西パキスタンの旅 第10話「幻の峠を求めて−−プロローグ−−」
スワットはいい
スワットの沃野を、スワット河にそって遡ると、カラームに着く。
マンキャル(5715m)がそびえる。
「スワットはいいなァ」ここに着くまで、私たちは何度もそういい交した。いろいろといいのである。
まず、道がいい。スワットのゲートを通ってからジープが揺れなくなった。
次に眺めがよい……。山が見える。川が流れている。それも、赤茶けてひからびた、およそ川というイメージからほど遠い砂漠の川じゃない、本当の川だ。
さらに、緑がしたたっている。コーランには、天国の形容として〈緑したたり泉の水流れる〉とある。砂漠の民にとって、これは本当に天国なんだろう。多くのパキスタン人が「スワットへ行け。スワットがいい」といった理由が、いまわかった。
とはいうものの、緑があるということは、私たち日本人にとっては、彼らほど鮮烈ではない。
たしかに、水田が広がるスワットに走り込んだとき、私たちはホッとした。そして、しばらくすると、少々退屈した。こんな所は、日本にいくらでもある。緑したたり、水が流れて天国なら、日本中が天国だ。
道行く人々の目つきが、急に柔和になる。これは日本人の目だ。農耕民族の顔つきだ。誰かが少々の落胆をまじえていった。「なんや、日本みたいやんケー」
ところで、そういう顔の人たちの中に、金髪で蒼い瞳の少女を見つけて、私はハッとする。そうだ。アレキサンダーだ。
スワットには古い歴史がある。アレキサンダーや法顕も訪れた。シルクロードの山と谷だ。
走り去る壊れた建物や塔を、ジープの窓から追いながら、あれは仏跡だ、これは仏塔だろうと考える。そしてもう一度「スワットはいいなア」と思う。
このスワット地方を最初に訪れた日本隊は、京大の日パ合同登山調査隊。一九五七年のことだ。
その後、一〇年間、ここを訪れる日本隊は絶えてなかった。一九六七年、京都教育大パーティは、ボンベイーウィーンの移動調査の途中、スワットに立ち寄った。そして、まったく記録のない、ガブラル河に入った。
この隊の一人、土森さんは、私の友人でカラコルム・クラブのスタッフだ。私たちが遠征準備で、ウルドーのレッスンをやっている頃だったと思う。私は彼にきいた。「君今度行くならどこにする」
彼は間髪入れず答えたものだ。
「そらあんた、スワートでっせ」
登山基地・ウトロート
カラームから20km美しい渓流にそって走るとウトロートである。
レストハウスに入るとすぐ、スバダール(村長)が、ピストルを肩からつるし鉄砲をもったお伴をつれて現われた。
この辺の山を登るには、この辺のボスにあいさつをしないといけない。私たちは、カラームで、テシダール(郡長)を訪ねた。ところが彼は、ウトロートに出かけて、不在だった。だが、ここにくる途中、うまい具合に、テシダールのジープと行きあった。
「山に登るのでよろしく」私は、プレゼントのカッターシャツをさし出す。彼はジープの窓から、ニュッと手を伸ばして受取り、「そうか、カラームに着いたら、ウトロート・スバダールに電話しとこう」
そこでスバダールの早々のお出ましというわけだ。
彼は開口一番、「護衛の警官は何人必要か」ときいた。
「護衛なぞいらないと思う。どうしても必要なのか」と私。村長は答える。
「アプカ・マルジー(あたたのご判断で…‥)」そういわれると、こちらも不安になる。
「本当に護衛をつけないと危険なのか」
「そりや危ない」と、そばからレストハウスのチョキダール(番人)も口をはさむ。
「そんなら、必要ではないか。やっぱりつけた方がよいのだな」私が念をおすと、村長またしても、
「アブカ・マルジー」
これには参った。何度かこんなやりとりの後、結局二人のポリスが同行することになる。
このレストハウスは、一九六六年にできたという。シャワー、水洗トイレ付のツインベッドルームが三つ。ちょっとしたホテル並だ。
チョキダールが二人いる。ジャッフル・カーン(二五)とバカタ・アミーン(三〇)。ジャッフル・カーンは、金髪碧眼。ピストルを自慢たらしくさげているが、蚊のなくような震え声でしゃべる。貧相な男だ。
バカタの方は大男。男の子が二人ある。大きくなったら、学校の先生をさせたいといった。
どういういきさつだったか、すっかり忘れてしまったが、ともかく、このバカタの背中を、「しっかりせんかい」とか何とか日本語でいいながら、私がポンとたたいた。
とたんに、私の背中はグローブほどの大きな手で、バーンとたたき返された。
これには驚いた。こんなことは初めてだ。なるほどここはスワットだ、と私は思った。ペシャワール州、スワット州などは、いわゆるパタン族の住むトライバルテリトリー(部族地域)だ。植民地時代、イギリスはついにこの地方を制圧できなかった。独立自尊。誇り高い人々なのだ。そして「目には目を」の鉄則が生きている。
幻の峠はある?
ジープで、ガブラル村まで偵察に出かける。レストハウスから五キロほど上流だ。ここがキャラバンの起点となる。
たくさん男が集まってくる。
「ハラハリ谷からラスプールへは行けるのか」
「ジャーサクターハイ・サーブ(行けるよ旦那)」 色白で馬づらの男が進み出て、口から唾をとばしながらまくしたてる。「俺にまかしとけサーブ。それで人夫は何人いるんだサーブ」
「まあ九人か一〇人。ところでお前はラスプールへ行ったことがあるのか」
「いいや」すましたもんである。
「出発はいつなんだ。サーブ。俺は英語もドイツ語もフランス語もしゃべれるんだぜ」
「ちょっとしゃべってみろ」
「イングリッシュジャルマニーフレンチ、どうだサーブ」一気にいって、やはりすましている。漫才みたいな男だ。アブドゥル・ワ・ドゥール、三〇歳。名前からして面白い。私たちは大笑いした。
いずれにしろ、このあたりで、ラスプールへの峠越えをした男はいない。ガプラル谷に関しては、土森君たちの調査でかなりよくわかっているが、その支谷、ハラハリ谷に関してはまったく未知なのだ。
ところで、ガブラル河の一つ西側の谷は、パンジューラ河である。
この河をつめると、ショーヒパスを通って、ラスブールに至る。
このコースは、シルクロードの一部であった。現に、法顕はこのコースでスワットに入った、と唱える学者もいる(もちろん異説紛々であるが、見方をかえれば、それほどたくさんのルートが考えられるということは、シルクロードが、このあたりで、たくさんの谷や峠を通って千々に分かれていたことを意味する)。
とすれば、当然、ハラハリ谷よりラスブールヘの峠越えルートは、シルクロードの間道であったろう。そしてそれは、幻の峠一マナリ・アンかも知れない。
私たちは、いろいろの情報集めや、作戦会議の必要を感じていた。しかし、パキスタンの生活になじんで、今はもう、せっかちな日本人でなくなつている。今夜にでも、飲みながらゆっくり考えよう。情報は明日集めよう。それより釣りだ。日のあるうちにジャコ釣りだ、とリール竿をかついで河に向かった。
ガブラル河にはマスが放流されている。ここで釣りをするには、許可がいる。その許可証は、サイドシェリフ(スワットの首都)で発行される。私たちにそんなものはない。
出かけるとき、「許可証はない。お前は目をつぶれ」というと、チョキグールのバカタは片目をつぶった。
約二時間がんばった。一匹も釣れない。暗くなるので帰ろうとしたとき、ワッチマン(監視人)が現われ、まんまとつかまってしまった。「罰金一〇〇〇ルビー」という。平あやまりにあやまった。
レストハウスに帰り着いて、私はいった。
「魚はつかまらなかった。そしてワッチマンが私をつかまえた」
バカタは、手をパンパンとたたいて大声で笑った。 (つづく)
<高田注記>
この連載で、私はパキスタンの地域名ーSwatの表記に関して、スワートとスワットの両方を使っています。スワートなる表記はもっとも一般的です。この地域に最初に遠征した京大隊の本田勝一さんが、そう紹介したからだと思っています。しかし、この地方での現地のパキスタン人の発音は、明らかに「スワート」ではなく、「スワット」でした。そんなわけで、発音に忠実な表記としたのだと思います。
スワットの沃野を、スワット河にそって遡ると、カラームに着く。
マンキャル(5715m)がそびえる。
「スワットはいいなァ」ここに着くまで、私たちは何度もそういい交した。いろいろといいのである。
まず、道がいい。スワットのゲートを通ってからジープが揺れなくなった。
次に眺めがよい……。山が見える。川が流れている。それも、赤茶けてひからびた、およそ川というイメージからほど遠い砂漠の川じゃない、本当の川だ。
さらに、緑がしたたっている。コーランには、天国の形容として〈緑したたり泉の水流れる〉とある。砂漠の民にとって、これは本当に天国なんだろう。多くのパキスタン人が「スワットへ行け。スワットがいい」といった理由が、いまわかった。
とはいうものの、緑があるということは、私たち日本人にとっては、彼らほど鮮烈ではない。
たしかに、水田が広がるスワットに走り込んだとき、私たちはホッとした。そして、しばらくすると、少々退屈した。こんな所は、日本にいくらでもある。緑したたり、水が流れて天国なら、日本中が天国だ。
道行く人々の目つきが、急に柔和になる。これは日本人の目だ。農耕民族の顔つきだ。誰かが少々の落胆をまじえていった。「なんや、日本みたいやんケー」
ところで、そういう顔の人たちの中に、金髪で蒼い瞳の少女を見つけて、私はハッとする。そうだ。アレキサンダーだ。
スワットには古い歴史がある。アレキサンダーや法顕も訪れた。シルクロードの山と谷だ。
走り去る壊れた建物や塔を、ジープの窓から追いながら、あれは仏跡だ、これは仏塔だろうと考える。そしてもう一度「スワットはいいなア」と思う。
このスワット地方を最初に訪れた日本隊は、京大の日パ合同登山調査隊。一九五七年のことだ。
その後、一〇年間、ここを訪れる日本隊は絶えてなかった。一九六七年、京都教育大パーティは、ボンベイーウィーンの移動調査の途中、スワットに立ち寄った。そして、まったく記録のない、ガブラル河に入った。
この隊の一人、土森さんは、私の友人でカラコルム・クラブのスタッフだ。私たちが遠征準備で、ウルドーのレッスンをやっている頃だったと思う。私は彼にきいた。「君今度行くならどこにする」
彼は間髪入れず答えたものだ。
「そらあんた、スワートでっせ」
登山基地・ウトロート
カラームから20km美しい渓流にそって走るとウトロートである。
レストハウスに入るとすぐ、スバダール(村長)が、ピストルを肩からつるし鉄砲をもったお伴をつれて現われた。
この辺の山を登るには、この辺のボスにあいさつをしないといけない。私たちは、カラームで、テシダール(郡長)を訪ねた。ところが彼は、ウトロートに出かけて、不在だった。だが、ここにくる途中、うまい具合に、テシダールのジープと行きあった。
「山に登るのでよろしく」私は、プレゼントのカッターシャツをさし出す。彼はジープの窓から、ニュッと手を伸ばして受取り、「そうか、カラームに着いたら、ウトロート・スバダールに電話しとこう」
そこでスバダールの早々のお出ましというわけだ。
彼は開口一番、「護衛の警官は何人必要か」ときいた。
「護衛なぞいらないと思う。どうしても必要なのか」と私。村長は答える。
「アプカ・マルジー(あたたのご判断で…‥)」そういわれると、こちらも不安になる。
「本当に護衛をつけないと危険なのか」
「そりや危ない」と、そばからレストハウスのチョキダール(番人)も口をはさむ。
「そんなら、必要ではないか。やっぱりつけた方がよいのだな」私が念をおすと、村長またしても、
「アブカ・マルジー」
これには参った。何度かこんなやりとりの後、結局二人のポリスが同行することになる。
このレストハウスは、一九六六年にできたという。シャワー、水洗トイレ付のツインベッドルームが三つ。ちょっとしたホテル並だ。
チョキダールが二人いる。ジャッフル・カーン(二五)とバカタ・アミーン(三〇)。ジャッフル・カーンは、金髪碧眼。ピストルを自慢たらしくさげているが、蚊のなくような震え声でしゃべる。貧相な男だ。
バカタの方は大男。男の子が二人ある。大きくなったら、学校の先生をさせたいといった。
どういういきさつだったか、すっかり忘れてしまったが、ともかく、このバカタの背中を、「しっかりせんかい」とか何とか日本語でいいながら、私がポンとたたいた。
とたんに、私の背中はグローブほどの大きな手で、バーンとたたき返された。
これには驚いた。こんなことは初めてだ。なるほどここはスワットだ、と私は思った。ペシャワール州、スワット州などは、いわゆるパタン族の住むトライバルテリトリー(部族地域)だ。植民地時代、イギリスはついにこの地方を制圧できなかった。独立自尊。誇り高い人々なのだ。そして「目には目を」の鉄則が生きている。
幻の峠はある?
ジープで、ガブラル村まで偵察に出かける。レストハウスから五キロほど上流だ。ここがキャラバンの起点となる。
たくさん男が集まってくる。
「ハラハリ谷からラスプールへは行けるのか」
「ジャーサクターハイ・サーブ(行けるよ旦那)」 色白で馬づらの男が進み出て、口から唾をとばしながらまくしたてる。「俺にまかしとけサーブ。それで人夫は何人いるんだサーブ」
「まあ九人か一〇人。ところでお前はラスプールへ行ったことがあるのか」
「いいや」すましたもんである。
「出発はいつなんだ。サーブ。俺は英語もドイツ語もフランス語もしゃべれるんだぜ」
「ちょっとしゃべってみろ」
「イングリッシュジャルマニーフレンチ、どうだサーブ」一気にいって、やはりすましている。漫才みたいな男だ。アブドゥル・ワ・ドゥール、三〇歳。名前からして面白い。私たちは大笑いした。
いずれにしろ、このあたりで、ラスプールへの峠越えをした男はいない。ガプラル谷に関しては、土森君たちの調査でかなりよくわかっているが、その支谷、ハラハリ谷に関してはまったく未知なのだ。
ところで、ガブラル河の一つ西側の谷は、パンジューラ河である。
この河をつめると、ショーヒパスを通って、ラスブールに至る。
このコースは、シルクロードの一部であった。現に、法顕はこのコースでスワットに入った、と唱える学者もいる(もちろん異説紛々であるが、見方をかえれば、それほどたくさんのルートが考えられるということは、シルクロードが、このあたりで、たくさんの谷や峠を通って千々に分かれていたことを意味する)。
とすれば、当然、ハラハリ谷よりラスブールヘの峠越えルートは、シルクロードの間道であったろう。そしてそれは、幻の峠一マナリ・アンかも知れない。
私たちは、いろいろの情報集めや、作戦会議の必要を感じていた。しかし、パキスタンの生活になじんで、今はもう、せっかちな日本人でなくなつている。今夜にでも、飲みながらゆっくり考えよう。情報は明日集めよう。それより釣りだ。日のあるうちにジャコ釣りだ、とリール竿をかついで河に向かった。
ガブラル河にはマスが放流されている。ここで釣りをするには、許可がいる。その許可証は、サイドシェリフ(スワットの首都)で発行される。私たちにそんなものはない。
出かけるとき、「許可証はない。お前は目をつぶれ」というと、チョキグールのバカタは片目をつぶった。
約二時間がんばった。一匹も釣れない。暗くなるので帰ろうとしたとき、ワッチマン(監視人)が現われ、まんまとつかまってしまった。「罰金一〇〇〇ルビー」という。平あやまりにあやまった。
レストハウスに帰り着いて、私はいった。
「魚はつかまらなかった。そしてワッチマンが私をつかまえた」
バカタは、手をパンパンとたたいて大声で笑った。 (つづく)
<高田注記>
この連載で、私はパキスタンの地域名ーSwatの表記に関して、スワートとスワットの両方を使っています。スワートなる表記はもっとも一般的です。この地域に最初に遠征した京大隊の本田勝一さんが、そう紹介したからだと思っています。しかし、この地方での現地のパキスタン人の発音は、明らかに「スワート」ではなく、「スワット」でした。そんなわけで、発音に忠実な表記としたのだと思います。