分りかけていたのでしょうか。その時ぼくは、一種奇妙な感動を覚えていたようです。
時には、急にむくりと起きあがり、「あの車、追いかけよや。ええ女の子がのっとる」
などと、ぼくをけしかけることもありました。
こういう次第で、ぼくは実に楽しく練習して、免許を手にしたのです。
♣♣♣
一緒に洗車している時などは、ぼくたち母子は、あたかも親しい友達か仲間のようでした。ところが、いざ、どちらが車を使うかという段になると、二人はたちまち仇敵の如くに変化するのが常でした。一応、母親の車ですから優先権は認めているものの、空いている時には使わせるという約束もありました。駄目だと云われても納得できないときがままあったのです。
車にしろ、バイクにしろ、スキーにしろ、岩攀りにしろ、そうした緊張を強いられるスポーツには、ある麻薬的魅力があるようです。ぼくはどうしても乗りたくて、どうや、これでも貸せんか、などと母親の腕をねじあげたこともあります。ちょっとした家庭内暴力だった。
勤め先に車でゆくと、フジタ先生が「その年で車に乗るのは早すぎる」とコメントしました。彼の持論によれば、車は、バイクを完全にマスターした後に乗るべきなのだそうです。彼は大のバイク好きで、毎日、京都から亀岡までバイクで通勤していました。彼がしつこく勧めるので、いやいやながら、彼のバイクのケツに乗せてもらって、京都まで帰ったこともありました。でも、いっこう、バイクに乗りたいとは思いませんでした。
桂高校に替った時、ちょうど、ここでは、生徒の四輪通学が禁止された時でした。コスゲ先生が、学校新聞に、「四輪通学禁止に思う」を書いています。
授業中にモーターバイクのメカニズムの話をした時の生徒達の生き生きした表情が極めて印象的であったこと。ダイムラー・ベンツは子供の時、与えられるすべての玩具を分解しないと納得しなかった。若い間にメカニズムに親しむことが、真の科学する心を育てる、などなどが述べてあります。お寺を巡ることが文化的であり、キカイには弱くて……などと恥づかし気もなくうそぶき、それが教養ある態度だと思っているアホな大人や教師が批判されています。
そして、この文章は、「いつか、この学校に四輪やバイクで集まり、昔は学校も禁止した時代があったなあと語り合える日が来ることを信じる」と結んでありました。
でも、コスゲ先生の予想に反し、その後、バイク通学も禁止され、さらにバイクに乗ることが禁止されました。それでも止まらないとなって、次は免許を取ることさえ禁止された訳です。
日本のあちこちで、「乗らない」「取らない」「買わせない」の〈三ない運動〉が初まります。そして、これが〈四ない運動〉になる。「同乗しない」がつけ加わった訳です。さらに〈プラス一ない運動〉(神奈川県)までゆく。プラス一は、「子供の要求に負けない」なのだそうで、そのうちに、〈十ない〉位までゆくんじゃないかな。ほんとに、世の中どうかしているという気がします。
♣♣♣♣
もう十年ほども前、ちょっとしたキッカケで、ぼくは単車に興味を持ち、W1(ダブルワン)という二〇〇kgを超えるでかい奴を買ってしまいました。それまでは、全く興味がないどころか、むしろ謙いだったのですから、自分でも不思議です。
免許に関しては、普通免許に自動二輪免許が自動的に付いていたから問題ありません。でも、運転の方は、なにしろ、生れて始めて二輪にまたがったのですから大変でした。約一ヶ月間、毎日、夜、二・三時間の、それこそ血のにじむような練習をしたものです。そうはいっても、そんなつらいものではなく、ただもう面白くて夢中になって乗っていた、といった方が当っているかも知れませんが……。それで完全に乗りこなせるようになったかというと、そうではなく、やはり、今から考えれば、二・三年かかってようやく、なんとか乗れるという程度になったのではないかと思うんです。
やはりバイクというのは、四輪に較べると、比較にならない位難しいものです。四輪はこけるということがないけれど、二輪は止ったら倒れるんですから……。それに身体を露出しているから、危険この上ない乗り物です。
しかし同時に、どうしようもなく魅力的で、すてきで、なにか人をとりこにする乗り物であることも事実です。ただどこがそんなにいいのかを問われて、納得ゆく説明をすることは、山登りの魅力を説明することより、もっと難しいような気がしています。
ごく最近、急に最新型がほしくなって、ぼくは二台目の二輪を買いました。いわゆるナナハンです。学校に乗ってゆくと、まだ発売間もなく、ほとんど走っていないこともあってか、生徒が群がって触っています。
触るといっても、レバーを握ったりアクセルを回したりといった感じのものではない。全身をすりつけるというか、脇にはさみこむというか……、その仕草は、見ていて、なんか異様な感じを受けました。
ぼくが、大学で山登りを始め、冬山に行こうとした時、母親は猛反対し、道具を買うお金をくれないどころか、山靴をどこかに隠してしまいました。ぼくは、だから、肉屋のデッチのアルバイトをして靴を買ったものです。
何年かたつと、もうオフクロもあきらめ、「誰にほめてもらう訳でもないのに、よくつらい目に会いに山にゆくねえ」などとひやかしをいったりしだしていた頃のことです。ある時、ぼくは予定より数日早く下山し、夜中に帰宅したのです。遅れることはあっても、予定より早く帰るなどということはまずなかった。それで、家に入り、よく眠っている母親を起こそうかどうしようかと、枕元に立って思案していたのです。そのとき突然、オフクロがむくりと起き上り、フトソの上にペタリと座ると、両手で顔をおおって、激しく泣き出したのです。ぼくは、びっくりして突っ立ったままでした。彼女は、てっきり、ぼくが夢枕に立ったと思ったのだそうです。この時始めて母親が息子の身の上をどれほど案じているかを、ぼくは身を刺すように理解できたのです。
しかし、それで山登りを止めようなどとは、全く考えませんでした。
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危険なことをやりながら成長するのが若者です。本人が承知でやろうとしていることを、危険だから止めなさいといくらいっても、それは通じない。いくら止めても、やり技こうとするのが若者です。
親のいうことをなんでもハイハイときくような奴の方がむしろ問題です。大人のいうことを素直にきく若者ばかりだったら、世の中に進歩はない。
バイクに乗らないよう子供を説得できなくて、学校に泣きつく。時には、お金を出してやっておきながら、学校で禁止してくれなどという。そういう態度に、自分は結構喜こんで読んでいるくせに、悪書追放運動に賛成する、どうしようもなく主体性のない大人の姿が重なってしまいます。
学校は学校で、そんな学校外のこと、本人の責任で、本人次第でしょうと突っぱねればいいものを、そういうことは云えない世の中、禁止を打ちだす。ところが違反者続出、手を焼いて免許を取りあげたら、生徒は、紛失したと偽りの申告をして再交付を受ける。そこで教師はサツ回りして、再交付の申請をしているかどうかを定期的に調べるなんてことになった。そしてとうとう、親と教師と警察が一つになって、〈三ない運動〉から〈四ない運動〉の大合唱とあいなった。生徒のかなり多くが、これを汚ないやり方と見ています。
こうした運動は、全くアホみたいに単純明快で、バイクは受験勉強の敵、非行の始まりと決めつけているかのようです。
「この子からバイクを取ったら何にも残りません。どうかバイクを禁止しないでやってほしい」と真剣に教師に頼む母親のいることなど、全く思案の外なのでしょう。
そこに結果されるものは、勝手な親の思い入れに反した断絶と不信感だけである。ぼくには、どうもそう思える。バイクに乗る若者の中のほんの一握りの暴走族のガキどもにふり回されて、大人の思考まで暴走を始めたとしか思えないのです。
とにかく手段を選ばず止めさせる、なんてことが教育的である訳がない。むしろ、前向きに現実をとらえ、それらを教育の素材とすべきではないだろうか。交通安全教育ととり組むことは、自動車・バイクメーカーのお先棒をかつぐことだ、などと考える教師がいたとしたら、それは全くどうしようもない時代錯誤としかいいようがありません。
いま、この夜更け、はるかな街道から、激しい排気音が聞えてきます。やりばのないエネルギーの一瞬の燃焼を賭けて、若者は生死の境界線を疾走しているのでしょう。全くアホなガキどもという気もします。しかし、同時に確信をもっていえることは、彼等は決してビルから飛びおりたり、自閉症になったりはしないし、金属バットをふりおろすこともないだろう、ということです。
もう十年近くも前、初めてバイクに乗り始めた頃、ぼくは面白いことに気付きました。その当時はまだ、自動販売機などまずなかった。それでバイクでタバコ屋に乗りつけ、タバコを買おうとする。すると、タバコ屋のオバチャンが、まず例外はないといっていいくらい、なんともぞんざいなロのきき方をするんです。
初めの頃は、なぜそうなのか分らず面喰らう仕末で、腹を立てていたのですが、そのうちに、原因がバイクにあるらしいことが分りました。いかにもうさん臭げな対応をされると、ぼくも少しひがんで、この人は、バイクに乗る人間に対してなんか差別意識のような偏見をもってるのではなかろうか、などと考えたものです。
あるいは、もしかして、ぼくが、えらく若僧に見られたのかも知れません。オートバイには、まさかスーツで乗る訳にもゆきませんから、それなりの服装になるし、ヘルメットなどかぶっていると、年など判別できなくなるようなのです。それにしても、年が若いからぞんざいな応待をするというのも、やっぱりあんまり程度のいい話ではありません。程度悪いオバはんや、ぼくはひそかにそう思ってうっぷん晴しをしていたものです。
考えてみれば、こうした嫌悪感を表に出した拒否反応みたいな眼差しは、もっと以前にも、たしか経験した記憶がありました。それは、まだ学生の頃、山登りにゆく途中、汽車の中などで、出会ったものでした。その頃、山の大量遭難が新聞の社会面をにぎわわし、山登りは反社会的なものとして糾弾されており、最低のスポーツなどとこきおろされていたのです。群馬県や富山県などでは、冬期の登山禁止条例まで制定する騒ぎでした。まあいってみれば、いまの暴走族みたいに捉えられていたのかも知れません。
でも、当方のぼくたちとしては、若気の至りか浅はかさか、なにいうとんねん、お前ら素人に何が分るか、てなもんでした。むしろ、そうした社会的な圧迫があり、白眼視されることで、より一層結束し、もっと山にのめり込むみたいな心情が生れていました。
この頃では、えらく状況が変ってきたようで、山の遭難があっても、昔ほど騒がれないようです。山登りでは死ぬこともある、と遭難死が当り前みたいになって、みんな慣れてきたのでしょうか。
そして、この頃では、バイクでタバコ屋へ行っても、昔みたいな応待をされることは、ほとんどない。それほど、バイクが普通のものになってきて、オバチャンの偏見がなくなってきたのか。ミニバイクが大はやりで、家庭の主婦が、道路を暴走し初めたからなのか。ほんとの話、オバチャンの中には、暴走族みたいに蛇行走行はしないにしても、飛び出し等の信号無視に等しいような全く常識を逸した暴走みたいなことをやる人も多いのです。
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時代も時代だったのですが、ぼくが、自動車に興味をもったのは、大学を卒業して少したってからのことでした。それまでは、全くといっていいくらい関心がなかったようです。今の若者からすれば、えらいおくてということになる。
母親が四輪免許の教習に通い始め、クランクコースがどうの、幅寄せが難しいだの話しても、「ふうん」「へえ」てなものでした。ところが、ブルーバードがガレージに入った時から、急に様子が変ったようでした。
夜中、少々の興味を覚え、ドアを開け運転席に座ってみました。プンと独特のぼくがまだ知らない不思議な匂いが鼻をつき、計器類が青白く浮かんでいます。衝動的に、ぼくは、動かしてみたくなりました。オフクロは、駄目だめと、キーを渡してくれませんでした。
翌日、勤めからの帰り、ぼくは教習所にゆき、一時間の教習を申し込みました。云われた通り、ギヤを入れ、そっとクラッチをつなぐと、ずんぐりと大きい車体がスルスルと動きだしたのです。ぼくはただもう夢中で、ドキドキし、ウキウキしながら、何回も何回も周回コースを回り、ちょうど、遊園地で電気自動車に乗った子供みたいな気分でした。そして、ようし免許を取るぞ、と心に決めたのです。
その頃は新車を買うと、販売店のサービスで、教習チケットがついていました。つまり、このチケットがあれば、ある指定された教習所にゆくと、府の試験場で合格するまで、無料で練習ができるのです。
ぼくは、母親から、このチケットをもらうと、デルタ自動車教習所へ出掛けた訳です。
ぼくの担当になった教官は、「あんたを教えても、ワシー銭にもならんのや。このチケットでは……」といい、「動かせるんやったら、勝手に走り」と、何ともぶっきら捧この上なしでした。でも、ブチ当りそうになった時には、横でパッとブレーキをかけ、「殺さんといてや」などといっていました。なんでも彼の話によれば、彼は特攻隊帰りなのだそうです。そういえば、何となくニヒルな感じでした。
何回か通ううちに、ぼくはもう、かなり自在に車を操れるようになり、けっこうスイスイと走っていました。ふと気がつくと、鼾が聞こえ、見ると彼が傍で眠っているのでした。ぼくを信頼しないことには、眠れるはずがないのです。その頃すでに教師で、毎日生徒を教えていたぼくには、彼のように、自由にやらせることが、口やかましく教えることより難しいことが分りかけていたのでしょうか。その時ぼくは、一種奇妙な感動を覚えていたようです。
時には、急にむくりと起きあがり、「あの車、追いかけよや。ええ女の子がのっとる」
などと、ぼくをけしかけることもありました。
こういう次第で、ぼくは実に楽しく練習して、免許を手にしたのです。
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一緒に洗車している時などは、ぼくたち母子は、あたかも親しい友達か仲間のようでした。ところが、いざ、どちらが車を使うかという段になると、二人はたちまち仇敵の如くに変化するのが常でした。一応、母親の車ですから優先権は認めているものの、空いている時には使わせるという約束もありました。駄目だと云われても納得できないときがままあったのです。
車にしろ、バイクにしろ、スキーにしろ、岩攀りにしろ、そうした緊張を強いられるスポーツには、ある麻薬的魅力があるようです。ぼくはどうしても乗りたくて、どうや、これでも貸せんか、などと母親の腕をねじあげたこともあります。ちょっとした家庭内暴力だった。
勤め先に車でゆくと、フジタ先生が「その年で車に乗るのは早すぎる」とコメントしました。彼の持論によれば、車は、バイクを完全にマスターした後に乗るべきなのだそうです。彼は大のバイク好きで、毎日、京都から亀岡までバイクで通勤していました。彼がしつこく勧めるので、いやいやながら、彼のバイクのケツに乗せてもらって、京都まで帰ったこともありました。でも、いっこう、バイクに乗りたいとは思いませんでした。
桂高校に替った時、ちょうど、ここでは、生徒の四輪通学が禁止された時でした。コスゲ先生が、学校新聞に、「四輪通学禁止に思う」を書いています。
授業中にモーターバイクのメカニズムの話をした時の生徒達の生き生きした表情が極めて印象的であったこと。ダイムラー・ベンツは子供の時、与えられるすべての玩具を分解しないと納得しなかった。若い間にメカニズムに親しむことが、真の科学する心を育てる、などなどが述べてあります。お寺を巡ることが文化的であり、キカイには弱くて……などと恥づかし気もなくうそぶき、それが教養ある態度だと思っているアホな大人や教師が批判されています。
そして、この文章は、「いつか、この学校に四輪やバイクで集まり、昔は学校も禁止した時代があったなあと語り合える日が来ることを信じる」と結んでありました。
でも、コスゲ先生の予想に反し、その後、バイク通学も禁止され、さらにバイクに乗ることが禁止されました。それでも止まらないとなって、次は免許を取ることさえ禁止された訳です。
日本のあちこちで、「乗らない」「取らない」「買わせない」の〈三ない運動〉が初まります。そして、これが〈四ない運動〉になる。「同乗しない」がつけ加わった訳です。さらに〈プラス一ない運動〉(神奈川県)までゆく。プラス一は、「子供の要求に負けない」なのだそうで、そのうちに、〈十ない〉位までゆくんじゃないかな。ほんとに、世の中どうかしているという気がします。
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もう十年ほども前、ちょっとしたキッカケで、ぼくは単車に興味を持ち、W1(ダブルワン)という二〇〇kgを超えるでかい奴を買ってしまいました。それまでは、全く興味がないどころか、むしろ謙いだったのですから、自分でも不思議です。
免許に関しては、普通免許に自動二輪免許が自動的に付いていたから問題ありません。でも、運転の方は、なにしろ、生れて始めて二輪にまたがったのですから大変でした。約一ヶ月間、毎日、夜、二・三時間の、それこそ血のにじむような練習をしたものです。そうはいっても、そんなつらいものではなく、ただもう面白くて夢中になって乗っていた、といった方が当っているかも知れませんが……。それで完全に乗りこなせるようになったかというと、そうではなく、やはり、今から考えれば、二・三年かかってようやく、なんとか乗れるという程度になったのではないかと思うんです。
やはりバイクというのは、四輪に較べると、比較にならない位難しいものです。四輪はこけるということがないけれど、二輪は止ったら倒れるんですから……。それに身体を露出しているから、危険この上ない乗り物です。
しかし同時に、どうしようもなく魅力的で、すてきで、なにか人をとりこにする乗り物であることも事実です。ただどこがそんなにいいのかを問われて、納得ゆく説明をすることは、山登りの魅力を説明することより、もっと難しいような気がしています。
ごく最近、急に最新型がほしくなって、ぼくは二台目の二輪を買いました。いわゆるナナハンです。学校に乗ってゆくと、まだ発売間もなく、ほとんど走っていないこともあってか、生徒が群がって触っています。
触るといっても、レバーを握ったりアクセルを回したりといった感じのものではない。全身をすりつけるというか、脇にはさみこむというか……、その仕草は、見ていて、なんか異様な感じを受けました。
ぼくが、大学で山登りを始め、冬山に行こうとした時、母親は猛反対し、道具を買うお金をくれないどころか、山靴をどこかに隠してしまいました。ぼくは、だから、肉屋のデッチのアルバイトをして靴を買ったものです。
何年かたつと、もうオフクロもあきらめ、「誰にほめてもらう訳でもないのに、よくつらい目に会いに山にゆくねえ」などとひやかしをいったりしだしていた頃のことです。ある時、ぼくは予定より数日早く下山し、夜中に帰宅したのです。遅れることはあっても、予定より早く帰るなどということはまずなかった。それで、家に入り、よく眠っている母親を起こそうかどうしようかと、枕元に立って思案していたのです。そのとき突然、オフクロがむくりと起き上り、フトソの上にペタリと座ると、両手で顔をおおって、激しく泣き出したのです。ぼくは、びっくりして突っ立ったままでした。彼女は、てっきり、ぼくが夢枕に立ったと思ったのだそうです。この時始めて母親が息子の身の上をどれほど案じているかを、ぼくは身を刺すように理解できたのです。
しかし、それで山登りを止めようなどとは、全く考えませんでした。
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危険なことをやりながら成長するのが若者です。本人が承知でやろうとしていることを、危険だから止めなさいといくらいっても、それは通じない。いくら止めても、やり技こうとするのが若者です。
親のいうことをなんでもハイハイときくような奴の方がむしろ問題です。大人のいうことを素直にきく若者ばかりだったら、世の中に進歩はない。
バイクに乗らないよう子供を説得できなくて、学校に泣きつく。時には、お金を出してやっておきながら、学校で禁止してくれなどという。そういう態度に、自分は結構喜こんで読んでいるくせに、悪書追放運動に賛成する、どうしようもなく主体性のない大人の姿が重なってしまいます。
学校は学校で、そんな学校外のこと、本人の責任で、本人次第でしょうと突っぱねればいいものを、そういうことは云えない世の中、禁止を打ちだす。ところが違反者続出、手を焼いて免許を取りあげたら、生徒は、紛失したと偽りの申告をして再交付を受ける。そこで教師はサツ回りして、再交付の申請をしているかどうかを定期的に調べるなんてことになった。そしてとうとう、親と教師と警察が一つになって、〈三ない運動〉から〈四ない運動〉の大合唱とあいなった。生徒のかなり多くが、これを汚ないやり方と見ています。
こうした運動は、全くアホみたいに単純明快で、バイクは受験勉強の敵、非行の始まりと決めつけているかのようです。
「この子からバイクを取ったら何にも残りません。どうかバイクを禁止しないでやってほしい」と真剣に教師に頼む母親のいることなど、全く思案の外なのでしょう。
そこに結果されるものは、勝手な親の思い入れに反した断絶と不信感だけである。ぼくには、どうもそう思える。バイクに乗る若者の中のほんの一握りの暴走族のガキどもにふり回されて、大人の思考まで暴走を始めたとしか思えないのです。
とにかく手段を選ばず止めさせる、なんてことが教育的である訳がない。むしろ、前向きに現実をとらえ、それらを教育の素材とすべきではないだろうか。交通安全教育ととり組むことは、自動車・バイクメーカーのお先棒をかつぐことだ、などと考える教師がいたとしたら、それは全くどうしようもない時代錯誤としかいいようがありません。
いま、この夜更け、はるかな街道から、激しい排気音が聞えてきます。やりばのないエネルギーの一瞬の燃焼を賭けて、若者は生死の境界線を疾走しているのでしょう。全くアホなガキどもという気もします。しかし、同時に確信をもっていえることは、彼等は決してビルから飛びおりたり、自閉症になったりはしないし、金属バットをふりおろすこともないだろう、ということです。