その4「山での死」について
登山と「神話」その四
「山での死」について
現代は情報化時代などといわれます。ぼくたちは、まさに情報の洪水のなかで溺死しかかっているような気さえするくらいです。
そういう状況の中では、一体何が本当なのか、物の見方にほんとうに客観的な立場などということがあるのか、なにがなんやら訳がわからなくなってきています。「真理は一つ」などということばは、なんとも白々しくひびくばかりです。
そして、そういう現状を、〈価値観の多様化〉とか、〈既成概念の崩壊〉などと表現することは、「シラジラシサ」の上塗りにすぎないように思えます。
しかし、ここに、だれでもが、どうしようもなく、認めざるを得ないことがあります。それは、「人は死ぬ」ということです。こればかりは、どうしようもない真理といえるでしょう。
そういうわけで、「死」はだれにとっても決して避けて通ることのできない問題です。そして、「死」をどう考えるか、ということは、その人の生き方・人生観・世界観などに、根元的に関わる本質的な問題だと思えます。
なんやら、話が宣教師めいてきて、いやになります。正直いって、ぼくは、こんな問題はあんまりとりあげたくありませんでした。なんとなく気が進みませんでした。
なんしろ、話が大きすぎますし、あまり多方面に亘りすぎる気もします。そうかといって、避けて通れないという気もします。
いろいろと迷ったあげく、結局、個人にとって避けて通れない問題であるのなら、この「登山と『神話』」でも、避けるべきでないというふうに思えてきました。
そういうわけで、今回は、「山登りにおける死」をとりあげる決心をしたわけです。
あなたは、「死」とはなんぞや、ときかれたらなんと答えますか。「生」の反対。
そうです。「死」あっての「生」です。バカみたいですが、これはなかなか重大な問題で、〈死にがい〉←→〈生きがい〉論の出発点です。これについては後でふれます。
「生」の終り。ごもっとも。「生」は必ず「死」に至ります。つまり「生」→「死」という図式が成り立ちます。これも極めて根元的なものです。
たとえば、最も未開な社会から文明社会まで、あらゆる社会には、いわゆる「他界」の概念があります。死は単にこの世での終りを示すにすぎず、死者は、別の世界(「他界」)で永遠に生きつづけるとするわけです。
さて、山登りには必然的に死が伴います。正直いってぼく自身、今なお生きているのは、幸運の女神に守られたか、あるいはそういう偶然の結果にすぎないと思っています。
もしかりに、「自分は細心の注意とトレーニングを怠たらなかったから……」などという人がいたとしたら、その人は倣慢です。あるいは、山の恐ろしさに対する無知さの故か、山らしい山に登らなくなった人なのに違いありません。
そもそも、山と「死」とは切っても切れない関係がある。ぼくはそう考えております。
ところが、こういう具合にスパッといえない事情がどうやらあるらしい。この日本の特殊性みたいなものとして、です。その原因・理由は何なのか。そこのところをここで考えてみたい。これが一つのテーマです。
それから、今いったこととも関係しますが、日本人には日本人の「死」についての考え方みたいなもの、つまり「死生観」があるはずです。これについて考察したいと思います。
そして、この「死生観」が、どのように変化してきたのか。特に今日いわれる、若者文化(Youth Culture)と成人文化(Adult Culture)の分極・対立化の観点を基底として、そのそれぞれにおける「死生観」と「登山観」をみてみたいわけです。
かなり大上段にふりかぶった前口上であることは、ぼくも認めます。実はあんまり自信ありません。
はたしてどういうことになりますか。
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