アフガン難民支援レポート(4)
3日間のイスラマバードが過ぎ、今日13日はペシャワールに向かう日です。
難民局からの車を待っていると、9時10分、白色のトヨタラントクルーザーが現れました。
ドクター・イムランが運転しています。
走り出してすぐ、後ろの席の秀子が、「あなたのような方に運転させて恐縮ですと言うのは、どういえばいいの、そう言って」というので、
「恐縮ですという心はどうなんやね」とぼく。
「ありがとうと感謝しているということかな」と、秀子。
岩橋が、「I am much appreciateですかね」
イムランに聞こえる状況であまりぐだぐだ言っているのも問題だという気がしたので、
「Dr.Imran, She is very much thankful to your drive as such high status person as you.」
イムランは、アハハと笑い、グルザールと自分との関係は彼の部下というより、同族の友人みたいなものなんです。
彼の友人のパルベーツの依頼をきいて、彼がぼくに頼んだ。パルベーツの友人は、ぼくの友だちで、われわれは友達同士なんです。
難民局には、ドライバー付きの2台の車が用意されていたんだが、ぼくは自分が運転するからと言って、この車にしたんです。
彼は、スワット出身なのだそうです。ぼくは、1969年の「西パキスタンの旅」、カラチからスワットへのランドクルーザのドライブの話を語ったのです。
彼は、薬学を学び博士号を取ったそうで、その後イタリアに留学しています。聞いてみたらGulzar氏はペシャワール出身。そうするとパルベーツと同郷ということになる。みんなパシュトーンということになります。
もっとも、アフガン難民の仕事は、パシュトーン語が操れなければ、どうしようもないと言えるのでしょう。
イスラマからカイバル峠に続く、あの有名な歴史街道ペシャワール道路を北上を続けました。
ペシャワールに近づいた頃、ドクター・イムランは、突然、停車している2台の車の前に、停車しました。
出迎えの人たちでした。そこは、アザケール難民キャンプの入り口近くでした。出迎えたのは、このキャンプの教育担当のコミッショナーとそのスタッフたちです。5人で一人美人女性がいました。彼女は、5つある学校を巡回するまあ教育委員会主事と言うところでしょうか。
銃で武装した門衛をすぎて、キャンプに入ります。
キャンプは、街道沿いに延々と続いているようです。水は、道と反対側の川水を利用していると言います。
難民キャンプというと、なんとはなしにテントを連想してしまうのですが、どこにもテントなどはありません。泥や、泥の乾しレンガで作った家が延々と立ち並んでいます。このキャンプが出
来たのは1992年のことで、もう十年も経っているのです。
キャンプというより、村というほうがぴったりする感じなのです。でも、ビレッジではなくあくまでキャンプなのだそうです。
両側の、泥の家の家並みを街道沿いの方向に南下してゆくと、商店街が現れます。
岩橋が、こりゃ全くカブールですよ。ここの写真をとって、カブールの町外れと言ったら誰も疑いませんよ。
考えてみれば、アフガン人がやってきて、村を作ったらアフガンの村と同じになってもなんの不思議もないのです。
ぼくといえば、1969年の「西パキスタンの旅」、ジープを使ってのあの「辺地教育調査隊」の経験を思い起こしていました。
高田直樹
難民局からの車を待っていると、9時10分、白色のトヨタラントクルーザーが現れました。
ドクター・イムランが運転しています。
走り出してすぐ、後ろの席の秀子が、「あなたのような方に運転させて恐縮ですと言うのは、どういえばいいの、そう言って」というので、
「恐縮ですという心はどうなんやね」とぼく。
「ありがとうと感謝しているということかな」と、秀子。
岩橋が、「I am much appreciateですかね」
イムランに聞こえる状況であまりぐだぐだ言っているのも問題だという気がしたので、
「Dr.Imran, She is very much thankful to your drive as such high status person as you.」
イムランは、アハハと笑い、グルザールと自分との関係は彼の部下というより、同族の友人みたいなものなんです。
彼の友人のパルベーツの依頼をきいて、彼がぼくに頼んだ。パルベーツの友人は、ぼくの友だちで、われわれは友達同士なんです。
難民局には、ドライバー付きの2台の車が用意されていたんだが、ぼくは自分が運転するからと言って、この車にしたんです。
彼は、スワット出身なのだそうです。ぼくは、1969年の「西パキスタンの旅」、カラチからスワットへのランドクルーザのドライブの話を語ったのです。
彼は、薬学を学び博士号を取ったそうで、その後イタリアに留学しています。聞いてみたらGulzar氏はペシャワール出身。そうするとパルベーツと同郷ということになる。みんなパシュトーンということになります。
もっとも、アフガン難民の仕事は、パシュトーン語が操れなければ、どうしようもないと言えるのでしょう。
イスラマからカイバル峠に続く、あの有名な歴史街道ペシャワール道路を北上を続けました。
ペシャワールに近づいた頃、ドクター・イムランは、突然、停車している2台の車の前に、停車しました。
出迎えの人たちでした。そこは、アザケール難民キャンプの入り口近くでした。出迎えたのは、このキャンプの教育担当のコミッショナーとそのスタッフたちです。5人で一人美人女性がいました。彼女は、5つある学校を巡回するまあ教育委員会主事と言うところでしょうか。
銃で武装した門衛をすぎて、キャンプに入ります。
キャンプは、街道沿いに延々と続いているようです。水は、道と反対側の川水を利用していると言います。
難民キャンプというと、なんとはなしにテントを連想してしまうのですが、どこにもテントなどはありません。泥や、泥の乾しレンガで作った家が延々と立ち並んでいます。このキャンプが出
来たのは1992年のことで、もう十年も経っているのです。
キャンプというより、村というほうがぴったりする感じなのです。でも、ビレッジではなくあくまでキャンプなのだそうです。
両側の、泥の家の家並みを街道沿いの方向に南下してゆくと、商店街が現れます。
岩橋が、こりゃ全くカブールですよ。ここの写真をとって、カブールの町外れと言ったら誰も疑いませんよ。
考えてみれば、アフガン人がやってきて、村を作ったらアフガンの村と同じになってもなんの不思議もないのです。
ぼくといえば、1969年の「西パキスタンの旅」、ジープを使ってのあの「辺地教育調査隊」の経験を思い起こしていました。
高田直樹