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西パキスタンの旅 最終話「幻の峠を求めてーエピローグー」
サーブ、結婚しろ
極度にやせた、ハラハリ氷河左岸のサイドモレーンのナイフリッジをたどる。
リッジの右側はモレーン壁の原型をとどめ、その底には小さたアプレーション・バレー。
左側はスッパリと切れ落ち、その侵食壁の下には、大小の岩石におおわれたハラハリ氷河が横たわる。
そして、その約1000mの氷河幅の向こうには、壁に小さな懸垂氷河を引掛けた岩峰が連なっている。
5000m峰だ。登るとすればかなり困難な登攣となるだろう。
アルプス、コーカサスの峰々はその壁という壁が登りつくされているというのに、ここでは、その頂上に立った者さえいないのだ。
私たちが、このぜいたくな景色に、悦に入っていると、30kg近い荷を持ったフェルドースが、振り向きざま、
「サーブ、この道は俺たちしか行けぬ」と口をとがらせて話しかけてくる。ウルドーをいうときだけそうするのが、彼のクセらしい。
「どうだサーブ、サーブはしあわせか」確かに連中のバランスは素晴らしい。とてもガブラル村のポーターの比ではない。
しかし、この押しの強さはどうだ。彼らの個性の強さもまた、カブラルの連中の比ではない。
フェルドース、今度は中村の方を向くと、まったくヤブから棒に「サーブ、ハラハリ村で結婚しろ」
「中村があっけにとられて、ポカンとしていると、フェルドースは右手を差し出し、人差指に中指をからませたサインをした。そしてさらに、それに左手の人差指を当てがった。
中村は少々怒り、赤くなり「トゥム、アッチャーナヒーン」(君はよくない)」と叫んだ。
私たちは、「そうせい、そうせい。なかなかええ娘がおったやんけ」などとはやした。
彼は、自称、パキスタン娘にモテるのだ。たとえば、インダスルートへの途中、カローラという部落に泊まったときなど、女の子が後ろについて回るので、小便するのに困ったそうだ。もっとも、そういう光景を私たちは見てはいないのだが‥…・。
七月二十三日、私たちはハラハリ村のポーターたちと一緒に、ハラハリ氷河を登り、峠を目ざしていた。
同行のポーター六人。
アブドラーマン(六〇)、ビリアムカーン(三〇)、ムシュラップカーン(二八)、フェルドース(二五)、サドバル(二五)、サダップ(二五)。
みんな屈強の男どもだ。ひとクセもふたクセもありげなつらがまえである。
私たちは、ビリアムカーンにさっそく、〈悪役〉というあだ名をつけた。彼は、まさに西部劇の悪役の顔をしている。
例外はフェルドース。彼は金持ちのぼんぼんタイプのやさ男だ。
ビリアムカーンは、ハラハリ村の実力者の一人だ。ちなみに、彼の財産はヒツジ二〇〇頭、ウシ八頭、ウマ二頭。
もう一人の実力者は、シェール(六〇)であって、彼の所有するヒツジは三〇〇頭。
こういうことは、もちろんのちほどの定着調査で分ったのだが、たとえば、フェルドースとムシュラップカーンは、このシュール派に属する。
シュールの娘は、フエルドースの妻である。シェールの妻は、ムシュラップカーンの姉マルジャン(四〇)だ。つまり、この二人は、シュールの義理の息子であり弟なのだ。
一方、ビリアムカーン派に属するのは、サダップとサドバル。
サダップの母親は、ビリアムカーンの父親アダル・ハーレツク(七〇)の妹である。つまり二人はいとこ同志だ。サドバルは、ビリアムカーンの使用人である。
このどちらの派にも属さないのが、アブドラーマンである。
誇り高い山人
四〇才の妻に、三人の子供。一番上の子供はまだ一〇才だ。一番下は二才。この子供を抱いた彼の目からは、あの鋭さが消える。
若いころ、多くの氷河の旅を行なったシカリー(猟師)仲間は、病気や氷の割れ目に落ちたりして、もう一人も生きてはいない。だから、自分だけが、この峠越えの道を知っているのだ、と彼はいった。
彼は、誇り高い山人なのだろう。村では、他の村人とはほとんど離れていて、ともに談笑することもなかった。
この峠越えで、彼は、私たちの荷物を運ぶことを拒んだ。持たせようとするビリアムカーンに、彼は憤然としていった。
「ワシはジャマダール(リーダー)だ。お前たちのアタ(小麦粉・食糧)はワシが持つ。それ以外は何も持たない」
このときのことを根に持っていたのか、ビリアムカーンは、サイドモレーン上の休憩のときに、こういった。
「こんな峠越えなんぞ、簡単なもんだ。俺一人でも行ける」
「なんじゃと」やはり、彼は、かん高い声を上げて、ひらきなおった。「ワシが先導しなくて氷の割れ目を進めるというのか。よし、それならお前先頭に立て!ビリアムカーン」
ビリアムカーンは、シュンとして黙ってしまった。
間もなく、サイドモレーンはつきた。ポーターはここで泊まりだといった。4050m。
なるほど、このあたりが厳密な意味での植物限界なのだ。アブレーション・バレーの向こうの岩壁には、小さな灌木がある。ポーターたちの貴重な燃料だ。
その木を取りに、岩壁を攣じるサダップ。たくみなクライムを、サーブたちは感心して眺めている。
サドバルがいい声で歌をうたう。〈シーリンジャーナー〉、彼の十八番だ。シーリンという美少女を歌ったものだ。その一節。〈川がある。そのほとりにシーリンが立っている。少年がやって来た。彼はいう。手をお出し。手をとって渡してあげよう〉
基線測量をようやく終えると、すぐに夜がきた。
午前四時、「サーブ、サーブ」ポーターたちがテントをたたく。着のみ着のままで一夜を明かした彼らは、三時から起き出して、寒さに歯を鳴らしていたという。
早くしないと雪がゆるんで危険だ、急げ、とさんざんせかされたけれど、羽毛服を着込んだサーブたちは、紅茶を飲んで、いやにゆっくりとテントをたたんでいる。明け始めた氷河の白に、モレーンに立つポーターたちのシルエットが美しい。
六時出発。
すぐ氷河へ。ものすごく早いピッチ。私たちは必死で後を追う。トップに立つアブドラーマンは、手に細い木のツエ、足にヒツジの革を巻きつけただけのいでたちで、凍雪を踏んで行く。
突然、彼が雪にうづくまった……と見えたのは誤りで、ヒドン・クレバスに落ち込んだのだ。
やがて、朝日が雪を赤く染め始めた。
ふと気がつくと、もう氷の壁が目前に迫っている。でも、峠はどこにあるのだろう。
マナリ・アンに立つ
高度4200m地点で休憩。パドルの水を飲む。出発のとき、ポーターたちは、手を天に向けて、アラーに祈った。ごく自然に私たちもこれにならった。
急に、右手のはるか上に、岩の切れ目が現われ、峠が見えた。ハラハリ氷河はそのどんづまりで、直角に右に曲がると、急激に峠にのし上げていた。
アブドラーマンは、セラック帯の立ち並ぶ氷塔めがけて、一文字に進んだ。
それは、私たちのルートファインディングの意表をついていた。だが驚いたことに、彼の前には、常にルートが展開した。
クレバスにはスノーブリッジがあり、スノーウォールにはレッジがあった。
クモの巣のように走るクレバスをぬって、それは、まさに動物的なルートファインディングとしかいいようがなかった(しかし、この点について疑問を感じた関田が、のちほど問いただした結果、彼が数週間前にこのルートを通ったことが判明した)。
そして、ときどき、彼は手オノを振って、カッティングを行なった。
手オノのカッティング、とび散る氷片、切り出された足場にゆっくりと置かれるヒツジの革を巻きつけた足‥…・。私は、何か、失われたショウを見る気持で眺めていた。
高度にして200mほどのセラック帯を抜けると、あとは坦々とした雪の登りが続いていた。
ホッとした私たちは、ここで初めて、ゆったりとくつろぎ、ハラハリ氷河右岸の峰々を眺めた。
そのとき、「サーブ」とアブドラーマンが語りかけた。「ワシは、サーブたちに金でやとわれて案内したんじゃない」彼の声はいつものようにキンキンとはひびかず、低かった。
「あんた方はワシたちの友達になれると思ったんだ。それにサーブたちは、ウルドーが話せる。何年か前にも、よその国のサーブに頼まれて、一日五〇ルピー出すといわれたが、ワシは断った。こんな危ねえ所へ、気心の知れねえもんと来るなんて、いくら金を積まれてもゴメンだね」
私たちは、雪の白に区切られた蒼穹の底に向かってあえぎ登った。その蒼色の円弧は、いつとはなしに広がり、やがて、ポチリと突起が現われ、次々と向こうの山の頂がせり上がってきた。ラースプールの山々だった。
私たちは、知られざる峠、マナリ・アンに立って、これらの山々を見ていた。10時半だった。
この景色を眺めるのは、私たちが最初だな、とふと思ったけれど、特に感激したわけではない。
マナリ・アンは、西パキスタンの旅のエピローグであった。そして、ハラハリ村の連中との叙事詩的な交わりの中の、一つのエピソードにすぎなかった。(おわり)
極度にやせた、ハラハリ氷河左岸のサイドモレーンのナイフリッジをたどる。
リッジの右側はモレーン壁の原型をとどめ、その底には小さたアプレーション・バレー。
左側はスッパリと切れ落ち、その侵食壁の下には、大小の岩石におおわれたハラハリ氷河が横たわる。
そして、その約1000mの氷河幅の向こうには、壁に小さな懸垂氷河を引掛けた岩峰が連なっている。
5000m峰だ。登るとすればかなり困難な登攣となるだろう。
アルプス、コーカサスの峰々はその壁という壁が登りつくされているというのに、ここでは、その頂上に立った者さえいないのだ。
私たちが、このぜいたくな景色に、悦に入っていると、30kg近い荷を持ったフェルドースが、振り向きざま、
「サーブ、この道は俺たちしか行けぬ」と口をとがらせて話しかけてくる。ウルドーをいうときだけそうするのが、彼のクセらしい。
「どうだサーブ、サーブはしあわせか」確かに連中のバランスは素晴らしい。とてもガブラル村のポーターの比ではない。
しかし、この押しの強さはどうだ。彼らの個性の強さもまた、カブラルの連中の比ではない。
フェルドース、今度は中村の方を向くと、まったくヤブから棒に「サーブ、ハラハリ村で結婚しろ」
「中村があっけにとられて、ポカンとしていると、フェルドースは右手を差し出し、人差指に中指をからませたサインをした。そしてさらに、それに左手の人差指を当てがった。
中村は少々怒り、赤くなり「トゥム、アッチャーナヒーン」(君はよくない)」と叫んだ。
私たちは、「そうせい、そうせい。なかなかええ娘がおったやんけ」などとはやした。
彼は、自称、パキスタン娘にモテるのだ。たとえば、インダスルートへの途中、カローラという部落に泊まったときなど、女の子が後ろについて回るので、小便するのに困ったそうだ。もっとも、そういう光景を私たちは見てはいないのだが‥…・。
七月二十三日、私たちはハラハリ村のポーターたちと一緒に、ハラハリ氷河を登り、峠を目ざしていた。
同行のポーター六人。
アブドラーマン(六〇)、ビリアムカーン(三〇)、ムシュラップカーン(二八)、フェルドース(二五)、サドバル(二五)、サダップ(二五)。
みんな屈強の男どもだ。ひとクセもふたクセもありげなつらがまえである。
私たちは、ビリアムカーンにさっそく、〈悪役〉というあだ名をつけた。彼は、まさに西部劇の悪役の顔をしている。
例外はフェルドース。彼は金持ちのぼんぼんタイプのやさ男だ。
ビリアムカーンは、ハラハリ村の実力者の一人だ。ちなみに、彼の財産はヒツジ二〇〇頭、ウシ八頭、ウマ二頭。
もう一人の実力者は、シェール(六〇)であって、彼の所有するヒツジは三〇〇頭。
こういうことは、もちろんのちほどの定着調査で分ったのだが、たとえば、フェルドースとムシュラップカーンは、このシュール派に属する。
シュールの娘は、フエルドースの妻である。シェールの妻は、ムシュラップカーンの姉マルジャン(四〇)だ。つまり、この二人は、シュールの義理の息子であり弟なのだ。
一方、ビリアムカーン派に属するのは、サダップとサドバル。
サダップの母親は、ビリアムカーンの父親アダル・ハーレツク(七〇)の妹である。つまり二人はいとこ同志だ。サドバルは、ビリアムカーンの使用人である。
このどちらの派にも属さないのが、アブドラーマンである。
誇り高い山人
四〇才の妻に、三人の子供。一番上の子供はまだ一〇才だ。一番下は二才。この子供を抱いた彼の目からは、あの鋭さが消える。
若いころ、多くの氷河の旅を行なったシカリー(猟師)仲間は、病気や氷の割れ目に落ちたりして、もう一人も生きてはいない。だから、自分だけが、この峠越えの道を知っているのだ、と彼はいった。
彼は、誇り高い山人なのだろう。村では、他の村人とはほとんど離れていて、ともに談笑することもなかった。
この峠越えで、彼は、私たちの荷物を運ぶことを拒んだ。持たせようとするビリアムカーンに、彼は憤然としていった。
「ワシはジャマダール(リーダー)だ。お前たちのアタ(小麦粉・食糧)はワシが持つ。それ以外は何も持たない」
このときのことを根に持っていたのか、ビリアムカーンは、サイドモレーン上の休憩のときに、こういった。
「こんな峠越えなんぞ、簡単なもんだ。俺一人でも行ける」
「なんじゃと」やはり、彼は、かん高い声を上げて、ひらきなおった。「ワシが先導しなくて氷の割れ目を進めるというのか。よし、それならお前先頭に立て!ビリアムカーン」
ビリアムカーンは、シュンとして黙ってしまった。
間もなく、サイドモレーンはつきた。ポーターはここで泊まりだといった。4050m。
なるほど、このあたりが厳密な意味での植物限界なのだ。アブレーション・バレーの向こうの岩壁には、小さな灌木がある。ポーターたちの貴重な燃料だ。
その木を取りに、岩壁を攣じるサダップ。たくみなクライムを、サーブたちは感心して眺めている。
サドバルがいい声で歌をうたう。〈シーリンジャーナー〉、彼の十八番だ。シーリンという美少女を歌ったものだ。その一節。〈川がある。そのほとりにシーリンが立っている。少年がやって来た。彼はいう。手をお出し。手をとって渡してあげよう〉
基線測量をようやく終えると、すぐに夜がきた。
午前四時、「サーブ、サーブ」ポーターたちがテントをたたく。着のみ着のままで一夜を明かした彼らは、三時から起き出して、寒さに歯を鳴らしていたという。
早くしないと雪がゆるんで危険だ、急げ、とさんざんせかされたけれど、羽毛服を着込んだサーブたちは、紅茶を飲んで、いやにゆっくりとテントをたたんでいる。明け始めた氷河の白に、モレーンに立つポーターたちのシルエットが美しい。
六時出発。
すぐ氷河へ。ものすごく早いピッチ。私たちは必死で後を追う。トップに立つアブドラーマンは、手に細い木のツエ、足にヒツジの革を巻きつけただけのいでたちで、凍雪を踏んで行く。
突然、彼が雪にうづくまった……と見えたのは誤りで、ヒドン・クレバスに落ち込んだのだ。
やがて、朝日が雪を赤く染め始めた。
ふと気がつくと、もう氷の壁が目前に迫っている。でも、峠はどこにあるのだろう。
マナリ・アンに立つ
高度4200m地点で休憩。パドルの水を飲む。出発のとき、ポーターたちは、手を天に向けて、アラーに祈った。ごく自然に私たちもこれにならった。
急に、右手のはるか上に、岩の切れ目が現われ、峠が見えた。ハラハリ氷河はそのどんづまりで、直角に右に曲がると、急激に峠にのし上げていた。
アブドラーマンは、セラック帯の立ち並ぶ氷塔めがけて、一文字に進んだ。
それは、私たちのルートファインディングの意表をついていた。だが驚いたことに、彼の前には、常にルートが展開した。
クレバスにはスノーブリッジがあり、スノーウォールにはレッジがあった。
クモの巣のように走るクレバスをぬって、それは、まさに動物的なルートファインディングとしかいいようがなかった(しかし、この点について疑問を感じた関田が、のちほど問いただした結果、彼が数週間前にこのルートを通ったことが判明した)。
そして、ときどき、彼は手オノを振って、カッティングを行なった。
手オノのカッティング、とび散る氷片、切り出された足場にゆっくりと置かれるヒツジの革を巻きつけた足‥…・。私は、何か、失われたショウを見る気持で眺めていた。
高度にして200mほどのセラック帯を抜けると、あとは坦々とした雪の登りが続いていた。
ホッとした私たちは、ここで初めて、ゆったりとくつろぎ、ハラハリ氷河右岸の峰々を眺めた。
そのとき、「サーブ」とアブドラーマンが語りかけた。「ワシは、サーブたちに金でやとわれて案内したんじゃない」彼の声はいつものようにキンキンとはひびかず、低かった。
「あんた方はワシたちの友達になれると思ったんだ。それにサーブたちは、ウルドーが話せる。何年か前にも、よその国のサーブに頼まれて、一日五〇ルピー出すといわれたが、ワシは断った。こんな危ねえ所へ、気心の知れねえもんと来るなんて、いくら金を積まれてもゴメンだね」
私たちは、雪の白に区切られた蒼穹の底に向かってあえぎ登った。その蒼色の円弧は、いつとはなしに広がり、やがて、ポチリと突起が現われ、次々と向こうの山の頂がせり上がってきた。ラースプールの山々だった。
私たちは、知られざる峠、マナリ・アンに立って、これらの山々を見ていた。10時半だった。
この景色を眺めるのは、私たちが最初だな、とふと思ったけれど、特に感激したわけではない。
マナリ・アンは、西パキスタンの旅のエピローグであった。そして、ハラハリ村の連中との叙事詩的な交わりの中の、一つのエピソードにすぎなかった。(おわり)
西パキスタンの旅 第13話「幻の峠を求めてーハラハリ氷河とマナリ・アンー」
偵 察
ベースキャンプ建設の翌日、安田はポーターたちと、この放牧地にいる羊飼いをつれて、早朝から偵察にでた。
昼まえ、テントで寝ころがっている私の所へ、羊飼いのミヤシールがかけもどって、安田からの手紙を手渡した。
羊飼いのいう水のあるキャンプ地につきました。高度3810mです。
その地は、右岸のサイドモレーンと、支谷(ラスプール氷河へとちがう方)のモレーンとにかこまれ、凹地になっています。水は池の氷河水です。
ここまで二時間かかります(昨夜のキャンプ地より)。しかしここにくるにはサイドモレーンの急な斜面をトラバースするか、サイドモレーンぞいにくるかの方法しかありません。いずれの方法も少し荷物をもったポーターには危険かと思います。
水もあまりよくないし、ここから稜線への行動も前進キャンプを必要とすると思います。ただ、この支谷を登るのならいい場所ですが、本谷(ラスプールの谷)の方へは、昨夜のキャンプ地でもよいのではないかと思います。
ポーターは現在サイドモレーンの端でまたしてあります。この地をベースにするかどうかまよっています。バラサーブがくるか、それともその地で判断して、この男にいうかどうかして下さい。
安田(以上原文のまま)
と、メモ用紙にボールペンで、ゆがんだ活字のような、彼独特の字がつまっていた。
昨夜の打合せで、この場所は、前のサイドモレーンにさえぎられて何も見えない。本谷が見渡せる場所の方が、峠越えのルートも見つけやすかろう。できれば、キャンプを上方へ移動させよう、ということになっていた。
私は、安田の手紙を読んで、その場所を見にでかけることにした。
ほとんど氷河の末端近くを横ぎって、対岸のモレーンに行く。モレーンの末端近くには、ポーターたちであろう、いくつかの黒点が見え、はるか上手には、三つの人影があった。そこが、キャンプ予定地らしい。
私は、そこをまっすぐに狙って、氷河を斜めに横断することにした。
それは、想像以上にホネだった。私はまるで、砕石の山を行く、一匹のアリのようだ。
大小の、まだ大地よりけずりとられたばかりの、鋭く角ばり、とがった岩が、不安定に積み重なり、進行をはばんだ。
私は、この氷河をつめるルートとしては、サイドモレーン以外にないことを、身体で感じていた。
峠はある!
そのキャンプ予定地は、本当に見晴らしのよい所であった。安田と、シカリーのジアラッド、ポリスのガザン・カーンの三人は待ちくたびれて、氷河を吹きおろす風にふるえていた。
「ええ場所やなあ」私が、感嘆していると、ガザン・カーンが激しくわめきだした。 彼のプシュト一語は私には全然分からない。でもときどき混ざる、ウルドーだけが聞きとれた。
「………カプラー(衣服)……チャトリー(靴)……サルディー(寒い)……‥」 「私たちには靴も服も寝袋もテントもない」と、ジアラットがつづけた。「サーブたちはいいが、私は寒い。寒くて眠れないだろう。ここには暖をとる木がない。彼はそういったのです」 「それでお前もそう思うのか、ジアラッド」と、私がいうと、彼はまっすぐに私を見上げた。彼の眼は、なぜか物悲しげに見えた。「あなたが行けといえば行く。帰れといえば帰る。ここは寒い。でもサーブがここに寝るといえば、私は寝る。他の連中もそうする。
誰にも文句はいわせない。私たちに寒い思いをさせるのも、そうでなくするのもあなただ。サーブ自身の判断だ(サーブカ・アプナーマルジー)」(私たちは、引返したのであるが、もしどうしてもここにテントを移すことにしたら、どうなったろう。これは大変興味深い設問であるが、これについての考察は他稿に譲りたい)
その日の午後、ベースに帰りついてから、私は羊飼いのミヤシールに、峠越えの道案内人をさがすように頼んだ。今日の偵察の結果、どこを見ても、峠らしきものは見いだせなかった。
だが、必ず、峠はある! その峠はシルクロードの昔から使われていたはずだ。そして、それを知らないのは、いわゆる先進国の文明人だけであって、現地の人間にとっては、昔からの使い古された、生活の路にすぎないのだ。
そういうものを、発見だ、初踏査だとは何たる独善であるのか。アメリカはコロンブスが発見する前から、アメリカ・インディアンにとっては、自分たちの住む領土であった。そう考えたとき、アメリカの発見とは、何という空々しさなのか。
とにかく、ミヤシールは、「明日、その男を連れてくる」といったのだ。
ハラハリのポーター
翌日の朝、テントの外がさわがしくなった。ファキールが私を呼びにきた。ハラハリ村の連中が登ってきていた。
ファキールにジアラッド、ハラハリ村の八人と私は、車座になって、岩の上に座った。私は、テープレコーダーをONにすると、話し始めた。
「ここからラスブールへ行き、またここに帰ってくる。何日必要か」「ジャーネーカドゥー。アーネーカドゥー。ジャーネー、アーネー、チャールディン、ホーガー(行き二日、帰り二日、行き帰り四日だ)」小ぶとりの爺さんが、早口でいった。「でも、一〇日かかるか、一五日かかるか、あんたたち次第さね」
「それで、一日何ルピーをお前たちに与えるべきなのか」と、私が聞くと、すでにファキール等と相談してあったらしく、すぐに答えた。
「一日二〇ルピー。サーブ、道は非常にキケンだ。分かるか」老人は、サマジギャ(分かったか)を連発しながら、キンキン声でまくしたてる。「氷の割れ目を飛ぶんだ。分かるか。あのルートを知ってるのは俺だけだ。分かったか。二〇ルピーより安くはできない。分かったか」
老シカリー(猟師)のアブド.ラーハマン(六〇)。ボーとした感じだが眼光は鋭い。彼は若いときから何回も、ハラハリ峠(KharakhariGali一彼はマナリ・アンをそう呼んだ)を越えており、約一五回におよぶ。
彼がいなかったら、私たちのマナリ・アン越えは、成功したかどうか疑問だ。少なくとも、倍の日数はかかったろう。
とにかく、結論として、ここでハラハリ村のポーターに切りかえることにした。
ガプラル村の連中では、とても無理だ。彼等もそれをよく知っていて、この決定を内心喜んだようだ。
「俺たちには無理だ」とか「俺は行くのは恐しい」などということは、彼等のプライドが許さない。特に、一段低く見ているハラハリ村の連中の前では……。
「一緒にラスブールに行きたかった‥…」と私がいうと、ファキールは、あのくぼんだ眼をククッと見開いて、
「サーブ」と私を見つめ、それからハラハリ村の連中をねめまわしながら、「もし奴等がよくない行動をしたら、ガブラルに帰ってそういえ。俺はただじゃおかない」と、すごんだ。
高橋幸治みたいな顔をした、ムシュラップ・カーン(二八)が、「ティークタ、ティークタィ(分かった、分かったよ)」とコーヒスタニーで答えた。なんと、彼等にとって三つや四つの言語を話すのはごく普通のことだ。
ウルドー、プシュトー、コーヒスタニー、ゴジリー。四つの言語が入りみだれた談合は一時間も続いた。
その日の正午、私たちは峠越えに向かった。ベースを張って二日後、七月二十三日。予想外に、すばやい出発であった。(つづく)
ベースキャンプ建設の翌日、安田はポーターたちと、この放牧地にいる羊飼いをつれて、早朝から偵察にでた。
昼まえ、テントで寝ころがっている私の所へ、羊飼いのミヤシールがかけもどって、安田からの手紙を手渡した。
羊飼いのいう水のあるキャンプ地につきました。高度3810mです。
その地は、右岸のサイドモレーンと、支谷(ラスプール氷河へとちがう方)のモレーンとにかこまれ、凹地になっています。水は池の氷河水です。
ここまで二時間かかります(昨夜のキャンプ地より)。しかしここにくるにはサイドモレーンの急な斜面をトラバースするか、サイドモレーンぞいにくるかの方法しかありません。いずれの方法も少し荷物をもったポーターには危険かと思います。
水もあまりよくないし、ここから稜線への行動も前進キャンプを必要とすると思います。ただ、この支谷を登るのならいい場所ですが、本谷(ラスプールの谷)の方へは、昨夜のキャンプ地でもよいのではないかと思います。
ポーターは現在サイドモレーンの端でまたしてあります。この地をベースにするかどうかまよっています。バラサーブがくるか、それともその地で判断して、この男にいうかどうかして下さい。
安田(以上原文のまま)
と、メモ用紙にボールペンで、ゆがんだ活字のような、彼独特の字がつまっていた。
昨夜の打合せで、この場所は、前のサイドモレーンにさえぎられて何も見えない。本谷が見渡せる場所の方が、峠越えのルートも見つけやすかろう。できれば、キャンプを上方へ移動させよう、ということになっていた。
私は、安田の手紙を読んで、その場所を見にでかけることにした。
ほとんど氷河の末端近くを横ぎって、対岸のモレーンに行く。モレーンの末端近くには、ポーターたちであろう、いくつかの黒点が見え、はるか上手には、三つの人影があった。そこが、キャンプ予定地らしい。
私は、そこをまっすぐに狙って、氷河を斜めに横断することにした。
それは、想像以上にホネだった。私はまるで、砕石の山を行く、一匹のアリのようだ。
大小の、まだ大地よりけずりとられたばかりの、鋭く角ばり、とがった岩が、不安定に積み重なり、進行をはばんだ。
私は、この氷河をつめるルートとしては、サイドモレーン以外にないことを、身体で感じていた。
峠はある!
そのキャンプ予定地は、本当に見晴らしのよい所であった。安田と、シカリーのジアラッド、ポリスのガザン・カーンの三人は待ちくたびれて、氷河を吹きおろす風にふるえていた。
「ええ場所やなあ」私が、感嘆していると、ガザン・カーンが激しくわめきだした。 彼のプシュト一語は私には全然分からない。でもときどき混ざる、ウルドーだけが聞きとれた。
「………カプラー(衣服)……チャトリー(靴)……サルディー(寒い)……‥」 「私たちには靴も服も寝袋もテントもない」と、ジアラットがつづけた。「サーブたちはいいが、私は寒い。寒くて眠れないだろう。ここには暖をとる木がない。彼はそういったのです」 「それでお前もそう思うのか、ジアラッド」と、私がいうと、彼はまっすぐに私を見上げた。彼の眼は、なぜか物悲しげに見えた。「あなたが行けといえば行く。帰れといえば帰る。ここは寒い。でもサーブがここに寝るといえば、私は寝る。他の連中もそうする。
誰にも文句はいわせない。私たちに寒い思いをさせるのも、そうでなくするのもあなただ。サーブ自身の判断だ(サーブカ・アプナーマルジー)」(私たちは、引返したのであるが、もしどうしてもここにテントを移すことにしたら、どうなったろう。これは大変興味深い設問であるが、これについての考察は他稿に譲りたい)
その日の午後、ベースに帰りついてから、私は羊飼いのミヤシールに、峠越えの道案内人をさがすように頼んだ。今日の偵察の結果、どこを見ても、峠らしきものは見いだせなかった。
だが、必ず、峠はある! その峠はシルクロードの昔から使われていたはずだ。そして、それを知らないのは、いわゆる先進国の文明人だけであって、現地の人間にとっては、昔からの使い古された、生活の路にすぎないのだ。
そういうものを、発見だ、初踏査だとは何たる独善であるのか。アメリカはコロンブスが発見する前から、アメリカ・インディアンにとっては、自分たちの住む領土であった。そう考えたとき、アメリカの発見とは、何という空々しさなのか。
とにかく、ミヤシールは、「明日、その男を連れてくる」といったのだ。
ハラハリのポーター
翌日の朝、テントの外がさわがしくなった。ファキールが私を呼びにきた。ハラハリ村の連中が登ってきていた。
ファキールにジアラッド、ハラハリ村の八人と私は、車座になって、岩の上に座った。私は、テープレコーダーをONにすると、話し始めた。
「ここからラスブールへ行き、またここに帰ってくる。何日必要か」「ジャーネーカドゥー。アーネーカドゥー。ジャーネー、アーネー、チャールディン、ホーガー(行き二日、帰り二日、行き帰り四日だ)」小ぶとりの爺さんが、早口でいった。「でも、一〇日かかるか、一五日かかるか、あんたたち次第さね」
「それで、一日何ルピーをお前たちに与えるべきなのか」と、私が聞くと、すでにファキール等と相談してあったらしく、すぐに答えた。
「一日二〇ルピー。サーブ、道は非常にキケンだ。分かるか」老人は、サマジギャ(分かったか)を連発しながら、キンキン声でまくしたてる。「氷の割れ目を飛ぶんだ。分かるか。あのルートを知ってるのは俺だけだ。分かったか。二〇ルピーより安くはできない。分かったか」
老シカリー(猟師)のアブド.ラーハマン(六〇)。ボーとした感じだが眼光は鋭い。彼は若いときから何回も、ハラハリ峠(KharakhariGali一彼はマナリ・アンをそう呼んだ)を越えており、約一五回におよぶ。
彼がいなかったら、私たちのマナリ・アン越えは、成功したかどうか疑問だ。少なくとも、倍の日数はかかったろう。
とにかく、結論として、ここでハラハリ村のポーターに切りかえることにした。
ガプラル村の連中では、とても無理だ。彼等もそれをよく知っていて、この決定を内心喜んだようだ。
「俺たちには無理だ」とか「俺は行くのは恐しい」などということは、彼等のプライドが許さない。特に、一段低く見ているハラハリ村の連中の前では……。
「一緒にラスブールに行きたかった‥…」と私がいうと、ファキールは、あのくぼんだ眼をククッと見開いて、
「サーブ」と私を見つめ、それからハラハリ村の連中をねめまわしながら、「もし奴等がよくない行動をしたら、ガブラルに帰ってそういえ。俺はただじゃおかない」と、すごんだ。
高橋幸治みたいな顔をした、ムシュラップ・カーン(二八)が、「ティークタ、ティークタィ(分かった、分かったよ)」とコーヒスタニーで答えた。なんと、彼等にとって三つや四つの言語を話すのはごく普通のことだ。
ウルドー、プシュトー、コーヒスタニー、ゴジリー。四つの言語が入りみだれた談合は一時間も続いた。
その日の正午、私たちは峠越えに向かった。ベースを張って二日後、七月二十三日。予想外に、すばやい出発であった。(つづく)
西パキスタンの旅 第12話「幻の峠を求めて−−ハラハリ谷−−」
ラースプールヘ……
八時四五分、私たちはラブリを出発した。今日はキャラバン最終日。いろいろの波乱が予想される。
昨日どなったのがきいたのか、コックのアリカーンは、驚いたことに、今日は荷物をかつぐらしい。
ポーターへのデモンストレーションに、ひとつ体操をやろう、ということになった。大きなかけ声に驚いたのか、ポーターたちはポカンとしている。彼らが手を天に向けて、今日の安泰を神に祈っているのに、私たちは、不粋な準備体操なんぞをやっている。二時間ばかり、ぐんぐん高度をかせぐと、ハラハリ谷の豪快なゴルジュを抜ける。
ファキールが、ニワリと笑いながら、またしても、「サーブはラースプールへ行くんだなァ」という。このセリフを、彼は昨日から連発している。ファキール独特のゆっくりした口調で、本当に腹の底から発声する。彼ならシェークスピア劇の役者でも、充分こなせるだろう。
あんまり何回も聞いたから、私たちは今でも、ほとんど正確にまねることができるくらいだ。これを文字に表わすのは困難なんだが、たとえばこんな風になる。
「サァーブ、ラァースプール、ジァアエガァー(サーブはラースプールへゆくだろう)」
私はこたえて、「君たちもまたラースプールへゆくだろう(トゥムローグ、ビヒー、ラースプールジャエゲ)」
こんなやりとりをして、笑い合っていると、ジュマカーン(二五)が足元の雑草をひきぬいて、「食え、食えるぞ」という。
シロウマアサツキのような草だ。球根がドングリくらいに、可愛らしくふくらんでいる。手で泥をこすりとってかじると、ダイコンみたいな味がした。
ヒカゲチョウがとんできて、安田のネットをからくものがれると、岩壁にそって一目散に舞い上がり、見えなくなった。
ゴルジュを抜けると、谷は大きくひらける。まったく想像もつかないくらいに、大きくひらけるんだ。右手の岩壁の上の方に、氷河が、ひっかかったようにたれ下がっているのが見える。
スノーブリッジで左岸に渡るとすぐ、石づくりの家一七戸。ハラハリ村である。
集まってくる大人子供に、ジアラッドが、大いばりで説明している。
「サーブたちは、地図をつくりにラースプールへゆくんだ。サーブほ何でも紙に書きとめるんだぞ。どうだ。石ころまで写真に写すんだぞ」
いっぽう、ファキールはプリプリ怒っている。
「こんな所では昼飯を食う気にもならん。まったく悪い連中だ。紅茶に入れるだけのミルクもくれない。それどころか一〇倍近い値をふっかける」
彼にせかされて、私たちは出発した。一人の男がヒツジを首にまわしてかつぎ、後ろからついてくる。「四〇ルピーでないと買わないぞ」、ポリスのガザン・カーン(三〇)がキンキン声でいう。
「ナヒーン、アスィールピヤーン(いいや八〇ルピー)」、そういいながらも男はついてくる。
ベースについたらヒツジを食べよう、と私は昨日からいっていた。ファキールはだんどりよく、ヒツジを買う交渉を始わていたんだ。八〇ルピー(六〇〇〇円)とは、倍の値じゃないか、とファキールはふんがいしている。
賃金の支払い
ハラハリ村を出て、一〇分とゆかないうちに、踏跡はダケカンバの疎林を過ぎる。ダケカンバの上限だ。三三三〇メートル。ポーターたちはここで茶をわかし、チャパティーを焼く。
ここから、安田と中村が先行して、ベースの位置を選定することにした。その前に打合せをやった。ポーターの貸金支払いについてだ。もめごとが起これば安田が受けてたち、理論的にやり合う。状況の展開に応じて私が適当にわって入り、まとめるという役割分担だ。
私たちが打合せをやっている間も、一方ではヒツジの交捗がつづいている。男はいぜんとして、八〇ルピーを主張しているらしい。ファキールはやってくると、「サーブ、いくらなら買う?」と聞いた。
別の男がやってきて、上の方に放牧してあるのを売るといっている。それなら、ベースのあたりにいるのだから都合がいい。
「五〇ルピー以下なら買おう」と私はいった。
四時、ベース予定地につく。ハラハリ氷河の末端と同じくらいの位置で、三六八〇メートル。左岸のアブレーションバレーに設営、気持よいキャンプ地だ。
すぐ貸金を支払う。順調に終わりそうだ。ここから帰る八人のポーターは、三〇ルピーとボクシス(チップ)のレッドランプ二本(一本約一円のシガレット)をもらって喜んでいる。
まだあどけなさの残る、モカダール(一五)などは、大喜びでタバコに火をつけたとたん、おそらく初めてだったんだろう、激しくせき込んで、フラフラしている。
突然、ジュマカーンが、激しくアジ演説を始めた。
そしてみんなの賃金をまとめると、私につっ返してこういった。
「帰りに二日かかる。もう二日分の賃金が支払われるべきだ。そうでなかったら、金はいらない」、まったく予想していたとおりのことをいいだした。
「それでいくらほしいんだ。荷物なしでも一日一〇ルピーかい」と私。
「いや帰りは二日かかる。二日で一〇ルピーだ」
いよいよ安田の出番だ。「第一日目、出発は昼だった。君たちは半日しか働いていない。帰りに二日というが、半日だ。明日昼には帰りつけるはずだ。だから今渡したのに、帰りの賃金は含まれていることになる」
ジュマカーンも決して負けてはいないが、安田はこの論理を泰然とくり返す。ジュマカーンは相手悪しとみたか、今度は私に向かってくる。私はウンウンとうなずくだけ。ファキールに相談して、それでいいだろうというので、五ルピーの追加で話をまとめた。
ポーターたちは、ケロリとして、握手を求めると手を振りながら、小走りに下り去った。
ヒツジを屠る
さて、今度はヒツジの交渉だ。ファキールにまかせておいたら、みんなでワイワイヤっているばかりで、いっこうにらちがあかない。
どうなっているのかと首をつっ込んでみると、五〇ルピーに五ルピーを上乗せしろ、いやだめだ、ということでもめているんだ。
運び賃として五ルピー追加しろ、というのだが、ここに放牧されていたヒツジをほんのー〇〇メートルばかり歩かせて、運び賃五ルピーとは理不尽な、というのが買手のいいぶんだ。
ところが、ヒツジ飼いのミヤシールにすれば、彼はハラハリ村のヒツジを管理しているだけで、自分のものじゃない。買手が村で値を五〇ルピーと決めてきた以上、自分の取り分は全然ない。ともかく五ルピーくらいはいただかねば……というわけで一歩も後に引かない。運んだ距離など問題じゃない。
さて、買い手の心情はどうか。ポーターたちにすれば、サーブは五〇ルピーなら買うといった。たとえ五ルピーにしろ、超過したから止めた、というかもしれん。もしそうなったら、待望の肉とも泣き別れだ。何とか値切らねば、と必死になったらしい。私が、「いいだろう」といったとき、ポーターたちは、歓声をあげんばかりだった。
黒い毛の、まるまるとふとったヒツジを、背、腹、首となぜまわし、肉をつまみ、「モタ、モタ(ふとってる、ふとってる)」とつぶやいたガザンカーンの、あのよだれの出そうな顔は、本当にみものであった。
哀れな動物は四人の男に力づくで頭を西に向けて横たえられた。「アッラーホッアクバル、アッラーホッアクバール……(アラーは偉大なり‥…・)」 ファキールが唱える。
彼の手の、刃渡り二五センチのナイフがキラリと光り、ヒツジは一種形容し難い悲鳴をあげて、四肢をケイレンさせた。
首なしのけものの切り口から、鮮血が流れ出て、まばらに生えた草を染めた。しかし、その血の色は、忍び寄る夕闇の中で、いやに黒ずんで映った。 (つづく)
八時四五分、私たちはラブリを出発した。今日はキャラバン最終日。いろいろの波乱が予想される。
昨日どなったのがきいたのか、コックのアリカーンは、驚いたことに、今日は荷物をかつぐらしい。
ポーターへのデモンストレーションに、ひとつ体操をやろう、ということになった。大きなかけ声に驚いたのか、ポーターたちはポカンとしている。彼らが手を天に向けて、今日の安泰を神に祈っているのに、私たちは、不粋な準備体操なんぞをやっている。二時間ばかり、ぐんぐん高度をかせぐと、ハラハリ谷の豪快なゴルジュを抜ける。
ファキールが、ニワリと笑いながら、またしても、「サーブはラースプールへ行くんだなァ」という。このセリフを、彼は昨日から連発している。ファキール独特のゆっくりした口調で、本当に腹の底から発声する。彼ならシェークスピア劇の役者でも、充分こなせるだろう。
あんまり何回も聞いたから、私たちは今でも、ほとんど正確にまねることができるくらいだ。これを文字に表わすのは困難なんだが、たとえばこんな風になる。
「サァーブ、ラァースプール、ジァアエガァー(サーブはラースプールへゆくだろう)」
私はこたえて、「君たちもまたラースプールへゆくだろう(トゥムローグ、ビヒー、ラースプールジャエゲ)」
こんなやりとりをして、笑い合っていると、ジュマカーン(二五)が足元の雑草をひきぬいて、「食え、食えるぞ」という。
シロウマアサツキのような草だ。球根がドングリくらいに、可愛らしくふくらんでいる。手で泥をこすりとってかじると、ダイコンみたいな味がした。
ヒカゲチョウがとんできて、安田のネットをからくものがれると、岩壁にそって一目散に舞い上がり、見えなくなった。
ゴルジュを抜けると、谷は大きくひらける。まったく想像もつかないくらいに、大きくひらけるんだ。右手の岩壁の上の方に、氷河が、ひっかかったようにたれ下がっているのが見える。
スノーブリッジで左岸に渡るとすぐ、石づくりの家一七戸。ハラハリ村である。
集まってくる大人子供に、ジアラッドが、大いばりで説明している。
「サーブたちは、地図をつくりにラースプールへゆくんだ。サーブほ何でも紙に書きとめるんだぞ。どうだ。石ころまで写真に写すんだぞ」
いっぽう、ファキールはプリプリ怒っている。
「こんな所では昼飯を食う気にもならん。まったく悪い連中だ。紅茶に入れるだけのミルクもくれない。それどころか一〇倍近い値をふっかける」
彼にせかされて、私たちは出発した。一人の男がヒツジを首にまわしてかつぎ、後ろからついてくる。「四〇ルピーでないと買わないぞ」、ポリスのガザン・カーン(三〇)がキンキン声でいう。
「ナヒーン、アスィールピヤーン(いいや八〇ルピー)」、そういいながらも男はついてくる。
ベースについたらヒツジを食べよう、と私は昨日からいっていた。ファキールはだんどりよく、ヒツジを買う交渉を始わていたんだ。八〇ルピー(六〇〇〇円)とは、倍の値じゃないか、とファキールはふんがいしている。
賃金の支払い
ハラハリ村を出て、一〇分とゆかないうちに、踏跡はダケカンバの疎林を過ぎる。ダケカンバの上限だ。三三三〇メートル。ポーターたちはここで茶をわかし、チャパティーを焼く。
ここから、安田と中村が先行して、ベースの位置を選定することにした。その前に打合せをやった。ポーターの貸金支払いについてだ。もめごとが起これば安田が受けてたち、理論的にやり合う。状況の展開に応じて私が適当にわって入り、まとめるという役割分担だ。
私たちが打合せをやっている間も、一方ではヒツジの交捗がつづいている。男はいぜんとして、八〇ルピーを主張しているらしい。ファキールはやってくると、「サーブ、いくらなら買う?」と聞いた。
別の男がやってきて、上の方に放牧してあるのを売るといっている。それなら、ベースのあたりにいるのだから都合がいい。
「五〇ルピー以下なら買おう」と私はいった。
四時、ベース予定地につく。ハラハリ氷河の末端と同じくらいの位置で、三六八〇メートル。左岸のアブレーションバレーに設営、気持よいキャンプ地だ。
すぐ貸金を支払う。順調に終わりそうだ。ここから帰る八人のポーターは、三〇ルピーとボクシス(チップ)のレッドランプ二本(一本約一円のシガレット)をもらって喜んでいる。
まだあどけなさの残る、モカダール(一五)などは、大喜びでタバコに火をつけたとたん、おそらく初めてだったんだろう、激しくせき込んで、フラフラしている。
突然、ジュマカーンが、激しくアジ演説を始めた。
そしてみんなの賃金をまとめると、私につっ返してこういった。
「帰りに二日かかる。もう二日分の賃金が支払われるべきだ。そうでなかったら、金はいらない」、まったく予想していたとおりのことをいいだした。
「それでいくらほしいんだ。荷物なしでも一日一〇ルピーかい」と私。
「いや帰りは二日かかる。二日で一〇ルピーだ」
いよいよ安田の出番だ。「第一日目、出発は昼だった。君たちは半日しか働いていない。帰りに二日というが、半日だ。明日昼には帰りつけるはずだ。だから今渡したのに、帰りの賃金は含まれていることになる」
ジュマカーンも決して負けてはいないが、安田はこの論理を泰然とくり返す。ジュマカーンは相手悪しとみたか、今度は私に向かってくる。私はウンウンとうなずくだけ。ファキールに相談して、それでいいだろうというので、五ルピーの追加で話をまとめた。
ポーターたちは、ケロリとして、握手を求めると手を振りながら、小走りに下り去った。
ヒツジを屠る
さて、今度はヒツジの交渉だ。ファキールにまかせておいたら、みんなでワイワイヤっているばかりで、いっこうにらちがあかない。
どうなっているのかと首をつっ込んでみると、五〇ルピーに五ルピーを上乗せしろ、いやだめだ、ということでもめているんだ。
運び賃として五ルピー追加しろ、というのだが、ここに放牧されていたヒツジをほんのー〇〇メートルばかり歩かせて、運び賃五ルピーとは理不尽な、というのが買手のいいぶんだ。
ところが、ヒツジ飼いのミヤシールにすれば、彼はハラハリ村のヒツジを管理しているだけで、自分のものじゃない。買手が村で値を五〇ルピーと決めてきた以上、自分の取り分は全然ない。ともかく五ルピーくらいはいただかねば……というわけで一歩も後に引かない。運んだ距離など問題じゃない。
さて、買い手の心情はどうか。ポーターたちにすれば、サーブは五〇ルピーなら買うといった。たとえ五ルピーにしろ、超過したから止めた、というかもしれん。もしそうなったら、待望の肉とも泣き別れだ。何とか値切らねば、と必死になったらしい。私が、「いいだろう」といったとき、ポーターたちは、歓声をあげんばかりだった。
黒い毛の、まるまるとふとったヒツジを、背、腹、首となぜまわし、肉をつまみ、「モタ、モタ(ふとってる、ふとってる)」とつぶやいたガザンカーンの、あのよだれの出そうな顔は、本当にみものであった。
哀れな動物は四人の男に力づくで頭を西に向けて横たえられた。「アッラーホッアクバル、アッラーホッアクバール……(アラーは偉大なり‥…・)」 ファキールが唱える。
彼の手の、刃渡り二五センチのナイフがキラリと光り、ヒツジは一種形容し難い悲鳴をあげて、四肢をケイレンさせた。
首なしのけものの切り口から、鮮血が流れ出て、まばらに生えた草を染めた。しかし、その血の色は、忍び寄る夕闇の中で、いやに黒ずんで映った。 (つづく)
西パキスタンの旅 第11話「幻の峠を求めて−−ガブラル谷−−」
ポーターとの接し方
キャラバン出発の朝。ポーターたちが集まってきた。11人。10人といっておいたのだが…‥。一人一人名前と年をきく。みんなが、30歳、25歳、20歳、15歳で、その間の16とか23とかはない。すべて推定年齢ということだ。
そのとき、息せききって、駆けつけた男がいる。
「サーブ俺はどうなる。行ってもいいのだな。俺は行くぞ」例の男だ。一昨日、初対面で、大いにうり込み、茶店では、私たちに茶をふるまったりした。
私たちは、ポーターは彼がひきつれてくるとばかり思っていた。ところが、集まった連中の中にあの馬面が見えないので、不審に思っていたところだ。
自分も、仲間10人を集めてやってくるつもりであったが、つい朝ねぼうをしてしまった。自分一人だけでもそう思って駆けつけたという。
「アブゥ。お前は駄目だ」ポーターのファキール・モハメッド(三〇)が、ドスのきいた声でいう。
「アブとは何だ。俺のなまえはアブドゥル・ワ・ドゥールだ。俺は行くぞ、ファキール。サーブとおととい約束したんだぞ」アブの顔は真剣そのものだ。ファキールの方は、アブドゥルがムキになるので面白がっている様子。
二人がいい争っていると、鉄砲を持った男−シカリー(猟師)のジアラッド・ファキール(三〇)一がよく通る声でいった。
「やかましい、アブドゥル。お前が行くか行かぬかは、バラサーブの判断だ(バラサーブカマルジー)」
ポーターたちは、急にシンとなって、みんなが私の顔を見た。
「アブドゥル。行きたいというなら、一緒に行こう」
できるだけ、おおように構えること。パタン人ポーターに対するプリンシプル第一。こせこせ口出ししたり、けちけちした態度は感心しない。(ただし、これは相手のいうなりに金を払うということではない。むしろ値切るときには徹底的に値切るべきだ)
第二。命令してはならない。
だから私は、アブに「お前をやとう」とか「ついてこい」とかいわずに、「一緒に行こう」といった。
第三。対等に扱うこと。決定を下すうえに彼らの意見をきく。キャラバンの泊まり場などは、完全にまかせる。必要日数だけきめておけばよい。パタン人のような、特に個性の強い連中と接するには、無原則というのが一番よくない。そう思って、以上の三つを、パタン人ポーターに接する三原則とした。
もちろん、このプリンシプルがどこまで妥当で、どれほどうまくゆくか、それは疑問だ。みんなで検討して、間違っておれば訂正し、足らなければつけたす。これは、そんな最初の手がかりにすぎない。
そして、何回もの試行錯誤の末に、彼らにも、私たちにも納得のゆく、〈接触の原則〉が見つかるだろう。そうなって、私たちと彼らの間に、本当のラポール(人間的な信頼)が生まれ、私たちの峠越えも可能となるだろう。キャラバンは、こういう意味で非常に重要な期間なのだ。
スワットのデルスウ
私たち四人とポーター一二人、それにポリス二人の総勢二〇名のキャラバンは、カブラル谷を進む。
美しい谷だ。U字谷の氷蝕壁が、素晴らしい岩壁となって、タンネの木立を通して、両岸に展開する。道はずっと右岸ぞい。
三時半、ひらけたメドゥに着く。
シカリーのジアラッドは、荷物を置くとすぐ、銃を片手に岩壁の方へ忍んでゆく。銃声がしたと思ったらすぐ、二羽のノバトを下げて現われた。いい腕だ。狙ったら絶対はずさない。この日だけで、彼は五羽のハトをしとめた。すべて私たちの胃袋に入った。シカリ−をポータ−に加えたのは成功だった。
彼は、荷物をかつぐときにはいつも、「シャッカニ、バッカニー」とかけ声をかけて立ちあがった。(これに特に意味はない。日本の「セーノー」にあたると思われる)「山にいることがうれしくてしょうがないんや、あいつ」関田はいった。「ほんまのシカリーや、あの顔見てみ、ニコニコしてよる」
そして自分もまた、「シャツカニ、バッカニー」と彼のかけ声をまねた。
その夜、私たちは、セリジャバと呼ばれる放牧地の草原で、大きなたき火をかこんでいた。ポーターたちは歌った。その単調で、乾いた旋律には、中央アジアの匂いがあった。
ジアラッドは、銃をだいて、たき火から少し離れた岩の上にねそべっている。その、たき火に照らし出された姿を見ながら、中村がいった。「デルスウみたいや。スワットのデルスウ・ウザーラですネ、あいつは」
ベースキャンプで引返すとき、彼はK2というタバコを五箱も、私にくれた。タバコが少ないのを知っていたのだ。
いたく感謝した私は、ウトロートに帰り着くと、もう少し上等のウイルス一〇箱と靴下を返礼とした。
すると、彼は今度は、ツキノワグマの毛皮をくれた。ますます感激して、私たちは双眼鏡を贈った。
コンサマーを叱る
翌日は、ハラハリ谷の出合、ラブリまで進んだ。ここからカブラル谷を離れ、ハラハリ谷に入る。ここで、カブラル谷について、少々述べておこう。
ガブラル谷は、ほぼ北から南に下る、全長五〇〜六〇キロのU字谷である。
この谷は、ゴジリー語(いままで報告されなかった言語と思われる)を話す人たちの生活圏である。二六〇〇メートル付近までは永住村。それより上流は夏村。
夏、谷の残雪がきえると萌え出す牧草を追って、彼らは上流へ移動してゆく。谷の両岸には、このための夏小屋(あるいは移牧小屋)が、ほぼ一〜二キロおきに点々とつづく。もうみんな上にあがったあとで、すべて空家である。
五時少し前、ラブリ着。
石づくりの小屋が七つ。内五つは家畜用。人間用の一つに私たち、もう一つにはポーターが入る。
ポーターたちは、もう二日目でかなり仲よしになった。一緒になってさわぐ。やっぱり、アブが槍玉にあがる。
彼は初日は関田のお伴で、荷物は一六ミリ映写機と捕虫網だけ、意気揚々だった。けしからん奴だと、ファキールが、今日はたくさん持たせた。アブドゥルには面白くない一日であった。
「トゥム、アッチャーナヒーン(君は駄目だ)」と中村。彼にスケッチブックをあずけておいたら、どこかに置いてきてしまったらしいという。
「あしたは、アブで牝馬をこしらえようかい」今度はファキールがこういうと、怒ってとびかかった。でも半分ふざけてのこと。(このあたりでは獣姦がごく普通で、右の文句にも特別な意味があるらしい)
アブについてはかなりわかった。彼は字が書ける。この辺ではすごいインテリだ。ポーターたちもー目おいている。しかし、ひとこと多いのと、オッチョコチョイが玉にきず。チャパティ作りの名人だ。おいしいチャパティが食べられるのは、彼のおかげだ。
コックのアリカーン(二〇)はてんで駄目、何をしてよいのかわからず、ぽんやりしている。昨日もそうだった。
明日でキャラバンは終わる。何かもめごとがおこるとすれば明日だ。私は、一ぱつ気合をいれた。「コソサマー(コック)!お前の仕事は何だ。いってみろ。荷物は持たず、メシも作らず、金だけもらうつもりか。今すぐ帰れ」
私が急に激しい言葉をはいたので、アリカーンは驚いて、口もきけない。ファキールもジァラッドもうろたえた。
私たちは、小屋に入って、ひそかにオンザロックを飲んだ。洒は極秘になっていた。
回教徒にとって、酒を飲む者は悪人である。悪人に対しては、悪事を働いてもかまわない一これが彼ららしい論理かも知れぬと考えたからだ。
明日は、いよいよハラハリ入り。少々ねつきが悪かった。
(つづく)
キャラバン出発の朝。ポーターたちが集まってきた。11人。10人といっておいたのだが…‥。一人一人名前と年をきく。みんなが、30歳、25歳、20歳、15歳で、その間の16とか23とかはない。すべて推定年齢ということだ。
そのとき、息せききって、駆けつけた男がいる。
「サーブ俺はどうなる。行ってもいいのだな。俺は行くぞ」例の男だ。一昨日、初対面で、大いにうり込み、茶店では、私たちに茶をふるまったりした。
私たちは、ポーターは彼がひきつれてくるとばかり思っていた。ところが、集まった連中の中にあの馬面が見えないので、不審に思っていたところだ。
自分も、仲間10人を集めてやってくるつもりであったが、つい朝ねぼうをしてしまった。自分一人だけでもそう思って駆けつけたという。
「アブゥ。お前は駄目だ」ポーターのファキール・モハメッド(三〇)が、ドスのきいた声でいう。
「アブとは何だ。俺のなまえはアブドゥル・ワ・ドゥールだ。俺は行くぞ、ファキール。サーブとおととい約束したんだぞ」アブの顔は真剣そのものだ。ファキールの方は、アブドゥルがムキになるので面白がっている様子。
二人がいい争っていると、鉄砲を持った男−シカリー(猟師)のジアラッド・ファキール(三〇)一がよく通る声でいった。
「やかましい、アブドゥル。お前が行くか行かぬかは、バラサーブの判断だ(バラサーブカマルジー)」
ポーターたちは、急にシンとなって、みんなが私の顔を見た。
「アブドゥル。行きたいというなら、一緒に行こう」
できるだけ、おおように構えること。パタン人ポーターに対するプリンシプル第一。こせこせ口出ししたり、けちけちした態度は感心しない。(ただし、これは相手のいうなりに金を払うということではない。むしろ値切るときには徹底的に値切るべきだ)
第二。命令してはならない。
だから私は、アブに「お前をやとう」とか「ついてこい」とかいわずに、「一緒に行こう」といった。
第三。対等に扱うこと。決定を下すうえに彼らの意見をきく。キャラバンの泊まり場などは、完全にまかせる。必要日数だけきめておけばよい。パタン人のような、特に個性の強い連中と接するには、無原則というのが一番よくない。そう思って、以上の三つを、パタン人ポーターに接する三原則とした。
もちろん、このプリンシプルがどこまで妥当で、どれほどうまくゆくか、それは疑問だ。みんなで検討して、間違っておれば訂正し、足らなければつけたす。これは、そんな最初の手がかりにすぎない。
そして、何回もの試行錯誤の末に、彼らにも、私たちにも納得のゆく、〈接触の原則〉が見つかるだろう。そうなって、私たちと彼らの間に、本当のラポール(人間的な信頼)が生まれ、私たちの峠越えも可能となるだろう。キャラバンは、こういう意味で非常に重要な期間なのだ。
スワットのデルスウ
私たち四人とポーター一二人、それにポリス二人の総勢二〇名のキャラバンは、カブラル谷を進む。
美しい谷だ。U字谷の氷蝕壁が、素晴らしい岩壁となって、タンネの木立を通して、両岸に展開する。道はずっと右岸ぞい。
三時半、ひらけたメドゥに着く。
シカリーのジアラッドは、荷物を置くとすぐ、銃を片手に岩壁の方へ忍んでゆく。銃声がしたと思ったらすぐ、二羽のノバトを下げて現われた。いい腕だ。狙ったら絶対はずさない。この日だけで、彼は五羽のハトをしとめた。すべて私たちの胃袋に入った。シカリ−をポータ−に加えたのは成功だった。
彼は、荷物をかつぐときにはいつも、「シャッカニ、バッカニー」とかけ声をかけて立ちあがった。(これに特に意味はない。日本の「セーノー」にあたると思われる)「山にいることがうれしくてしょうがないんや、あいつ」関田はいった。「ほんまのシカリーや、あの顔見てみ、ニコニコしてよる」
そして自分もまた、「シャツカニ、バッカニー」と彼のかけ声をまねた。
その夜、私たちは、セリジャバと呼ばれる放牧地の草原で、大きなたき火をかこんでいた。ポーターたちは歌った。その単調で、乾いた旋律には、中央アジアの匂いがあった。
ジアラッドは、銃をだいて、たき火から少し離れた岩の上にねそべっている。その、たき火に照らし出された姿を見ながら、中村がいった。「デルスウみたいや。スワットのデルスウ・ウザーラですネ、あいつは」
ベースキャンプで引返すとき、彼はK2というタバコを五箱も、私にくれた。タバコが少ないのを知っていたのだ。
いたく感謝した私は、ウトロートに帰り着くと、もう少し上等のウイルス一〇箱と靴下を返礼とした。
すると、彼は今度は、ツキノワグマの毛皮をくれた。ますます感激して、私たちは双眼鏡を贈った。
コンサマーを叱る
翌日は、ハラハリ谷の出合、ラブリまで進んだ。ここからカブラル谷を離れ、ハラハリ谷に入る。ここで、カブラル谷について、少々述べておこう。
ガブラル谷は、ほぼ北から南に下る、全長五〇〜六〇キロのU字谷である。
この谷は、ゴジリー語(いままで報告されなかった言語と思われる)を話す人たちの生活圏である。二六〇〇メートル付近までは永住村。それより上流は夏村。
夏、谷の残雪がきえると萌え出す牧草を追って、彼らは上流へ移動してゆく。谷の両岸には、このための夏小屋(あるいは移牧小屋)が、ほぼ一〜二キロおきに点々とつづく。もうみんな上にあがったあとで、すべて空家である。
五時少し前、ラブリ着。
石づくりの小屋が七つ。内五つは家畜用。人間用の一つに私たち、もう一つにはポーターが入る。
ポーターたちは、もう二日目でかなり仲よしになった。一緒になってさわぐ。やっぱり、アブが槍玉にあがる。
彼は初日は関田のお伴で、荷物は一六ミリ映写機と捕虫網だけ、意気揚々だった。けしからん奴だと、ファキールが、今日はたくさん持たせた。アブドゥルには面白くない一日であった。
「トゥム、アッチャーナヒーン(君は駄目だ)」と中村。彼にスケッチブックをあずけておいたら、どこかに置いてきてしまったらしいという。
「あしたは、アブで牝馬をこしらえようかい」今度はファキールがこういうと、怒ってとびかかった。でも半分ふざけてのこと。(このあたりでは獣姦がごく普通で、右の文句にも特別な意味があるらしい)
アブについてはかなりわかった。彼は字が書ける。この辺ではすごいインテリだ。ポーターたちもー目おいている。しかし、ひとこと多いのと、オッチョコチョイが玉にきず。チャパティ作りの名人だ。おいしいチャパティが食べられるのは、彼のおかげだ。
コックのアリカーン(二〇)はてんで駄目、何をしてよいのかわからず、ぽんやりしている。昨日もそうだった。
明日でキャラバンは終わる。何かもめごとがおこるとすれば明日だ。私は、一ぱつ気合をいれた。「コソサマー(コック)!お前の仕事は何だ。いってみろ。荷物は持たず、メシも作らず、金だけもらうつもりか。今すぐ帰れ」
私が急に激しい言葉をはいたので、アリカーンは驚いて、口もきけない。ファキールもジァラッドもうろたえた。
私たちは、小屋に入って、ひそかにオンザロックを飲んだ。洒は極秘になっていた。
回教徒にとって、酒を飲む者は悪人である。悪人に対しては、悪事を働いてもかまわない一これが彼ららしい論理かも知れぬと考えたからだ。
明日は、いよいよハラハリ入り。少々ねつきが悪かった。
(つづく)
西パキスタンの旅 第10話「幻の峠を求めて−−プロローグ−−」
スワットはいい
スワットの沃野を、スワット河にそって遡ると、カラームに着く。
マンキャル(5715m)がそびえる。
「スワットはいいなァ」ここに着くまで、私たちは何度もそういい交した。いろいろといいのである。
まず、道がいい。スワットのゲートを通ってからジープが揺れなくなった。
次に眺めがよい……。山が見える。川が流れている。それも、赤茶けてひからびた、およそ川というイメージからほど遠い砂漠の川じゃない、本当の川だ。
さらに、緑がしたたっている。コーランには、天国の形容として〈緑したたり泉の水流れる〉とある。砂漠の民にとって、これは本当に天国なんだろう。多くのパキスタン人が「スワットへ行け。スワットがいい」といった理由が、いまわかった。
とはいうものの、緑があるということは、私たち日本人にとっては、彼らほど鮮烈ではない。
たしかに、水田が広がるスワットに走り込んだとき、私たちはホッとした。そして、しばらくすると、少々退屈した。こんな所は、日本にいくらでもある。緑したたり、水が流れて天国なら、日本中が天国だ。
道行く人々の目つきが、急に柔和になる。これは日本人の目だ。農耕民族の顔つきだ。誰かが少々の落胆をまじえていった。「なんや、日本みたいやんケー」
ところで、そういう顔の人たちの中に、金髪で蒼い瞳の少女を見つけて、私はハッとする。そうだ。アレキサンダーだ。
スワットには古い歴史がある。アレキサンダーや法顕も訪れた。シルクロードの山と谷だ。
走り去る壊れた建物や塔を、ジープの窓から追いながら、あれは仏跡だ、これは仏塔だろうと考える。そしてもう一度「スワットはいいなア」と思う。
このスワット地方を最初に訪れた日本隊は、京大の日パ合同登山調査隊。一九五七年のことだ。
その後、一〇年間、ここを訪れる日本隊は絶えてなかった。一九六七年、京都教育大パーティは、ボンベイーウィーンの移動調査の途中、スワットに立ち寄った。そして、まったく記録のない、ガブラル河に入った。
この隊の一人、土森さんは、私の友人でカラコルム・クラブのスタッフだ。私たちが遠征準備で、ウルドーのレッスンをやっている頃だったと思う。私は彼にきいた。「君今度行くならどこにする」
彼は間髪入れず答えたものだ。
「そらあんた、スワートでっせ」
登山基地・ウトロート
カラームから20km美しい渓流にそって走るとウトロートである。
レストハウスに入るとすぐ、スバダール(村長)が、ピストルを肩からつるし鉄砲をもったお伴をつれて現われた。
この辺の山を登るには、この辺のボスにあいさつをしないといけない。私たちは、カラームで、テシダール(郡長)を訪ねた。ところが彼は、ウトロートに出かけて、不在だった。だが、ここにくる途中、うまい具合に、テシダールのジープと行きあった。
「山に登るのでよろしく」私は、プレゼントのカッターシャツをさし出す。彼はジープの窓から、ニュッと手を伸ばして受取り、「そうか、カラームに着いたら、ウトロート・スバダールに電話しとこう」
そこでスバダールの早々のお出ましというわけだ。
彼は開口一番、「護衛の警官は何人必要か」ときいた。
「護衛なぞいらないと思う。どうしても必要なのか」と私。村長は答える。
「アプカ・マルジー(あたたのご判断で…‥)」そういわれると、こちらも不安になる。
「本当に護衛をつけないと危険なのか」
「そりや危ない」と、そばからレストハウスのチョキダール(番人)も口をはさむ。
「そんなら、必要ではないか。やっぱりつけた方がよいのだな」私が念をおすと、村長またしても、
「アブカ・マルジー」
これには参った。何度かこんなやりとりの後、結局二人のポリスが同行することになる。
このレストハウスは、一九六六年にできたという。シャワー、水洗トイレ付のツインベッドルームが三つ。ちょっとしたホテル並だ。
チョキダールが二人いる。ジャッフル・カーン(二五)とバカタ・アミーン(三〇)。ジャッフル・カーンは、金髪碧眼。ピストルを自慢たらしくさげているが、蚊のなくような震え声でしゃべる。貧相な男だ。
バカタの方は大男。男の子が二人ある。大きくなったら、学校の先生をさせたいといった。
どういういきさつだったか、すっかり忘れてしまったが、ともかく、このバカタの背中を、「しっかりせんかい」とか何とか日本語でいいながら、私がポンとたたいた。
とたんに、私の背中はグローブほどの大きな手で、バーンとたたき返された。
これには驚いた。こんなことは初めてだ。なるほどここはスワットだ、と私は思った。ペシャワール州、スワット州などは、いわゆるパタン族の住むトライバルテリトリー(部族地域)だ。植民地時代、イギリスはついにこの地方を制圧できなかった。独立自尊。誇り高い人々なのだ。そして「目には目を」の鉄則が生きている。
幻の峠はある?
ジープで、ガブラル村まで偵察に出かける。レストハウスから五キロほど上流だ。ここがキャラバンの起点となる。
たくさん男が集まってくる。
「ハラハリ谷からラスプールへは行けるのか」
「ジャーサクターハイ・サーブ(行けるよ旦那)」 色白で馬づらの男が進み出て、口から唾をとばしながらまくしたてる。「俺にまかしとけサーブ。それで人夫は何人いるんだサーブ」
「まあ九人か一〇人。ところでお前はラスプールへ行ったことがあるのか」
「いいや」すましたもんである。
「出発はいつなんだ。サーブ。俺は英語もドイツ語もフランス語もしゃべれるんだぜ」
「ちょっとしゃべってみろ」
「イングリッシュジャルマニーフレンチ、どうだサーブ」一気にいって、やはりすましている。漫才みたいな男だ。アブドゥル・ワ・ドゥール、三〇歳。名前からして面白い。私たちは大笑いした。
いずれにしろ、このあたりで、ラスプールへの峠越えをした男はいない。ガプラル谷に関しては、土森君たちの調査でかなりよくわかっているが、その支谷、ハラハリ谷に関してはまったく未知なのだ。
ところで、ガブラル河の一つ西側の谷は、パンジューラ河である。
この河をつめると、ショーヒパスを通って、ラスブールに至る。
このコースは、シルクロードの一部であった。現に、法顕はこのコースでスワットに入った、と唱える学者もいる(もちろん異説紛々であるが、見方をかえれば、それほどたくさんのルートが考えられるということは、シルクロードが、このあたりで、たくさんの谷や峠を通って千々に分かれていたことを意味する)。
とすれば、当然、ハラハリ谷よりラスブールヘの峠越えルートは、シルクロードの間道であったろう。そしてそれは、幻の峠一マナリ・アンかも知れない。
私たちは、いろいろの情報集めや、作戦会議の必要を感じていた。しかし、パキスタンの生活になじんで、今はもう、せっかちな日本人でなくなつている。今夜にでも、飲みながらゆっくり考えよう。情報は明日集めよう。それより釣りだ。日のあるうちにジャコ釣りだ、とリール竿をかついで河に向かった。
ガブラル河にはマスが放流されている。ここで釣りをするには、許可がいる。その許可証は、サイドシェリフ(スワットの首都)で発行される。私たちにそんなものはない。
出かけるとき、「許可証はない。お前は目をつぶれ」というと、チョキグールのバカタは片目をつぶった。
約二時間がんばった。一匹も釣れない。暗くなるので帰ろうとしたとき、ワッチマン(監視人)が現われ、まんまとつかまってしまった。「罰金一〇〇〇ルビー」という。平あやまりにあやまった。
レストハウスに帰り着いて、私はいった。
「魚はつかまらなかった。そしてワッチマンが私をつかまえた」
バカタは、手をパンパンとたたいて大声で笑った。 (つづく)
<高田注記>
この連載で、私はパキスタンの地域名ーSwatの表記に関して、スワートとスワットの両方を使っています。スワートなる表記はもっとも一般的です。この地域に最初に遠征した京大隊の本田勝一さんが、そう紹介したからだと思っています。しかし、この地方での現地のパキスタン人の発音は、明らかに「スワート」ではなく、「スワット」でした。そんなわけで、発音に忠実な表記としたのだと思います。
スワットの沃野を、スワット河にそって遡ると、カラームに着く。
マンキャル(5715m)がそびえる。
「スワットはいいなァ」ここに着くまで、私たちは何度もそういい交した。いろいろといいのである。
まず、道がいい。スワットのゲートを通ってからジープが揺れなくなった。
次に眺めがよい……。山が見える。川が流れている。それも、赤茶けてひからびた、およそ川というイメージからほど遠い砂漠の川じゃない、本当の川だ。
さらに、緑がしたたっている。コーランには、天国の形容として〈緑したたり泉の水流れる〉とある。砂漠の民にとって、これは本当に天国なんだろう。多くのパキスタン人が「スワットへ行け。スワットがいい」といった理由が、いまわかった。
とはいうものの、緑があるということは、私たち日本人にとっては、彼らほど鮮烈ではない。
たしかに、水田が広がるスワットに走り込んだとき、私たちはホッとした。そして、しばらくすると、少々退屈した。こんな所は、日本にいくらでもある。緑したたり、水が流れて天国なら、日本中が天国だ。
道行く人々の目つきが、急に柔和になる。これは日本人の目だ。農耕民族の顔つきだ。誰かが少々の落胆をまじえていった。「なんや、日本みたいやんケー」
ところで、そういう顔の人たちの中に、金髪で蒼い瞳の少女を見つけて、私はハッとする。そうだ。アレキサンダーだ。
スワットには古い歴史がある。アレキサンダーや法顕も訪れた。シルクロードの山と谷だ。
走り去る壊れた建物や塔を、ジープの窓から追いながら、あれは仏跡だ、これは仏塔だろうと考える。そしてもう一度「スワットはいいなア」と思う。
このスワット地方を最初に訪れた日本隊は、京大の日パ合同登山調査隊。一九五七年のことだ。
その後、一〇年間、ここを訪れる日本隊は絶えてなかった。一九六七年、京都教育大パーティは、ボンベイーウィーンの移動調査の途中、スワットに立ち寄った。そして、まったく記録のない、ガブラル河に入った。
この隊の一人、土森さんは、私の友人でカラコルム・クラブのスタッフだ。私たちが遠征準備で、ウルドーのレッスンをやっている頃だったと思う。私は彼にきいた。「君今度行くならどこにする」
彼は間髪入れず答えたものだ。
「そらあんた、スワートでっせ」
登山基地・ウトロート
カラームから20km美しい渓流にそって走るとウトロートである。
レストハウスに入るとすぐ、スバダール(村長)が、ピストルを肩からつるし鉄砲をもったお伴をつれて現われた。
この辺の山を登るには、この辺のボスにあいさつをしないといけない。私たちは、カラームで、テシダール(郡長)を訪ねた。ところが彼は、ウトロートに出かけて、不在だった。だが、ここにくる途中、うまい具合に、テシダールのジープと行きあった。
「山に登るのでよろしく」私は、プレゼントのカッターシャツをさし出す。彼はジープの窓から、ニュッと手を伸ばして受取り、「そうか、カラームに着いたら、ウトロート・スバダールに電話しとこう」
そこでスバダールの早々のお出ましというわけだ。
彼は開口一番、「護衛の警官は何人必要か」ときいた。
「護衛なぞいらないと思う。どうしても必要なのか」と私。村長は答える。
「アプカ・マルジー(あたたのご判断で…‥)」そういわれると、こちらも不安になる。
「本当に護衛をつけないと危険なのか」
「そりや危ない」と、そばからレストハウスのチョキダール(番人)も口をはさむ。
「そんなら、必要ではないか。やっぱりつけた方がよいのだな」私が念をおすと、村長またしても、
「アブカ・マルジー」
これには参った。何度かこんなやりとりの後、結局二人のポリスが同行することになる。
このレストハウスは、一九六六年にできたという。シャワー、水洗トイレ付のツインベッドルームが三つ。ちょっとしたホテル並だ。
チョキダールが二人いる。ジャッフル・カーン(二五)とバカタ・アミーン(三〇)。ジャッフル・カーンは、金髪碧眼。ピストルを自慢たらしくさげているが、蚊のなくような震え声でしゃべる。貧相な男だ。
バカタの方は大男。男の子が二人ある。大きくなったら、学校の先生をさせたいといった。
どういういきさつだったか、すっかり忘れてしまったが、ともかく、このバカタの背中を、「しっかりせんかい」とか何とか日本語でいいながら、私がポンとたたいた。
とたんに、私の背中はグローブほどの大きな手で、バーンとたたき返された。
これには驚いた。こんなことは初めてだ。なるほどここはスワットだ、と私は思った。ペシャワール州、スワット州などは、いわゆるパタン族の住むトライバルテリトリー(部族地域)だ。植民地時代、イギリスはついにこの地方を制圧できなかった。独立自尊。誇り高い人々なのだ。そして「目には目を」の鉄則が生きている。
幻の峠はある?
ジープで、ガブラル村まで偵察に出かける。レストハウスから五キロほど上流だ。ここがキャラバンの起点となる。
たくさん男が集まってくる。
「ハラハリ谷からラスプールへは行けるのか」
「ジャーサクターハイ・サーブ(行けるよ旦那)」 色白で馬づらの男が進み出て、口から唾をとばしながらまくしたてる。「俺にまかしとけサーブ。それで人夫は何人いるんだサーブ」
「まあ九人か一〇人。ところでお前はラスプールへ行ったことがあるのか」
「いいや」すましたもんである。
「出発はいつなんだ。サーブ。俺は英語もドイツ語もフランス語もしゃべれるんだぜ」
「ちょっとしゃべってみろ」
「イングリッシュジャルマニーフレンチ、どうだサーブ」一気にいって、やはりすましている。漫才みたいな男だ。アブドゥル・ワ・ドゥール、三〇歳。名前からして面白い。私たちは大笑いした。
いずれにしろ、このあたりで、ラスプールへの峠越えをした男はいない。ガプラル谷に関しては、土森君たちの調査でかなりよくわかっているが、その支谷、ハラハリ谷に関してはまったく未知なのだ。
ところで、ガブラル河の一つ西側の谷は、パンジューラ河である。
この河をつめると、ショーヒパスを通って、ラスブールに至る。
このコースは、シルクロードの一部であった。現に、法顕はこのコースでスワットに入った、と唱える学者もいる(もちろん異説紛々であるが、見方をかえれば、それほどたくさんのルートが考えられるということは、シルクロードが、このあたりで、たくさんの谷や峠を通って千々に分かれていたことを意味する)。
とすれば、当然、ハラハリ谷よりラスブールヘの峠越えルートは、シルクロードの間道であったろう。そしてそれは、幻の峠一マナリ・アンかも知れない。
私たちは、いろいろの情報集めや、作戦会議の必要を感じていた。しかし、パキスタンの生活になじんで、今はもう、せっかちな日本人でなくなつている。今夜にでも、飲みながらゆっくり考えよう。情報は明日集めよう。それより釣りだ。日のあるうちにジャコ釣りだ、とリール竿をかついで河に向かった。
ガブラル河にはマスが放流されている。ここで釣りをするには、許可がいる。その許可証は、サイドシェリフ(スワットの首都)で発行される。私たちにそんなものはない。
出かけるとき、「許可証はない。お前は目をつぶれ」というと、チョキグールのバカタは片目をつぶった。
約二時間がんばった。一匹も釣れない。暗くなるので帰ろうとしたとき、ワッチマン(監視人)が現われ、まんまとつかまってしまった。「罰金一〇〇〇ルビー」という。平あやまりにあやまった。
レストハウスに帰り着いて、私はいった。
「魚はつかまらなかった。そしてワッチマンが私をつかまえた」
バカタは、手をパンパンとたたいて大声で笑った。 (つづく)
<高田注記>
この連載で、私はパキスタンの地域名ーSwatの表記に関して、スワートとスワットの両方を使っています。スワートなる表記はもっとも一般的です。この地域に最初に遠征した京大隊の本田勝一さんが、そう紹介したからだと思っています。しかし、この地方での現地のパキスタン人の発音は、明らかに「スワート」ではなく、「スワット」でした。そんなわけで、発音に忠実な表記としたのだと思います。
西パキスタンの旅 第9話「バブサル峠への潜行−−その1−−」
バラコットで舗装が切れ、道が悪くなった。私たちのランドクルーザーは、頼もしい唸りをあげて山道を登る。いよいよカガン峡谷が始まった。関田と運転を交代する。もう午後四時だ。道はぐんぐん登り、ジェーラム河は、はるか下になった。
「さっきから、もう八〇〇メートルも登りました」高度計を見て、安田があきれたようにいう。カガン峡谷の壮大なU字谷は、あまりに大きく、対岸の山腹はかすんで見える。
安田が道をにらみながら「今度はうまく行くのとちがうやろか」「分らんが、やってみんことには‥…」と私。
再度ギルギットを目ざし
インダスルートで追い返された私たちは、いったんギルギットをあきらめ、スワートへ向かった。そして、本来の目的である調査・登山を行なった。限られた日数では、大した成果は期待できなかった。ところが、幸運にも、幻の峠といわれたマナリ・アン(四八〇〇メートル)の初トレースを行なうことができた(マナリ・アンは、私たちにつづいて、今年、富山の女性パーティが私たちとは逆コースで越えたと聞く)。
この予想外の獲物をひっさげ、私たちは意気揚々ピンディ一に帰ってきた。
もう八月の初めだった。知らぬ間に、パキスタンの二カ月が過ぎていた。そろそろバブサル峠(四二〇〇メートル)の雪も消えるころだ。私たちは、再度ギルギットを目ざしたわけだ。今度は、カガン谷よりバブサル越えだ(cf、山渓八月号)。
もし失敗しても、カガン谷のマス釣りだけは楽しめるだろう。
カガン谷は、インダスの支流、ジューラム河の源流で、イギリス統治時代に英人が放流したマスがおり、豪快なトラウトフィッシングが楽しめる。
インダスルートの経験があるので、今回も密かに情報を探った。どこに関所があるかが問題だ。ゲートは、カガンとナランという部落にあることが分った。
八月九日、アメーバ赤痢で弱っている中村をホテルに残し、三名はカガンへ向かった。
ー一こういう次第で、私たち三人は、今、カガン峡谷を遡っている。
夕闇が迫ってきた。道は山腹を高く巻いている。テントがあるから、どこにでも泊まれるのだが、なるべく人目につかない場所がよいだろう。
先ほどのバラコットでは、大騒ぎだった。注油のためにスタンドで停まったら、いつもの通り、たちまち黒山の人だかり。大部分が避暑客だ。そして、日本は素晴らしい国だとか、日本のカメラを送ってくれないかとか、例によって例の調子で、いいかげんうんざりした。
おまけに、「何しにきたのか」などと開かれると、相手は何の気なしにいっていても、何となくいい気持がしない。「勿論魚釣りだ」と答える。すると「ナランに行くのだったら許可がいるよ」と教えてくれる。
そんなことはくる途中で、スタンドやトラックの運チャンからも聞いている。つまり、カガンまでは自由に行けるが、道路許可証がないとそこのゲートが通れないのだ。
「ナランはならんか」
関田が、肩をゆすり上げるようにして、ハンドルをまわしながら、冗談をいった。誰も笑わなかった。
旦那、そこは危ない!
暗くなってきた。道が小さな流れをよぎるあたりの平地で、幕営とする。一坪にも足らないが、道を別として、ようやく見つけた広場だ。まわりは、相当にせり立った岩場で、空は一部しか見えない。とぎどき雲が切れて、星がまたたくが、何とも陰気な場所だ。
食事をすますと九時だった。紅茶を飲んで寝ようとしたとき、ジープがやってきた。
私たちを見つけたらしく、人がやってくる。不吉な予感で、三人とも身を固くする。兵隊ではないようだ。こつちから声をかける。「サラームレイクム(今晩は)」「サーブ、イスカジャガー、ティークナヒーンヘー(この場所はよくないよ。ボホット、カタルナークヘー(大変危険だ)」
理由を聞くと、雨が降るとどっと水がくる。つまり鉄砲水をくう場所なのだ。なるほど気をつけて見ると、草は生えていないし、水の流れた跡もある。私たちのいるのは、ルンゼの真中らしい。
けれど、今日は、早朝から走りづめで、三人とも疲れている。確かに天気はよくない。しかし、今降るという訳じゃない。降り出してから移動しても、間に合うだろう。それに、この一トン以上もある車をはじきとばすほどの奴もこないだろう……。とかなんとか理由をつけて、私たちは眠り込んでしまった。
激しい雷鳴とイナビカリに目が覚めた。あたりが真昼のように明るくなる。一面の霧だ。これはいけません、あわてて逃げ出す用意をする。十一時だ。
「これは、やっぱり、夜間突破せいという、アッラーの思召しでっせ」ねぼけ顔で安田がいった。
こんな危険な道を、夜は走りたくはなかったが、こうなったらしかたがない。ばらつき出した雨の中を出発した。不思議と恐ろしくない。昼の方が怖かった。昼とちがって、ライトに照された道しか見えないせいだろう。一時間も走ったろうか。
突然、道の上に人影が浮かび上がった。手を振っている。三人だ。
「サーブ、後生だから乗せていってくれ。カガンまで」
「ナヒーン、ナヒーン(ダメダメ)、場所がない」
「後ろに乗れるじゃないか。妹が病気なのだ」
「よく見てみろ。後は荷物でいっばいだ。ダメだ」
取りすがるようにしている二人の男を振り切って、また走り出した。
「歩いてカガンまで帰るんか。朝になるやろな」関田が気の毒そうにいった。でも本当に後部は荷物でいっぱいだし、私たちは、今そんなことにかかわってはおられない。
「女がおったな。あれは、あの男の嫁はんやろか」と関田。
「ちがう、妹やろ。バーヒンといったと思うで」
「俺はバーイと聞いた。だから弟が病気や、ゆうたんや」
「すると、あの女はおふくろで、物凄いおばあかも知れんな。なんせ、アトミックみたいなブルカしてよるさかい、さっぱり分らん」
この危険な道を夜走ることと、前途の不安で、無口になっていた私たちは、急にほがらかになっていた。
シャバシュ!(やったぞ!)
あ、車がくる。そう思って、ライトの光で区切られた岩鼻を曲がると、一台のジープが停まっていた。数人の男がせわしげに動いているのが、シルエットになって見える。大きな岩が道をふさいでいる。落ちてきたばかりらしい。男共は、路肩のガードレール用の石垣をこわして道幅をひろげようとしているのだ。私たちも手伝う。
道から突き落とされた石は、ごうごうと音をとどろかせ、赤い火花を散らしながら、いつまでも落ちていく。今いる場所の高さを、改めて知って、足がすくんだ。.
先方のジープは、ゆっくりと通り抜け、男共は「シャバシユ!シャバシユ(でかした)」と歓声を上げている。
今度は私たちの番だ。さっきから、関田は問題の個所をライトで見ていたが、「こらあきまへん」と沈痛な声でいった。
見ると、石積の一番下が大きな埋め込まれた石であったので、それを除いた跡が大きくえぐれ、路肩が欠け落ちていた。
今通ったのはウイリスジープで、私たちのランドクルーザーよりはるかに小さい。よし、そんなら石を積もう。私たちはいくつも石を積み重ね、路肩をつくろった。男たちも手伝ってくれた。
運転席に座ってから、大分ためらったが、意を決して発進した。運転席は山側なので、もしグラリときたら飛び出すつもりであった。何度かやり直しをくり返し、四輪駆動で、ソロリソロリと通った。
外にいる関田の「アカン、アカン」という声や、安田の「後輪、一センチはみ出してます」という声を聞きながら、必死の思いだった。
無事通過し終えたとき、私たちも思わず「シャバシュー!」と叫び声を上げていた。 (つづく)
西パキスタンの旅 第8話「ギルギットへの突入−−その4−−」
進むべきか戻るべきか?
しゃにむに飛び出した私たちであったが、うしろが気になってしかたがない。また、追いかけられるのではないだろうか。
パタン村をはずれると、急に道が悪くなった。車は、垂壁をえぐった道を進む。
前方に白い頂の山が見えてきた。5000m近くあるだろう。小さな懸垂氷河がはりついている。それでも、パキスタンにきて初めて見る氷河だ。私たちは、車を止めて、しばし眺め入った。
三〇分も走ると、大きな支谷がはいってくる。橋のたもとに、トラックが二台。番兵が手で合図して車を止めた。
「今、下から電話があった。上流で道が決壊して車が通れない。あなた方はいったんパタンに引返し今夜はそこに泊まってほしいとのことです」
「道はいつなおるのか?」
「明日は通れるでしょう」
止まっているトラックは、引返してきたものらしい。念のためだ。私はトラックの運チャンに確かめる。
道がつぶれたのは事実らしい。今日の雨のためだ。だが、運チャンはこういったのだ。
「トラックは無理だが、土がくずれただけだから、このジープなら通れるよ」
どうしたもんだろうか。私たちは、額をよせて相談した。
進むべきか? 戻るべきか? 電話を無視して突走ることは可能だろう。しかし、かりに彼らが私たちに、何らかの疑いを持っているとしたら……。突走ったら…。彼らの疑いは確信とかわり、どういう豹変があるか分らない。やはりこの際、電話はあくまで、善意のものと受けとったふうをよそおうべきだ。こういう結論を得た。「明日は行けます。明日会いましょう」工兵の言葉を背に、私たちはUターンした。
谷間には、すでに夕もやが立ちこめている。私たちは黙り込んでいた。
何となくガックリするような落胆と、一方では、たたりものが落ちたような安堵の入りまじった、複雑な気持であった。
パタンに帰りついても誰もあらわれない。ベアラーに呼ばれて、目玉と二人の士官がでてきた。そして、目玉のいった言葉を開いて、私たちはまったくポカンとなった。
「どうしたのだ。なぜ戻ってきたのだ」
冗談じゃない。電話があったというから戻ってきたのだ。ところが、目玉はわれわれは誰もそんな電話はしていないというのだ。
「変だなあ」呆気にとられて私がいうと、目玉は
「アジーブヘーナァー」と口うつしにいって、喉の輿でクックッと笑った。
畜生!計られた! 私は反射的にそう思った。
もう夕闇があたりをつつんでいる。今から出発する気はない。けれども頭にきた私は「それでは、再度出発することにする」と言明した。
奴らはまたまた止めにかかった。
今回は目玉でない、もう一人の士官がよくしやべる。西部劇に登場するような顔の男だ。私がそういうと、
「俺はギリシャ人に似ているそうだ。以前ドイツに留学していたとき、よくそういわれた。ヨ一ロッパ中旅行して、そこら中に恋人ができた。次は日本に行く。日本の恋人を作るんだ」ベラベラとまくし立てる。でも目玉のようた陰険さはない。ほがらかで親しみが持てる。
「それほどいうなら、今夜はここに泊めてもらおう。明日ギルギットへ向かう」
「なぜそんなにギルギットヘ行きたいのだ。俺も昨日ギルギットから帰ってきたばかりだが、あそこは、砂ぼこりと、岩だけじゃないか、ほかに何がある。何にもないじゃないか。まったく頭にくるところだ」私だって頭にきている。
「理由なぞない。今となっては、ともかくギルギットへ進む。私たちは一度やろうとしたことは、簡単にはあきらめない。たとえ一パーセントの可能性しかなくても、可能性がある限り試みる積りだ」
すると彼は大きくうなずき、
「そうだ。その通りだ。私も兵学校でそう教わった。君は勇敢な男だ。僕の友だちだ。日本人は勇敢だと聞いていたが、なるほど本当だ」
こいつ調子のいいことをいって俺たちをなぶってやがる、と思いながら聞いていると、彼は一段声を落としてつづけた。
「でも君、もし、かりにだよ、君たちがギルギットまで行けたとして、それからどうする。二度と帰ってはこれないぞ」
彼は何をいわんとしているのだろう。私の頭は混乱する。
「しかし、アヌワーサーブはギルギットに行けるといったぞ」
「それは、コマンダーは君たちが好きなのだ。彼は君たちの感情を傷つけまいとしてそういったのだ」
と、目玉が横から口をはさんだ。
「コマンダーは、本当は行ってほしくないのだ。かりに彼が行かせたとしても、この上には、別の部隊がたくさんいる。そこを通ることは、まったく不可能なのだ」
You Can go down
アヌワーが、細身のステッキをついて、夕食にやってきた。三人の士官は直立不動となる。そしてもう一言もしゃべらない。
電話についてたずねると、「私はそんな電話はしない。多分下のゲートのものが、気をきかせてしたことではないか」
やはり電話については何にも分らない。一体どういうことなんだ。ともかく私はいった。
「明日、道はなおるそうだ。明朝出発するつもりだ」私がいうと、彼は困惑の表情でいった。
「実は、先月、アメリカのアベックが、ジープでインダスルートへきた。彼らは下のゲートで追い返された。君たちは、ずっと通れた。ここまできた外国人はいないのだ」
やはり、彼は進んでほしくないのだ。彼の表情を見て、これ以上いう気になれなかった。私は話題を変え、ディラン隊のリエゾンオフィサーであった、サファラズ大尉について話した。私たち二人は本当に親しい友であった。彼は気の毒に、印パ戦争で死んだらしい。
「彼は死んではいない。彼は生きている。嘘ではない。彼は第二の生を生きているのだ。現に、君の心にも生きているではないか」そして、アヌワーの話は延々とつづき、ついに宗教に話がおよぶと、もう私たち平均的日本人は完全にお手あげだ。
適当に受け流していると、アヌワーは話題を変えて質問する。「日本は将来、どこかの国と戦うことがあると思うか」
さあ困った。何とか答を作らねばならない。私もエコノミック・アニマルといわれる日本人の一人には違いない。私は答えた。
「戦って得をする戦争なら日本はやるかも知れぬ。だが、現代、得をする戦争なぞあり得ない。従って、日本が戦争することはまずあり得ない」
アヌワーはこの答に不服そうだ。ところが、目玉が大きくうなずいて、同感を示したのは意外だった。
すぐに次の質問がくる。「日本は共産主義化すると思うか」…。こんな調子で、散々苦しめられ、ようやく釈放されたのは、一二時近かった。
翌朝、食堂で目玉焼とプラター(油でいためたチャパティ)の朝食をとり、私たちは一段下の師団本部に向かった。そうするように、早朝指示があったからだ。
ところが、ジープが動かない。どうやら、数日前から不調だった燃料ポンプの計器がこわれたらしい。軍のメカニックに任すことにする。
本部では、一人のオフィサーによって、私に最後通告がなされた。(我々は、君達がギルギットに向かうことを許すことはできない)
別に驚かなかった。アヌワーのいった通り、ここまでこれただけでも、めっけものだ。
間もなく、ジープの修理が完了した。
私はアヌワーと握手した。彼は私の目をのぞくようにして、
「You Can go」といった。
私は笑いながら「Up?」と返した。
彼は、ほほえんで「Down」と答えた。
パタンの村は、みるみるあとになった。私たちは、この二日間にめまぐるしく起こった事件を語り合った。そして、さまざまのIf-storyをこしらえたり、事件の推測を試みて、楽しんだ。特に電話事件は、まったくの謎だった。永久の謎だろう。私たちの謎ときは今はもう、一つのゲームに過ぎなかった。そして私たちの心は、今や、まだ見ぬスワートの氷の峰に飛んでいた。(つづく)
西パキスタンの旅 第7話「ギルギットへの突入−−その4−−」
進むべきか戻るべきか?
しゃにむに飛び出した私たちであったが、うしろが気になってしかたがない。また、追いかけられるのではないだろうか。
パタン村をはずれると、急に道が悪くなった。車は、垂壁をえぐった道を進む。
前方に白い頂の山が見えてきた。5000m近くあるだろう。小さな懸垂氷河がはりついている。それでも、パキスタンにきて初めて見る氷河だ。私たちは、車を止めて、しばし眺め入った。
三〇分も走ると、大きな支谷がはいってくる。橋のたもとに、トラックが二台。番兵が手で合図して車を止めた。
「今、下から電話があった。上流で道が決壊して車が通れない。あなた方はいったんパタンに引返し今夜はそこに泊まってほしいとのことです」
「道はいつなおるのか?」
「明日は通れるでしょう」
止まっているトラックは、引返してきたものらしい。念のためだ。私はトラックの運チャンに確かめる。
道がつぶれたのは事実らしい。今日の雨のためだ。だが、運チャンはこういったのだ。
「トラックは無理だが、土がくずれただけだから、このジープなら通れるよ」
どうしたもんだろうか。私たちは、額をよせて相談した。
進むべきか? 戻るべきか? 電話を無視して突走ることは可能だろう。しかし、かりに彼らが私たちに、何らかの疑いを持っているとしたら……。突走ったら…。彼らの疑いは確信とかわり、どういう豹変があるか分らない。やはりこの際、電話はあくまで、善意のものと受けとったふうをよそおうべきだ。こういう結論を得た。「明日は行けます。明日会いましょう」工兵の言葉を背に、私たちはUターンした。
谷間には、すでに夕もやが立ちこめている。私たちは黙り込んでいた。
何となくガックリするような落胆と、一方では、たたりものが落ちたような安堵の入りまじった、複雑な気持であった。
パタンに帰りついても誰もあらわれない。ベアラーに呼ばれて、目玉と二人の士官がでてきた。そして、目玉のいった言葉を開いて、私たちはまったくポカンとなった。
「どうしたのだ。なぜ戻ってきたのだ」
冗談じゃない。電話があったというから戻ってきたのだ。ところが、目玉はわれわれは誰もそんな電話はしていないというのだ。
「変だなあ」呆気にとられて私がいうと、目玉は
「アジーブヘーナァー」と口うつしにいって、喉の輿でクックッと笑った。
畜生!計られた! 私は反射的にそう思った。
もう夕闇があたりをつつんでいる。今から出発する気はない。けれども頭にきた私は「それでは、再度出発することにする」と言明した。
奴らはまたまた止めにかかった。
今回は目玉でない、もう一人の士官がよくしやべる。西部劇に登場するような顔の男だ。私がそういうと、
「俺はギリシャ人に似ているそうだ。以前ドイツに留学していたとき、よくそういわれた。ヨ一ロッパ中旅行して、そこら中に恋人ができた。次は日本に行く。日本の恋人を作るんだ」ベラベラとまくし立てる。でも目玉のようた陰険さはない。ほがらかで親しみが持てる。
「それほどいうなら、今夜はここに泊めてもらおう。明日ギルギットへ向かう」
「なぜそんなにギルギットヘ行きたいのだ。俺も昨日ギルギットから帰ってきたばかりだが、あそこは、砂ぼこりと、岩だけじゃないか、ほかに何がある。何にもないじゃないか。まったく頭にくるところだ」私だって頭にきている。
「理由なぞない。今となっては、ともかくギルギットへ進む。私たちは一度やろうとしたことは、簡単にはあきらめない。たとえ一パーセントの可能性しかなくても、可能性がある限り試みる積りだ」
すると彼は大きくうなずき、
「そうだ。その通りだ。私も兵学校でそう教わった。君は勇敢な男だ。僕の友だちだ。日本人は勇敢だと聞いていたが、なるほど本当だ」
こいつ調子のいいことをいって俺たちをなぶってやがる、と思いながら聞いていると、彼は一段声を落としてつづけた。
「でも君、もし、かりにだよ、君たちがギルギットまで行けたとして、それからどうする。二度と帰ってはこれないぞ」
彼は何をいわんとしているのだろう。私の頭は混乱する。
「しかし、アヌワーサーブはギルギットに行けるといったぞ」
「それは、コマンダーは君たちが好きなのだ。彼は君たちの感情を傷つけまいとしてそういったのだ」
と、目玉が横から口をはさんだ。
「コマンダーは、本当は行ってほしくないのだ。かりに彼が行かせたとしても、この上には、別の部隊がたくさんいる。そこを通ることは、まったく不可能なのだ」
You Can go down
アヌワーが、細身のステッキをついて、夕食にやってきた。三人の士官は直立不動となる。そしてもう一言もしゃべらない。
電話についてたずねると、「私はそんな電話はしない。多分下のゲートのものが、気をきかせてしたことではないか」
やはり電話については何にも分らない。一体どういうことなんだ。ともかく私はいった。
「明日、道はなおるそうだ。明朝出発するつもりだ」私がいうと、彼は困惑の表情でいった。
「実は、先月、アメリカのアベックが、ジープでインダスルートへきた。彼らは下のゲートで追い返された。君たちは、ずっと通れた。ここまできた外国人はいないのだ」
やはり、彼は進んでほしくないのだ。彼の表情を見て、これ以上いう気になれなかった。私は話題を変え、ディラン隊のリエゾンオフィサーであった、サファラズ大尉について話した。私たち二人は本当に親しい友であった。彼は気の毒に、印パ戦争で死んだらしい。
「彼は死んではいない。彼は生きている。嘘ではない。彼は第二の生を生きているのだ。現に、君の心にも生きているではないか」そして、アヌワーの話は延々とつづき、ついに宗教に話がおよぶと、もう私たち平均的日本人は完全にお手あげだ。
適当に受け流していると、アヌワーは話題を変えて質問する。「日本は将来、どこかの国と戦うことがあると思うか」
さあ困った。何とか答を作らねばならない。私もエコノミック・アニマルといわれる日本人の一人には違いない。私は答えた。
「戦って得をする戦争なら日本はやるかも知れぬ。だが、現代、得をする戦争なぞあり得ない。従って、日本が戦争することはまずあり得ない」
アヌワーはこの答に不服そうだ。ところが、目玉が大きくうなずいて、同感を示したのは意外だった。
すぐに次の質問がくる。「日本は共産主義化すると思うか」…。こんな調子で、散々苦しめられ、ようやく釈放されたのは、一二時近かった。
翌朝、食堂で目玉焼とプラター(油でいためたチャパティ)の朝食をとり、私たちは一段下の師団本部に向かった。そうするように、早朝指示があったからだ。
ところが、ジープが動かない。どうやら、数日前から不調だった燃料ポンプの計器がこわれたらしい。軍のメカニックに任すことにする。
本部では、一人のオフィサーによって、私に最後通告がなされた。(我々は、君達がギルギットに向かうことを許すことはできない)
別に驚かなかった。アヌワーのいった通り、ここまでこれただけでも、めっけものだ。
間もなく、ジープの修理が完了した。
私はアヌワーと握手した。彼は私の目をのぞくようにして、
「You Can go」といった。
私は笑いながら「Up?」と返した。
彼は、ほほえんで「Down」と答えた。
パタンの村は、みるみるあとになった。私たちは、この二日間にめまぐるしく起こった事件を語り合った。そして、さまざまのIf-storyをこしらえたり、事件の推測を試みて、楽しんだ。特に電話事件は、まったくの謎だった。永久の謎だろう。私たちの謎ときは今はもう、一つのゲームに過ぎなかった。そして私たちの心は、今や、まだ見ぬスワートの氷の峰に飛んでいた。(つづく)
しゃにむに飛び出した私たちであったが、うしろが気になってしかたがない。また、追いかけられるのではないだろうか。
パタン村をはずれると、急に道が悪くなった。車は、垂壁をえぐった道を進む。
前方に白い頂の山が見えてきた。5000m近くあるだろう。小さな懸垂氷河がはりついている。それでも、パキスタンにきて初めて見る氷河だ。私たちは、車を止めて、しばし眺め入った。
三〇分も走ると、大きな支谷がはいってくる。橋のたもとに、トラックが二台。番兵が手で合図して車を止めた。
「今、下から電話があった。上流で道が決壊して車が通れない。あなた方はいったんパタンに引返し今夜はそこに泊まってほしいとのことです」
「道はいつなおるのか?」
「明日は通れるでしょう」
止まっているトラックは、引返してきたものらしい。念のためだ。私はトラックの運チャンに確かめる。
道がつぶれたのは事実らしい。今日の雨のためだ。だが、運チャンはこういったのだ。
「トラックは無理だが、土がくずれただけだから、このジープなら通れるよ」
どうしたもんだろうか。私たちは、額をよせて相談した。
進むべきか? 戻るべきか? 電話を無視して突走ることは可能だろう。しかし、かりに彼らが私たちに、何らかの疑いを持っているとしたら……。突走ったら…。彼らの疑いは確信とかわり、どういう豹変があるか分らない。やはりこの際、電話はあくまで、善意のものと受けとったふうをよそおうべきだ。こういう結論を得た。「明日は行けます。明日会いましょう」工兵の言葉を背に、私たちはUターンした。
谷間には、すでに夕もやが立ちこめている。私たちは黙り込んでいた。
何となくガックリするような落胆と、一方では、たたりものが落ちたような安堵の入りまじった、複雑な気持であった。
パタンに帰りついても誰もあらわれない。ベアラーに呼ばれて、目玉と二人の士官がでてきた。そして、目玉のいった言葉を開いて、私たちはまったくポカンとなった。
「どうしたのだ。なぜ戻ってきたのだ」
冗談じゃない。電話があったというから戻ってきたのだ。ところが、目玉はわれわれは誰もそんな電話はしていないというのだ。
「変だなあ」呆気にとられて私がいうと、目玉は
「アジーブヘーナァー」と口うつしにいって、喉の輿でクックッと笑った。
畜生!計られた! 私は反射的にそう思った。
もう夕闇があたりをつつんでいる。今から出発する気はない。けれども頭にきた私は「それでは、再度出発することにする」と言明した。
奴らはまたまた止めにかかった。
今回は目玉でない、もう一人の士官がよくしやべる。西部劇に登場するような顔の男だ。私がそういうと、
「俺はギリシャ人に似ているそうだ。以前ドイツに留学していたとき、よくそういわれた。ヨ一ロッパ中旅行して、そこら中に恋人ができた。次は日本に行く。日本の恋人を作るんだ」ベラベラとまくし立てる。でも目玉のようた陰険さはない。ほがらかで親しみが持てる。
「それほどいうなら、今夜はここに泊めてもらおう。明日ギルギットへ向かう」
「なぜそんなにギルギットヘ行きたいのだ。俺も昨日ギルギットから帰ってきたばかりだが、あそこは、砂ぼこりと、岩だけじゃないか、ほかに何がある。何にもないじゃないか。まったく頭にくるところだ」私だって頭にきている。
「理由なぞない。今となっては、ともかくギルギットへ進む。私たちは一度やろうとしたことは、簡単にはあきらめない。たとえ一パーセントの可能性しかなくても、可能性がある限り試みる積りだ」
すると彼は大きくうなずき、
「そうだ。その通りだ。私も兵学校でそう教わった。君は勇敢な男だ。僕の友だちだ。日本人は勇敢だと聞いていたが、なるほど本当だ」
こいつ調子のいいことをいって俺たちをなぶってやがる、と思いながら聞いていると、彼は一段声を落としてつづけた。
「でも君、もし、かりにだよ、君たちがギルギットまで行けたとして、それからどうする。二度と帰ってはこれないぞ」
彼は何をいわんとしているのだろう。私の頭は混乱する。
「しかし、アヌワーサーブはギルギットに行けるといったぞ」
「それは、コマンダーは君たちが好きなのだ。彼は君たちの感情を傷つけまいとしてそういったのだ」
と、目玉が横から口をはさんだ。
「コマンダーは、本当は行ってほしくないのだ。かりに彼が行かせたとしても、この上には、別の部隊がたくさんいる。そこを通ることは、まったく不可能なのだ」
You Can go down
アヌワーが、細身のステッキをついて、夕食にやってきた。三人の士官は直立不動となる。そしてもう一言もしゃべらない。
電話についてたずねると、「私はそんな電話はしない。多分下のゲートのものが、気をきかせてしたことではないか」
やはり電話については何にも分らない。一体どういうことなんだ。ともかく私はいった。
「明日、道はなおるそうだ。明朝出発するつもりだ」私がいうと、彼は困惑の表情でいった。
「実は、先月、アメリカのアベックが、ジープでインダスルートへきた。彼らは下のゲートで追い返された。君たちは、ずっと通れた。ここまできた外国人はいないのだ」
やはり、彼は進んでほしくないのだ。彼の表情を見て、これ以上いう気になれなかった。私は話題を変え、ディラン隊のリエゾンオフィサーであった、サファラズ大尉について話した。私たち二人は本当に親しい友であった。彼は気の毒に、印パ戦争で死んだらしい。
「彼は死んではいない。彼は生きている。嘘ではない。彼は第二の生を生きているのだ。現に、君の心にも生きているではないか」そして、アヌワーの話は延々とつづき、ついに宗教に話がおよぶと、もう私たち平均的日本人は完全にお手あげだ。
適当に受け流していると、アヌワーは話題を変えて質問する。「日本は将来、どこかの国と戦うことがあると思うか」
さあ困った。何とか答を作らねばならない。私もエコノミック・アニマルといわれる日本人の一人には違いない。私は答えた。
「戦って得をする戦争なら日本はやるかも知れぬ。だが、現代、得をする戦争なぞあり得ない。従って、日本が戦争することはまずあり得ない」
アヌワーはこの答に不服そうだ。ところが、目玉が大きくうなずいて、同感を示したのは意外だった。
すぐに次の質問がくる。「日本は共産主義化すると思うか」…。こんな調子で、散々苦しめられ、ようやく釈放されたのは、一二時近かった。
翌朝、食堂で目玉焼とプラター(油でいためたチャパティ)の朝食をとり、私たちは一段下の師団本部に向かった。そうするように、早朝指示があったからだ。
ところが、ジープが動かない。どうやら、数日前から不調だった燃料ポンプの計器がこわれたらしい。軍のメカニックに任すことにする。
本部では、一人のオフィサーによって、私に最後通告がなされた。(我々は、君達がギルギットに向かうことを許すことはできない)
別に驚かなかった。アヌワーのいった通り、ここまでこれただけでも、めっけものだ。
間もなく、ジープの修理が完了した。
私はアヌワーと握手した。彼は私の目をのぞくようにして、
「You Can go」といった。
私は笑いながら「Up?」と返した。
彼は、ほほえんで「Down」と答えた。
パタンの村は、みるみるあとになった。私たちは、この二日間にめまぐるしく起こった事件を語り合った。そして、さまざまのIf-storyをこしらえたり、事件の推測を試みて、楽しんだ。特に電話事件は、まったくの謎だった。永久の謎だろう。私たちの謎ときは今はもう、一つのゲームに過ぎなかった。そして私たちの心は、今や、まだ見ぬスワートの氷の峰に飛んでいた。(つづく)
西パキスタンの旅 第6話「ギルギットへの突入−−その3−−」
スパイ容疑?
ビカピカに磨きあげられたジープから現われた軍人は、およそ身長一八〇センチ。腹が少し出て、立派な口ひげをたくわえている。軍服・軍帽をぴたりと身につけ、手には指揮棒。胸にはズラリと略章。かなりの高官と見てとれた。士官四人を伴っている。
軍人は、待ちうける私に歩みよると「英語がしゃべれるか」と聞いてから、道路許可証を持っているかと聞いた。
「勿論ある」私は、″オブコース″と強く答えた。
「Show me(見せてもらおう)」
私は、うやうやしくTourist Introduction Cardをさし出した。一目見て、「これではない」彼は小さく舌打ちした。
私は、これは「パキスタン政府発行の許可証だろう」とすっとぼけ、それから To Whom It May Concern を見せた。
軍人は「ついてこい(Follow me)」というとジープに乗り込み、走り出した。私たちはあとを追った。ジープはぐんぐんスピードをあげ、すぐに見えなくなった。
半時間ほど行くと、インダス峡谷は急に開け、大きく広がった山すそに、村が現われた。かなり大きな村だ。パタンという。
入口にゲートがあって、鉄砲を持った番兵がいる。ゲートを開けてくれない。
「今ジープが通ったろう。あのジープに乗っていたのは誰だ」
「コマンダーサーブだ」
「私たちは、そのコマンダーサーブに呼ばれて行くところだ」。番兵は、ただちにゲートを開いた。
かの軍人はコマンダーであったのか。
私たちは、このパタン村に駐屯する工兵師団の司令官、アヌワ一大佐の出迎えをうけたのだ。これがよい前兆であるはずはない。私たちは緊張した。
下の道で待っていた下士官をステップに乗せて、ジープは案内されるままに、斜面に並ぶ軍隊宿舎の間をぬって、急斜面を登った。
コマンダーのメスは、一番高い所にある。ベアラーが三人出迎え、いとも親密の情を現わして私たちを居間に導いた。何となく調子が狂う。
紅茶をのんでいると、私たちを案内した下士官がきてこういった。
「あなた方は、服の着換えをお持ちですか。身体を洗って、服を着がえるように。コマンダーサーブが、いっしょに食事をするとおっしゃっています」
あくまでも、私たちをコマンダーの客と信じている様子だ。ますます調子が狂う。これはどういうことなんだろう。私は、必死に今の情勢を分析しょうと試みる。
どうやらこの男は何も事情を知らないらしい。いずれにしろ私たちが、今、疑われていることは間違いない。
ベアラーが現われると、中村に「あなたのライターを士官が見たいといっている。少しかしてください」と中村のガスライターを持ち去った。
このライターは、透明プラスチック、円筒形で、大阪ガスのマークがはいっている。安い代物だが、パキスタンではこれが大もてだった。中村は、行く先々で、売ってくれとせがまれ困っていた。そこで、彼は.ハキスタン人の前で、このライターを少々意識して使っている。だから、ここについてすぐ、タバコに火をつけたときの動作から、士官が何かを感じたのだ。そして、きっと隠しカメラではないかと思ったに違いない。種も仕掛もないただのライターだ。いくら調べられてもかまわない。
だが、ジープを調べられたら困る。いろいろの書き込みをした地図とノート。六台のカメラと16ミリ。大量のフィルム。測量器具。スパイ容疑が成立する材料は、充分にある。ここにつくまでに、こういうものは外から見てもわからないようにしてはあるのだが…。着換えを取り出すのは危険だ。私たちは、汚れて、汗くさいパキスタン服で通すことにした。
コマンダー・アヌワー
コマンダーが平服で現われた。いろいろと質問するが、私たちを疑っている様子はみえない。
今度は二度目のパキスタンである。前回は登山であった。今度は、機械文明の高度発達社会で失われた、何か貴重なものを求めての旅であることを、私は話した。
日本は、アメリカに似てきた。物質文明は精神的なものを駆逐する。物質主義はよくない。日本は伝統的な精神文化を大切に守り、アメリカに追随してはいけない一。きれいに手入れされた口ひげを指でなぜながら、彼はゆっくりとこう語った。彼は、武士道は勿論、シントーイズム(神道)にまで深い知識を持っていた。かなりの日本通だ。
それに、私たちに好意を持っているようだ。大分安心した。
そこで私は開いた。「ギルギットへは行けるのか」「You can go」と彼は答え、「しかし今日はもう遅い。今夜ここに泊まって行け」。さらにつづけて、「どうしてそんなにギルギットに行きたいのだ。他の場所がいくらでもあるのではないか。たとえば、スワートはフリーに行けるではないか」
私は、これ以上くいさがるのをやめた。
安田は、アヌワ一大佐へのプレゼントを取りに出ていったが、しばらくして戻ってくると「写真機を見つけられた」と真剣な顔でいった(このとき、彼はカメラというのを避けた)。ジープの所へ行くと、士官の一人が中をのぞきこんでいた。そして「カメラを持っているか」と聞いた。いっしょにいた関田が、同じようにのぞいて見ると、荷物の間からカメラのベルトがのぞいている。関田は、変に隠すとかえってまずいととっさに判断した。そして、そのカメラ(ローライフレックス)を士官のいうままに取り出して見せたという。
私たちが心配そうに早口でしゃべっているので「どうかしたのか」とアヌワーが聞いた。このときまで、私たちはほとんど日本語を使っていなかった。別に申し合わせたわけではないが、日本語を使うと、彼らの疑いを増すのではないかと思ったからだ。
「あなたの部下がカメラを見せろ、といっている」
「写真を写したのか」アヌワーの顔が少しけわしくなる。
「写した。手前の部落で村人のスナップを二枚とった」。本当はもっといろいろ写していたのだが、私はウソをついた。
ちょうどそういったとき、士官がはいってきた。色白で、眼玉のやけに大きい奴だ。私たちを見るとき、いつも上目づかいの三白眼だ。疑惑のマナコとは、こういうのをいうのだろう。ライターを調べたのもこいつに違いない。どうも虫の好かない野郎だ。
彼はアヌワ一に耳うちした。「彼らはカメラを持っています」
「知っている。別に何も写していないそうだ」アヌワーが答えると、眼玉は、拍子孜けしたような顔になり、憎々しげに私をにらんだ。
アヌワーと士官三人といっしょの食事がすむと、三時だった。再び居間のソファーに座ると猛烈な眠気がおそってきた。今まで、態度にこそ出していないが、ほとんど引きちぎれんばかりに緊張していたのだ。
私たちが出発する様子なので、三人の士官は必死に止めにかかった。アヌワーがいなくなるとこの三人は急に元気づいてしゃべりだす。「今から行くのは危険だ。次の村までは五〇マイルもある。夜になると道から転げ落ちるぞ」。大丈夫ゆっくり行くからというと、「危険なのは道だけではない。人間も危ない。知っているだろう。この辺りはトライバル・テリトリーなのだ。われわれでさえ、夜は決して出歩かない。今夜はここに泊まれ」
こんな押問答をしているうちに、四時になった。もうタイムリミットだ。
私は安田に合図した。安田は、いいタイミングで立ちあがると、「バラサーブ。さあ出発しましょう」と大声で私にいった。それをきっかけに、私たちは一斉に立ちあがり、もてなしの礼をのべて車に乗りこんだ。
眼玉一人が見送っている。例の目が、「こいつらいよいよ怪しい」といっているようだ。
雨はすっかりあがり、対岸の山肌に霧がたなびいている。(この項つづく)
ビカピカに磨きあげられたジープから現われた軍人は、およそ身長一八〇センチ。腹が少し出て、立派な口ひげをたくわえている。軍服・軍帽をぴたりと身につけ、手には指揮棒。胸にはズラリと略章。かなりの高官と見てとれた。士官四人を伴っている。
軍人は、待ちうける私に歩みよると「英語がしゃべれるか」と聞いてから、道路許可証を持っているかと聞いた。
「勿論ある」私は、″オブコース″と強く答えた。
「Show me(見せてもらおう)」
私は、うやうやしくTourist Introduction Cardをさし出した。一目見て、「これではない」彼は小さく舌打ちした。
私は、これは「パキスタン政府発行の許可証だろう」とすっとぼけ、それから To Whom It May Concern を見せた。
軍人は「ついてこい(Follow me)」というとジープに乗り込み、走り出した。私たちはあとを追った。ジープはぐんぐんスピードをあげ、すぐに見えなくなった。
半時間ほど行くと、インダス峡谷は急に開け、大きく広がった山すそに、村が現われた。かなり大きな村だ。パタンという。
入口にゲートがあって、鉄砲を持った番兵がいる。ゲートを開けてくれない。
「今ジープが通ったろう。あのジープに乗っていたのは誰だ」
「コマンダーサーブだ」
「私たちは、そのコマンダーサーブに呼ばれて行くところだ」。番兵は、ただちにゲートを開いた。
かの軍人はコマンダーであったのか。
私たちは、このパタン村に駐屯する工兵師団の司令官、アヌワ一大佐の出迎えをうけたのだ。これがよい前兆であるはずはない。私たちは緊張した。
下の道で待っていた下士官をステップに乗せて、ジープは案内されるままに、斜面に並ぶ軍隊宿舎の間をぬって、急斜面を登った。
コマンダーのメスは、一番高い所にある。ベアラーが三人出迎え、いとも親密の情を現わして私たちを居間に導いた。何となく調子が狂う。
紅茶をのんでいると、私たちを案内した下士官がきてこういった。
「あなた方は、服の着換えをお持ちですか。身体を洗って、服を着がえるように。コマンダーサーブが、いっしょに食事をするとおっしゃっています」
あくまでも、私たちをコマンダーの客と信じている様子だ。ますます調子が狂う。これはどういうことなんだろう。私は、必死に今の情勢を分析しょうと試みる。
どうやらこの男は何も事情を知らないらしい。いずれにしろ私たちが、今、疑われていることは間違いない。
ベアラーが現われると、中村に「あなたのライターを士官が見たいといっている。少しかしてください」と中村のガスライターを持ち去った。
このライターは、透明プラスチック、円筒形で、大阪ガスのマークがはいっている。安い代物だが、パキスタンではこれが大もてだった。中村は、行く先々で、売ってくれとせがまれ困っていた。そこで、彼は.ハキスタン人の前で、このライターを少々意識して使っている。だから、ここについてすぐ、タバコに火をつけたときの動作から、士官が何かを感じたのだ。そして、きっと隠しカメラではないかと思ったに違いない。種も仕掛もないただのライターだ。いくら調べられてもかまわない。
だが、ジープを調べられたら困る。いろいろの書き込みをした地図とノート。六台のカメラと16ミリ。大量のフィルム。測量器具。スパイ容疑が成立する材料は、充分にある。ここにつくまでに、こういうものは外から見てもわからないようにしてはあるのだが…。着換えを取り出すのは危険だ。私たちは、汚れて、汗くさいパキスタン服で通すことにした。
コマンダー・アヌワー
コマンダーが平服で現われた。いろいろと質問するが、私たちを疑っている様子はみえない。
今度は二度目のパキスタンである。前回は登山であった。今度は、機械文明の高度発達社会で失われた、何か貴重なものを求めての旅であることを、私は話した。
日本は、アメリカに似てきた。物質文明は精神的なものを駆逐する。物質主義はよくない。日本は伝統的な精神文化を大切に守り、アメリカに追随してはいけない一。きれいに手入れされた口ひげを指でなぜながら、彼はゆっくりとこう語った。彼は、武士道は勿論、シントーイズム(神道)にまで深い知識を持っていた。かなりの日本通だ。
それに、私たちに好意を持っているようだ。大分安心した。
そこで私は開いた。「ギルギットへは行けるのか」「You can go」と彼は答え、「しかし今日はもう遅い。今夜ここに泊まって行け」。さらにつづけて、「どうしてそんなにギルギットに行きたいのだ。他の場所がいくらでもあるのではないか。たとえば、スワートはフリーに行けるではないか」
私は、これ以上くいさがるのをやめた。
安田は、アヌワ一大佐へのプレゼントを取りに出ていったが、しばらくして戻ってくると「写真機を見つけられた」と真剣な顔でいった(このとき、彼はカメラというのを避けた)。ジープの所へ行くと、士官の一人が中をのぞきこんでいた。そして「カメラを持っているか」と聞いた。いっしょにいた関田が、同じようにのぞいて見ると、荷物の間からカメラのベルトがのぞいている。関田は、変に隠すとかえってまずいととっさに判断した。そして、そのカメラ(ローライフレックス)を士官のいうままに取り出して見せたという。
私たちが心配そうに早口でしゃべっているので「どうかしたのか」とアヌワーが聞いた。このときまで、私たちはほとんど日本語を使っていなかった。別に申し合わせたわけではないが、日本語を使うと、彼らの疑いを増すのではないかと思ったからだ。
「あなたの部下がカメラを見せろ、といっている」
「写真を写したのか」アヌワーの顔が少しけわしくなる。
「写した。手前の部落で村人のスナップを二枚とった」。本当はもっといろいろ写していたのだが、私はウソをついた。
ちょうどそういったとき、士官がはいってきた。色白で、眼玉のやけに大きい奴だ。私たちを見るとき、いつも上目づかいの三白眼だ。疑惑のマナコとは、こういうのをいうのだろう。ライターを調べたのもこいつに違いない。どうも虫の好かない野郎だ。
彼はアヌワ一に耳うちした。「彼らはカメラを持っています」
「知っている。別に何も写していないそうだ」アヌワーが答えると、眼玉は、拍子孜けしたような顔になり、憎々しげに私をにらんだ。
アヌワーと士官三人といっしょの食事がすむと、三時だった。再び居間のソファーに座ると猛烈な眠気がおそってきた。今まで、態度にこそ出していないが、ほとんど引きちぎれんばかりに緊張していたのだ。
私たちが出発する様子なので、三人の士官は必死に止めにかかった。アヌワーがいなくなるとこの三人は急に元気づいてしゃべりだす。「今から行くのは危険だ。次の村までは五〇マイルもある。夜になると道から転げ落ちるぞ」。大丈夫ゆっくり行くからというと、「危険なのは道だけではない。人間も危ない。知っているだろう。この辺りはトライバル・テリトリーなのだ。われわれでさえ、夜は決して出歩かない。今夜はここに泊まれ」
こんな押問答をしているうちに、四時になった。もうタイムリミットだ。
私は安田に合図した。安田は、いいタイミングで立ちあがると、「バラサーブ。さあ出発しましょう」と大声で私にいった。それをきっかけに、私たちは一斉に立ちあがり、もてなしの礼をのべて車に乗りこんだ。
眼玉一人が見送っている。例の目が、「こいつらいよいよ怪しい」といっているようだ。
雨はすっかりあがり、対岸の山肌に霧がたなびいている。(この項つづく)
西パキスタンの旅 第5話「ギルギットへの突入−−その2−−」
マリーの優雅な生活
インダスルートへの出発準備は、今や、すべて整ったかに見えた。しかし一つ落度があった。一六ミリ撮影担当の関田が、ゼラチンフィルターがないのに気づいた。松竹KKからいただいたコダック・フィルムには、是非必要だという。
京都から急送されてくる、フィルターを待つ間、マリー(Murree)へ行こうということになった。マリーへ行って、ガバメントカレッジや高校を見学したいといけない。それに、その間に、トレッキングの許可がおりるかも知れん。勝手な理由をつけてはいたが、要は、この暑さから、逃げだしたかっただけだ。
マリーは高級避暑地である。新首都イスラマバードより60km2300mの高さにある。とても涼しい。ピンディーの暑さが嘘のようだ。各国大使館の別荘が松の斜面に、点々と立ち並んでいる。
私たちのいる日本のそれは、斜面に階段状に建っている。石造りで、お城のような建物だ。とにかく、私たち四人にほ広すぎる。
チョキダールの、ナムライとサイードの二人が、こまごまと世話をやいてくれる。
マリーの一日は、乗馬から始まる!。
「馬がきました」サイードが起こしにくる。紅茶をのんでから、朝の乗馬(一時間一〇ルピー。良くなれた馬で、まったく危険はない)。一時間の乗馬を終えて、シャワーをあびてから朝食だ。食器は、紅茶茶碗にいたるまで、すべて金色の国章入り。
食後のお茶を、ベランダで飲んでいると、下の道を通る女の子が、手を振って笑いかけてくる。まったく驚いてしまう。ここはパキスタンでないみたいだ。
松の樹林の聞から、ジャンム・カシミールの山が、白く光っている。適度に湿った、すがすがしい空気を胸一杯に吹い込む。そして、私は、カシミール問題が、何となくわかったような気になる。つまり、印・パが、カシミールを必死に取りあってゆずらないのは、無理もないことだ。こういう素晴らしい場所は、どっちの国にとっても、まったくかけがえのない、宝石みたいなものなんだろう…‥・。
こういう、わかったようなわからんような一人合点と同時に、何かうしろめたい、罪の意識みたいなものが、チラリと私の心をよぎる。(私たちは、こんなことをしていていいのだろうか……)。
そこで、私は関田と一緒に、学校見学にでかける。中村は手紙書き。安田は、夕食の材料を仕入れに行くナムライと一緒に、バザールに行くという。バザールに行けば、アッチーラルキー(良い娘)がうんといる。マリーにくるのは上級階級だから、ブルカなしの女性が多いのだ。
昼寝をすませて私は京都への隊連絡を書く。窓から見ると、関田が庭で石垣をにらんでいる。トカゲを採集しているらしい。
夕食後、居間で雑談。中村が、荷物袋をゴソゴソやって、テープレコーダーを取り出した。サイードのウルドーソングを取るつもりだ。安田は、地図を拡げて、スワートの登山ルートを検討している。関田は、ウィスキーをなめていたかと思うと、外に出て、蛾の採集を始めた。
べつに誰に指図されるでもなく、四人がまったく四様に動いている。本当に良いことだ。最初は、こういう具合にはいかなかった。
各人が、自分の判断で、臨機応変に動けるということは、私たちの隊に必要なことだ。こういう意味で、今や私たちは、これからの行動に向かうスタートラインに、しっかりと立っている。
マリーでの四日間の後、七月十二日、私たちは、いよいよインダスルートへ向かった。
眼下にインダスの流れが見えた。
ピンディーを発って三日目だ。ピンディーを走り出て、ジープはスワートへの道を進んだ。途中で方向を変え、スワート河とインダス河を分ける、分水嶺山脈の峠を越えた。峠のゲートは、都合良く開いていた。そして、ようやく今、私たちはインダスルートにはいろうとしている。
私たちが、パキスタンで入手した、二つの地図には、インダス道路はまったく記入されていなかった。ピンディーで情報を集めた末、前記のコースを取った。ただちにインダスぞいの道をとらずに、スワートロードへ迂回したのは、ゲート(検問所)を避けるためだった。しかし、これからはもう迂回することはできない。
ゲートが見えてきた。丸太が、はねつるべのように、道をふさいでいる。傍に小屋が二つ。人影はない。さあ、いよいよ″安宅ノ関″だ。予想していたほどの緊張感はない。しかし、下手をすれば、スパイ容疑でつかまらないとはいえない。
車を止めると小屋から兵隊が二人出てきた。鉄砲はもってこない。少々安心する。
私は大いばりで、兵隊にどなった。「コ一ロー!(開けろ)ギルギットタク、ジャーナーハイ(ギルギットまで行くんだ)」「パルミッション?(許可証)」と衛兵はきく。待ってました。私は例の書状を取り出した。
番兵に連れられて、私は小屋にはいった。中にいるボスが、どこかに電話して、例の手紙を何度も読み上げている。読めるからには、意味もわかるにちがいない。
こうなったら、もう逃げだす訳にもいかぬ。私は腹をすえて、ふんぞり返った。
いつのまに持ちだしたのか、安田が、八ッ橋を兵隊にくばっている。六人ばかりの兵隊共は、おっかなびっくり、ポリリとかじって、アッチャー(うまい)などといっている。
関田は、捕虫網で蝶を追っている。神様以外なら、誰が見ても、私たちが、このゲートを通れると確信している、と思っただろう。
やがて、ゲートは開いた。「やったぞ」、私たちは、こおどりして、インダス道路を突き進んだ。
ホッとすると同時に、どっと汗がふき出した。二〇分ほど走ったとき、小さな流れが道をよぎっている。ここで水浴することにした。考えてみると、この二日間、身体を洗っていない。
インダスルートは、右岸を通っている。なるほど立派な道だ。これならダンプカーでも通れる。
ー二時五分。ディビアル村につく。インダス峡谷の大斜面にはりついたような、二五戸ほどの部落だ。すぐ先に、大きな谷が出合っていて、つり橋がかかっている。橋の上から下を見ると、激流が真白に岩をかんで、インダス河への落口は、はるか下である。この谷の上流にも村があるという。
ここで昼食。チャパティ、サブジーカレー(野菜のカレー)、いり玉子を注文する。チャパティに砂がまざっていて、ジャリジャリする。あまり流れが激しいので、水に砂がまざるのだろう。
雨がぱらつきだした。急いで出発。
どれ位走ったろう。私は、ぐつすり眠り込んでしまったらしい。横の安田にゆり起こされた。関田が、バックミラーをのぞきながら、「ジープがついてきよる。さっき、すれ違ったばかりのやつや」。なるほど、うしろから、ピカピカのジープが追尾してくる。
関田が、スピードを落として山側へ寄せると、ジープは激しくクラクションをならしながら追い越し、前方にピタリと止まった。
かなり激しく雨がふっている。
中村が、後部座席の荷物の上から、「カメラ、カメラ」と小さく叫ぶ。前には二台の一眼レフ。うしろにも、二台のボックスカメラが出ている。車をのぞきこまれて、これが見つかってはまずい。
前のジープから軍人がおり立つのを見て、私は、「早く隠せ」といい捨てると、急いで雨の中にとび出した。(この項つづく)
インダスルートへの出発準備は、今や、すべて整ったかに見えた。しかし一つ落度があった。一六ミリ撮影担当の関田が、ゼラチンフィルターがないのに気づいた。松竹KKからいただいたコダック・フィルムには、是非必要だという。
京都から急送されてくる、フィルターを待つ間、マリー(Murree)へ行こうということになった。マリーへ行って、ガバメントカレッジや高校を見学したいといけない。それに、その間に、トレッキングの許可がおりるかも知れん。勝手な理由をつけてはいたが、要は、この暑さから、逃げだしたかっただけだ。
マリーは高級避暑地である。新首都イスラマバードより60km2300mの高さにある。とても涼しい。ピンディーの暑さが嘘のようだ。各国大使館の別荘が松の斜面に、点々と立ち並んでいる。
私たちのいる日本のそれは、斜面に階段状に建っている。石造りで、お城のような建物だ。とにかく、私たち四人にほ広すぎる。
チョキダールの、ナムライとサイードの二人が、こまごまと世話をやいてくれる。
マリーの一日は、乗馬から始まる!。
「馬がきました」サイードが起こしにくる。紅茶をのんでから、朝の乗馬(一時間一〇ルピー。良くなれた馬で、まったく危険はない)。一時間の乗馬を終えて、シャワーをあびてから朝食だ。食器は、紅茶茶碗にいたるまで、すべて金色の国章入り。
食後のお茶を、ベランダで飲んでいると、下の道を通る女の子が、手を振って笑いかけてくる。まったく驚いてしまう。ここはパキスタンでないみたいだ。
松の樹林の聞から、ジャンム・カシミールの山が、白く光っている。適度に湿った、すがすがしい空気を胸一杯に吹い込む。そして、私は、カシミール問題が、何となくわかったような気になる。つまり、印・パが、カシミールを必死に取りあってゆずらないのは、無理もないことだ。こういう素晴らしい場所は、どっちの国にとっても、まったくかけがえのない、宝石みたいなものなんだろう…‥・。
こういう、わかったようなわからんような一人合点と同時に、何かうしろめたい、罪の意識みたいなものが、チラリと私の心をよぎる。(私たちは、こんなことをしていていいのだろうか……)。
そこで、私は関田と一緒に、学校見学にでかける。中村は手紙書き。安田は、夕食の材料を仕入れに行くナムライと一緒に、バザールに行くという。バザールに行けば、アッチーラルキー(良い娘)がうんといる。マリーにくるのは上級階級だから、ブルカなしの女性が多いのだ。
昼寝をすませて私は京都への隊連絡を書く。窓から見ると、関田が庭で石垣をにらんでいる。トカゲを採集しているらしい。
夕食後、居間で雑談。中村が、荷物袋をゴソゴソやって、テープレコーダーを取り出した。サイードのウルドーソングを取るつもりだ。安田は、地図を拡げて、スワートの登山ルートを検討している。関田は、ウィスキーをなめていたかと思うと、外に出て、蛾の採集を始めた。
べつに誰に指図されるでもなく、四人がまったく四様に動いている。本当に良いことだ。最初は、こういう具合にはいかなかった。
各人が、自分の判断で、臨機応変に動けるということは、私たちの隊に必要なことだ。こういう意味で、今や私たちは、これからの行動に向かうスタートラインに、しっかりと立っている。
マリーでの四日間の後、七月十二日、私たちは、いよいよインダスルートへ向かった。
眼下にインダスの流れが見えた。
ピンディーを発って三日目だ。ピンディーを走り出て、ジープはスワートへの道を進んだ。途中で方向を変え、スワート河とインダス河を分ける、分水嶺山脈の峠を越えた。峠のゲートは、都合良く開いていた。そして、ようやく今、私たちはインダスルートにはいろうとしている。
私たちが、パキスタンで入手した、二つの地図には、インダス道路はまったく記入されていなかった。ピンディーで情報を集めた末、前記のコースを取った。ただちにインダスぞいの道をとらずに、スワートロードへ迂回したのは、ゲート(検問所)を避けるためだった。しかし、これからはもう迂回することはできない。
ゲートが見えてきた。丸太が、はねつるべのように、道をふさいでいる。傍に小屋が二つ。人影はない。さあ、いよいよ″安宅ノ関″だ。予想していたほどの緊張感はない。しかし、下手をすれば、スパイ容疑でつかまらないとはいえない。
車を止めると小屋から兵隊が二人出てきた。鉄砲はもってこない。少々安心する。
私は大いばりで、兵隊にどなった。「コ一ロー!(開けろ)ギルギットタク、ジャーナーハイ(ギルギットまで行くんだ)」「パルミッション?(許可証)」と衛兵はきく。待ってました。私は例の書状を取り出した。
番兵に連れられて、私は小屋にはいった。中にいるボスが、どこかに電話して、例の手紙を何度も読み上げている。読めるからには、意味もわかるにちがいない。
こうなったら、もう逃げだす訳にもいかぬ。私は腹をすえて、ふんぞり返った。
いつのまに持ちだしたのか、安田が、八ッ橋を兵隊にくばっている。六人ばかりの兵隊共は、おっかなびっくり、ポリリとかじって、アッチャー(うまい)などといっている。
関田は、捕虫網で蝶を追っている。神様以外なら、誰が見ても、私たちが、このゲートを通れると確信している、と思っただろう。
やがて、ゲートは開いた。「やったぞ」、私たちは、こおどりして、インダス道路を突き進んだ。
ホッとすると同時に、どっと汗がふき出した。二〇分ほど走ったとき、小さな流れが道をよぎっている。ここで水浴することにした。考えてみると、この二日間、身体を洗っていない。
インダスルートは、右岸を通っている。なるほど立派な道だ。これならダンプカーでも通れる。
ー二時五分。ディビアル村につく。インダス峡谷の大斜面にはりついたような、二五戸ほどの部落だ。すぐ先に、大きな谷が出合っていて、つり橋がかかっている。橋の上から下を見ると、激流が真白に岩をかんで、インダス河への落口は、はるか下である。この谷の上流にも村があるという。
ここで昼食。チャパティ、サブジーカレー(野菜のカレー)、いり玉子を注文する。チャパティに砂がまざっていて、ジャリジャリする。あまり流れが激しいので、水に砂がまざるのだろう。
雨がぱらつきだした。急いで出発。
どれ位走ったろう。私は、ぐつすり眠り込んでしまったらしい。横の安田にゆり起こされた。関田が、バックミラーをのぞきながら、「ジープがついてきよる。さっき、すれ違ったばかりのやつや」。なるほど、うしろから、ピカピカのジープが追尾してくる。
関田が、スピードを落として山側へ寄せると、ジープは激しくクラクションをならしながら追い越し、前方にピタリと止まった。
かなり激しく雨がふっている。
中村が、後部座席の荷物の上から、「カメラ、カメラ」と小さく叫ぶ。前には二台の一眼レフ。うしろにも、二台のボックスカメラが出ている。車をのぞきこまれて、これが見つかってはまずい。
前のジープから軍人がおり立つのを見て、私は、「早く隠せ」といい捨てると、急いで雨の中にとび出した。(この項つづく)
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