その3『槍ヶ岳からの黎明』について
『槍ヶ岳からの黎明』について
ぼくの職場に毎月のようにやってくる、保険外交員のおばちゃんがいます。
ぼくに保険をすすめることが、絶望的に無駄であることには、彼女も、もうとっくに気付いているようです。それでも、毎月のように現われては、時計バンドにつけるカレンダーの金属片を渡し、世間話などしてから帰ってゆくのです。 ぼくの方としては、このカレンダーは結構重宝していますので、月末になっておばちゃんが現われないと、「どうしたのかな」などと思ったりするのです。
この間のことです。いつもの様に、おばちゃんが現われ、ぼくは「アリガトウ」とカレンダーをもらってから、例のごとく世間話になりました。
いったい何がきっかけだったのか、すっかり忘れてしまいましたが、とにかく、話が映画の『イージー・ライダー』になったのです。
「あの若い人、ほんまに可哀そうやった。あんな事故で死んでしもうて」
ぼくは、ちょっとおどろいて、あれは事故ではなくて殺されたのだ、といったのですが、彼女は「ちがう」といいはります。
「そら、鉄砲は撃たはったよ。けど、あれは当ってへん。何かの事故で単車が爆発したんやろ。第一何にもしてへん人が殺されるわけ、あらへん」
映画のストーリを追いながら、あるいはまた、アメリカの歴史背景なども含めて、ぼくは懸命に説明したのです。それでも彼女ほ、まだ信じられない、という面持で、
「そうやろか、殺されたんやろか」といいます。ぼくも、いいかげん頭にきて、
「あんた、眼あけて見てたんかいな。目あけてても、見えなんだんやろ」といいました。
その時、ぼくは思いました。「固定観念」というものは、何とおそろしい。人を盲目の状態にするものだ、ということでした。
彼女に、ぼくの説明が理解できなかったということは、まず考えられない。彼女はよく理解した。しかし、おそらく「人が全く理由もなく、しかも鉄砲で撃ち殺されるなどということはあり得ない」という「固定観念」が、彼女の判断をくるわせたのでしょう。
さて、ぼくのいう「神話」も、一種の「固定観念」を意味しています。だから、「神話」は、破られるべくして存在している、といえるでしょう。
ところが、ぼくの「登山と『神話』」に関して、こんなことをいう人がいます。
「あなたは、ああいうことを書くことによって、新しい『神話』を作っている」と。
これに対するぼくの答えは、じつは、そう云われる前からあったのですが、それについてはこの連載の最後にするつもりです。
それに、「神話をつぶすことによって、神話を作っているのだ」という云い方は、「『固定観念』はいけないというのも、一つの『固定観念』である」という云い方に似ております。
こういう議論は、不毛の回転論議になりやすい。それで、ここでは避けたい。そう思うわけです。
今回も、先回につづいて、「登山史」をとりあげたいと思います。
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