連載第3回「おじさんのホームステイ」
窓の外には、一抱え以上もあるアメリカンシーダの巨木が、まるで手に触れるばかりの間近さで何木も立ち並んでいます。
うっそうとして薄暗く、なにやら少々不気味な森の霊気が部屋の中にまで忍び込んでくるかのようです。
しんとして物音一つせず、独りぼっちのぼくはフトあの「ツインピークス」のボブがやってくるのではないかと正直いって少し恐怖したのでした。そしてリーバイが出掛けにいった「大丈夫よ。ジユディとミチコが守ってくれるわよ」という言葉を思い出し少し安心したのです。
ジユディとミチコというのは、ぼくがまたがれるくらいの大きな犬で、ガレージに入れられることはあっても決してつながれることはなく、隣まで1km以上というこの森の一軒家を守っているのです。
ぼくは今、サンフランシスコ空港から直線距離にして70kmほどのロスガトスの山中にいます。サンフランシスコ空港からここに至るには、まずハイウェイ280Southに乗り、サンノゼでサンタ・クララに向かう17号に乗り換え、それから細道を登るのです。なんと言ったらいいかちょっと説明し難いのですが、まあ言ってみれば大阪から名神を走って比叡山に登るような感じでしょうか。もっともこの間、料金所・信号の類は一つたりとも無いのですが・・・。
この家はラリーがビバリーヒルズの山荘を売り払って最近移って来た家です。サンフランシスコ大地震の後、多くの金持ちが持ち家を手放して他の場所へ移ったのだそうです。ラリーは前の家を売って、2階建てでバス付きベッドルームが二つある瀟酒(しょうしゃ)なこの山荘を36万ドルで買ったと言います。シリコンバレーにある彼の会社、アップル・コンピュータもラリーがロスアンジェルスから近くに移ってくることには大賛成で、家の購入に関しても援助してくれたのだそうです。
「この家は65才なんだ」とラリーが言い、「へえー、そんなに古いのか。俺よりずっと年寄りじゃないか。そんなには見えないなあ」とぼくが言うと、ラリーは「そうそう。45年経った20年前に2番目のオーナーが建て増しして、4年前に次のオーナーが内装をすべてやり変えたんだ」と説明しました。
いつだったか、ぼくが「そのうちにアメリカででもホームスティしよか思てるんや」と言うと、そばにいた若い女性がケタケタと笑いだし、「だってぇ、ホームスティゆうたら若い人がするもんでしょ」と言います。あほか。ホームスティとは読んで字のごとく、家庭に留まることではないかとぼくは思ったのです。今回ぼくは、そのホームスティをするつもりです。
ラリーとは数年前に東京で知り合ったのが最初でした。東京でアップルジャパン主催の「デベロッパー・カンフアレンス」という会議がありました。何人かの講演者に混じって予定外の飛び入りのスピーカーとしてラリーが紹介され30分ほど話したのです。彼は大阪で行われる「コンピュータ・ワールド」の基調講演者として招かれ来日したのだそうです。
魚群が通り通ぎると、磯ぎんちゃくがその方向に触手をゆらめきのばすというコンピュータグラフィックを見せながら、「コンピュータ言語はこの磯ぎんちゃくのように自分でプログラマーの意図を察知するような方向で進化する」という彼の説明にぼくは大変興味を抱きました。
後のパーティーで「とても面白かった」とぼくは、この長髪のまるでバッハのような髪型で、ヒッピーのようなジーパンとミュージシャンのような皮のブレザーをまとった男に話しかけたのでした。
「大阪まで来るのだったら京都まで足を延ばしなさいよ」とぼくは誘い、「うーん、でもスケデュールがつまってるからなあ」と逡巡する彼にそばの秘書嬢が「ねえ、抜け出しましょうよ」と言いました。秘書と思ったのはぼくの思い違いで、彼女は新婚ほやほやの奥さんのリーバイだったのです。
京都に帰って数日たった頃、突然外国人から電話が掛かってきました。あのラリーでした。「大阪にいる。明日京都に行こうと思うんだが」。
土曜日の午後「新都ホテル」のロビーで落ち合ったぼくは、観光客の多さを嫌って、まず竜安寺と仁和寺に行ったのです。ラリーは仁和寺の濡れ縁の端に座り込んだまま、ぼくに促されるまで動こうとしませんでした。ビロードのような苔の群落や庭園のはずれを流れる密やかなせせらぎに異常に見とれる彼を、ぼくは不思議な思いで見つめていました。
後になってアメリカヘ行ってから分かったような気がしたのですが、どうもアメリカには、日本では普通のまるで細密画のような繊細な自然はないようなのです。
その夜、大阪のホテルに戻ると言う二人に「泊まっていけば」と言ったら「本当かい。泊まっていっていいのか。それはうれしい」と我が家に一泊したのです。翌日の夕方二人は、初めて飲んで「まるでワインみたい」と感激した伏見の冷酒『桃の滴』を土産に貰い、大喜びでお別れの抱擁をして、二人は去って行きました。
次にラリーに会ったのは、翌年のぼくの初めてのアメリカ行のときでした。
出発間際になってラリーからファックスが入りました。ソファーベッドなら使えるから泊まってくれと書いてありました。ぼくは彼の家はサンフランシスコだと勝手に思い込んでいたのです。彼の会社がアップルコンピュータでそれは有名なシリコンバレーにあるからです。ところがファックスを見て初めて分かったのですが、彼の家はロスアンジェルスのビバリーヒルズにありました。
ぼくは先行して宿の手配をしている秘書に、急遽宿をロスに変えるようにファックスしたのです。けっさくな話なのですが、ぼくはもちろん多分彼女もその時、ビバリーヒルズがどんなところなのかを全く知らなかったのです。それで、最初に電話したのが、なんとあの有名な「ビバリーヒルズホテル」でした。値段は当然高かった。「オウ。イッツ、トゥーエキスペンシブ」と彼女はたどたどしい英語で値切ったのだそうです。でもなお高かった。更に言うと、もっと安い部屋をアレンジしてくれたのだそうです。きっとそのホテルマンは、ぼくの秘書のことを日本人だとは思わなかったのでしょう。ヨーロッパでもそうなのですが、例えばそのホテルやお店に日本語のメニューやチラシなどがあったらぼくは大いに緊張してしまいます。それは、ボラれる危険を意味するからなのです。
数年前、80才を越える母親を連れて、アムステルダムからパリのシャンゼリゼ通りを少し入ったホテルに到着したときのこと。モスクワ経由で合流してくる娘の分を入れて予約通りトリプルベッドの部屋が用意されていることを確認し、ほっと落ち着いたそのすぐ後、部屋の刷りものが日本語であることに気付いたのです。
ちょっと焦って、ベッドを確認すると、一つはエキストラベッドでした。すぐに受付けに行って交渉し、トリプルベッドの部屋はないことが分かり、かなりの値引きをして貰いました。
日本人は日本での習慣の通り、チェックインの前に部屋の点検(チェック)をしたりはしません。しかし、チェックインするということは、その部屋の使用権を買うという取り引き・商行為であって、確かめもせずに買うということはおかしいのです。
話を戻して、とにかくそういう次第で、ぼくは偶然にも「ビバリーヒルズホテル」に一週間滞在し、その所為でなかなか面白い経験や出会いもあったのでした。
この間ずっと、ぼくはホテル近くのラリーの山荘に通ったのでした。
朝の10時頃にドアを叩くと、寝ぼけ眼の彼は「君と同じで、ぼくも時差ボケになる」と言ったものです。朝まで仕事し、昼過ぎに起きるという毎日なのだそうです。
当時彼は「シリコングラフィックス」という極めて高性能なコンピュータを使って、数十匹の芋虫をまるで生きているように、画面上で集団で動き回らせるという研究をしていました。この「シリコングラフィックス」は最近会社に買ってもらい、在宅勤務することにしたのだそうです。
コンピュータを冷やすためだけのエアコンがずっと動き続けており
「こいつはこの家よりも高いんだ」とラリーは言っていました。
さて、次の年、ぼくはスイスにおりました。この後ぼくはオックスフォードを経てアメリカに渡る予定でしたから、何度かラリーにファックスしたのですが返事がありませんでした。
ある日、スイスの山荘にラリーから突然ファックスが届きました。「家を移ったため、君のファックスが手に入らなかった。LA(ロスアンジェルス)の家と違ってここはもっと広いし、リーバイの書斎にはクインサイズの布団もある。一緒に暮らせると思うよ」
アメリカに渡り、ラスベガスのシーグラフ(コンピュータグラフィックの世界会議)からボストンのマッキントッシュ・エキスポヘと渡り歩いた後、ぼくは大喜びでこのロスガトスにやってきたというわけです。
ラリーは、今は手書きの文字認識のソフトを開発しているのだそうで、着くなり興奮気味に説明をしてくれました。彼の考えは、コンピュータの中に文字を読み取るある生物がいて、そいつが文字を判断する。この仮想生物のことを「彼はこうではないかと考える」などとラリーは説明します。面白かったので、少し突っ込んだ質問を続けると、いつものようにδやΣの入った数式での説明になりました。こうなるといつもぼくはもうお手上げでした。
リーバイが開けてくれた二階の彼女の書斎がぼくの居室になりました。この部屋はバスルームと化粧室付きで、電話やゼロックスのコピー機まであったのです。持参したファックスをセットしたら完璧なオフィスでした。ラリーに合わせてぼくも朝方まで仕事をし、昼前に起きて彼と一緒に車でロスガトスヘブランチをとりに行きます。夕食は、ぼくは自炊をすることにしていました。
近くの、とはいっても数十キロも離れたサラトガアベニューの「やおはんデパート」まで買い物に出掛けるのが日課でした。ここでは、まるで日本のスーパーがワープしてきたみたいになんでも手に入ったのです。
直径5mを越える巨大なパラボラアンテナを据え付け、世界中の映像を録画するビデオマニアのラリーは、ぼくに「ツインピークス」のビデオを見ることを勧めました。彼はテレビを録画した24本のテープを持っていたのです。「ツインピークス」が日本に紹介される前の年のことで、ぼくは何も知らなかったのですが、みるなり引き込まれ虜になりました。途中まで見たときに、これは日本に持ち帰るべきだと思い録画をはじめたのす。今様に言えば、アメリカの「ツインピークスおたく」のラリーはぼくに朝方まで付き合うこともありました。
一ヶ月を越える「おじさんのホームスティ」はすぐに終り、ぼくはラリーの薦めにしたがって、「ツインピークス」の舞台となったサリッシュ・ロッジの予約をとり、やはり舞台となった町スノーコーミーを目指して「ツインピークス巡礼の旅」にシアトルに向かったのでした。
うっそうとして薄暗く、なにやら少々不気味な森の霊気が部屋の中にまで忍び込んでくるかのようです。
しんとして物音一つせず、独りぼっちのぼくはフトあの「ツインピークス」のボブがやってくるのではないかと正直いって少し恐怖したのでした。そしてリーバイが出掛けにいった「大丈夫よ。ジユディとミチコが守ってくれるわよ」という言葉を思い出し少し安心したのです。
ジユディとミチコというのは、ぼくがまたがれるくらいの大きな犬で、ガレージに入れられることはあっても決してつながれることはなく、隣まで1km以上というこの森の一軒家を守っているのです。
ぼくは今、サンフランシスコ空港から直線距離にして70kmほどのロスガトスの山中にいます。サンフランシスコ空港からここに至るには、まずハイウェイ280Southに乗り、サンノゼでサンタ・クララに向かう17号に乗り換え、それから細道を登るのです。なんと言ったらいいかちょっと説明し難いのですが、まあ言ってみれば大阪から名神を走って比叡山に登るような感じでしょうか。もっともこの間、料金所・信号の類は一つたりとも無いのですが・・・。
この家はラリーがビバリーヒルズの山荘を売り払って最近移って来た家です。サンフランシスコ大地震の後、多くの金持ちが持ち家を手放して他の場所へ移ったのだそうです。ラリーは前の家を売って、2階建てでバス付きベッドルームが二つある瀟酒(しょうしゃ)なこの山荘を36万ドルで買ったと言います。シリコンバレーにある彼の会社、アップル・コンピュータもラリーがロスアンジェルスから近くに移ってくることには大賛成で、家の購入に関しても援助してくれたのだそうです。
「この家は65才なんだ」とラリーが言い、「へえー、そんなに古いのか。俺よりずっと年寄りじゃないか。そんなには見えないなあ」とぼくが言うと、ラリーは「そうそう。45年経った20年前に2番目のオーナーが建て増しして、4年前に次のオーナーが内装をすべてやり変えたんだ」と説明しました。
いつだったか、ぼくが「そのうちにアメリカででもホームスティしよか思てるんや」と言うと、そばにいた若い女性がケタケタと笑いだし、「だってぇ、ホームスティゆうたら若い人がするもんでしょ」と言います。あほか。ホームスティとは読んで字のごとく、家庭に留まることではないかとぼくは思ったのです。今回ぼくは、そのホームスティをするつもりです。
ラリーとは数年前に東京で知り合ったのが最初でした。東京でアップルジャパン主催の「デベロッパー・カンフアレンス」という会議がありました。何人かの講演者に混じって予定外の飛び入りのスピーカーとしてラリーが紹介され30分ほど話したのです。彼は大阪で行われる「コンピュータ・ワールド」の基調講演者として招かれ来日したのだそうです。
魚群が通り通ぎると、磯ぎんちゃくがその方向に触手をゆらめきのばすというコンピュータグラフィックを見せながら、「コンピュータ言語はこの磯ぎんちゃくのように自分でプログラマーの意図を察知するような方向で進化する」という彼の説明にぼくは大変興味を抱きました。
後のパーティーで「とても面白かった」とぼくは、この長髪のまるでバッハのような髪型で、ヒッピーのようなジーパンとミュージシャンのような皮のブレザーをまとった男に話しかけたのでした。
「大阪まで来るのだったら京都まで足を延ばしなさいよ」とぼくは誘い、「うーん、でもスケデュールがつまってるからなあ」と逡巡する彼にそばの秘書嬢が「ねえ、抜け出しましょうよ」と言いました。秘書と思ったのはぼくの思い違いで、彼女は新婚ほやほやの奥さんのリーバイだったのです。
京都に帰って数日たった頃、突然外国人から電話が掛かってきました。あのラリーでした。「大阪にいる。明日京都に行こうと思うんだが」。
土曜日の午後「新都ホテル」のロビーで落ち合ったぼくは、観光客の多さを嫌って、まず竜安寺と仁和寺に行ったのです。ラリーは仁和寺の濡れ縁の端に座り込んだまま、ぼくに促されるまで動こうとしませんでした。ビロードのような苔の群落や庭園のはずれを流れる密やかなせせらぎに異常に見とれる彼を、ぼくは不思議な思いで見つめていました。
後になってアメリカヘ行ってから分かったような気がしたのですが、どうもアメリカには、日本では普通のまるで細密画のような繊細な自然はないようなのです。
その夜、大阪のホテルに戻ると言う二人に「泊まっていけば」と言ったら「本当かい。泊まっていっていいのか。それはうれしい」と我が家に一泊したのです。翌日の夕方二人は、初めて飲んで「まるでワインみたい」と感激した伏見の冷酒『桃の滴』を土産に貰い、大喜びでお別れの抱擁をして、二人は去って行きました。
次にラリーに会ったのは、翌年のぼくの初めてのアメリカ行のときでした。
出発間際になってラリーからファックスが入りました。ソファーベッドなら使えるから泊まってくれと書いてありました。ぼくは彼の家はサンフランシスコだと勝手に思い込んでいたのです。彼の会社がアップルコンピュータでそれは有名なシリコンバレーにあるからです。ところがファックスを見て初めて分かったのですが、彼の家はロスアンジェルスのビバリーヒルズにありました。
ぼくは先行して宿の手配をしている秘書に、急遽宿をロスに変えるようにファックスしたのです。けっさくな話なのですが、ぼくはもちろん多分彼女もその時、ビバリーヒルズがどんなところなのかを全く知らなかったのです。それで、最初に電話したのが、なんとあの有名な「ビバリーヒルズホテル」でした。値段は当然高かった。「オウ。イッツ、トゥーエキスペンシブ」と彼女はたどたどしい英語で値切ったのだそうです。でもなお高かった。更に言うと、もっと安い部屋をアレンジしてくれたのだそうです。きっとそのホテルマンは、ぼくの秘書のことを日本人だとは思わなかったのでしょう。ヨーロッパでもそうなのですが、例えばそのホテルやお店に日本語のメニューやチラシなどがあったらぼくは大いに緊張してしまいます。それは、ボラれる危険を意味するからなのです。
数年前、80才を越える母親を連れて、アムステルダムからパリのシャンゼリゼ通りを少し入ったホテルに到着したときのこと。モスクワ経由で合流してくる娘の分を入れて予約通りトリプルベッドの部屋が用意されていることを確認し、ほっと落ち着いたそのすぐ後、部屋の刷りものが日本語であることに気付いたのです。
ちょっと焦って、ベッドを確認すると、一つはエキストラベッドでした。すぐに受付けに行って交渉し、トリプルベッドの部屋はないことが分かり、かなりの値引きをして貰いました。
日本人は日本での習慣の通り、チェックインの前に部屋の点検(チェック)をしたりはしません。しかし、チェックインするということは、その部屋の使用権を買うという取り引き・商行為であって、確かめもせずに買うということはおかしいのです。
話を戻して、とにかくそういう次第で、ぼくは偶然にも「ビバリーヒルズホテル」に一週間滞在し、その所為でなかなか面白い経験や出会いもあったのでした。
この間ずっと、ぼくはホテル近くのラリーの山荘に通ったのでした。
朝の10時頃にドアを叩くと、寝ぼけ眼の彼は「君と同じで、ぼくも時差ボケになる」と言ったものです。朝まで仕事し、昼過ぎに起きるという毎日なのだそうです。
当時彼は「シリコングラフィックス」という極めて高性能なコンピュータを使って、数十匹の芋虫をまるで生きているように、画面上で集団で動き回らせるという研究をしていました。この「シリコングラフィックス」は最近会社に買ってもらい、在宅勤務することにしたのだそうです。
コンピュータを冷やすためだけのエアコンがずっと動き続けており
「こいつはこの家よりも高いんだ」とラリーは言っていました。
さて、次の年、ぼくはスイスにおりました。この後ぼくはオックスフォードを経てアメリカに渡る予定でしたから、何度かラリーにファックスしたのですが返事がありませんでした。
ある日、スイスの山荘にラリーから突然ファックスが届きました。「家を移ったため、君のファックスが手に入らなかった。LA(ロスアンジェルス)の家と違ってここはもっと広いし、リーバイの書斎にはクインサイズの布団もある。一緒に暮らせると思うよ」
アメリカに渡り、ラスベガスのシーグラフ(コンピュータグラフィックの世界会議)からボストンのマッキントッシュ・エキスポヘと渡り歩いた後、ぼくは大喜びでこのロスガトスにやってきたというわけです。
ラリーは、今は手書きの文字認識のソフトを開発しているのだそうで、着くなり興奮気味に説明をしてくれました。彼の考えは、コンピュータの中に文字を読み取るある生物がいて、そいつが文字を判断する。この仮想生物のことを「彼はこうではないかと考える」などとラリーは説明します。面白かったので、少し突っ込んだ質問を続けると、いつものようにδやΣの入った数式での説明になりました。こうなるといつもぼくはもうお手上げでした。
リーバイが開けてくれた二階の彼女の書斎がぼくの居室になりました。この部屋はバスルームと化粧室付きで、電話やゼロックスのコピー機まであったのです。持参したファックスをセットしたら完璧なオフィスでした。ラリーに合わせてぼくも朝方まで仕事をし、昼前に起きて彼と一緒に車でロスガトスヘブランチをとりに行きます。夕食は、ぼくは自炊をすることにしていました。
近くの、とはいっても数十キロも離れたサラトガアベニューの「やおはんデパート」まで買い物に出掛けるのが日課でした。ここでは、まるで日本のスーパーがワープしてきたみたいになんでも手に入ったのです。
直径5mを越える巨大なパラボラアンテナを据え付け、世界中の映像を録画するビデオマニアのラリーは、ぼくに「ツインピークス」のビデオを見ることを勧めました。彼はテレビを録画した24本のテープを持っていたのです。「ツインピークス」が日本に紹介される前の年のことで、ぼくは何も知らなかったのですが、みるなり引き込まれ虜になりました。途中まで見たときに、これは日本に持ち帰るべきだと思い録画をはじめたのす。今様に言えば、アメリカの「ツインピークスおたく」のラリーはぼくに朝方まで付き合うこともありました。
一ヶ月を越える「おじさんのホームスティ」はすぐに終り、ぼくはラリーの薦めにしたがって、「ツインピークス」の舞台となったサリッシュ・ロッジの予約をとり、やはり舞台となった町スノーコーミーを目指して「ツインピークス巡礼の旅」にシアトルに向かったのでした。