16年ぶりの劔澤小屋(後編)
16年ぶりの劔澤小屋
今回の劔澤小屋行きは、もともとは府立大学山岳会創立50周年記念山行の企画されてはいた。
京都府立大学山岳会は、府大山岳部の遭難事故を機に設立されたという経緯があったから、記念山行としては劔澤小屋での回向を含むものと、ぼくは考えていた。しかし、遭難から長い年月が経ち、当時のリーダーであった尾鍋氏もこの世にいないし、親族の方々の消息も不明だった。
50周年記念の企画は、記念パーティーと記念誌の発行に忙殺された。だから、当初のぼくの意気込みも極めて個人的なものになってしまい、劔澤小屋行きも会の有志パーティによるものとなってしまったのは致し方のないことだと思われる。
9月22日に雷鳥平のロッジ立山連峰に現地集合することになった。
ぼくは、前日の21日にJRで高岡に行き、開洋子邸で一泊することにして、夕刻野尻とともに京都を立った。
高岡に着くと、駅には開さんと小嵐夫妻が出迎えてくれていた。
夫妻の一人息子Yは、長い間「引きこもり」だった。いろいろな回復の試みはすべて成功しなかった。父親の友人の京大の医者の診察も受けていたが、回復の兆しは見えなかった。
開洋子さんから相談を受けたぼくは、京都でY君と会った。これは直ると確信したぼくは、彼をパキスタンの北西辺境州に連れて行った。いわゆるトライバルエリアと呼ばれ、アルカイダなどの根拠地となっている辺りである。
そして、やはりぼくがほとんど強制拉致に近い方法でパキスタンに連れて行き、イスラマバードに住まわせている弟子の岩橋のアパートに残留させたまま帰国した。
岩橋は、ぼくの高校での最後の教え子だった。高校中退後、我が家の隣の安アパートに住み、パチプロ一途の生活を長年続けていたのだが、ぼくに強引にパキスタンに連れ出された。
イスラマバードのぼくが選んでやったアパートに住み、英語とウルドー語の勉強をしていた。日本大使館のコンピューター関係の雑用のアルバイトや、時としては、現地の日本人エージェントのカブールでの援助活動の仕事を手伝ったりもしていた。
何年もの間「引きこもり」青年であったY君は、岩橋君と一緒に生活し、ラホール、ギルギット、スカルドなどぼくが指定した場所をすべて旅してから、3ヶ月の後、日本に戻ってきた。
帰国すると直ぐ、彼は自分から鍼灸学校に入学することを決め、それから3年がたった。いま現在無事卒業して、鍼灸治療院で働きだしたばかりという。
小嵐夫妻に小料理屋さんに案内され、ご馳走の接待を受けた。そこへ佐々木君も合流した。彼は、一週間前に黒部の源流に入り、釣りを楽しんでいた。下山して、ここ高岡で合流することになっていた。
翌朝、開洋子、堀君(二人は夫婦なのであるが名字は違う)の車で送ってもらって千寿ガ原のケーブル乗り場に着いた。まったくうまい具合に、まるで示し合わせていたかのように、京都からやってきたばかりの関田や井川達と合流することが出来た。
ケーブルは昔と変わらずゆっくりと登った。車両の後部から見える階段は、ずっと昔初めての入山の記憶を呼び戻した。
あの時、春の劔岳を目指して夜行列車で早朝の富山駅に着いた一行は、富山地鉄の雪の線路を千寿ガ原終点の3つ手前の駅から歩き、その夜は千寿ガ原の駅で寝た。そして翌日この階段を重荷を背に2往復して荷揚げしたのだった。もう50年以上も昔のことである。
室堂のバスターミナルは、夏の最盛期の人ごみと違って、旅行客登山客は比較的まばらであった。
みくりが池山荘のすぐ手前、みくりが池の畔からルートを左に取り、地獄谷への長い階段を下った。地獄谷を抜けたところにロッジ立山連峰がある。
1時間ほどで、大町から黒四ダムを経由してきた東京メンバーが合流し、一行15人が揃った。
ロッジ立山連峰は、お世辞にもいい小屋とはいえなかった。ここを最初の宿に決めたのは事務局なのであるが、関田がここを勧めたらしい。かつて文蔵さんが劔澤小屋を息子の友邦に譲った後、ここで管理人をしていたことがあった。その頃は、ぼくも関田も雷鳥沢を下ってくると、いつも文蔵さんに挨拶に寄り、勧められて風呂に入ってゆくのが常だった。なかなか気持ちのいい宿だった。だから、昔、両親を連れて劔澤小屋に行った時も、ここに一泊した。
その後、経営者が変わったらしい。昔のこの地域独特の山小屋の雰囲気は失われ、なんだか信州の山小屋のようになった感じだった。
翌朝一行15人は、3つのパーティーに別れて、この小屋を発った。劔岳を目指すパーティは、早立ちした。次のパーティは、少々脚が不自由な人もいるので、室堂乗越を往復。ぼくと関田、先輩の竹さん、ともと佐々木は、劔澤小屋まで行くだけなので、一番後にゆっくりと出発した。
別山乗越までの雷鳥沢の登りは、大体三等分して3つに分けることができる。最初の部分は雷鳥沢の沢芯を登る。それから、右の尾根上の部分に振りしばらく登ると、中間部分の起伏のない平らな部分。
ここでは道は大きくジグザクを切っているが、この部分の中間点辺りで、大きく右に張り出して左に折り返すところを、ぼく達は「大曲がり」と呼んでいる。
最後の部分は、雷鳥沢の源頭部分の右側を乗越まで一気に突き上げる、最も傾斜の強い部分。道は細かくジグザクを切る。
下界では、朝日が昇ってから床に着くのが習慣になっているぼくには、この登りはきつかった。最初の部分の終わりがたで2度目に休憩した時、激しい眠気に教われ、ぼくは登山道がえぐられて溝状になっている部分に寝そべった。赤く色づいたナナカマドと青空が美しかった。そして、そのまま眠り込んでしまった。15分近くも眠っただろうか。目覚めると、頭も大分すっきりしたようだった。
一週間前に入山し、黒部の源流周辺を歩き回ってきた佐々木君は、絶好調である。ぼくは冗談半分に「おまえ先に乗越まで行って、荷物取りにきてくれよ」といった。
しばらく登って気がつくと、彼の姿はぼく達の視界から消えていた。
「大曲がり」で休んでから、重い腰を上げて歩き出してすぐに、佐々木が駆け下って来るのが見えた。
彼は、一番重い野尻の荷物を持ち、野尻はぼくの荷物を取ってくれた。まったく空身になったぼくは、それでも喘ぎあえぎ、乗越まで登った。乗越着12時15分。この登りを4時間ほどで登ったのは、予想よりは遥かに早く、空身にしてもらった所為だと思われた。
乗越はこの時期にしてはえらく混雑していた。「点の記」と記した幟を持っている人が居り、撮影隊の大グループだと知れた。到着して休んでいるぼく達にやって来た撮影隊の一人が、映画「点の記」の宣伝パンフレットを手渡してくれた。彼らも劔澤小屋に入るらしかった。
別山乗越でしばらく休憩して、眼下に見える劔澤小屋を目指して下る。最初の水平のトラバースして岩場のルートをくだり、劔沢・真砂の大滝で遭難死した富山大の地質学者、石井逸太郎博士の遭難碑を過ぎると、道はやや平坦となる。
突然、「こんにちは。いやあ、ここからの眺めは素晴らしい」という声が聞こえた。見ると男が一人、道の左手下方に寝そべっている。「いやあんまり寝心地の良さそうな岩があったのでねぇ」と一人べらべらしゃべりかけてくる。なるほど男は、平らな長方形の岩の上に横たわっていた。
「気持ち良さそうですね。天気もいいし」とぼくは返した。「この辺りは、三田平といいましてね」と説明してくれたが、この人三田平という名前の由来を知っているのかしらと思った。それに、三田平はもう少し下である。
この人が、あの「点の記」の映画監督・木村大作と知れたのは、劔澤小屋に着いてからのことである。彼とは、小屋の食堂でまた会い、しばらく話しをする機会があった。山の映画を撮る監督はみんなそうなのかもしれないが、極めて活発活動的な人と思えた。
話しの後に、面白い話を聞かせて頂いて楽しかったですと言うと、彼は「いやぁ、先生の話は、びんびん胸に来ましたよ」と返した
その日、長駆雷鳥平から劔岳に登頂した井川君達府大山岳会のロートル一同は、ヘッドランプに助けがいる頃になってようやく、元気で小屋に帰り着いた。ずっとぼくは、本当に心配だった。もし、たいしたことがなくても、なにかことが起これば、きっと「タカダナオキが付いとりながら」と言われるに決まっている。
彼らが帰り着いたとき、ほっとして、帳場の友邦に「いやよかった。なんかあったら、ぼくが付いとりながらと、きっと言われる」といった。すると友邦は、間髪入れず「オレが真っ先に言うちゃぁ」といった。
翌朝、慌ただしく下山する一行と一緒に集合写真を撮った。
4日後、みんなと別れて小屋に居残っていたぼくと関田は、先に帰る野尻を送って劔沢を登った。あの木村大作氏が寝そべっていた岩のところに来た時、ぼくは興味に駆られて、同じように寝そべってみた。あの時と同じようによい天気だった。
なんともいい気持ち。劔が眼前に大きく広がって見えた。なるほど素晴らしい展望岩、展望ベッドではないか。
ぼくはこの岩を「監督岩」と名付けることにした。
小屋の人たち、昔と変わらず親切であった。記憶にあった幼稚園児の新平君は、素敵な若者に成長し、結婚もしていた。
むかし、文蔵さんは、息子の友邦を評して、「友邦はほんとにお客さんのことを親身に心配する。オレはだから小屋のことはあいつに任せられる」とぼくに語ったことがあった。
新平君にもこの同じことが引き継がれているように感じられた。
5日間の滞在の後、ぼくと関田は、下山することにした。
下山して行きたいところが二つあった。友邦の弟の徹が、番場島山荘の管理人をやっているので、そこに行きたいと思ったのである。それに、芦峅部落の栄治さんにも会いたかった。
栄治さんは、第一回南極観測隊の設営隊員として参加した芦峅ガイドの一人で、芝ヤンの荼毘に一緒に東大谷をくだった人である。最近授勲を受けている。
芦峅は電車で行けるが、馬場島には交通の便はない。ぼくは、家に電話して、秀子に車を持って来るように依頼した。
今回の劔澤小屋行きは、もともとは府立大学山岳会創立50周年記念山行の企画されてはいた。
京都府立大学山岳会は、府大山岳部の遭難事故を機に設立されたという経緯があったから、記念山行としては劔澤小屋での回向を含むものと、ぼくは考えていた。しかし、遭難から長い年月が経ち、当時のリーダーであった尾鍋氏もこの世にいないし、親族の方々の消息も不明だった。
50周年記念の企画は、記念パーティーと記念誌の発行に忙殺された。だから、当初のぼくの意気込みも極めて個人的なものになってしまい、劔澤小屋行きも会の有志パーティによるものとなってしまったのは致し方のないことだと思われる。
9月22日に雷鳥平のロッジ立山連峰に現地集合することになった。
ぼくは、前日の21日にJRで高岡に行き、開洋子邸で一泊することにして、夕刻野尻とともに京都を立った。
高岡に着くと、駅には開さんと小嵐夫妻が出迎えてくれていた。
夫妻の一人息子Yは、長い間「引きこもり」だった。いろいろな回復の試みはすべて成功しなかった。父親の友人の京大の医者の診察も受けていたが、回復の兆しは見えなかった。
開洋子さんから相談を受けたぼくは、京都でY君と会った。これは直ると確信したぼくは、彼をパキスタンの北西辺境州に連れて行った。いわゆるトライバルエリアと呼ばれ、アルカイダなどの根拠地となっている辺りである。
そして、やはりぼくがほとんど強制拉致に近い方法でパキスタンに連れて行き、イスラマバードに住まわせている弟子の岩橋のアパートに残留させたまま帰国した。
岩橋は、ぼくの高校での最後の教え子だった。高校中退後、我が家の隣の安アパートに住み、パチプロ一途の生活を長年続けていたのだが、ぼくに強引にパキスタンに連れ出された。
イスラマバードのぼくが選んでやったアパートに住み、英語とウルドー語の勉強をしていた。日本大使館のコンピューター関係の雑用のアルバイトや、時としては、現地の日本人エージェントのカブールでの援助活動の仕事を手伝ったりもしていた。
何年もの間「引きこもり」青年であったY君は、岩橋君と一緒に生活し、ラホール、ギルギット、スカルドなどぼくが指定した場所をすべて旅してから、3ヶ月の後、日本に戻ってきた。
帰国すると直ぐ、彼は自分から鍼灸学校に入学することを決め、それから3年がたった。いま現在無事卒業して、鍼灸治療院で働きだしたばかりという。
小嵐夫妻に小料理屋さんに案内され、ご馳走の接待を受けた。そこへ佐々木君も合流した。彼は、一週間前に黒部の源流に入り、釣りを楽しんでいた。下山して、ここ高岡で合流することになっていた。
翌朝、開洋子、堀君(二人は夫婦なのであるが名字は違う)の車で送ってもらって千寿ガ原のケーブル乗り場に着いた。まったくうまい具合に、まるで示し合わせていたかのように、京都からやってきたばかりの関田や井川達と合流することが出来た。
ケーブルは昔と変わらずゆっくりと登った。車両の後部から見える階段は、ずっと昔初めての入山の記憶を呼び戻した。
あの時、春の劔岳を目指して夜行列車で早朝の富山駅に着いた一行は、富山地鉄の雪の線路を千寿ガ原終点の3つ手前の駅から歩き、その夜は千寿ガ原の駅で寝た。そして翌日この階段を重荷を背に2往復して荷揚げしたのだった。もう50年以上も昔のことである。
室堂のバスターミナルは、夏の最盛期の人ごみと違って、旅行客登山客は比較的まばらであった。
みくりが池山荘のすぐ手前、みくりが池の畔からルートを左に取り、地獄谷への長い階段を下った。地獄谷を抜けたところにロッジ立山連峰がある。
1時間ほどで、大町から黒四ダムを経由してきた東京メンバーが合流し、一行15人が揃った。
ロッジ立山連峰は、お世辞にもいい小屋とはいえなかった。ここを最初の宿に決めたのは事務局なのであるが、関田がここを勧めたらしい。かつて文蔵さんが劔澤小屋を息子の友邦に譲った後、ここで管理人をしていたことがあった。その頃は、ぼくも関田も雷鳥沢を下ってくると、いつも文蔵さんに挨拶に寄り、勧められて風呂に入ってゆくのが常だった。なかなか気持ちのいい宿だった。だから、昔、両親を連れて劔澤小屋に行った時も、ここに一泊した。
その後、経営者が変わったらしい。昔のこの地域独特の山小屋の雰囲気は失われ、なんだか信州の山小屋のようになった感じだった。
翌朝一行15人は、3つのパーティーに別れて、この小屋を発った。劔岳を目指すパーティは、早立ちした。次のパーティは、少々脚が不自由な人もいるので、室堂乗越を往復。ぼくと関田、先輩の竹さん、ともと佐々木は、劔澤小屋まで行くだけなので、一番後にゆっくりと出発した。
別山乗越までの雷鳥沢の登りは、大体三等分して3つに分けることができる。最初の部分は雷鳥沢の沢芯を登る。それから、右の尾根上の部分に振りしばらく登ると、中間部分の起伏のない平らな部分。
ここでは道は大きくジグザクを切っているが、この部分の中間点辺りで、大きく右に張り出して左に折り返すところを、ぼく達は「大曲がり」と呼んでいる。
最後の部分は、雷鳥沢の源頭部分の右側を乗越まで一気に突き上げる、最も傾斜の強い部分。道は細かくジグザクを切る。
下界では、朝日が昇ってから床に着くのが習慣になっているぼくには、この登りはきつかった。最初の部分の終わりがたで2度目に休憩した時、激しい眠気に教われ、ぼくは登山道がえぐられて溝状になっている部分に寝そべった。赤く色づいたナナカマドと青空が美しかった。そして、そのまま眠り込んでしまった。15分近くも眠っただろうか。目覚めると、頭も大分すっきりしたようだった。
一週間前に入山し、黒部の源流周辺を歩き回ってきた佐々木君は、絶好調である。ぼくは冗談半分に「おまえ先に乗越まで行って、荷物取りにきてくれよ」といった。
しばらく登って気がつくと、彼の姿はぼく達の視界から消えていた。
「大曲がり」で休んでから、重い腰を上げて歩き出してすぐに、佐々木が駆け下って来るのが見えた。
彼は、一番重い野尻の荷物を持ち、野尻はぼくの荷物を取ってくれた。まったく空身になったぼくは、それでも喘ぎあえぎ、乗越まで登った。乗越着12時15分。この登りを4時間ほどで登ったのは、予想よりは遥かに早く、空身にしてもらった所為だと思われた。
乗越はこの時期にしてはえらく混雑していた。「点の記」と記した幟を持っている人が居り、撮影隊の大グループだと知れた。到着して休んでいるぼく達にやって来た撮影隊の一人が、映画「点の記」の宣伝パンフレットを手渡してくれた。彼らも劔澤小屋に入るらしかった。
別山乗越でしばらく休憩して、眼下に見える劔澤小屋を目指して下る。最初の水平のトラバースして岩場のルートをくだり、劔沢・真砂の大滝で遭難死した富山大の地質学者、石井逸太郎博士の遭難碑を過ぎると、道はやや平坦となる。
突然、「こんにちは。いやあ、ここからの眺めは素晴らしい」という声が聞こえた。見ると男が一人、道の左手下方に寝そべっている。「いやあんまり寝心地の良さそうな岩があったのでねぇ」と一人べらべらしゃべりかけてくる。なるほど男は、平らな長方形の岩の上に横たわっていた。
「気持ち良さそうですね。天気もいいし」とぼくは返した。「この辺りは、三田平といいましてね」と説明してくれたが、この人三田平という名前の由来を知っているのかしらと思った。それに、三田平はもう少し下である。
この人が、あの「点の記」の映画監督・木村大作と知れたのは、劔澤小屋に着いてからのことである。彼とは、小屋の食堂でまた会い、しばらく話しをする機会があった。山の映画を撮る監督はみんなそうなのかもしれないが、極めて活発活動的な人と思えた。
話しの後に、面白い話を聞かせて頂いて楽しかったですと言うと、彼は「いやぁ、先生の話は、びんびん胸に来ましたよ」と返した
その日、長駆雷鳥平から劔岳に登頂した井川君達府大山岳会のロートル一同は、ヘッドランプに助けがいる頃になってようやく、元気で小屋に帰り着いた。ずっとぼくは、本当に心配だった。もし、たいしたことがなくても、なにかことが起これば、きっと「タカダナオキが付いとりながら」と言われるに決まっている。
彼らが帰り着いたとき、ほっとして、帳場の友邦に「いやよかった。なんかあったら、ぼくが付いとりながらと、きっと言われる」といった。すると友邦は、間髪入れず「オレが真っ先に言うちゃぁ」といった。
翌朝、慌ただしく下山する一行と一緒に集合写真を撮った。
4日後、みんなと別れて小屋に居残っていたぼくと関田は、先に帰る野尻を送って劔沢を登った。あの木村大作氏が寝そべっていた岩のところに来た時、ぼくは興味に駆られて、同じように寝そべってみた。あの時と同じようによい天気だった。
なんともいい気持ち。劔が眼前に大きく広がって見えた。なるほど素晴らしい展望岩、展望ベッドではないか。
ぼくはこの岩を「監督岩」と名付けることにした。
小屋の人たち、昔と変わらず親切であった。記憶にあった幼稚園児の新平君は、素敵な若者に成長し、結婚もしていた。
むかし、文蔵さんは、息子の友邦を評して、「友邦はほんとにお客さんのことを親身に心配する。オレはだから小屋のことはあいつに任せられる」とぼくに語ったことがあった。
新平君にもこの同じことが引き継がれているように感じられた。
5日間の滞在の後、ぼくと関田は、下山することにした。
下山して行きたいところが二つあった。友邦の弟の徹が、番場島山荘の管理人をやっているので、そこに行きたいと思ったのである。それに、芦峅部落の栄治さんにも会いたかった。
栄治さんは、第一回南極観測隊の設営隊員として参加した芦峅ガイドの一人で、芝ヤンの荼毘に一緒に東大谷をくだった人である。最近授勲を受けている。
芦峅は電車で行けるが、馬場島には交通の便はない。ぼくは、家に電話して、秀子に車を持って来るように依頼した。