西パキスタンの旅 第7話「ギルギットへの突入−−その4−−」
進むべきか戻るべきか?
しゃにむに飛び出した私たちであったが、うしろが気になってしかたがない。また、追いかけられるのではないだろうか。
パタン村をはずれると、急に道が悪くなった。車は、垂壁をえぐった道を進む。
前方に白い頂の山が見えてきた。5000m近くあるだろう。小さな懸垂氷河がはりついている。それでも、パキスタンにきて初めて見る氷河だ。私たちは、車を止めて、しばし眺め入った。
三〇分も走ると、大きな支谷がはいってくる。橋のたもとに、トラックが二台。番兵が手で合図して車を止めた。
「今、下から電話があった。上流で道が決壊して車が通れない。あなた方はいったんパタンに引返し今夜はそこに泊まってほしいとのことです」
「道はいつなおるのか?」
「明日は通れるでしょう」
止まっているトラックは、引返してきたものらしい。念のためだ。私はトラックの運チャンに確かめる。
道がつぶれたのは事実らしい。今日の雨のためだ。だが、運チャンはこういったのだ。
「トラックは無理だが、土がくずれただけだから、このジープなら通れるよ」
どうしたもんだろうか。私たちは、額をよせて相談した。
進むべきか? 戻るべきか? 電話を無視して突走ることは可能だろう。しかし、かりに彼らが私たちに、何らかの疑いを持っているとしたら……。突走ったら…。彼らの疑いは確信とかわり、どういう豹変があるか分らない。やはりこの際、電話はあくまで、善意のものと受けとったふうをよそおうべきだ。こういう結論を得た。「明日は行けます。明日会いましょう」工兵の言葉を背に、私たちはUターンした。
谷間には、すでに夕もやが立ちこめている。私たちは黙り込んでいた。
何となくガックリするような落胆と、一方では、たたりものが落ちたような安堵の入りまじった、複雑な気持であった。
パタンに帰りついても誰もあらわれない。ベアラーに呼ばれて、目玉と二人の士官がでてきた。そして、目玉のいった言葉を開いて、私たちはまったくポカンとなった。
「どうしたのだ。なぜ戻ってきたのだ」
冗談じゃない。電話があったというから戻ってきたのだ。ところが、目玉はわれわれは誰もそんな電話はしていないというのだ。
「変だなあ」呆気にとられて私がいうと、目玉は
「アジーブヘーナァー」と口うつしにいって、喉の輿でクックッと笑った。
畜生!計られた! 私は反射的にそう思った。
もう夕闇があたりをつつんでいる。今から出発する気はない。けれども頭にきた私は「それでは、再度出発することにする」と言明した。
奴らはまたまた止めにかかった。
今回は目玉でない、もう一人の士官がよくしやべる。西部劇に登場するような顔の男だ。私がそういうと、
「俺はギリシャ人に似ているそうだ。以前ドイツに留学していたとき、よくそういわれた。ヨ一ロッパ中旅行して、そこら中に恋人ができた。次は日本に行く。日本の恋人を作るんだ」ベラベラとまくし立てる。でも目玉のようた陰険さはない。ほがらかで親しみが持てる。
「それほどいうなら、今夜はここに泊めてもらおう。明日ギルギットへ向かう」
「なぜそんなにギルギットヘ行きたいのだ。俺も昨日ギルギットから帰ってきたばかりだが、あそこは、砂ぼこりと、岩だけじゃないか、ほかに何がある。何にもないじゃないか。まったく頭にくるところだ」私だって頭にきている。
「理由なぞない。今となっては、ともかくギルギットへ進む。私たちは一度やろうとしたことは、簡単にはあきらめない。たとえ一パーセントの可能性しかなくても、可能性がある限り試みる積りだ」
すると彼は大きくうなずき、
「そうだ。その通りだ。私も兵学校でそう教わった。君は勇敢な男だ。僕の友だちだ。日本人は勇敢だと聞いていたが、なるほど本当だ」
こいつ調子のいいことをいって俺たちをなぶってやがる、と思いながら聞いていると、彼は一段声を落としてつづけた。
「でも君、もし、かりにだよ、君たちがギルギットまで行けたとして、それからどうする。二度と帰ってはこれないぞ」
彼は何をいわんとしているのだろう。私の頭は混乱する。
「しかし、アヌワーサーブはギルギットに行けるといったぞ」
「それは、コマンダーは君たちが好きなのだ。彼は君たちの感情を傷つけまいとしてそういったのだ」
と、目玉が横から口をはさんだ。
「コマンダーは、本当は行ってほしくないのだ。かりに彼が行かせたとしても、この上には、別の部隊がたくさんいる。そこを通ることは、まったく不可能なのだ」
You Can go down
アヌワーが、細身のステッキをついて、夕食にやってきた。三人の士官は直立不動となる。そしてもう一言もしゃべらない。
電話についてたずねると、「私はそんな電話はしない。多分下のゲートのものが、気をきかせてしたことではないか」
やはり電話については何にも分らない。一体どういうことなんだ。ともかく私はいった。
「明日、道はなおるそうだ。明朝出発するつもりだ」私がいうと、彼は困惑の表情でいった。
「実は、先月、アメリカのアベックが、ジープでインダスルートへきた。彼らは下のゲートで追い返された。君たちは、ずっと通れた。ここまできた外国人はいないのだ」
やはり、彼は進んでほしくないのだ。彼の表情を見て、これ以上いう気になれなかった。私は話題を変え、ディラン隊のリエゾンオフィサーであった、サファラズ大尉について話した。私たち二人は本当に親しい友であった。彼は気の毒に、印パ戦争で死んだらしい。
「彼は死んではいない。彼は生きている。嘘ではない。彼は第二の生を生きているのだ。現に、君の心にも生きているではないか」そして、アヌワーの話は延々とつづき、ついに宗教に話がおよぶと、もう私たち平均的日本人は完全にお手あげだ。
適当に受け流していると、アヌワーは話題を変えて質問する。「日本は将来、どこかの国と戦うことがあると思うか」
さあ困った。何とか答を作らねばならない。私もエコノミック・アニマルといわれる日本人の一人には違いない。私は答えた。
「戦って得をする戦争なら日本はやるかも知れぬ。だが、現代、得をする戦争なぞあり得ない。従って、日本が戦争することはまずあり得ない」
アヌワーはこの答に不服そうだ。ところが、目玉が大きくうなずいて、同感を示したのは意外だった。
すぐに次の質問がくる。「日本は共産主義化すると思うか」…。こんな調子で、散々苦しめられ、ようやく釈放されたのは、一二時近かった。
翌朝、食堂で目玉焼とプラター(油でいためたチャパティ)の朝食をとり、私たちは一段下の師団本部に向かった。そうするように、早朝指示があったからだ。
ところが、ジープが動かない。どうやら、数日前から不調だった燃料ポンプの計器がこわれたらしい。軍のメカニックに任すことにする。
本部では、一人のオフィサーによって、私に最後通告がなされた。(我々は、君達がギルギットに向かうことを許すことはできない)
別に驚かなかった。アヌワーのいった通り、ここまでこれただけでも、めっけものだ。
間もなく、ジープの修理が完了した。
私はアヌワーと握手した。彼は私の目をのぞくようにして、
「You Can go」といった。
私は笑いながら「Up?」と返した。
彼は、ほほえんで「Down」と答えた。
パタンの村は、みるみるあとになった。私たちは、この二日間にめまぐるしく起こった事件を語り合った。そして、さまざまのIf-storyをこしらえたり、事件の推測を試みて、楽しんだ。特に電話事件は、まったくの謎だった。永久の謎だろう。私たちの謎ときは今はもう、一つのゲームに過ぎなかった。そして私たちの心は、今や、まだ見ぬスワートの氷の峰に飛んでいた。(つづく)
しゃにむに飛び出した私たちであったが、うしろが気になってしかたがない。また、追いかけられるのではないだろうか。
パタン村をはずれると、急に道が悪くなった。車は、垂壁をえぐった道を進む。
前方に白い頂の山が見えてきた。5000m近くあるだろう。小さな懸垂氷河がはりついている。それでも、パキスタンにきて初めて見る氷河だ。私たちは、車を止めて、しばし眺め入った。
三〇分も走ると、大きな支谷がはいってくる。橋のたもとに、トラックが二台。番兵が手で合図して車を止めた。
「今、下から電話があった。上流で道が決壊して車が通れない。あなた方はいったんパタンに引返し今夜はそこに泊まってほしいとのことです」
「道はいつなおるのか?」
「明日は通れるでしょう」
止まっているトラックは、引返してきたものらしい。念のためだ。私はトラックの運チャンに確かめる。
道がつぶれたのは事実らしい。今日の雨のためだ。だが、運チャンはこういったのだ。
「トラックは無理だが、土がくずれただけだから、このジープなら通れるよ」
どうしたもんだろうか。私たちは、額をよせて相談した。
進むべきか? 戻るべきか? 電話を無視して突走ることは可能だろう。しかし、かりに彼らが私たちに、何らかの疑いを持っているとしたら……。突走ったら…。彼らの疑いは確信とかわり、どういう豹変があるか分らない。やはりこの際、電話はあくまで、善意のものと受けとったふうをよそおうべきだ。こういう結論を得た。「明日は行けます。明日会いましょう」工兵の言葉を背に、私たちはUターンした。
谷間には、すでに夕もやが立ちこめている。私たちは黙り込んでいた。
何となくガックリするような落胆と、一方では、たたりものが落ちたような安堵の入りまじった、複雑な気持であった。
パタンに帰りついても誰もあらわれない。ベアラーに呼ばれて、目玉と二人の士官がでてきた。そして、目玉のいった言葉を開いて、私たちはまったくポカンとなった。
「どうしたのだ。なぜ戻ってきたのだ」
冗談じゃない。電話があったというから戻ってきたのだ。ところが、目玉はわれわれは誰もそんな電話はしていないというのだ。
「変だなあ」呆気にとられて私がいうと、目玉は
「アジーブヘーナァー」と口うつしにいって、喉の輿でクックッと笑った。
畜生!計られた! 私は反射的にそう思った。
もう夕闇があたりをつつんでいる。今から出発する気はない。けれども頭にきた私は「それでは、再度出発することにする」と言明した。
奴らはまたまた止めにかかった。
今回は目玉でない、もう一人の士官がよくしやべる。西部劇に登場するような顔の男だ。私がそういうと、
「俺はギリシャ人に似ているそうだ。以前ドイツに留学していたとき、よくそういわれた。ヨ一ロッパ中旅行して、そこら中に恋人ができた。次は日本に行く。日本の恋人を作るんだ」ベラベラとまくし立てる。でも目玉のようた陰険さはない。ほがらかで親しみが持てる。
「それほどいうなら、今夜はここに泊めてもらおう。明日ギルギットへ向かう」
「なぜそんなにギルギットヘ行きたいのだ。俺も昨日ギルギットから帰ってきたばかりだが、あそこは、砂ぼこりと、岩だけじゃないか、ほかに何がある。何にもないじゃないか。まったく頭にくるところだ」私だって頭にきている。
「理由なぞない。今となっては、ともかくギルギットへ進む。私たちは一度やろうとしたことは、簡単にはあきらめない。たとえ一パーセントの可能性しかなくても、可能性がある限り試みる積りだ」
すると彼は大きくうなずき、
「そうだ。その通りだ。私も兵学校でそう教わった。君は勇敢な男だ。僕の友だちだ。日本人は勇敢だと聞いていたが、なるほど本当だ」
こいつ調子のいいことをいって俺たちをなぶってやがる、と思いながら聞いていると、彼は一段声を落としてつづけた。
「でも君、もし、かりにだよ、君たちがギルギットまで行けたとして、それからどうする。二度と帰ってはこれないぞ」
彼は何をいわんとしているのだろう。私の頭は混乱する。
「しかし、アヌワーサーブはギルギットに行けるといったぞ」
「それは、コマンダーは君たちが好きなのだ。彼は君たちの感情を傷つけまいとしてそういったのだ」
と、目玉が横から口をはさんだ。
「コマンダーは、本当は行ってほしくないのだ。かりに彼が行かせたとしても、この上には、別の部隊がたくさんいる。そこを通ることは、まったく不可能なのだ」
You Can go down
アヌワーが、細身のステッキをついて、夕食にやってきた。三人の士官は直立不動となる。そしてもう一言もしゃべらない。
電話についてたずねると、「私はそんな電話はしない。多分下のゲートのものが、気をきかせてしたことではないか」
やはり電話については何にも分らない。一体どういうことなんだ。ともかく私はいった。
「明日、道はなおるそうだ。明朝出発するつもりだ」私がいうと、彼は困惑の表情でいった。
「実は、先月、アメリカのアベックが、ジープでインダスルートへきた。彼らは下のゲートで追い返された。君たちは、ずっと通れた。ここまできた外国人はいないのだ」
やはり、彼は進んでほしくないのだ。彼の表情を見て、これ以上いう気になれなかった。私は話題を変え、ディラン隊のリエゾンオフィサーであった、サファラズ大尉について話した。私たち二人は本当に親しい友であった。彼は気の毒に、印パ戦争で死んだらしい。
「彼は死んではいない。彼は生きている。嘘ではない。彼は第二の生を生きているのだ。現に、君の心にも生きているではないか」そして、アヌワーの話は延々とつづき、ついに宗教に話がおよぶと、もう私たち平均的日本人は完全にお手あげだ。
適当に受け流していると、アヌワーは話題を変えて質問する。「日本は将来、どこかの国と戦うことがあると思うか」
さあ困った。何とか答を作らねばならない。私もエコノミック・アニマルといわれる日本人の一人には違いない。私は答えた。
「戦って得をする戦争なら日本はやるかも知れぬ。だが、現代、得をする戦争なぞあり得ない。従って、日本が戦争することはまずあり得ない」
アヌワーはこの答に不服そうだ。ところが、目玉が大きくうなずいて、同感を示したのは意外だった。
すぐに次の質問がくる。「日本は共産主義化すると思うか」…。こんな調子で、散々苦しめられ、ようやく釈放されたのは、一二時近かった。
翌朝、食堂で目玉焼とプラター(油でいためたチャパティ)の朝食をとり、私たちは一段下の師団本部に向かった。そうするように、早朝指示があったからだ。
ところが、ジープが動かない。どうやら、数日前から不調だった燃料ポンプの計器がこわれたらしい。軍のメカニックに任すことにする。
本部では、一人のオフィサーによって、私に最後通告がなされた。(我々は、君達がギルギットに向かうことを許すことはできない)
別に驚かなかった。アヌワーのいった通り、ここまでこれただけでも、めっけものだ。
間もなく、ジープの修理が完了した。
私はアヌワーと握手した。彼は私の目をのぞくようにして、
「You Can go」といった。
私は笑いながら「Up?」と返した。
彼は、ほほえんで「Down」と答えた。
パタンの村は、みるみるあとになった。私たちは、この二日間にめまぐるしく起こった事件を語り合った。そして、さまざまのIf-storyをこしらえたり、事件の推測を試みて、楽しんだ。特に電話事件は、まったくの謎だった。永久の謎だろう。私たちの謎ときは今はもう、一つのゲームに過ぎなかった。そして私たちの心は、今や、まだ見ぬスワートの氷の峰に飛んでいた。(つづく)