6.イスラマに戻る

 ペシャワールを発って、開通したばかりでガラガラにすいた3車線のハイウェイを2時間近く走ったのち、運転手のボーラは初めて言葉を発しました。正午過ぎ、ペシャワールのバザールを出発する時、「これからイスラマに向かう」と指示したきり、その後ぼくが一切話しかけなかったからでしょうが。
「マァーリ・・オォット」
 マリオットホテルに行くのですか?と聞いたのです。
 実におっとりのんびりしています。でも運転は非常にうまい。飛ばすときは飛ばしますが、どんな雑踏でも安心して乗っておれます。
 ほんとに素朴実直という感じ。指定した時間にはきっちりとやってきて、ホテル構内のホテル入り口が見える場所にパークし、はるか向こうからじっと見張っているのでしょうが、ぼく達の姿が現れるやいなや素早く飛び出してくるのでした。
 バザールでも、戻ると言った時間に1時間遅れようが2時間経とうが、遠くからぼく達を見つけ出し、車のそばからやってきて、雑踏の中を先導してくれました。
 
 アマンに、あだ名の意味を聞きました。ボーラというのは、simpleという意味だそうです。simpleには、単純な人、ばかの他に、素朴な、無邪気な、純真ななどの意味がありますが、なるほどこの形容はすべて彼に当てはまるように思えました。日本語にするのは難しいけれど「ぼんやりさん」とでもなりましょうか?
 彼はピンディ近郊の町、ハリプールで生まれました。ピンディにやってきても、その生活は貧しい彼に取って大変厳しく、仕事用の車の中で寝泊まりするという生活を3年間も続けたそうです。
 この話を聞いて、別れるときに渡すチップを少し増やしてしまいました。

 ピンディでは、町に出歩く人がなくなり、どの商店も閑古鳥が鳴いているそうです。昨日の公邸への自爆攻撃の所為だそうです。
 アマンは、とんでもなく大きな音がして、びっくりした。商売はあがったりです、となげきました。音は4キロ四方で聞こえたと新聞にありましたから、アマンの店では、きっと大きな音だったのでしょう。
新聞記事1.jpg ペシャワールのPCで、各種英字新聞5誌ほどに目を通しましたが、地方紙にあたるCity News などが、最も生々しい情景を書いています。
 -----人の身体の部分が路上のあちこちにゴロゴロと転がっている。
 2人のレスキュ−1122の職員と2人の軍の人が、多分自殺攻撃者のものと思われる人の頭を取るために樹に登った。それは、樹の枝にひっかかっていた。-----
 身体の破片が、空中に舞い散る目撃者の談話などがあり、読んでいて気持ちが悪くなりました。
 そしてひとつ気付いたことは、どの新聞も自殺攻撃(suicide attack)あるいはsuiside blast(自殺爆発、自殺攻撃)とは呼んでも、自殺テロ(suiside terrolism)とは呼んでいないことでした。その理由は、分かるような気がしました。

 夕食は、ホテルのステーキハウスで取ることにしました。
 アマンがくれたボルドーの赤2005年を、黒のプラスチック袋でくるんで持ち込みました。
 ボーイはぼくが足下に置いたボトルに気付いたのか、水用以外にもう一つグラスを持ってきてくれました。グラスはいずれも濃いブルーで、遠目には水かどうか分かりません。去年は、ボトルを持ち去り、ティーポットに移し替えて持ってきたのですが、ティーカップで飲むワインというのはどうにも気分が出なかったものでした。

 ムスリムの国ですから、飲酒は禁じられていますが、外国人は関係ありません。ただ公衆の面前で公然と飲むことは、控えなければ行けません。
 パキスタンに着いて直ぐの夕食はパキスタン料理屋さんでした。パルベイツの家で供されたブルゴーニュの白のボトルに残ったワインを、ザヒードが持ってきていました。
パルベイツ夫妻と.jpg パルベイツは、ぼくが「美味しい」とほめたので、ホテルで飲むようにと同じもの2本と飲み残しをザヒードに渡したのです。
 白ワインで焼き肉はどうも、とぼくは、ジャンボプラウンを注文しました。ザヒードといえば、堂々とワインを卓上に置ぎ、冷やすための氷を頼みました。
 「君たちは外国人だから関係ない。文句を言われたらパルベイツのゲストだといいなさい。それですべてオーケーだ」とパルベイツが大見得を切ったからなのですが、ぼくはちょっと気になりました。
 案の定、しばらくすると店のマスターがやってきました。「向こうの夫人たちが苦情を言っている」というのです。入ってきてからのザヒードの態度は少し大きすぎたようでした。
 どこの国でも、おばはんはうるさいのです。

T-boneSteak.jpg さて、ぼくが注文したステーキは、450gTボーンのミディアムレアー。オーストラリア肉です。値段は5600円。
 デザートには、メニューになかったのですが、聞くと出来るというので、カスタードプリンとエスプレッソダブルを頼みました。
 みんな美味しかった。
 吸いきれなかったホヨドモントレー・Limited 2005のシガーを手にプールサイドに移動し、テーブルに腰を下ろしました。
 プールの周囲にぐるりと配置された椅子とテーブルには人っ子一人なく、水面が静かに揺らいでいます。少し肌寒さを感じるくらいで、酷熱のパキスタンも過ごしやすい季節になってきたようです。

5.ペシャワールにて

 昨夜半、アマンより連絡があり、ペシャワールのPC(パールコンチネンタルホテル)が2晩しか取れないと言ってきました。特に長居する必要もないし、滞在地では、一番危険な場所だとも思っていたので、「いいよ。それでいい」と予定を一日切り上げて2晩で戻ることにしました。
 ドライバーと車のアレンジをした。ドライバーはぼくがよく知っている男だから安心してくれということでした。アマンは同行できなくなったらしい。
 昼すぎ、ドライバーがやってきました。10人乗りくらいのバスです。一緒に現れたアマンは「どうです。これなら快適でしょう」
 快適も何もガラガラではないか。
ボラ.jpg ドライバーは頭はもう白い50代の男で、名前をボラという。魚みたいな名前ね、と家内がいい、そう思ってよく見ると顔もボラに似ているような気がしました。
 ところが、ペシャワールのPCについたとき、ボラが胸に付けているTravel Agent のCox & Kings の名札を見ると、Mr. Masud Ur Lehman と書いてあるではありませんか。お前立派な名前があるではないか、と英語で言ったのですが、彼はニコニコと笑っているのみです。マスードは、英語がほとんどわからないようです。
 ボラがニックネームだとしたらそれはどんな意味なのか、誰かにそっと尋ねてみようと思っています。

キサカニ果物屋.jpg ペシャワールは、アフガニスタンに最も近いパキスタンの町で、国境のカイバー峠を越えたアレキサンダー大王もこの町を通ってインド亜大陸に入りました。インド経由でやってきた仏教とアレキサンダー軍がもたらしたギリシャ彫刻の技法が融合して生まれたのが、ガンダーラ美術、ガンダーラ仏像です。
 ラワルピンディーとペシャワールの中間に世界文化遺産で、最大のガンダーラ遺跡のタキシラ遺跡があり、ここでもガンダーラ文化が花開きました。タキシラを取り巻く山の各所に僧院があり、その当時、中国を始め世界各国からから学僧が勉強に訪れたのです。
 BC190年頃にギリシャ人が建設を始めたとされますから、2000年以上前ということになります。
 
 ペシャワールの住民の多くは、山の民といわれるパシュトーン語を話すパタン人で、どの時代も誰にも屈服しなかった独立自尊の民といわれます。もちろん、イギリス植民地時代にも、何回ものイギリス討伐軍にもなびきませんでした。チャーチルは、若い軍人時代カイバー峠での戦闘に参加しています。
 僕はなぜかパターン人が好きで、なぜか馬が合う感じなのです。

 先日の記事で報告したミンゴーラでの自爆テロは、住民の過激派グループと軍及び民兵の対立の中で起こった事件といえます。
新聞記事2.jpg ここペシャワールでの今朝のThe Newsの朝刊の一面トップは、ドバイでアジア労働者が100人解雇されデモが起こったという記事に並んで、スワットでの戦闘の続報が、Tense calm in Swat(スワットでの緊張した静寂)というタイトルで報じられています。軽機関銃を構えて、ミンゴーラのバザールを巡回する民兵たちの写真入りです。
 (ミンゴーラ・ペシャワール発)3日間にわたる過激派と治安部隊との凄まじい戦闘の後、表立たない裏面での錯綜した休戦が報じられてはいる。
 過激派は、5人の民兵職員を含む12人を生け捕りにしたと宣言した。そのうち4人の首を刎ねたとも報じています。
 いくつかの報告によれば、この戦闘で死亡した16人の民兵の死体は、いまもコット村とマングラワール村の野原に放置されており、厳しい対立の中で、誰もそれを集めにゆけない状況が続いている・・・などと、報じています。
 両者は、互いに仕掛けたのは相手方であると、FMラジオなどで応酬し合っているようです。
 「我々は、決して最初に発泡したのではない。それは政府であって彼らはいつも我らのホームを攻撃する。マウラナ・シャー・ドゥランはこの地方で広く聞かれている彼のラジオでそう語った」
 「休戦などまったくない。前から言っているように、我々が最初の発砲したことは決してない。民兵コマンダーでスポークスマンのシラジューディンは言明した」などなど。
 また、別の新聞 National Herald Tribune のトップは、60人の過激派が死亡という副題付きで「過激派と民兵軍は休戦に達した」と報じています。その次の記事で、「大統領は過激主義者達に戦闘をやめるように要請」という記事が載っている。

キサカニバザール宝石通り.jpg こうした記事と裏腹に、そこから150キロほどのこのペシャワールの市街では、いつもの喧噪と雑踏の日々がいつもと変わらず続いているようです。今日キサカニ(正確にはキスワクニ)バザールに出かけ、特にそう感じました。
 明日は、昼にチェックアウトし、ゆっくりイスラマバードに帰るつもりです。


 今日のアサヒコムによると、ムシャラフを狙った自爆テロがラワルピンディーであったようです。ちょうどぼくがイスラマバードを出立した直ぐ後のことのようです。
 イスラマバードとラワルピンディーについて、説明しておきます。
イスラマバードは1960年代に建設が始まった新都市で、昔からあったラワルピンディーの北方20キロほどのところにある正方形区画の新都市です。出来上がるまでに何十年もかかっていて、まだ完成していないともいえます。
 ラワルピンディは、昔からあった都市で、道はラジャバザールのセンターから、ヨーロッパのように放射状に延びています。
 言ってみれば、オールドデリーとニューデリーみたいなものかもしれません。
 もともと、カラチが首都だったのですが、商人の支配を嫌った軍人達が新首都を作ろうとしたともいわれました。
 やはり無人の原野に人為的に作られた町というのは、長い年月が経って大分様子が変わってきたとはいえ、カラチやイスラマバードに比べ、何か無機質な感じがするのはぼくだけではないと思うのですが。
 今回ムシャラフ大統領が自爆テロ攻撃を受けたのは、ラワルピンディ近郊の公邸執務室で、大統領官邸はイスラマバードにあるのだそうです。彼はこの二つを行き来するのですが、その度ごとにイスラマとピンディ間の高速道路が封鎖されるので、一般人は迷惑しています。