西パキスタンの旅 第3話「シンド砂漠を走る−−その2−−カラチからラワルピンディヘ」
暑いのではなく、熱いのだ
十時ごろから、暑さが厳しくなった。そして、正午を過ぎると、それはもう堪えがたいという感じになった。
まわりから、熱気が、ガーンとしめつけてくるようで、それをはねのけるために、最大限の気力をふりしぼらねばならない。
ジープは、まさに走るオーブンだ。
道は、地平に一直線に消え、視野いっぱいに、かげろうがもえ立っている。
十一時に小さな村を見たが、それからは家影も見えず、この熱線を避ける場所もない。私たちは、ただ突走るしかないのだ。
そんな時、ふと自分を観察する。姿勢は前かがみになり、ハンドルに両肘をのせんばかりだ。ロが開いている。舌がだらりと下り、顔の筋肉は、完全に脱力している。こんな顔をどっかで見たことがある。そうだ、これはディラン隊の荷物を陸送した、アクバルの顔だ。あの時、夜、ピンディーの町をこの顔で運転する彼を見て、私は、こいつ大口あけて馬鹿じゃないかと思ったものだ。だが、何度も暑い所を走るうちに、この顔が、習慣となったらしい。
気をつけて見ると、安田も、まったく同じ顔で同じ姿勢になっている。してみると、これは砂漠の運転姿勢なのだろう。
それにしても、この熱さを何と表現したらよいだろう。これはまったく、暑いのではなく、熱いのだ。
ある在留邦人は、パキスタンの熟さを、次のように表現した。〈まわりに十個の赤外線ヒーターを置き、十個のスポットライトで照らされた感じ〉。だが、これでも充分な表現とはいえない。
中村が、時々壷から水をくんで、渡してくれる。
この水の温度、二九度C。これでも結構冷たいと感じる。ジープの室内気温四三度Cより、十四度Cも低いのだ。この秘密は、素焼の壷にある。にじみでた水が、どんどん蒸発して、壷全体を冷やすのだ。この、たかが二百円ほどの壷が、これほどの偉力をもつとは知らなかった。
砂漠の調査活動
午後一時、ようやく前方に、ポチリと家が見えてきた。トラックが止っている。ありがたい。やっとこの熱さをのがれることができる。そう思ったのは、とんだ早合点だった。
この土造りの家の中も、四四度C。深呼吸すると、胸の中まで熱くなる。ただ、火ぶくれのできそうな熱気が、直接にあたらないのはありがたい。
木の枠に、麻なわを編んだ網をはったベッドが三つ。あばた面のトラックの運チャンが、起きあがり、ベッドをすすめてくれる。(パキスタンには、天然痘によるあばた面が多い)
「サーブ、カハンセ、アーヤータ(旦那、どこからいらした)」
「カラチセ(カラチから)」
「アープ、キスムルクカ、アドミーハイン(あなた、どこの国の人でか)」
「ジャパニーヘー(日本人だ)」
「アッチャー(へェー)」
この運チャン、きれいなウルドーで、敬語まで知っている。あとの二人の助手は駄目らしい。彼は少々得意なんだろう。「サーブ。キャカーム、カルナーチャーテーハイン(どんな仕事をなさるつもりか)」
しきりに話しかけてくるが、こっちは、熱さでぐったりして、しゃべる気にもならない。
この店の主人が運んできた、パキスタニーチャエ(ミルクでたきだした紅茶)をのんだら、少々元気が出てきた。
安田は、この熱さの中を、戸外で化石を探している。アンモン貝ばかりで、大したものはなかったそうだ。
戸外気温を、影がないので、掌で影を作って測定したら、いつまでも昇りつづけ、五六度Cになつた時、目がくらんできたので止めにした。まだ昇りそうだったという。
中村は、子供の体力測定を始めている。この熱さでは、50m走をやらすわけにもいくまい。安田も一緒で、ヘルスメーターを取り出して、体重測定を始めた。ウルドーの苦手な中村は、大奮闘である。
身長、胸囲、座高、手首囲などを測り、ジャンプ測定までやったのは立派だ。
私も負けずに、調査開始だ。
「名前は」そばの大人が「プンヌン」と答える。
「年令は」「ウーン」と考えこむ。そばから、大人が「十四歳」別の男が「十五歳」
私はしかりつける。
「お前たちに聞いておるのではない。この少年に聞いておるのだ。お前たちはだまっておれ」
学校に行っているか。
どうして行かないのか。
大人になったらどんな職業につきたいか。
父親と母親とどちらが好きか。 等々の設定しておいた質問をつづけて行く。
「世界で一番偉い人は、誰だと思うか」
またしても、そばの大人どもが、
「そりあ、村長だ」
今度は、大人向きの調査だ。一〇枚の女の写真(これはJALのカレンダーを写真にとったもの。大体各国の女性を網羅している)を取り出す。
この中で、一番いいと思うのはどれか、それを取り出せといって、さらにその次はという具合に三番目までを選ばせる。最後に、最もよくないのを示させるものだ。
彼らは、大喜びだ。
ダークバンガローのある、メーハルまでは二百キロ以上ある。調査はこれ位にして、先を急がねばならない。
二時半、私たちは再び、灼熱の大地に走り出た。
暗い家−ダークバンガロー
メーハルのレストハウスにたどりついた時、三人は、まったく気息えんえんの状態だった。途中で道が分らなくなり、だいぶ苦労した。このあたりは、シンディ(シンド語)の領域で、道も満足に聞き出せないのだ。
何度も「トゥム、ウルドージャンテーホ(君、ウルドーがしゃべれるか)」と呼びかけても、手を横に振る者がほとんどだった。
ようやくレストハウスの一室で、ベッドに腰をおろしたのは、夜の十時に近かった。
チョキダール(番人)に水を運ばせ、砂だらけの身体を洗う。タルカムを振りかけると、少々すがすがしくなった。
ところが、安田は身体を洗うのを止めにした。田圃の水のような泥水なので、おぞ気をふるったのだ。その結果、彼の身体は、一面のあせもにおおわれることになった。
それにしても、レストハウスはありがたい。パキスタンには、どんなへんぴな地域にもレストハウスがある。これを利用できねば、パキスタンの辺地旅行は無理だといってよい。
これは、イギリス植民地時代からのもので、役人らが旅行して、宿泊するためのものである。部屋は、やたらに天井が高く、小さな窓があり、冬寒い地方では、暖房用に暖炉がついている。
建物は、土蔵のような造りである(熱をさえぎる生活の知恵か)。レストハウスが、ダークバンガローと呼ぼれるのは、イギリス官吏がそうよんだのではないかと思う。
レストハウスにはチョキダールとコックがいる。一人二役の場合もある。炊事、洗濯、何でもいいつければ、彼らがやってくれる。
排泄に関しては、少々問題がある。これはバスルームでやる。バスルームといっても、大きいばかり(大体四〜五畳)のガランとした部屋である。普通は、次のものが置いてある。
水浴(ナハーナ)用の金だらい。水をくんで身体にかけるための把手のついた水さし。すのこ板。それに、おまるの入った、大きな黒ぬりの箱。
この箱のふたをめくると、直径二十センチばかりの円筒形で、ホーロー引きのおまるがはめ込まれている。この上にのって、しやがんで用を足す。小さい方のときも同様だ(パキスタン人は、大小とも同じ姿勢をとる)。済んだら、外の方のドアの鍵をはずしておかねばならない。
すると、間もなく、そこから入ってきたチョキダールが、おまるを運び去るという寸法だ。
チヨキダールが気づかない時は、命じて直ぐに運び去らせる。ところが、これが仲々大変だ。どうしてもいい出せず、あふれそうになったおまるが、部屋中に臭気を充満させるということになる。
大体、自分のオヤジ位の年恰好の男を、アゴで使うということ自体、日本人にとっては、抵抗を感じることなのだ。
ましてや、自分のウンコやオシッコを持ち去れなどと命じることは、いくらパキスタンに慣れてきても、やはり気遅れするのは事実だ。
ある日本人旅行者がいた。彼らは、自分で水浴の水を運び、ウンコも自分で始末した。その結果はどうだったか。彼らは、感謝されるどころか、チョキダールの軽蔑を買っただけだった。
郷に入っては郷に従うことは、私たちにとって一つの技術といえそうだ。
夜半を過ぎても、暑さは一向に衰えない。私たちは、外で寝ることに決めた。ベッドを外に運ばせ、蚊帳を吊った。この蚊帳は、私の妻が嫁入道具でもってきたものだ。ふと日本のことを思った。
月が中天にかかっている。
モヘンジョダロ見物
七時半にレストハウスを出発。モヘンジョダロには十時半についた。
立派な建物がある。事務所、レストハウス(エアコン付きの部屋もある)、出土品陳列館。砂漠の土くれのような家を見なれた目には、驚きだ。
もっと驚きは、遺跡そのものだった。
一 家屋はすべてレンガ造りで、非常に強固に造られている。ことに土台は、素焼の土球や土レンガで固めてある。二階、三階建も多い。ほとんどの家に浴室があり、井戸がある。これらの整然と並んだ家並をぬって、約10m幅のメインストリートが、市街を東西、南北に貫き、さらに4〜5mの道路が縦横に走る。道はレンガで舗装されている。ー
この道にそって下水溝があり、家々からは、土管を伝って下水が流れ込むようにしてある.公衆浴場は、水泳競技ができる位の大きな長円形である。上手の井戸で水をくむと、土管を通って水が浴場に入る仕組になっている。混浴であったとガイドはいった。一時間ばかり、あちこち見て回ったら、熱さに目がくらみそうになった。レストハウスで昼食とする。
安田が「チキンカリー、チャワール、ジャルディー、ティケー(チキンカレー、飯、大急ぎ、分ったか」とオーダーしている。彼、だいぶふんぱつしたようだ。パキスタンでは、肉のうちでは、ニワトリが最も高く、羊の三倍位するのだ。
コックが、ニワトリを追い回している。庖丁を持って追いかけられては、ニワトリとて必死だ。
その間に、私たちは本日第一回目のナハーナ(水浴び)を行なう。機会あるごとに、水をかぶるのが、砂漠旅行の秘訣だ。肌着もついでに洗う。そのまま着ていれば、直ぐ乾いてしまう。
ここのツーリストビューローのオフィサーが観光案内の本と、ポスターを三十枚も持ってあいさつにきた。私たちも『山渓カラーガイド一京都』を贈る。この本には、英語で〈友情と共に、京都カラコルムクラブ〉と墨で書いた和紙がはってある。
昨日の経験で、日中走ることは、消耗以外の何物でもないことが分った。夕方までここで仮眠することにする。
ベッドに横たわり、空ろな頭で、先程見た遺跡のことを考えた一。
モヘンジョダロ。インダス文化の中心。紀元前二千年の昔にあれほどの都市。強力な都市計画。壮大な規模だ。それに、道路の角には、たしかポリスの詰所まであった。
この熱さの中で、人々はどうやってあんな都市を築き得たのか・・・。まったく信じられない。きっと地球は今より冷たかったんだ?
人々は、その時すでに文字を知っていた(インダス文字とよばれる未解読文字)。うわぐすりをつけた陶器も作った。一体全体、これはどうしたことなのだ。今から四千年も昔に、これほどの文化をもった都市が存在した。
そして四千年経った今。この遺跡から何キロも離れない所には、土くれで固めた家に、数個のアルミ茶碗しかない人間が生活している。一体どういうことなのだ。
四〇〇〇年! この間、自らを偉大と呼ぶ人類は何をしていたのだ。これが文化の不連続とか、文明の断絶で片づけられる問題なのだろうか。
熱さのせいか、耳鳴りが、頭全体にひびいている。頭が変になったのか。
六時。日が傾いた。
私たちはジープに乗り込み、ほとんど休みなく、翌日の明け方四時半まで走った。そして二時間の仮眠の後、今度は正午まで走り、ウチという村のレストハウスで、夕方まで眠った。
大体このように、夜明け前の数時間の仮眠と、午後の睡眠というぐあいにして、ジープは北上を続けたのである。
このあいだ、道をはずし、ジープが砂にうずまって立往生したこともあった。好奇心にみちた村人にとりまかれ、荷物をうばわれそうな危険を感じたこともあった。
とにかく、私たち三名は無事に、七月二日十三時十五分、ラワルピンディーの街に走り込んだ。
五日間の砂漠の旅は終わった。ジープのメーターは、カラチより一八三四キロの走行を示していた。
ちょうどこの日の夕刻、空路ピンディ一についた関田と合流。ここに、調査隊は全員顔をそろえた。ホテル・カムランの一室で、関田が運んできた菜の花漬をつまみに、私たちはナポレオンで祝杯をあげた。そして次のプランをねった。
十時ごろから、暑さが厳しくなった。そして、正午を過ぎると、それはもう堪えがたいという感じになった。
まわりから、熱気が、ガーンとしめつけてくるようで、それをはねのけるために、最大限の気力をふりしぼらねばならない。
ジープは、まさに走るオーブンだ。
道は、地平に一直線に消え、視野いっぱいに、かげろうがもえ立っている。
十一時に小さな村を見たが、それからは家影も見えず、この熱線を避ける場所もない。私たちは、ただ突走るしかないのだ。
そんな時、ふと自分を観察する。姿勢は前かがみになり、ハンドルに両肘をのせんばかりだ。ロが開いている。舌がだらりと下り、顔の筋肉は、完全に脱力している。こんな顔をどっかで見たことがある。そうだ、これはディラン隊の荷物を陸送した、アクバルの顔だ。あの時、夜、ピンディーの町をこの顔で運転する彼を見て、私は、こいつ大口あけて馬鹿じゃないかと思ったものだ。だが、何度も暑い所を走るうちに、この顔が、習慣となったらしい。
気をつけて見ると、安田も、まったく同じ顔で同じ姿勢になっている。してみると、これは砂漠の運転姿勢なのだろう。
それにしても、この熱さを何と表現したらよいだろう。これはまったく、暑いのではなく、熱いのだ。
ある在留邦人は、パキスタンの熟さを、次のように表現した。〈まわりに十個の赤外線ヒーターを置き、十個のスポットライトで照らされた感じ〉。だが、これでも充分な表現とはいえない。
中村が、時々壷から水をくんで、渡してくれる。
この水の温度、二九度C。これでも結構冷たいと感じる。ジープの室内気温四三度Cより、十四度Cも低いのだ。この秘密は、素焼の壷にある。にじみでた水が、どんどん蒸発して、壷全体を冷やすのだ。この、たかが二百円ほどの壷が、これほどの偉力をもつとは知らなかった。
砂漠の調査活動
午後一時、ようやく前方に、ポチリと家が見えてきた。トラックが止っている。ありがたい。やっとこの熱さをのがれることができる。そう思ったのは、とんだ早合点だった。
この土造りの家の中も、四四度C。深呼吸すると、胸の中まで熱くなる。ただ、火ぶくれのできそうな熱気が、直接にあたらないのはありがたい。
木の枠に、麻なわを編んだ網をはったベッドが三つ。あばた面のトラックの運チャンが、起きあがり、ベッドをすすめてくれる。(パキスタンには、天然痘によるあばた面が多い)
「サーブ、カハンセ、アーヤータ(旦那、どこからいらした)」
「カラチセ(カラチから)」
「アープ、キスムルクカ、アドミーハイン(あなた、どこの国の人でか)」
「ジャパニーヘー(日本人だ)」
「アッチャー(へェー)」
この運チャン、きれいなウルドーで、敬語まで知っている。あとの二人の助手は駄目らしい。彼は少々得意なんだろう。「サーブ。キャカーム、カルナーチャーテーハイン(どんな仕事をなさるつもりか)」
しきりに話しかけてくるが、こっちは、熱さでぐったりして、しゃべる気にもならない。
この店の主人が運んできた、パキスタニーチャエ(ミルクでたきだした紅茶)をのんだら、少々元気が出てきた。
安田は、この熱さの中を、戸外で化石を探している。アンモン貝ばかりで、大したものはなかったそうだ。
戸外気温を、影がないので、掌で影を作って測定したら、いつまでも昇りつづけ、五六度Cになつた時、目がくらんできたので止めにした。まだ昇りそうだったという。
中村は、子供の体力測定を始めている。この熱さでは、50m走をやらすわけにもいくまい。安田も一緒で、ヘルスメーターを取り出して、体重測定を始めた。ウルドーの苦手な中村は、大奮闘である。
身長、胸囲、座高、手首囲などを測り、ジャンプ測定までやったのは立派だ。
私も負けずに、調査開始だ。
「名前は」そばの大人が「プンヌン」と答える。
「年令は」「ウーン」と考えこむ。そばから、大人が「十四歳」別の男が「十五歳」
私はしかりつける。
「お前たちに聞いておるのではない。この少年に聞いておるのだ。お前たちはだまっておれ」
学校に行っているか。
どうして行かないのか。
大人になったらどんな職業につきたいか。
父親と母親とどちらが好きか。 等々の設定しておいた質問をつづけて行く。
「世界で一番偉い人は、誰だと思うか」
またしても、そばの大人どもが、
「そりあ、村長だ」
今度は、大人向きの調査だ。一〇枚の女の写真(これはJALのカレンダーを写真にとったもの。大体各国の女性を網羅している)を取り出す。
この中で、一番いいと思うのはどれか、それを取り出せといって、さらにその次はという具合に三番目までを選ばせる。最後に、最もよくないのを示させるものだ。
彼らは、大喜びだ。
ダークバンガローのある、メーハルまでは二百キロ以上ある。調査はこれ位にして、先を急がねばならない。
二時半、私たちは再び、灼熱の大地に走り出た。
暗い家−ダークバンガロー
メーハルのレストハウスにたどりついた時、三人は、まったく気息えんえんの状態だった。途中で道が分らなくなり、だいぶ苦労した。このあたりは、シンディ(シンド語)の領域で、道も満足に聞き出せないのだ。
何度も「トゥム、ウルドージャンテーホ(君、ウルドーがしゃべれるか)」と呼びかけても、手を横に振る者がほとんどだった。
ようやくレストハウスの一室で、ベッドに腰をおろしたのは、夜の十時に近かった。
チョキダール(番人)に水を運ばせ、砂だらけの身体を洗う。タルカムを振りかけると、少々すがすがしくなった。
ところが、安田は身体を洗うのを止めにした。田圃の水のような泥水なので、おぞ気をふるったのだ。その結果、彼の身体は、一面のあせもにおおわれることになった。
それにしても、レストハウスはありがたい。パキスタンには、どんなへんぴな地域にもレストハウスがある。これを利用できねば、パキスタンの辺地旅行は無理だといってよい。
これは、イギリス植民地時代からのもので、役人らが旅行して、宿泊するためのものである。部屋は、やたらに天井が高く、小さな窓があり、冬寒い地方では、暖房用に暖炉がついている。
建物は、土蔵のような造りである(熱をさえぎる生活の知恵か)。レストハウスが、ダークバンガローと呼ぼれるのは、イギリス官吏がそうよんだのではないかと思う。
レストハウスにはチョキダールとコックがいる。一人二役の場合もある。炊事、洗濯、何でもいいつければ、彼らがやってくれる。
排泄に関しては、少々問題がある。これはバスルームでやる。バスルームといっても、大きいばかり(大体四〜五畳)のガランとした部屋である。普通は、次のものが置いてある。
水浴(ナハーナ)用の金だらい。水をくんで身体にかけるための把手のついた水さし。すのこ板。それに、おまるの入った、大きな黒ぬりの箱。
この箱のふたをめくると、直径二十センチばかりの円筒形で、ホーロー引きのおまるがはめ込まれている。この上にのって、しやがんで用を足す。小さい方のときも同様だ(パキスタン人は、大小とも同じ姿勢をとる)。済んだら、外の方のドアの鍵をはずしておかねばならない。
すると、間もなく、そこから入ってきたチョキダールが、おまるを運び去るという寸法だ。
チヨキダールが気づかない時は、命じて直ぐに運び去らせる。ところが、これが仲々大変だ。どうしてもいい出せず、あふれそうになったおまるが、部屋中に臭気を充満させるということになる。
大体、自分のオヤジ位の年恰好の男を、アゴで使うということ自体、日本人にとっては、抵抗を感じることなのだ。
ましてや、自分のウンコやオシッコを持ち去れなどと命じることは、いくらパキスタンに慣れてきても、やはり気遅れするのは事実だ。
ある日本人旅行者がいた。彼らは、自分で水浴の水を運び、ウンコも自分で始末した。その結果はどうだったか。彼らは、感謝されるどころか、チョキダールの軽蔑を買っただけだった。
郷に入っては郷に従うことは、私たちにとって一つの技術といえそうだ。
夜半を過ぎても、暑さは一向に衰えない。私たちは、外で寝ることに決めた。ベッドを外に運ばせ、蚊帳を吊った。この蚊帳は、私の妻が嫁入道具でもってきたものだ。ふと日本のことを思った。
月が中天にかかっている。
モヘンジョダロ見物
七時半にレストハウスを出発。モヘンジョダロには十時半についた。
立派な建物がある。事務所、レストハウス(エアコン付きの部屋もある)、出土品陳列館。砂漠の土くれのような家を見なれた目には、驚きだ。
もっと驚きは、遺跡そのものだった。
一 家屋はすべてレンガ造りで、非常に強固に造られている。ことに土台は、素焼の土球や土レンガで固めてある。二階、三階建も多い。ほとんどの家に浴室があり、井戸がある。これらの整然と並んだ家並をぬって、約10m幅のメインストリートが、市街を東西、南北に貫き、さらに4〜5mの道路が縦横に走る。道はレンガで舗装されている。ー
この道にそって下水溝があり、家々からは、土管を伝って下水が流れ込むようにしてある.公衆浴場は、水泳競技ができる位の大きな長円形である。上手の井戸で水をくむと、土管を通って水が浴場に入る仕組になっている。混浴であったとガイドはいった。一時間ばかり、あちこち見て回ったら、熱さに目がくらみそうになった。レストハウスで昼食とする。
安田が「チキンカリー、チャワール、ジャルディー、ティケー(チキンカレー、飯、大急ぎ、分ったか」とオーダーしている。彼、だいぶふんぱつしたようだ。パキスタンでは、肉のうちでは、ニワトリが最も高く、羊の三倍位するのだ。
コックが、ニワトリを追い回している。庖丁を持って追いかけられては、ニワトリとて必死だ。
その間に、私たちは本日第一回目のナハーナ(水浴び)を行なう。機会あるごとに、水をかぶるのが、砂漠旅行の秘訣だ。肌着もついでに洗う。そのまま着ていれば、直ぐ乾いてしまう。
ここのツーリストビューローのオフィサーが観光案内の本と、ポスターを三十枚も持ってあいさつにきた。私たちも『山渓カラーガイド一京都』を贈る。この本には、英語で〈友情と共に、京都カラコルムクラブ〉と墨で書いた和紙がはってある。
昨日の経験で、日中走ることは、消耗以外の何物でもないことが分った。夕方までここで仮眠することにする。
ベッドに横たわり、空ろな頭で、先程見た遺跡のことを考えた一。
モヘンジョダロ。インダス文化の中心。紀元前二千年の昔にあれほどの都市。強力な都市計画。壮大な規模だ。それに、道路の角には、たしかポリスの詰所まであった。
この熱さの中で、人々はどうやってあんな都市を築き得たのか・・・。まったく信じられない。きっと地球は今より冷たかったんだ?
人々は、その時すでに文字を知っていた(インダス文字とよばれる未解読文字)。うわぐすりをつけた陶器も作った。一体全体、これはどうしたことなのだ。今から四千年も昔に、これほどの文化をもった都市が存在した。
そして四千年経った今。この遺跡から何キロも離れない所には、土くれで固めた家に、数個のアルミ茶碗しかない人間が生活している。一体どういうことなのだ。
四〇〇〇年! この間、自らを偉大と呼ぶ人類は何をしていたのだ。これが文化の不連続とか、文明の断絶で片づけられる問題なのだろうか。
熱さのせいか、耳鳴りが、頭全体にひびいている。頭が変になったのか。
六時。日が傾いた。
私たちはジープに乗り込み、ほとんど休みなく、翌日の明け方四時半まで走った。そして二時間の仮眠の後、今度は正午まで走り、ウチという村のレストハウスで、夕方まで眠った。
大体このように、夜明け前の数時間の仮眠と、午後の睡眠というぐあいにして、ジープは北上を続けたのである。
このあいだ、道をはずし、ジープが砂にうずまって立往生したこともあった。好奇心にみちた村人にとりまかれ、荷物をうばわれそうな危険を感じたこともあった。
とにかく、私たち三名は無事に、七月二日十三時十五分、ラワルピンディーの街に走り込んだ。
五日間の砂漠の旅は終わった。ジープのメーターは、カラチより一八三四キロの走行を示していた。
ちょうどこの日の夕刻、空路ピンディ一についた関田と合流。ここに、調査隊は全員顔をそろえた。ホテル・カムランの一室で、関田が運んできた菜の花漬をつまみに、私たちはナポレオンで祝杯をあげた。そして次のプランをねった。