その5『ホモ・ルーデンス』について

ホモ・ルーデンス
登山と「神話」その五

『ホモ・ルーデンス』について

 遠藤周作の「ぐうたらシリーズ」が、どんどん売れつづけているのだそうです。
 だいぶ前には、「マジメ人間」ということばが流行しました。こういうことばができ上ったこと自体、「フマジメ人間」がある存在意義を認められたことを意味していた、ぼくはそう思います。「まじめに働くことが、日本の繁栄と幸福につながるのですよ」という、支配者のかけ声に、民衆が首をかしげ始めたことをも意味していたかも知れません。
「まじめ」の対極にあるのが「ぐうたら」です。
「まじめ」はいいが「ぐうたら」はわるい。単純にいえば、そうなります。
 しかし、そう単純には考えられない。考えるべきではない。ただただ真面目に働いた結果として加速度的におこってきた、いろいろの、とんでもない社会現象を見て、民衆は考え始めたのではないでしょうか。
 気づいている人は多くはないかも知れませんが、日本的なタテマエ主義の「マジメ人間」の時代は、もう去りました。そして「グウタラ人間」あるいは「ハミダシ人間」の時代がきているのかも知れない。
 さて先号で、「山の死」の問題には「遊び」の社会的位置づけの問題が関わっている、とチラリと触れました。
 このごろでは山関係の文章の中に、「遊び」ということばを見つけるのは、さほど難しいことではありません。「ホモ・ルーデンス」などというのは、ごろごろしています。
 最近では、カイヨワも流行のようで、例えば、野村哲也さんは、「山と渓谷」一月号に次のように書いておられます。
 一登山が所詮は個人の遊びであるとすれば、記録のためとか、登山のハクをつけるために人のお膳立てした遠征隊にのっかるといったような要素が加わっては、カイヨワ『遊びと人間』のいう恍惚と目まいの境地に酔いしれることはできない一
 ところで、登山が個人の遊びであることがはっきりと、そういわれだしたのは、そんなに古いことではなさそうです。
 そんなにバッチリ調べたわけではありませんが、明確にそう規定した「云い出しべえ」は、どうやら京都の塚本珪一さんみたいです。
 一いろいろと理屈をこねたとしても、やはり登山は〈あそび〉である。〈あそび〉ではなく、人間限界に対する自己への挑戦、自然征服であるとしても、それは単に自己の行動の理屈づけとごまかしだと思う。正直にたのしい〈あそび〉、自分のための、自分を大切にする〈あそび〉といえばすっきりするだろう。徹底した〈あそび〉としての登山は結果として〈個人に属する登山〉の成立を見るだろう。(『岩と雪』10号、「続・登山は個人に属すべきである」一九六七)一
 一九六七年当時としては、これは極めて新鮮な主張でした。一方的なおしつけ的ムードで、伝統的な「聖なる登山」論がありましたが、登山はすでに大衆化の時代に入っていたからです。しかし、今日では、こういうことは常識となってしまいました。
 むしろ「個人に属し」きって、個人個人に分断孤立させられている、ぼくたち山に登るものたちは、どのようにして連帯を回復すればよいのか。それが問題となってきている。そう考えます。
 ここに「遊び」の問題が浮かび上ってきます。ぼくたちは、「山の世界」でよく「遊び」をロにしますが、はたして「遊び」を正確に理解しているのだろうか。はなはだ疑問です。特にこの日本の精神風土においては……。
「アルピニズム」などというものが、ぼくたちの連帯に、もう何の効果ももたなくなった今日、「遊び」の再検討は何かの「ヒント」になるかも知れない。
 そういうわけで、今回は、「遊び」をとりあげたいと思います。

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