その1 スポーツ神話について

スポーツ神話タイトル
登山と「神話」その1 スポーツ神話について

スポーツ登山について
 先頃、『ノストラダムスの大予言』という本が、話題になったことがありました。何人かの若者から、この本についてのコメントを求められ、しぶしぶ読んでみたわけです。
 あんまりバカバカしい内容なので、途中でいやになりました。あれを感心して読んだ人がいるとしたら、頭の程度が知れるかも知れません。というよりか、あんなもののインチキささえ、正確に認識できない国民を作りだした、教育の責任が問われるべきです。
 最近では、「ユリ・ゲラー」に始まって、「念力少年」が巷の噂を呼んでいます。ぼくにとって興味があるのは、本当にスプーンは曲がるのか、インチキかそうでないか、そういうことではないのです。そんなことは考えるまでもない。「念力少年」がブラウン管の話題となり、人々の関心が、そんなどうでもよいことに集中することによって、喜ぶ奴は誰なのか。
 無意識的にしろ、そういう非科学的事象をデッチあげ、日常化しようと策しているのは、どういう人達なのか、そういうことに最も興味をもちます。照れ臭さをおし殺して、大上段にふりかぶっていえば、社会点視点とでもいえるでしょうか。
 さて、ぼくは考えるのですが、もともと、「山登り」というものは、実体としてはない。一つの抽象概念です。あるのは、山へ登る人間、生身の人間がいるだけです。同様に、「クライマー」などはなくて、クライミングする人間がいるだけです。「クライミングする人間」の最大公約数が「クライマー」のイメージとなって当り前のはずです。でも、どうもそうではない。クライマーのイメージは、適当に捨象・抽象され、美化された形で、クライムしようとする人間に押しつけられ、さらには、人々がそのイメージに向かって、かり立てられることになる。そうなっている状況を、ぼくは、「クライマー神話」があると呼ぶわけです。
 いやに傍観者的に、あるいは評論家的に述べていますが、ぼく自身、決してこういう「神話」から自由ではなく、それにしばられているようです。
 たとえば、「アルピニズムとは……」などと始めると、もうどうしようもありません。それほど、言葉の呪縛は大きいともいえるでしょう。これはまさしく「アルピニズム」神話です。このやりきれない、袋小路から脱出するため、ぼくは、去年の『山と渓谷』四月号に、「神話へのクライムから、内なる呼び声によるクライムヘ」の小文を書いたわけです。
 ところが、よく考えてみると、「内なる呼び声」そのものまでも、「神話」に犯されているようなのです。そうであれば、残る方法は、「神話」自体をじっくり見すえ、その偽瞞性をあばくしかない、と思うようになりました。やり方は、もろもろの「神話」を社会的視点でとらえることです。
 今回は、まず大前提として、「スポーツ神話」をとりあげてみたいと思います。

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