プラハへ〜アムステルダムでの道草〜
チェコに行くのは、4年ぶりである。
あれは、2003年の夏のことで、イタリアのピエモンテからルノーのカングーでハイウェーをすっ飛んで、ウィーンへ。ウィーンから100キロのブルーノまでを往復した。(この時の記事は高田直樹ドットコムの「イタリア旅行記(2003年夏)」参照)
ブルーノはプラハの東南200キロの町である。オーストリア国境に近く、ウィーンから100kmの距離にある。この記事にあるように旧友のパベルがオランダからここに移転して来たので、彼に会いに行った訳である。
今回のヨーロッパ行きでは、イタリアに行く途中に、ベルギーのブリュッセルに寄り道してムール貝でも堪能しようと考えていた。
ところが、ブルーノのパベルが、もしかしたら来年アムステルダムに戻るかもしれないと報せて来た。それを聞いたともが、「パベルがいる間にぜひプラハに行きたい。わたし行ったことないから」といいだした。ムール貝は諦めてプラハに向かうことになった。
プラハに行くのは、息子の結婚式以来のこと。ぼくがパベルの助力を得て息子の結婚式をプラハの旧市庁舎(あの天文時計のあるところ)で挙げたのは、京都市がプラハと姉妹都市を結ぶ前年だったから、1995年のこと。ということは、なんと13年ぶりのことなのである。
パベルに連絡すると、夫婦でプラハ市内に所有するアパートまで先行して待っていてくれるという。このアパートには、これまでに二回ほど泊まったことがあった。でも今回のわれわれの泊まりは、そのアパートから50メートルも離れていないところにある〈Residence Belgicka〉というキッチン付きの宿を予約してくれたという。
前日のKLM便がエンジントラブルでキャンセルになったとかで、関空発アムステルダム行きの便はほぼ満席だった。そして珍しいことに予定より1時間も早くスキボール空港に着いた。
乗り継ぎのプラハ行きの便は夜の10時。4時間以上も時間があるので、汽車で町に出ることにして、アムステルダム中央駅までの切符をかった。
中央駅からメインストリートを少しばかり行き、裏道に入る。運河に面した通りが、いわゆる飾り窓の女のいる道筋である。
バンコックでパベルと出会った翌年、ぼくは70歳半ばを越えた母親を連れて、ヨーロッパを旅した。もう20年も前のことだったろうか。
ロンドンに入り、そこからアムステルダム、バリ、ベニス、ローマと各所2・3泊づつする2週間の旅だった。なかでも特筆すべきはパリ〜ベニス間の、オリエンタル急行に乗ったことである。車中1泊する旅であるが、切符はなんと17万円であった。
JALに乗務し始めたばかりの娘の美奈が、パリで合流出来るというので、最高の<客あしらい>を学ぶためには乗るべきだと説得して、一緒することになった。
車掌は、どう勘違いしたのか、娘にぼくのことを「ユアハズバンド」と言うので、美奈は必死で「ノー、マイファーザー」と何度言っても、またしても「ユアハズバンド」を繰り返したようだ。きっと東洋の金持ちが、若い奥さんを貰いその母親も一緒で旅していると思い込んだのだろう。
アムステルダムでは、学生のパベルがエスコートしてくれた。夜、母親をホテルに残して、ぼくとバベルは夜の街に出た。「飾り窓の女」は、どのガイドブックにも書いてあった通り、写真撮影は御法度である。
パベルは、「大丈夫、大丈夫。写しなさいよ」という。
飾り窓の入り口には、大体一人の男の用心棒が立っている。その何人かとパベルは親しげに声をかけ合っている。驚いたことに、みんな高校時代のクラスメートなのだそうだ。
写真を写しているのに気付いた女が、大きな叫び声をあげて飛ぶ出してくると、ぼく達は、「逃げろ」と走った。こんなことを数回繰り返したら、パベルが「これくらいにしておいた方が身のためだ」といった。
そんな昔の思い出を懐かしみながら運河沿いをたどって行くと、面白い公衆トイレがあった。実にユニーク。かつて空港トイレの便器に描かれた蠅に感心したものであったが、この便器にも感心してしまった。
運河沿いの道を右にそれて行くと、ホテル・クラスノポリスキーの前に出る。そこからはダム広場が見渡せた。ダム広場は、アムステルダムの中心ともいえ、いつものように観光客が群れていた。
ここからローキンの通りを道沿いに商店に沿って歩いて行くと、時々行くパリのマキシムの支店のレストランがあった。例によって入り口には白アスパラが束ねて置いてある。一気の食欲をそそられてしまった。
お目当てのシガー専門店の「ハニエス」は、ほんの50メートル先である。とりあえずここでアスパラを食べようと、外のテーブルに座り「アスパラのオムレツ」と白ワインを注文した。
エスプレッソを飲みながらシガーを楽しんだりとゆっくりしすぎたのが失敗だった。たどり着いた直ぐ先の「ハニエス」は閉まっていた。6時閉店。30分遅れだった。
戻りも汽車にしようと、中央駅行きの市電に飛び乗った。中には切符販売機がない。いつもの伝でただ乗りで駅に着き、空港に戻った。
あれは、2003年の夏のことで、イタリアのピエモンテからルノーのカングーでハイウェーをすっ飛んで、ウィーンへ。ウィーンから100キロのブルーノまでを往復した。(この時の記事は高田直樹ドットコムの「イタリア旅行記(2003年夏)」参照)
ブルーノはプラハの東南200キロの町である。オーストリア国境に近く、ウィーンから100kmの距離にある。この記事にあるように旧友のパベルがオランダからここに移転して来たので、彼に会いに行った訳である。
今回のヨーロッパ行きでは、イタリアに行く途中に、ベルギーのブリュッセルに寄り道してムール貝でも堪能しようと考えていた。
ところが、ブルーノのパベルが、もしかしたら来年アムステルダムに戻るかもしれないと報せて来た。それを聞いたともが、「パベルがいる間にぜひプラハに行きたい。わたし行ったことないから」といいだした。ムール貝は諦めてプラハに向かうことになった。
プラハに行くのは、息子の結婚式以来のこと。ぼくがパベルの助力を得て息子の結婚式をプラハの旧市庁舎(あの天文時計のあるところ)で挙げたのは、京都市がプラハと姉妹都市を結ぶ前年だったから、1995年のこと。ということは、なんと13年ぶりのことなのである。
パベルに連絡すると、夫婦でプラハ市内に所有するアパートまで先行して待っていてくれるという。このアパートには、これまでに二回ほど泊まったことがあった。でも今回のわれわれの泊まりは、そのアパートから50メートルも離れていないところにある〈Residence Belgicka〉というキッチン付きの宿を予約してくれたという。
前日のKLM便がエンジントラブルでキャンセルになったとかで、関空発アムステルダム行きの便はほぼ満席だった。そして珍しいことに予定より1時間も早くスキボール空港に着いた。
乗り継ぎのプラハ行きの便は夜の10時。4時間以上も時間があるので、汽車で町に出ることにして、アムステルダム中央駅までの切符をかった。
中央駅からメインストリートを少しばかり行き、裏道に入る。運河に面した通りが、いわゆる飾り窓の女のいる道筋である。
バンコックでパベルと出会った翌年、ぼくは70歳半ばを越えた母親を連れて、ヨーロッパを旅した。もう20年も前のことだったろうか。
ロンドンに入り、そこからアムステルダム、バリ、ベニス、ローマと各所2・3泊づつする2週間の旅だった。なかでも特筆すべきはパリ〜ベニス間の、オリエンタル急行に乗ったことである。車中1泊する旅であるが、切符はなんと17万円であった。
JALに乗務し始めたばかりの娘の美奈が、パリで合流出来るというので、最高の<客あしらい>を学ぶためには乗るべきだと説得して、一緒することになった。
車掌は、どう勘違いしたのか、娘にぼくのことを「ユアハズバンド」と言うので、美奈は必死で「ノー、マイファーザー」と何度言っても、またしても「ユアハズバンド」を繰り返したようだ。きっと東洋の金持ちが、若い奥さんを貰いその母親も一緒で旅していると思い込んだのだろう。
アムステルダムでは、学生のパベルがエスコートしてくれた。夜、母親をホテルに残して、ぼくとバベルは夜の街に出た。「飾り窓の女」は、どのガイドブックにも書いてあった通り、写真撮影は御法度である。
パベルは、「大丈夫、大丈夫。写しなさいよ」という。
飾り窓の入り口には、大体一人の男の用心棒が立っている。その何人かとパベルは親しげに声をかけ合っている。驚いたことに、みんな高校時代のクラスメートなのだそうだ。
写真を写しているのに気付いた女が、大きな叫び声をあげて飛ぶ出してくると、ぼく達は、「逃げろ」と走った。こんなことを数回繰り返したら、パベルが「これくらいにしておいた方が身のためだ」といった。
そんな昔の思い出を懐かしみながら運河沿いをたどって行くと、面白い公衆トイレがあった。実にユニーク。かつて空港トイレの便器に描かれた蠅に感心したものであったが、この便器にも感心してしまった。
運河沿いの道を右にそれて行くと、ホテル・クラスノポリスキーの前に出る。そこからはダム広場が見渡せた。ダム広場は、アムステルダムの中心ともいえ、いつものように観光客が群れていた。
ここからローキンの通りを道沿いに商店に沿って歩いて行くと、時々行くパリのマキシムの支店のレストランがあった。例によって入り口には白アスパラが束ねて置いてある。一気の食欲をそそられてしまった。
お目当てのシガー専門店の「ハニエス」は、ほんの50メートル先である。とりあえずここでアスパラを食べようと、外のテーブルに座り「アスパラのオムレツ」と白ワインを注文した。
エスプレッソを飲みながらシガーを楽しんだりとゆっくりしすぎたのが失敗だった。たどり着いた直ぐ先の「ハニエス」は閉まっていた。6時閉店。30分遅れだった。
戻りも汽車にしようと、中央駅行きの市電に飛び乗った。中には切符販売機がない。いつもの伝でただ乗りで駅に着き、空港に戻った。