西パキスタンの旅 第5話「ギルギットへの突入−−その2−−」
マリーの優雅な生活
インダスルートへの出発準備は、今や、すべて整ったかに見えた。しかし一つ落度があった。一六ミリ撮影担当の関田が、ゼラチンフィルターがないのに気づいた。松竹KKからいただいたコダック・フィルムには、是非必要だという。
京都から急送されてくる、フィルターを待つ間、マリー(Murree)へ行こうということになった。マリーへ行って、ガバメントカレッジや高校を見学したいといけない。それに、その間に、トレッキングの許可がおりるかも知れん。勝手な理由をつけてはいたが、要は、この暑さから、逃げだしたかっただけだ。
マリーは高級避暑地である。新首都イスラマバードより60km2300mの高さにある。とても涼しい。ピンディーの暑さが嘘のようだ。各国大使館の別荘が松の斜面に、点々と立ち並んでいる。
私たちのいる日本のそれは、斜面に階段状に建っている。石造りで、お城のような建物だ。とにかく、私たち四人にほ広すぎる。
チョキダールの、ナムライとサイードの二人が、こまごまと世話をやいてくれる。
マリーの一日は、乗馬から始まる!。
「馬がきました」サイードが起こしにくる。紅茶をのんでから、朝の乗馬(一時間一〇ルピー。良くなれた馬で、まったく危険はない)。一時間の乗馬を終えて、シャワーをあびてから朝食だ。食器は、紅茶茶碗にいたるまで、すべて金色の国章入り。
食後のお茶を、ベランダで飲んでいると、下の道を通る女の子が、手を振って笑いかけてくる。まったく驚いてしまう。ここはパキスタンでないみたいだ。
松の樹林の聞から、ジャンム・カシミールの山が、白く光っている。適度に湿った、すがすがしい空気を胸一杯に吹い込む。そして、私は、カシミール問題が、何となくわかったような気になる。つまり、印・パが、カシミールを必死に取りあってゆずらないのは、無理もないことだ。こういう素晴らしい場所は、どっちの国にとっても、まったくかけがえのない、宝石みたいなものなんだろう…‥・。
こういう、わかったようなわからんような一人合点と同時に、何かうしろめたい、罪の意識みたいなものが、チラリと私の心をよぎる。(私たちは、こんなことをしていていいのだろうか……)。
そこで、私は関田と一緒に、学校見学にでかける。中村は手紙書き。安田は、夕食の材料を仕入れに行くナムライと一緒に、バザールに行くという。バザールに行けば、アッチーラルキー(良い娘)がうんといる。マリーにくるのは上級階級だから、ブルカなしの女性が多いのだ。
昼寝をすませて私は京都への隊連絡を書く。窓から見ると、関田が庭で石垣をにらんでいる。トカゲを採集しているらしい。
夕食後、居間で雑談。中村が、荷物袋をゴソゴソやって、テープレコーダーを取り出した。サイードのウルドーソングを取るつもりだ。安田は、地図を拡げて、スワートの登山ルートを検討している。関田は、ウィスキーをなめていたかと思うと、外に出て、蛾の採集を始めた。
べつに誰に指図されるでもなく、四人がまったく四様に動いている。本当に良いことだ。最初は、こういう具合にはいかなかった。
各人が、自分の判断で、臨機応変に動けるということは、私たちの隊に必要なことだ。こういう意味で、今や私たちは、これからの行動に向かうスタートラインに、しっかりと立っている。
マリーでの四日間の後、七月十二日、私たちは、いよいよインダスルートへ向かった。
眼下にインダスの流れが見えた。
ピンディーを発って三日目だ。ピンディーを走り出て、ジープはスワートへの道を進んだ。途中で方向を変え、スワート河とインダス河を分ける、分水嶺山脈の峠を越えた。峠のゲートは、都合良く開いていた。そして、ようやく今、私たちはインダスルートにはいろうとしている。
私たちが、パキスタンで入手した、二つの地図には、インダス道路はまったく記入されていなかった。ピンディーで情報を集めた末、前記のコースを取った。ただちにインダスぞいの道をとらずに、スワートロードへ迂回したのは、ゲート(検問所)を避けるためだった。しかし、これからはもう迂回することはできない。
ゲートが見えてきた。丸太が、はねつるべのように、道をふさいでいる。傍に小屋が二つ。人影はない。さあ、いよいよ″安宅ノ関″だ。予想していたほどの緊張感はない。しかし、下手をすれば、スパイ容疑でつかまらないとはいえない。
車を止めると小屋から兵隊が二人出てきた。鉄砲はもってこない。少々安心する。
私は大いばりで、兵隊にどなった。「コ一ロー!(開けろ)ギルギットタク、ジャーナーハイ(ギルギットまで行くんだ)」「パルミッション?(許可証)」と衛兵はきく。待ってました。私は例の書状を取り出した。
番兵に連れられて、私は小屋にはいった。中にいるボスが、どこかに電話して、例の手紙を何度も読み上げている。読めるからには、意味もわかるにちがいない。
こうなったら、もう逃げだす訳にもいかぬ。私は腹をすえて、ふんぞり返った。
いつのまに持ちだしたのか、安田が、八ッ橋を兵隊にくばっている。六人ばかりの兵隊共は、おっかなびっくり、ポリリとかじって、アッチャー(うまい)などといっている。
関田は、捕虫網で蝶を追っている。神様以外なら、誰が見ても、私たちが、このゲートを通れると確信している、と思っただろう。
やがて、ゲートは開いた。「やったぞ」、私たちは、こおどりして、インダス道路を突き進んだ。
ホッとすると同時に、どっと汗がふき出した。二〇分ほど走ったとき、小さな流れが道をよぎっている。ここで水浴することにした。考えてみると、この二日間、身体を洗っていない。
インダスルートは、右岸を通っている。なるほど立派な道だ。これならダンプカーでも通れる。
ー二時五分。ディビアル村につく。インダス峡谷の大斜面にはりついたような、二五戸ほどの部落だ。すぐ先に、大きな谷が出合っていて、つり橋がかかっている。橋の上から下を見ると、激流が真白に岩をかんで、インダス河への落口は、はるか下である。この谷の上流にも村があるという。
ここで昼食。チャパティ、サブジーカレー(野菜のカレー)、いり玉子を注文する。チャパティに砂がまざっていて、ジャリジャリする。あまり流れが激しいので、水に砂がまざるのだろう。
雨がぱらつきだした。急いで出発。
どれ位走ったろう。私は、ぐつすり眠り込んでしまったらしい。横の安田にゆり起こされた。関田が、バックミラーをのぞきながら、「ジープがついてきよる。さっき、すれ違ったばかりのやつや」。なるほど、うしろから、ピカピカのジープが追尾してくる。
関田が、スピードを落として山側へ寄せると、ジープは激しくクラクションをならしながら追い越し、前方にピタリと止まった。
かなり激しく雨がふっている。
中村が、後部座席の荷物の上から、「カメラ、カメラ」と小さく叫ぶ。前には二台の一眼レフ。うしろにも、二台のボックスカメラが出ている。車をのぞきこまれて、これが見つかってはまずい。
前のジープから軍人がおり立つのを見て、私は、「早く隠せ」といい捨てると、急いで雨の中にとび出した。(この項つづく)
インダスルートへの出発準備は、今や、すべて整ったかに見えた。しかし一つ落度があった。一六ミリ撮影担当の関田が、ゼラチンフィルターがないのに気づいた。松竹KKからいただいたコダック・フィルムには、是非必要だという。
京都から急送されてくる、フィルターを待つ間、マリー(Murree)へ行こうということになった。マリーへ行って、ガバメントカレッジや高校を見学したいといけない。それに、その間に、トレッキングの許可がおりるかも知れん。勝手な理由をつけてはいたが、要は、この暑さから、逃げだしたかっただけだ。
マリーは高級避暑地である。新首都イスラマバードより60km2300mの高さにある。とても涼しい。ピンディーの暑さが嘘のようだ。各国大使館の別荘が松の斜面に、点々と立ち並んでいる。
私たちのいる日本のそれは、斜面に階段状に建っている。石造りで、お城のような建物だ。とにかく、私たち四人にほ広すぎる。
チョキダールの、ナムライとサイードの二人が、こまごまと世話をやいてくれる。
マリーの一日は、乗馬から始まる!。
「馬がきました」サイードが起こしにくる。紅茶をのんでから、朝の乗馬(一時間一〇ルピー。良くなれた馬で、まったく危険はない)。一時間の乗馬を終えて、シャワーをあびてから朝食だ。食器は、紅茶茶碗にいたるまで、すべて金色の国章入り。
食後のお茶を、ベランダで飲んでいると、下の道を通る女の子が、手を振って笑いかけてくる。まったく驚いてしまう。ここはパキスタンでないみたいだ。
松の樹林の聞から、ジャンム・カシミールの山が、白く光っている。適度に湿った、すがすがしい空気を胸一杯に吹い込む。そして、私は、カシミール問題が、何となくわかったような気になる。つまり、印・パが、カシミールを必死に取りあってゆずらないのは、無理もないことだ。こういう素晴らしい場所は、どっちの国にとっても、まったくかけがえのない、宝石みたいなものなんだろう…‥・。
こういう、わかったようなわからんような一人合点と同時に、何かうしろめたい、罪の意識みたいなものが、チラリと私の心をよぎる。(私たちは、こんなことをしていていいのだろうか……)。
そこで、私は関田と一緒に、学校見学にでかける。中村は手紙書き。安田は、夕食の材料を仕入れに行くナムライと一緒に、バザールに行くという。バザールに行けば、アッチーラルキー(良い娘)がうんといる。マリーにくるのは上級階級だから、ブルカなしの女性が多いのだ。
昼寝をすませて私は京都への隊連絡を書く。窓から見ると、関田が庭で石垣をにらんでいる。トカゲを採集しているらしい。
夕食後、居間で雑談。中村が、荷物袋をゴソゴソやって、テープレコーダーを取り出した。サイードのウルドーソングを取るつもりだ。安田は、地図を拡げて、スワートの登山ルートを検討している。関田は、ウィスキーをなめていたかと思うと、外に出て、蛾の採集を始めた。
べつに誰に指図されるでもなく、四人がまったく四様に動いている。本当に良いことだ。最初は、こういう具合にはいかなかった。
各人が、自分の判断で、臨機応変に動けるということは、私たちの隊に必要なことだ。こういう意味で、今や私たちは、これからの行動に向かうスタートラインに、しっかりと立っている。
マリーでの四日間の後、七月十二日、私たちは、いよいよインダスルートへ向かった。
眼下にインダスの流れが見えた。
ピンディーを発って三日目だ。ピンディーを走り出て、ジープはスワートへの道を進んだ。途中で方向を変え、スワート河とインダス河を分ける、分水嶺山脈の峠を越えた。峠のゲートは、都合良く開いていた。そして、ようやく今、私たちはインダスルートにはいろうとしている。
私たちが、パキスタンで入手した、二つの地図には、インダス道路はまったく記入されていなかった。ピンディーで情報を集めた末、前記のコースを取った。ただちにインダスぞいの道をとらずに、スワートロードへ迂回したのは、ゲート(検問所)を避けるためだった。しかし、これからはもう迂回することはできない。
ゲートが見えてきた。丸太が、はねつるべのように、道をふさいでいる。傍に小屋が二つ。人影はない。さあ、いよいよ″安宅ノ関″だ。予想していたほどの緊張感はない。しかし、下手をすれば、スパイ容疑でつかまらないとはいえない。
車を止めると小屋から兵隊が二人出てきた。鉄砲はもってこない。少々安心する。
私は大いばりで、兵隊にどなった。「コ一ロー!(開けろ)ギルギットタク、ジャーナーハイ(ギルギットまで行くんだ)」「パルミッション?(許可証)」と衛兵はきく。待ってました。私は例の書状を取り出した。
番兵に連れられて、私は小屋にはいった。中にいるボスが、どこかに電話して、例の手紙を何度も読み上げている。読めるからには、意味もわかるにちがいない。
こうなったら、もう逃げだす訳にもいかぬ。私は腹をすえて、ふんぞり返った。
いつのまに持ちだしたのか、安田が、八ッ橋を兵隊にくばっている。六人ばかりの兵隊共は、おっかなびっくり、ポリリとかじって、アッチャー(うまい)などといっている。
関田は、捕虫網で蝶を追っている。神様以外なら、誰が見ても、私たちが、このゲートを通れると確信している、と思っただろう。
やがて、ゲートは開いた。「やったぞ」、私たちは、こおどりして、インダス道路を突き進んだ。
ホッとすると同時に、どっと汗がふき出した。二〇分ほど走ったとき、小さな流れが道をよぎっている。ここで水浴することにした。考えてみると、この二日間、身体を洗っていない。
インダスルートは、右岸を通っている。なるほど立派な道だ。これならダンプカーでも通れる。
ー二時五分。ディビアル村につく。インダス峡谷の大斜面にはりついたような、二五戸ほどの部落だ。すぐ先に、大きな谷が出合っていて、つり橋がかかっている。橋の上から下を見ると、激流が真白に岩をかんで、インダス河への落口は、はるか下である。この谷の上流にも村があるという。
ここで昼食。チャパティ、サブジーカレー(野菜のカレー)、いり玉子を注文する。チャパティに砂がまざっていて、ジャリジャリする。あまり流れが激しいので、水に砂がまざるのだろう。
雨がぱらつきだした。急いで出発。
どれ位走ったろう。私は、ぐつすり眠り込んでしまったらしい。横の安田にゆり起こされた。関田が、バックミラーをのぞきながら、「ジープがついてきよる。さっき、すれ違ったばかりのやつや」。なるほど、うしろから、ピカピカのジープが追尾してくる。
関田が、スピードを落として山側へ寄せると、ジープは激しくクラクションをならしながら追い越し、前方にピタリと止まった。
かなり激しく雨がふっている。
中村が、後部座席の荷物の上から、「カメラ、カメラ」と小さく叫ぶ。前には二台の一眼レフ。うしろにも、二台のボックスカメラが出ている。車をのぞきこまれて、これが見つかってはまずい。
前のジープから軍人がおり立つのを見て、私は、「早く隠せ」といい捨てると、急いで雨の中にとび出した。(この項つづく)