回想の東大谷
私の場合、日本の山といわれたらやっぱり、それは剣でしょう。いちおう登山家ということになっているぼくですが、日本で登った山の数なんぞしれたもの。ほとんどが剣かもしれません。
初めて私が剣に向かったのは、それはずっとむかし、もう四十年以上も前の1957年の3月のことでした。ぼくはまだ20歳代に入ったばかりの若さでした。
富山地鉄の本宮から線路を歩き、立山駅入り。ケーブルの階段を二往復して、美女平らまでの荷揚げ。荷物は40キロを超えていたでしょう。その重荷を背にシールをつけたスキーで、エッチラオッチラと弥陀ヶ原を進みました。
泊まりはすべて雪洞でした。駆け出しのぼくにとって、これは強烈な体験でした。
今みたいに優秀な装備はありません。寝具は、朝鮮戦線から死体をくるんできたといわれている、米軍放出の寝袋。シュラフカバーは棉製でした。靴が凍らないように脇に抱えて眠りました。
つらかったけれど、今ではできないこともできました。天気さえよければ、雪上に作った火床の上で、豪華なたき火が楽しめました。
視界が利かないと、まったく進めないルートなので、なかなか捗らず、雪洞に十数泊してようやく、雷鳥平にたどり着いたのです。
ここの雪洞から、友人の芝やんがOBと一緒に剣岳にアタックに向かうことになりました。
朝食の炊事当番を命じられたぼくは、夜中の2時起きだし、雪を溶かして水を作り、餅入りのみそ汁を作り、アタック隊のお茶をテルモスに詰めました。
4時。外に出ると一面の星空でした。大日岳から別山、真砂、大汝、雄山とつづく雪山は、青黒く立ち並び太古の静寂があたりを支配していました。
芝ヤンは別れ際に、「どうや、タカダ。テンジン(エベレストに初登頂したシェルパ)みたいやろ」と高ぶった声でいい、星空の下その白い歯だけが、くっきりとぼくの瞼に焼き付いたのです。
*
むくろと変わり果てた芝ヤンと再会したのは、それから4ヵ月たった7月、東大谷中ノ右俣の堅く凍った雪渓の上でした。
剣岳登頂の帰り、前剣の腐った雪に足をとられ、転落行方不明となった芝ヤンを求めて、捜索が繰り返されていたのです。いまだ地形さえ定かでない谷での危険な捜索でした。
融雪によって芝ヤンは雪上に出てきたのですが、それは同時に、東大谷の下部の通過不能の滝が現れることでもありました。遺体の搬出は不可能です。
荼毘は現場でやらねばなりません。でもそこは、地元の人夫衆でもあの谷へは入るなというのが親父の遺言で、などというようなところでした。
剣の主とされる剣沢小屋の文蔵さんと芦峅ガイドでは岩登り一番という栄治さんに導かれ、ぼくと先輩のオナベさんは、なかば決死の覚悟で、剣岳の一般登路から東大谷中ノ右俣を下降したのでした。
大きく組んだ丸木のファイアーが赤々と燃え、そこに横たえられた岳人は、山仲間の「雪山賛歌」に送られる。映画で見たり、聞き知っていた山での荼毘は、そうした厳粛でロマンチックなものだった。でも、東大谷の荼毘はそんな生やさしいものではありませんでした。まず自分たちが生きて帰ることを考えねばならなかったのです。
首の骨が折れているのか、体はうつぶせなのに顔が空を見ていても、芝ヤンが死んでいるとは思えませんでした。その体を動かしたとき、強烈な腐臭が鼻を突きました。ぼくは激しく嘔吐しながら、頭の芯を貫くように彼の死を知ったのです。
雪渓上の乏しい薪を拾い集め、ガレ場の斜面に作った火で、荼毘を行いました。ガスが巻きはじめ、落石の音が響きました。
帰りを急ぐ文さんにいわれるまま、ぼくは遺体の燃えづらい部分を、棒でかきおとす作業を続けていました。そして、文さんの差し出した握り飯をほおばると、不思議なことに、それがまたおいしかったのです。
それは、感傷などの立ち入る余地のない極めて乾いた時間でした。ぼくはあえて無感動になることによって、自分の平静さを保とうとしていたのかもしれません。
*
あの遭難事件を機に、山から遠ざかった人もいました。でもぼくの場合、もっと過酷な山登りにのめり込んでいったように思います。まったく記録のなかった厳冬期や積雪期の東大谷の尾根や稜の登攀を目指しました。
これはひとつには、芝ヤンの捜索を続けた結果として、未知であった東大谷が解明されてきたこともありました。でも一方で、ぼくは明らかに芝ヤンが落下していった空間に身を置こうとしていたのではないだろうか。
今になって思うのですが、中国大陸での戦争でそうした経験をした人もいるでしょうが、東大谷の荼毘のような過酷な体験をした人は極めて少ないはずです。
年若くしてのそうした体験は、たぶん私の人生観までも変えたに違いありません。
考えてみれば、ぼくが親しかった山の友人で山で死んだ人は、十指にあまります。よく知っていた人となると数十人を超えるでしょう。
ぼくが今まで生き続けられたのは、たぶん芝ヤンはいつもぼくと一緒にいて、ぼくを守ってくれたのだ。そんな気がしているのです。
山と渓谷社の写真集シリーズ[日本の山と渓谷]全30巻17「剣岳(畠山高)」2000年8月刊の巻頭エッセイより引用(イラストレーション=古田忠男)
初めて私が剣に向かったのは、それはずっとむかし、もう四十年以上も前の1957年の3月のことでした。ぼくはまだ20歳代に入ったばかりの若さでした。
富山地鉄の本宮から線路を歩き、立山駅入り。ケーブルの階段を二往復して、美女平らまでの荷揚げ。荷物は40キロを超えていたでしょう。その重荷を背にシールをつけたスキーで、エッチラオッチラと弥陀ヶ原を進みました。
泊まりはすべて雪洞でした。駆け出しのぼくにとって、これは強烈な体験でした。
今みたいに優秀な装備はありません。寝具は、朝鮮戦線から死体をくるんできたといわれている、米軍放出の寝袋。シュラフカバーは棉製でした。靴が凍らないように脇に抱えて眠りました。
つらかったけれど、今ではできないこともできました。天気さえよければ、雪上に作った火床の上で、豪華なたき火が楽しめました。
視界が利かないと、まったく進めないルートなので、なかなか捗らず、雪洞に十数泊してようやく、雷鳥平にたどり着いたのです。
ここの雪洞から、友人の芝やんがOBと一緒に剣岳にアタックに向かうことになりました。
朝食の炊事当番を命じられたぼくは、夜中の2時起きだし、雪を溶かして水を作り、餅入りのみそ汁を作り、アタック隊のお茶をテルモスに詰めました。
4時。外に出ると一面の星空でした。大日岳から別山、真砂、大汝、雄山とつづく雪山は、青黒く立ち並び太古の静寂があたりを支配していました。
芝ヤンは別れ際に、「どうや、タカダ。テンジン(エベレストに初登頂したシェルパ)みたいやろ」と高ぶった声でいい、星空の下その白い歯だけが、くっきりとぼくの瞼に焼き付いたのです。
*
むくろと変わり果てた芝ヤンと再会したのは、それから4ヵ月たった7月、東大谷中ノ右俣の堅く凍った雪渓の上でした。
剣岳登頂の帰り、前剣の腐った雪に足をとられ、転落行方不明となった芝ヤンを求めて、捜索が繰り返されていたのです。いまだ地形さえ定かでない谷での危険な捜索でした。
融雪によって芝ヤンは雪上に出てきたのですが、それは同時に、東大谷の下部の通過不能の滝が現れることでもありました。遺体の搬出は不可能です。
荼毘は現場でやらねばなりません。でもそこは、地元の人夫衆でもあの谷へは入るなというのが親父の遺言で、などというようなところでした。
剣の主とされる剣沢小屋の文蔵さんと芦峅ガイドでは岩登り一番という栄治さんに導かれ、ぼくと先輩のオナベさんは、なかば決死の覚悟で、剣岳の一般登路から東大谷中ノ右俣を下降したのでした。
大きく組んだ丸木のファイアーが赤々と燃え、そこに横たえられた岳人は、山仲間の「雪山賛歌」に送られる。映画で見たり、聞き知っていた山での荼毘は、そうした厳粛でロマンチックなものだった。でも、東大谷の荼毘はそんな生やさしいものではありませんでした。まず自分たちが生きて帰ることを考えねばならなかったのです。
首の骨が折れているのか、体はうつぶせなのに顔が空を見ていても、芝ヤンが死んでいるとは思えませんでした。その体を動かしたとき、強烈な腐臭が鼻を突きました。ぼくは激しく嘔吐しながら、頭の芯を貫くように彼の死を知ったのです。
雪渓上の乏しい薪を拾い集め、ガレ場の斜面に作った火で、荼毘を行いました。ガスが巻きはじめ、落石の音が響きました。
帰りを急ぐ文さんにいわれるまま、ぼくは遺体の燃えづらい部分を、棒でかきおとす作業を続けていました。そして、文さんの差し出した握り飯をほおばると、不思議なことに、それがまたおいしかったのです。
それは、感傷などの立ち入る余地のない極めて乾いた時間でした。ぼくはあえて無感動になることによって、自分の平静さを保とうとしていたのかもしれません。
*
あの遭難事件を機に、山から遠ざかった人もいました。でもぼくの場合、もっと過酷な山登りにのめり込んでいったように思います。まったく記録のなかった厳冬期や積雪期の東大谷の尾根や稜の登攀を目指しました。
これはひとつには、芝ヤンの捜索を続けた結果として、未知であった東大谷が解明されてきたこともありました。でも一方で、ぼくは明らかに芝ヤンが落下していった空間に身を置こうとしていたのではないだろうか。
今になって思うのですが、中国大陸での戦争でそうした経験をした人もいるでしょうが、東大谷の荼毘のような過酷な体験をした人は極めて少ないはずです。
年若くしてのそうした体験は、たぶん私の人生観までも変えたに違いありません。
考えてみれば、ぼくが親しかった山の友人で山で死んだ人は、十指にあまります。よく知っていた人となると数十人を超えるでしょう。
ぼくが今まで生き続けられたのは、たぶん芝ヤンはいつもぼくと一緒にいて、ぼくを守ってくれたのだ。そんな気がしているのです。
山と渓谷社の写真集シリーズ[日本の山と渓谷]全30巻17「剣岳(畠山高)」2000年8月刊の巻頭エッセイより引用(イラストレーション=古田忠男)