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アメリカ旅行記(2005年秋)

 アメリカ・ピッツバークに留学中の友人のS君を訪ねてから、東海岸のニューヨーク、西海岸のヨセミテへと巡った2005年秋のアメリカ旅行の記録です。当時友人に送ったメールから取りました。
 S君は、かつて私が龍谷大学の非常勤講師として教育情報処理の講座を担当していた時の助手でした。その時、彼は大阪大学大学院で心理学を専攻しておりました。四国は土佐出身の彼は、坂本龍馬もこんな男だったのかもしれないと思わせるような快男子で、講義が終わった後は連日のように、私の会社に同行し、コンピュータをしたり酒を飲んだりしたものです。
 その後、彼は警察庁のキャリアーとなり、某研究所の職員となります。この関係で、私は犯罪データベースを作ることになりました。
 この旅行記は、帰国が近づいたピッツバーグのS君を訪ねたのを皮切りに、東海岸から西海岸へと飛んだ時のものです。

DSC00004_1.jpgアメリカより(1)
アメリカより(2)
アメリカより(3)
アメリカより(最終回)

アメリカより(最終回)

一昨日に帰国しました。
帰りは、サンフランシスコ国際空港からダイレクト便で成田に飛び成田のトランジットとなります。1時間ほどで成田から国際線のサイパン行きに乗り継ぎ、名古屋空港で入国・帰国となります。
ノースウェストには、サンフランシスコ〜関空という路線がないため、こういう経路となりました。
今日の昼頃から、大学山岳部の山小舍建築20周年のパーティに、家内と信州に行く予定です。出発までに書き終えないと、帰ってからではおそらく無理。尻切れとんぼになってしまうと、気張って書き終えることにしました。

DSC00007.jpgさて、ナパ谷の北端、カリストーガで保養の2日間を過ごして、今日はサクラメントに移動です。
普通に考えられるコースは、ナバ・バレーを南に下るのですが、そうはせずにさらにナパ・バレーをつめ、迂回してソノマ・バレーを下ることにしました。
カリストーガから北に向かうと、アレクサンダー・バレーをすぎます。200をこすワイナリーのあるナパに比べ、ここにはわずかに5つほどのワイナリーがあるだけです。

DSC00005_1.jpg手始めに、そのうちの一つ、Hannaワイナリーに立ち寄りました。
赤白5種類のワインが、フリーで試飲できます。どのワイナリーにも、テイストルームと呼ばれる別棟があり、そこのバーでテイストが出来るようになっています。
メニューには、ワインの名前とボトルの価格が書いてあり、試飲して気に入ったら購入することになります。でも買わなくてもいいのですが、ただで飲んでなんにも買わないのは、なんとなく気が引けます。一番安い20ドルのソービニヨン・ブランを買いました。

ボトルの価格は、どこでもだいたい20〜50ドルです。ナバでは、試飲フリーのワイナリーがかなりの数ありますが、ソノマでは全くありませんでした。
試飲有料といってもこれまた申し合わせたように5ドルとなっています。
5〜8種類のワインを試飲すると、それはグラスワイン1杯以上の量。たったの5ドルで、結構上等のワイン各種が飲めるということになる。
そういう訳か、スピルト用の壷は置いてあっても、吐き出している人は全く見かけませんでした。

どのワイナリーにも10〜20台の車が止まっていましたが、カリストーガと同様、アメリカ車を見ることは極めてまれでした。BMW、ベンツ、トヨタ、ホンダ、レクサスなど。やっぱり富裕層が多いということでしょう。
ソノマは、ほとんど観光地化したナパに比べると、だいぶひなびた感じです。一軒のワイナリーで、5種類のワインを口に含む訳ですから、4・5軒も廻るともう何がなんだか分からなくなる。
それにワインのチャンポンは、酔いもよけいに回るみたいでした。

DSC00012.jpgアレキサンダー谷を知ったのは収穫でしたが、一つの心残りはロシアンリバー谷に行けなかったこと。
この場所はあまり注目してなくて、通り過ぎたのですが、その後ソノマ街道脇のレストランでの昼食で、グラスで注文したロシアンリバーの赤、ピノ・ノワールが大変に美味しかったのです。
帰りの空港で、探しましたが、ロシアンリバーのものはどれもこれも高いものばかりで、買う気になれませんでした。ロシアンバレーは次回の目標になりました。

サクラメントは、カリフォルニアの州都。とても奇麗な町です。
まるで条里制のように、A〜Z、1〜30(?)と名のつく縦横道路のの四角形に区切られており、位置はつかみやすい。
でも、その道路が突如切れて、時には駐車場に突っ込んだりして面食らいます。
夜遅く着いて、ウロチョロしながら、L-ストリートの806にあるチャイニーズレストランを探しました。

DSC00018_1.jpg翌日の朝、ピッツバークより飛んで来たS君をを空港でピックアップ。一緒に州庁舎を見に行きました。巨大な建物の前庭芝生の噴水のまわりでは、3組ほどの結婚式を終えたばかりのカップルが、記念撮影をああしたりこうしたりと、ポーズを変えながら飽きもせず繰り返しています。
庁舎内の約40近くもある各地方の展示や、シュワちゃんの執務室等を見てから外に出ると、もう1時間以上も経つのに、まだ撮影が続いていました。
「ええかげんにせんかい」とぼくがいうと、「何時間も続けるんですよ」とS君がいいました。

サクラメントからサンフランシスコへの移動の際、ルート80沿いの「アウトレット」に立ち寄りました。S君が奥方よりコーチのバッグを頼まれたというので。
ほんの20分ほどの予定が、なんと3時間になってしまいました。
最近では、日本の観光団も必ず立ち寄るのだそうです。
次々欲しいものがでてきて、おまけにジーンズはサイズ色とも潤沢、「リーバイス」などは日本の一本の値段で3・4本も買えてしまうのです。3本も買ってしまいました。それに「コーチ」のベルトも。サムソナイトのコンピュータバッグも。
「クラークス」ファンのぼくとしては、ついつい革靴も買い込んでしまった次第。

DSC00070_1.jpgサンフランシスコでは、アルカトラス観光は「犯罪学をやるものとしては必見」、というS君に予約を頼んでいたのです。予想を超えて極めて面白かった。
最後の夕食は、フィッシャーマンワーフのレストランで取りました。
「マーケットプライス」表示のある、カニと伊勢エビを、初めて注文したのですが、サンフランシスコのカニなど、と馬鹿にしていたのは偏見だったと知ったのです。

翌日、S君の見送りを受け、サンフランシスコ空港を発ちました。彼の出迎え・見送りを受けたアメリカということになりました。

アメリカより(3)

ニューヨークからサンフランシスコまでは、ダイレクトには飛べずミネアポリスを経由します。
ノースウェストAirLineでは、すべての便はデトロイトとミネアポリスをハブ空港として使っているようです。アメリカでは航空網が、ちょうど東京の地下鉄のように張り巡らされており、A空港からB空港への経路は、いく通りも作れます。
乗り換えの1時間をいれて7時間ほどのフライトで、サンフランシスコ空港に到着。
ほぼ10年ぶりの空港は、びっくりするほど奇麗になっていました。

DSC00034.jpgモノレールではなくて、二本の軌道にゴム車輪で走るエアトレインが新設されていました。これは2台連結の車両が駐車場とレンタカーセンターを循環する2系統がある。便利になったもんです。
レンターカーセンターに着くと、Avis, Hertz, Budget, Aramo、Nationalその他いくつものレンターカーの受付カウンターがずらりと約50メートルもの幅に連なっていました。
ニューヨークでインターネット予約を入れておいたアラモでチェックインを済ませ、隣のパーキングに行くと、受付のおっちゃんが、「いらっしゃい」と書類を受け取り、彼方を指差しながら「ほら、あの辺りの車ならどれでもいいから持ってって」

DSC00064.jpgそこには、20台ほどのミッドクラスのSUV車(sport-utility vehicle)ばかりが並んでいます。
日本のRV車をセダンチックにした感じの車で、どれもが、Buick(ビュイック)かChevrolet(シボレー)の車です。
ピッツバーグで乗っていた車がシボレーだったというくらいで、あんまり判断基準のないまま、ビュイックを選びました(ボンネットを開けてみてV6の3500ccであることが分かった)。

なんとなく古巣に戻った気分で、ルート101を15分ばかり北上、Airport Bld.(エアポード通り)脇のホテルに入りました。
空気は清々しく、NYのように蒸し暑くもなく、全く快適。近くのレストランで食事をして戻り、玄関脇のベンチで月を愛でながら葉巻を吸いました。
カルフォルニアの法律では、公共の建物内では禁煙、建物外でも30フィート(8メートル)以内の喫煙はだめで、違反すると罰金が科せられる。だからホテル等では、入り口脇にベンチと灰皿を設けています。

サンフランシスコ到着後の計画は特になく、5日後にピッツバークの彼と、サクラメントの空港での合流が決まっているだけです。明日からの4日間をどうするか。
当初は、昔とどう変わったのかが知りたくて、長駆ロス往復(このコースではかつてスピン事故を経験)、ラスべガス往復等を考えていました。
でも切羽詰まって決めたのはヨセミテとカリストーガの各二泊。いずれもサンフランシスコからわずかの距離です。
カリストリーガというのは、今回思いついた場所で、前に行ったナパ・バレーの奥にある温泉保養地です。温泉といっても日本のそれとは大違い、日本でいえばクアハウスにあたります。
ここで、温水プールと温泉ジャグジーを楽しみ、ナパとソノマのワインをテーストして回る。

翌日、ヨセミテに向かいました。
DSC00048.jpg国立公園入り口近くのロッジに投宿。キッチン付きでベランダのある部屋にしました。ベランダでは葉巻が吸えますから。
ベランダのテーブルに座り、月を眺めていると、轟々と鳴る下の谷川の瀬音は、なにか昔の黒部奥の廊下のキャンプを想い起こさせました。




DSC00052.jpg突然、足下に小動物が現れました。猫にしては大きいなと、よく見ると洗い熊、ラスカル君です。
よくなれていて、ほとんどおびえるところがありません。テーブルに登りつこうとするので、食べていた焼きたてのポークステーキの一切れを与えると、器用に両手で挟んで食べました。
食べ終わると、両足で立ちあがって、両手を差し伸べ、もっとと催促している風です。何枚かの写真に収めました。
対岸の森から、渓流を渡ってやって来たらしい。どうやらお客に餌付けされているようなのです。なんだかワイルドな気分になりました。

DSC00071.jpg翌日、ヨセミテ公園の中心部を車で回りました。公園入場料は20ドルで、1週間有効で自由に出入りできます。
渓流に沿う林の中の一方通行の2車線道路を走って行くと、エルキャピタンの大岸壁は、突如現れました。それは、山ではなく巨大な岩塊と思えました。
観光バスが止まっており、ツアー客の日本人グループが記念撮影をしています。双眼鏡でルートとおぼしきラインを追って行くと、クライマーの姿を捉えることが出来ました。3ルートに4パーティが取り付いていました。
ごく上部のテラスとおぼしきあたりには、テント型の赤色ツェルト2張りを認めることが出来ました。

DSC01339.jpg昨年、シャモニーからメールドグラス氷河に登って、ドリューの西壁を見上げた時には、なにか登高欲みたいなものを感じました。そして若かったら登れたはずだ等と思ったものでした。ところが、ここでは、全然そんな気がしなかった。
どうしてなのかな、と考えましたがよく分からなかったのです。ハーフドームの方には、いくら探しても、クライマーの姿を見ることは出来ません。


DSC00005.jpgキャンプ4でキャンプしていた日本のクライマーに訊ねたら、ハーフドームは一日中陽が当たらないのでとても寒く、もうシーズンは終わっているとのこと。
ここでキャンプするには、一日5ドルを払うだけでよく、バスで来ると公園入場料は不要です。彼らは、もう1ヶ月半も滞在して、あちこちのルートを登ったのだそうです。
「エルキャビタンは、何日かかるの」
「ルートに依りますが、3日から4日。1週間かかるところもあります」
「その間の食料、水もみんな運び上げないといけないね」
「そうです。重労働そのものですよ」
夏のシーズンには、多くの日本人クライマーがやってくるそうです。
日本では、若者登山者が激減していて、夏の劔等は閑散としていると聞き、心配していたのですが、日本の若者クライマーはこういう場所や海外の他の場所に行っているのかもしれないな。そう思って少し安心したのです。
ローストチキンとローストビーフ、赤ワイン等食べきれなかった食料を差し上げたら、「今夜はパーティが出来ます」と喜んでいました。気持ちのいい若者でした。

DSC00091.jpg公園の中心あたりには、「アワニーホテル」という、高級なホテルがあります。アメリカ人が「一生に一度は泊まってみたい」と憧れるホテルだと聞いていたので、見物に出かけました。
なるほど、すべてが大きく重厚な作りです。調度もフロアの絨毯も立派なものでした。特に目についたのは、背丈以上の巨大な暖炉です。それがいくつもありました。これに火が入ったさまを見てみたい。ほんとにそう思いました。

ぼくのイメージでは、ヨセミテとはクライマーのキャンプがあって、そこでクライマーたちがボルダーリングに興じている。そういうイメージであって、観光客が群れているという感じではなかった。ヨセミテのサイクリングやハイキングあるいは乗馬等は思案の外だったので、大いに認識を改めさせられました。

ヨセミテを発つ日、ヨセミテ一帯では、発電所のリペアで送電が早朝からストップ。この停電は夕方の5時まで続くという話。早々に「ヨセミテ・ビュー・ロッジ」を後に、温泉の町カリストーガに向かいました。

DSC00015.jpgカリストーガは、富裕層が訪れる保養地のようです。宿に止まっている車にアメリカ車はほとんどなく、ベンツ、ビーエム、トヨタ、ホンダがやたら目につきます。
ホテルを探して、この小さな町を回りました。「台所付きの部屋はあるか?」ときき、部屋を見てから値段を聞きます。
どれもこれも設備のわりには値段が高く、6軒めでようやく、思わしいところが見つかりました。2泊するからと値切って1割のディスカウントに成功。
宿泊客はほとんどが、中高年と老人です。

次の日のナパとソノマのワイナリーを巡る予定は、急遽変更することにしました。
夜に何度も脚がつり、これは血糖値が上昇している。ワイナリー巡りは、止めた方がいいと判断したからです。
ゆっくりと起きだし、プールサイドで読書を楽しみました。
このホテル、「カリストーガ・スパー・ホットスプリングス」は、かつてのサンフランシスコオリンピック時のプール跡に建てられたそうです。25メートルプール、円形のプール、直径15メートルの円形ジャグジーがあります。
宿泊客の男どもは、みんなワイナリー巡りに出かけたらしく、プールサイドには夫人たちと子供たちに占められていました。

DSC00021.jpg夕刻、この地の名物の「マッドバス(泥風呂)」を試みることにしました。浴槽に入っている泥に身を沈めます。立ってはいけない。底は火傷するくらい熱いのです。
10分で終了、シャワーで泥を洗い流してから、小さな長方形のジャグジーに入る。少し硫黄泉のように濁っていますが、硫黄臭はなく、なめても酸味もありません。
それから、リラックスルルームでうつぶせに寝かされ、首に冷たいタオルが置かれ、15分間リラクゼイションを行いながら、熱気をさますという説明です。
こんなもんなら、日本の温泉の方がよほどいいと思いました。
その後、オプションで頼んでおいた1時間のオイルマッサージ。
日本では、「すごく気持ちいいのよ」と勧められてもいつも拒否していたマッサージを、外国でしてもらうことになりました。でもやはり、ぼくとしては、見ず知らずの女性に体中をなで回されるのは、あまり気持ちのいいものではなかった。初めてのオイルマッサージ体験はそういう結論になりました。

とてもヘルシーな一日を過ごし、明日はナパバレーを下りソノマへと、道の両側のワイナリーを適当に訪問しながら、サクラメントに向かいます。

アメリカより(2)

明日(10/9)サンフランシスコに移ります。US旅行報告(1)の続きですが、その前にパキスタン地震について。
ご存知の通り、パキスタンで大地震があったとのニュースがあったので、家内からの依頼もあり、早速お見舞いメールを出しました。
その返事がパキスタンの友人のナジールサビールから来ました。それによると被害状況は(既にニュースで報じられていますが);
イスラマバード:高層ビル一つだけ倒壊、300人被災。他は見たところ被害なし。
ラワルピンディ:学校の塀の倒壊により女子学生一人死亡、7人負傷。
地震の矛先は、アザッドカシミール、ジャンムカシミールなどカシミール州に向かったので、首都のムザファラバードの70%が倒壊、近隣の小村も被害を受けた。
死者の合計は伝えられるところでは、25000位。北西辺境州では、3000人が死亡。結局のところ死傷者3万から4万あるいはそれ以上で5万。家を失ったものは250万人と見られる。

彼は、復興は友好国の支援を得て全力で進められており、貴方のお見舞いと支援の申し出はこの悲劇に立ち向かう勇気を与えるものですと書いています。
私としては、アフガン難民支援の3度目のパキスタン行きを11月に考えていたところでした。あわせて地震の被災支援も考えないといけないと思っているところです。
(ナジールは、有名な登山家でエベレスト、カラコルムの八千メートル峰5座に登頂しています。私とは古い友人で、拙宅脇のアパートに長く逗留してコンピュータの勉強をしていたことがあります。そして帰国して直後、フンザから国会議員に立候補。ブット派の代議士になりました)

アメリカ報告に戻ります。
DSC00094.jpg朝に地下鉄テロ予告のニュースが流れたのですが、あまり気にせずに、グラウンドゼロに行くことにしました。あのツウィン・タワーのあった場所です。
ぼくのいるところは、アッパー・ウェストサイドですから、南端のゼロポイントまでは結構距離があり、やはり地下鉄が便利。
地下鉄に乗りながら、「これでテロにあったら、けっこう笑い者になるかな」と、ちょっと思いましたけど。

乗り場の駅の入り口では、新聞売りが、一面にテロ予告の記事の乗った新聞を地面から高く積み上げていましたが、買う人は誰もいませんでした。車内の様子もいつもと変わりません。
DSC00070.jpgもともと車内には、常設の赤色の掲示「地下鉄緊急避難のおしらせ」があり、そこには「地下鉄避難は度々はおこりません。でもおこった時のために乗客の皆様が準備をされるよう望みます。詳細はオンラインビデオmta.infoをご覧ください」などと書いてある。
乗換駅のチェンバース・ストリート駅では、階段ののぼり口にテーブルがしつらえられ、荷物チェックの構えはしてある。でも、男女で6人の警官が立っているだけで、そんなに目を光らせている訳でもないようでした。
日本では、テロ対策のためか公共の場所には、ゴミ箱が撤去されていることが多いのですが、地下鉄構内やプラットフォームにはどこにもたくさんの鉄製黒色円筒形の大きなゴミ箱がたくさん置いてある。ちょっと気になったりしました。

グラウンドゼロ(爆心地)見物を済ませ、そこからはからあまり遠くないグッゲンハイム美術館に行くことにしていました。そこにはモジリアニの「裸婦」があるということです。高校時代から大好きだったので、それを見に行こうと思い立った訳です。
それにこの美術館、毎金曜日の18:30分からは、普通は15ドルのところが任意料金となるとのこと。これはラッキーと少々時間をつぶすためにウィンドウ・ショッピングをしながら行ってみると、とんでもない混みようです。
9月1日からロシア絵画特別展覧会が開かれていたのです。何ドルでもいいのですが5ドルを払って入場しました。

DSC00097.jpgモスクワから運ばれて来た250点以上の油絵が、グッゲンハイム美術館の螺旋状に6階まで登る回廊に、年代順にぎっしりとかけてある。それらのほとんどは、これまでにヨーロッパの各地で見た歴史的な名画とひけを取るものではなく、それ以上と思えるものもありました。
驚くばかりの精緻な描写で、まるでカラー写真以上とも思える油絵が並んでいます。ひょっとしたらヨーロッパの印象派等の絵描きなどは、これにはとてもかなわないと別の技法を生み出したのではないかなどと、突飛な邪推をしたくらいでした。
トルストイ、ドストイェフスキー、レーニンなどの見事なポートレイトもありました。

ところが、スターリンが現れる時期になると、一気に粗雑なと思える絵になるのは興味のあるところでした。歴史的記録として価値はあっても、芸術的価値はない。
スターリンが中央で少女から花束を受け握手しているパーティ会場とも思える巨大な絵は、まわりにいっぱい人が描かれており、幾人かの知ってる顔もありました。
その絵を見入っている時、後ろで「ニエット、なんとかかんとか」とロシア語が聞こえたので、振り返るとピンクのワンピースを着た大柄の夫人が立っていました。ぼくの顔を見て「あなた、フルシチョフがいるでしょ」というので、
「順に名前を教えてくれませんか」と頼みました。
「ほれ、そこにブハーリン、それからミコヤン...」

8時の閉館で追い出されてしまい、結局モジリアニには巡り会えませんでした。
しかし、近代美術館にもない初期(20歳代)のピカソも見れましたし、見たこともないセザンヌやモネーの絵、またアムステルダムのゴッホ美術館にもないゴッホやゴーギャン等もたくさんあったのです。
タクシーでセントラルパークを横切ってアパートに帰ると、8時半でした。
なにか上気した気分で、近くのスーパー「フェアウェイ」で買い求めたエビをアペタイザーにソノマの白、ソービニヨン・ブランを飲みました。

DSC00002.jpg次の日、ニューヨーク最終日の夜は、ニューヨークシティオペラで「蝶々夫人」を観ました。これを観るためにニューヨーク出発の予定を、当初のスケジュールより一日遅らせたのですから、ニューヨークではこれが本命と言えました。
ところで、歌劇「蝶々夫人」には少々曰く因縁があるんです。
10年ほど前のことですが、私の還暦パーティがベニスでありました。
ほとんどが教え子の15人ほどの参加者は、有名なオペラ座「フェニーチェ」で蝶々夫人を観劇することになっていた。
ところが、日本出発の一ヶ月ほど前に、「フェニーチェ劇場」は焼失してしまい、ぼくたちは、ベニス郊外のテント公演での「蝶々夫人」を観たのでした。

消失したフェニーチェは大変惜しまれ、すぐに再建の動きが始まりました。世界的な基金が始まったので、ぼくたちもなにがしかのお金を寄付しました。
DSC01106.jpg8年経ってフェニーチェは、見事に再建されました。しかし、すぐにオペラ公演は行われませんでした。
アコースティックは世界一といわれるフェニーチェ。1年間は、音のエージングのため、コンサートのみの公演だったのだそうです。
そして1年経ち、それは昨年11月のことなのですが、初めての歌劇公演が行われることになりました。演目は「椿姫」。この歌劇「椿姫」が初演されたのは、フェニーチェでしたから、曰く付きの演目設定といえます。この柿落としにはどうしても行きたくて、大変苦労した末、切符を手に入れることが出来たのでした。

DSC00018.jpgニューヨークシティオペラの「蝶々夫人」ですが、ついつい引き込まれてしまう出来だったと思います。プリマドンナの中国人Shu-Ying Liは、山東省の生まれで、アメリカ各地で「蝶々夫人」を演じており、NYシティオペラの日本公演で、日本に来たこともあるそうです。
フェニーチェの「蝶々夫人」とは、振り付けが大いに異なっていて、日本人役は着物を着ていてよりリアル、最後の自殺の場面もより迫力がありました。

オペラがはねて、外に出ると激しい雨が降っていました。タクシーがつかまりません。ようやく捕まえると、帰るのと方向が違うとかいって乗車拒否されたり、タクシーを追いかけて40分近くがたちました。距離が近すぎるのです。地下鉄の一駅間ですから。
結局かなり濡れそぼってから、地下鉄で帰宅したのでした。

アメリカより(1)

お元気でしょうか?
私は今アメリカを旅しています。
まだ旅半ばなのですが、てれてれと書いてみると、えらく長文になっています。
斜め読みなり、読み飛ばすなり、途中で止めるなりご随意にしてください。

1日に関空を発ち、デトロイト経由でピッツバークに入りました。
スーツケースにロックしていて、無断でロックを壊されても文句はいいません、というドキュメントをチェックインで見せられました。どうなってるんや。
入国審査で、指紋と顔の写真を撮られるとか、靴をX線に通すため、裸足になってチェックを通るとか、その他もろもろ以前のアメリカでは考えられないような腹立たしくも新鮮な経験をして、予定通りピッツバーグ着。

ここには、フルブライト留学をしている、ぼくの弟子がおり、彼の帰国が急遽早まった。それで帰国までに彼との仕事の打ち合わせをして置こう、また彼は仕事へのリハビリも必要だろうと思ったのが、今回の訪米のきっかけ。彼がレンタカーを借りて、迎えに来てくれていました。
DSC00004_1.jpgピッツバークは、ミシシッピー河の上手にあり、昔製鉄業で栄えました。五大湖周辺の町が凋落して行く中、ピッツバークは産業をメディカル(医薬品、医学)と学術に切り替え生き延びたのだそうです。
ビッツバーク大学やカーネギーメロン大学は、医学やITの中心となっています。
川に囲まれた落ち着いた町中を、彼の説明付きの市内観光しながら、夕食の食材を買い求めます。「TOKYO」という日本食材店は、まるで日本のスーパーと変わらぬあらゆるものが置いてありました。
明らかに東アメリカ文化圏に属すると分かる町並みは、なにかヨーロッパの下町を連想させます。ドイツ移民が多いのだそうです。
この町の落ち着きは、観光客が全く来ないという事情に依っているのではないかという気がしました。

インターネットで押さえてあったMariotto Residense Innなる台所付きの宿に到着。
安くはありませんが、システムキッチンには食器洗い機までついています。
ピッツバークで、特に行ったところといえば、すぐそばのフォート・ピット(FortPit)とアーミッシュの住む地域の二つだけでした。
DSC00030.jpgFort Pitは、アメリカ独立戦争前後の古戦場で、日本でいえば地形的には川中島という感じなのですが、歴史的には全然違います。土着のアメリカインディアン、フランス、イギリスの三つどもえの戦いがつづき、その栄枯盛衰は大変ドラマチックの様に思えました(資料館のビデオ等に依れば)。帰ったら調べたいと思っています。



DSC00029.jpg一昨日、ピッツバーグからここニューヨークに移ってきました。ニューヨークでは、マンハッタンのアッパー・ウェストサイド地区の16階建てのアパートに入っています。
インターネット回線完備、DVD付きのToshibaのテレビもあったりの完璧の設備ですが、値段もびっくりするほど高い。ニューヨークでは、ホテル等はすべてひどく高価です。アパートは東京のホテルの2倍近くもするんですよ。でも、アパートで自炊すると、レストラン代はいりませんし、好きな美味しいものが食べられる。
ワンブロック横に、ガイドブックにも載っている「フェアウェイ・マーケット」があり、新鮮な食材が豊富にあるのを見てきました。夜10時に到着してすぐに。その夜は、ピッツバーグから持って来た冷凍したご飯のお茶漬けでしたけど。

昨日は、地下鉄で乗り間違えをしながら5番街へ行き、当地が思っていたより暑かったので、GAPで下着のランニングとシャツを買いました。持ってくるのを忘れたダンヒルのヘヤー・トニックの代用品も買いました。だいたい欧米人は、ヘヤー・トニックなるものを使わないようで、欧米何処でも購入は至難なんです(娘に頼んでも、どこの空港にも置いてないようなので、日本のインターネットサイトで注文しています)。

DSC00061.jpg5番街からウィンドウショッピングをしながらタイムズスクエアまで歩き、地下鉄に乗ってイースト・リバー川向こうのブルックリンに行きました。そこで、有名な「ピーター・ルーガー・ステーキハウス」で、Tボーンステーキを食べます。
囲いのメニューでは"Steak for two"というのが冒頭にあり、以下for three, for fourと続いています。For twoを注文。

7時半からリンカーン・センターでのニューヨーク・フィルの演奏会に行く予定です、遅くならないようにボーイさんに、
「7時半には、リンカーンセンターに行かないといけませんので...」
「大丈夫ですよ。充分間に合います」
するとしばらくして、パンとナパワインとサンペレグリーノのミネラルウォターを運んで来た別のボーイが、
「貴方はシンガーですか?」と聞きます。
(え? シンガーだって。もしかしたらシングルの聞き間違えかしら?でも一人ではなく女性と来てる訳だし...?、まあどっちにしてもノーだ。と、考えてはたと気付きました。彼はぼくを歌手?と思ったようなのですよ)
「ノー、ノー。ぼくはニューヨークフィルを聞きに行くんです」
「ああそうですか。OK」
丁度同じ頃、カーネギーホールで加山雄三コンサートがあったので、日本人ということで、あのボーイ早とちりしたのかも。

あたふたとリンカーンセンターに駆けつけ、ぎりぎりセーフ。と思いきや、荷物チェックでカメラが見つかり、クロークに預けろといわれ、クロークに行くと「預け賃3ドル」。あほくさ、「じゃ止め」ともう一度バッグに隠し、別の入り口から再トライ、今度は通過できました。
でもこんなことをやっているうちに、時間が経過、入場を止められ、最初の演目「ラベルの高雅で感傷的なワルツ」は、待ち合いのロビーのTV画面で鑑賞する羽目になりました.

DSC00066.jpg演奏会が終わり、真ん中に円形噴水のある正面広場の反対側にある「シティ・オペラハウス」を三脚を立てて撮影していたら、ガードマンが来て「許可証を持っているか?撮影は禁止だ」といいます。「ないよ。分かった分かった」と引き下がっておいて、リンカーンセンターの入り口側から取りました.傍にガードマンがいるのに、なんにもいわないんですよ。管轄が違うんでしょうね。
むかし、パキスタンで、空港、橋、港などでカメラを構えただけでポリスが飛んで来て、フィルムを抜き取られたのを思い出しました。

アパートまで、ブロードウェイ通りを歩きました。屋外にテーブルを出している店はないかかなと探しながら歩きました。スタバが一軒あったけれど屋外テーブルはありません。アパートのレセプションのお兄さんに聞くとマンハッタンでは喫煙は法律で全面禁止。シガーバーもないという。
「ブルックリンだと吸えるけれど、タクシーで往復したらえらく高いシガーになるね」と冗談を言われ、ムカムカしながら部屋に戻りました。
インターネットで調べると、ローアーマンハッタンに「Club Macanude」というシガークラブがあることが分かりました。電話をかけると1時半まで開いているそうです。
まだ10時ですから、タクシーを飛ばせますが、ドット疲れが出て、そのままふて寝してしまいました。
今朝目覚めると、テロの予告の記事を目にしました。娘と家内からの注意を促すメールも届いています。
でも地下鉄は安くて便利だし、ブッシュが支持率低下を食い止めようとテロ危機を演出している可能性もある。あんまり気にしていないのですが...。

最後までおつきあいありがとうございました。
数日後に、多分、またご報告します。

2005.10.16 朝
WooGoo Central Park 240 West 73rd Street 713号室にて
高田直樹

コングール峰・戻らなかった三人とぼくの最後の遠征登山

 ラトックⅠから帰国し、あわただしい気分の抜けぬ1979年の暮れ、突然京都ホテルに集まれという京都カラコルムクラブからの招集がかかった。
 かねてから申請していた中国新疆省のコングール峰の登山許可が得られる見通しとなったということが披露され、みんなは浮き立っているようであった。
 1975年のラトックⅡ前後からカラコルムクラブとは疎遠になっており、コングール峰のことは全く知らなかった。帰ってきたばかりのぼくとしては、遠征登山はもういいわ、という感じであった。
 数日して、ディラン隊の隊長でカラコルムクラブの会長の小谷さんから連絡があった。
 ロータリークラブで、山の話を聞こうということになったので、重廣氏にエベレストの話を依頼してもらえないかということであった。重廣はこの年の5月にエベレストの北壁を尾崎隆氏と登っていた。
 ロータリークラブの講演の後、小谷さんはお抱え運転手が運転するビュイックで、重廣君を電車の駅まで送った後、府庁に向かい、一人中に消えた。帰ってくると「いやぁ、副知事の野中さんが離してくれなくてねぇ」といった。
 そして、コングールに登れる強力な隊を組織してほしい是非にと、強く私に依頼した。学校の休暇のほうは、心配しなくてもいいとのことだった。
 考えてみれば、すでにこのときから、コングール隊は京都の特殊な政治的対立の代理戦争の素材になる運命を背負っていたのだが、その時そんなことが分かるはずもなかった。
 ぼくは、しばらく考えさせてほしいと答えた。
 数日後、大阪に向かって走るビュイックの中で、ぼくは隊長を引き受けることを承諾した。しかし、条件をつけた。隊員選考には、ぼくの考えを最優先させていただくこと。隊員の自己負担はゼロとすることの二点であったが、小谷さんは快く了承してくださった。



 隊員選びには、ラトックⅠのときと同じように、山渓の池田さんの推薦を参考にした。
 1965年のディラン隊のとき、隊長のかばん持ちをしてあちこちを回ったりした経験から、ぼくには小谷さんの考えていることが、よく分かった。彼は重廣君の参加を望んでいたと思う。
 しかしなぜか、ラトックの時のように重廣にすべてをゆだね、彼をを最優先する気にはならなかった。
 まず、松見親衛。ラトックⅠの隊員で、彼のおおらかな人柄にほれ込んでいた。
 寺西洋治さんは、ラトックⅠのとき、同時期にラトックⅢに登頂した広島隊の隊長さんで、ベースキャンプがそばだったこともあり、よく会話を交わしていた。その時、彼はぼくに、「次の計画の時には必ず声をかけてください。約束ですよ」といっていたのだ。
 鴫満則さんは、池田さんの推薦で隊に加えた。鴫秋子さんを呼んではどうか。二人はペアだからと、池田さんは言ったのだが、ぼくはスンナリ受け入れられず、松見さんに聞いてみた。彼も賛成しなかった。鴫さんからの直接の要請がない限り何もいわないでおこうと思った。
 松見は、重廣の去就を一番気にしていた。「シゲさんは来るんですかねぇ。きっと土壇場で参加するといいますよ」
 ミーティングには、常に彼を呼んでいたのだが、隊員としてではなくアドバイザーとしてであったし、ぼくが言わない限り、彼が自分から参加を言い出すことはないことを、ぼくはよく知っていた。
 重廣の参加に最も異を唱えたのは、鴫さんだった。「コングールは重廣さんの山ではないと思います」と強い口調で言い、松見も同意を示した。彼らは、明らかに、新しいスタイルの高所登山を望み、重廣の参加によって、そのスタイルが壊されることを危惧していたのだと思う。ぼくもまたそうした考えに共感を覚えていた。
 しかし今にして思えば、重廣には参加を求めるべきだったし、鴫さんにも鴫秋子さんの参加を打診すべきだったと思う。もしこの二人の参加があれば、あのようなコングールの悲劇は避けられたのではないかと悔やまれる。

**

 イギリスのボニントン隊が、同じ時期に許可を得ていることが分かったのは、しばらく後のことである。
 ボニントンは、ボニントン一家のメンバーを引き連れて、南面から攻めるという。それだけではない。彼らは強い政治力を働かせ、英中文化協定なるものを作り、その中には「処女峰を登らせること」との一項があるというのだ。日本隊には先を越させるなということである。イギリスのやりそうなことだと思ったものの、どうしようもない。
 案の定、中国の登山協会からベースキャンプの建設は7月以降にするようにとの通達が来た。
それを守っていたら、登山のチャンスを逃してしまうではないか。ベースキャンプではなくてベースハウスと呼ぶことにすればいい、とぼくは考えた。それに、英国隊は条件のいい南面ルートを押さえているので、日本隊は北面のルートを取らざるを得なかった。
 ボニントンはすでに、偵察に向かっているという。スポンサーは、あのアヘン商人の末裔のジャーディンマティソン。スコッチウィスキー・ホワイトホースの輸入元である。
 わが方日本隊の大口スポンサーは、すでにサントリーに決まっていた。
 山渓の池田さんから連絡があった。偵察を終えたボニントンが、帰りに香港を経由して日本に立ち寄る。レセプションをやるので、出席者の人選を頼まれた。「もちろん高田さんも挙げときました」
 ところが、数日して、「あのレセプション、高田さんの出席が拒否されました」という連絡があった。
 ジャーディンが、商売敵のサントリーをスポンサーにつけている隊の隊長はお断りといってきたという。
 きばって行くほどのこともなしと思っていたら、また数日して、ボニントンがぜひ会いたい。当日の朝、帝国ホテルの朝食を一緒にしてもらえないか、そう頼んでほしいといってきたという。
 実はこの少し前、池田さんから面白い話をきいていた。ラトックⅠの許可は、実は最初はボニントンに出ていたという。しかしボニントンは何人も死んでいるラトックⅠは危険すぎると考えキャンセルした。だからぼくたちの日本隊に許可がきたのか。そして、その難峰を日本隊はスンナリと登ってしまったのだ。
 ボニントンがぼくに会ってどんな奴かを確かめようと思っても何の不思議もない。ぼくはそう合点した。
 ぼくたちは、帝国ホテルの食堂で会って朝食をともにした。
 ボニントンはアラン・ラウスを伴って現れた。トーストを食べる間くらいの時間でたいした話もしなかったように記憶する。何をしゃべったかほとんど覚えていない。ぼくはけっこう敵愾心を抱いていたのかもしれない。でも好青年のアラン・ラウスには好感を持ち、彼からのアルパインスタイルについての話を興味深く聞いたように思う。
 コングール隊が悲劇的な結末を迎えたすぐ後、アラン・ラウスから丁寧なお悔やみの手紙が届いた。
 お悔やみの手紙は彼だけではなく、ピーター・ボードマンとジョー・タスカーからも来た。
 コングールの翌年の1982年春、ボニントン以下4名の登山隊がエベレストに行く。そしてピーター・ボードマンとジョー・タスカーは、8200mの第1ピナクルを越えた後、消息を絶ち二度と戻らなかった。
 世界のトップレベルの実力を備えた寺西、松見、鴫のパーティは、北稜からコングールを目指したが、運悪く悪天に囚われ再び戻ることはなかった。
 このコングールの日本隊と同じ状況をボニントンも経験したということなのであろう。そしてアラン・ラウスもまた、まもなく山で死んだ。

***

 コングール登頂のすぐ後、来日したピーター・ボードマンが池田さんに語ったという話は、大変印象深かった。
 コングール頂上に達したボードマンたちは、北の前方にもうひとつのピークを見た。それは、いま立っている頂上と同じかあるいは少し低いと思われた。日はすでに傾きつつあった。下山を急がねばならない状況であった。
 でも、あのピークがもし数メートルでも高かったら、そして北側の日本隊が登ったら・・・。
 彼らは必死の思いで山稜をたどり、そのピークに達したとき日が落ちた。雪洞を掘ろうとしたが、1メートル下は氷できわめて不十分な物しかできず、厳しく危険なビヴァークを強いられたという。
 彼らは、日本隊の成功を信じていた。寺西、松見、鴫の実力を高く評価していたといえる。この話を聞いたとき、貴重な3人を失った責任みたいなものを、悲しみとともに改めて強く感じたのを記憶している。
 戻ることのなかった3人にとって、山での死は想定内のことであったとぼくは思ったし、今でもそう思う。しかし帰国したとき、残された家族から投げかけられた言葉、「どうして主人を止めてくれなかったのですか」とか「どうして途中まででもいいから、ついて行ってくれなかったのですか」などなどの言葉は、名状しがたい苦痛とやるせない憤懣をぼくに与えた。それらの言葉が、肉親の限りない悲しみの産物であることを理解するのには、かなりの年月を必要としたようだ。
 山岳界からは、別の批判と冷たい視線が投げかけられた。それは、小谷総指揮の記者会見の場での発言「極地法から一足とびにアルパインスタイルを試みたのは冒険だった」に対するものだった。ぼくとしては、そうした批判に対して、もちろん反論ができるわけがなく、また弁解もできずで、苦しさと腹立たしさをこらえて、ただ沈黙を守るしかなかった。
 ぼくがその頃感じていたのは、山登りの世界で名をなした人であっても、死線を越えるような登攀体験をした人たちと、そうでない人たちとは決定的に違うんだということだった。
 今にして思えば、これらもまた極めて傑出したクライマーを失った損失に対する山の世界からの反応であったのだと思う。
 この遠征がぼくにとって最後になったのは、そうしたことが原因だったのかもしれないし、ぼくの興味が山登りよりも当時出回り始めたコンピューターに移行したことによるとも思える。
 考えてみれば、あの後さらに遠征登山を続けていたら、ぼくはもうとっくに生を終えていただろう、と今にして思う。
(左から、松見、寺西、鴫の3故人)コングール峰の三人.jpg

回想ラトック1峰

回想ラトックⅠ峰    高田 直樹

  最後の難峰などといわれたラトックⅠの初登頂は1979年のことであるから、あれからもう28年もたったことになる。部屋の壁にかけてあるラトックの岩壁のパネルもアクリルがすっかり黄ばんできたし、ぼくがタバコを持ってモデルになっている<ナイスデー、ナイスモーキング>の日本専売公社のポスターもすっかり色あせた。
ラトック1峰.jpg 5年ばかり前、山渓の池田さんから、ラトックⅠの第2登はまだないんです、と聞いておどろいた。
 それ以後も登られていないようで、初登の後30年近くも第2登の記録なしというのは、なんとも不思議だ。バインター・ルクパル氷河のラトック・グループといわれる峰々はⅠ〜Ⅳまであるが、第2登の記録はⅡとⅢのみである。それだけ困難で危険だということなのだろうか。

英語のWikipedia Latokを参照英語Wikipedia

 ぼくが、このあたりに興味を持ったのは、たしか「岩と雪」25号に載ったラトックⅡの大垂壁を見たときだった。そして京都登攀倶楽部という大変な攀り屋さんたちの遠征隊を率いることになる。
 この遠征隊は、登頂できなかったのはしかたないとしても、ぼくにとってきわめて不本意なものであった。登攀リーダーとなるべき隊員が、ラワルピンディーで急性肝炎で倒れたことが、影響したのかもしれない。
 表面的には、雇われ隊長の形であったけれど、ソ連のコーカサス遠征隊とはまったく違うものだったし、ぼく自身、形だけの隊長とは思っていなかった。
 前回の第2次RCCのコーカサス遠征隊の隊員から、京都の隊長はよかった。「皆さん気をつけて」というだけで、ベースの留守番をしてくれたという話を聞いていた。だから、ぼくもコーカサスに行ったときは、隊長は登ってはいけないのだと思っていた。しかしみんなから「隊長一緒に攀りましょうよ」と何度も誘われ、結局は一緒に攀ったのだが。
 京都の登攀倶楽部隊は、自分で組織したものではなかったけれど、準備やトレーニングの段階からかかわってきた。だから、この時はソ連のときのように人ごとではなかったのである。
 ラトックの山々では、極地法の感覚で群れ集いながら登るという雰囲気はフィットしない。
 基本的に自立した個人が、自発的な登行への集中力を燃焼させた結果の総和が成功に結びつくなどと考えていた。
 だからぼくは隊の方針として、荷揚げの重量に関して、もちろん大枠は定めるが、自分で管理するようにし、チェックは行わなかった。ところが、それは、上部テントに有り余るトイレットペーパーが荷揚げされるという笑い話のような結果が生んだ。みんな楽をしたいだけだったのだ。
 この隊には登攀倶楽部のメンバーではないクライマーも参加していたが、大遠征隊に参加した先輩から彼が受けた忠告は、使い捨てにされるな、最終アタック段階のために体力を温存しろというものだったそうである。こういう隊員がいたのでは登れないと思った。
 最終段階では、これは後に分かったことだったが、上部テントの隊員が、テントに入ったままトランシーバーで、あたかも行動しているかのごとき通信をベースに送るという信じられないような事が起こっていた。
 ぼくはほとほといやになっていた。
 でも、あの美しいラトックⅡには、ぜひもう一度挑んでみたかった。納得できる自分の隊を組織して。



 強い隊員を集めなければならないが、まず良い山、攀りたくなるような山が必要だった。攀りたくなる山があれば、それが攀れる強いメンバーが集まる。強い隊ができれば、スポンサーは付く。そう考えていた。
 とりあえず登山申請を急いだ。目標は勝手知ったるラトックⅡが第一志望、第2志望はラトックⅠ、第三志望にはラトックⅢを据えた。
 このどれに許可がきてもよかった。どれもが極めて困難でまた魅力的だったからである。
『岩と雪』の編集長に隊員セレクトの助言を求めた。池田氏とは彼が山渓に入社したばかりの頃から知り合いだった。
 この難しい山を成功させるためには、強力で経験のある登攀隊長が必要であると考えたとき、頭に浮かんだのが、重廣恒夫だった。彼とは、第2次RCC隊のエベレスト遠征のときからの知り合いだった。ぼくはあの当時、奥山章さんに命じられて、京都から西の隊員選考の元締めをやっていた。
 関西以西のすべての自薦他薦の隊員志望者は、ぼくを通って候補者になる仕組みだった。
 奥山さんが急逝したことで、この隊は湯浅道夫を隊長にすえ、ぼくは彼を補佐する形をとった。
 ところが、東京の隊員グループがぼくを担いで湯浅隊長を引きおろすクーデターを画策し、これを知ってぼくは、あっさりとこの隊から遠ざかることにした。もともと第2次RCCだけでエベレストに行けとけしかけたのはぼくだったのだが、そうした裏話はここの本題ではないので、話を戻す。
 重廣恒夫とは、そういう訳で、古くからの知りあいだった。また彼がエベレストから帰ってきた年の夏には、文登研(文部省登山研修所)制作の16mm映画『岩登り技術・応用編』で、彼と二人でモデルをつとめ、一緒に剱岳のチンネを攀ったこともあった。
 たしか、大阪の梅田駅の近くの喫茶店だったと思うのだが、ぼくは彼にラトックの話を持ちかけた。案の定、彼は乗り気を示さず、むしろ引き気味だった。たぶんぼくについて、あまりいい情報を得ていなかっただろう。でもぼくは、めげずに切り込んだ。
 「君なあ、これからもずっと大遠征隊に参加して、隊長にかわいがられて、それで成功して、おもろいんけ。やっぱり山はなぁ、自分で組織して、既成の山の団体には出来んような山をやらんとなぁ。いまみたいな自分像で一生過ごすつもりなんか」
 この時、ぼくがイメージしていたのは、かのスティーブ・ジョブスが、ペプシ・コーラの社長スカーリを、アップルの社長に引き抜いたときのせりふだったのではないかと思う。
 ジョブスは、スカーリに「あなたは、一生を女子供に甘い清涼飲料水を売って過ごすつもりですか」と迫ったのだった。
 このぼくの説得がどれだけ効いたのかは分からない。でも彼は行くことにしたのだ。そして、すぐに渡辺と奥を誘って隊員とした。

**

 松見は、池田氏の推薦だった。赤蜘蛛同人の井上、松見の両名は、ヨーロッパの困難な氷のルートを初登しているという。ぼくの電話の誘いで二人は信州から京都にやってきた。井上氏は、「こういう話は、屋台の飲み屋で酒を飲みながら切り出すものですよ」とぼくに忠告してくれた。
 ソ連のシュロフスキー峰・シヘリダ峰のときの最年少隊員だった雲表倶楽部の武藤君は、ぼくの誘いをスンナリと受けた。
 教え子で高校生の時から絶え間なく付き合っている二人を参加させることにした。一人は1969年のスワット隊の中村達をマネージャーとして、もう一人はスキーの名手の城崎だった。彼は高校でスキー部を作り、すぐのシーズンに全関西高校スキー滑降競技で5位に入賞した。ぼくと彼は、毎冬のように信州の彼の別荘で、スキー三昧の日々を過ごすのが常だった。この二人に関しては、BC以上の危険なところには、上げないことを家族にも約束した。しかし、現地で荷上げがはかどらないのを知った城崎の申し出を受けて、結局彼には、C1までの荷上げに従事させたのである。
 遠藤甲太は、ぼくが大変興味を持っていたクライマーであった。なにか明治大正の放蕩文人を髣髴とさせる男ではあったが、谷川岳で多くのルートを拓いていた。池田氏は、「彼はもう酒びたしで攀れませんよ」といったが、ぼくは遠征したら立ち直るんじゃないかと反論した。
 たぶんぼくは、彼の書く文章や文体に惹かれていたのだと思う。重廣はけっこう強く反対したが、ぼくのわがままを許してくれたようだった。
 こうして、隊は出来上がっていった。

***

 スポンサーを出来るだけつけて隊員の自己負担を減らすのは、隊長の務めだった。日本専売公社がついてくれた。翌年に発売する予定の新ブランドのタバコを持って宣伝用の写真を撮ってくるのが条件だった。タバコは軽いし宣伝写真はどこでも撮れる。楽な条件といえた。紙上後援ということで朝日新聞社が応援してくれることになった。京都の酒造会社がスポンサーになってくれたが、この条件は厳しかった。頂上でのお酒の小瓶をもった写真とムービーというのが条件だった。
 京都祇園にある教え子が経営するクラブで、交渉の会議を持った。こちらは要求する金額を示し、相手は条件を示す。そしてこう確認を求めた。
「きっと登れるんですね」
 ぼくはたじろいだ。そのときはもう許可はきていた。あの危険な難峰のラトックⅠが100%登れると言い切れないではないか。ぼくが、ぐっとつまっているとき、横の重廣が、
 「大丈夫です。登れます」ときっぱりといった。これで話は成立したのである。
  隊員はみんな仕事が忙しいので、山での合宿などはやれなかった。月に一回のミーティングを京都、名古屋、信州と場所を変えて行っていた。
 ぼくは、隊の融和とかチームワークとかに意を注いだわけでなかった。チームワークの本義は、優れた個人の仕事量の総和という意味だとぼくは考えていて、みんなにもそう説いていた。
 きわめて困難な岩壁では、自分を守るだけが精一杯であり、それで十分だと思っていた。
 そして、行って、見て、「ラインが引けたら攀れる」と、これを合言葉のように唱えていた。
 しかし実際に成功するためには、きわめて科学的で冷徹なロジェスティックスが必須であり、これを作り上げていったのは、ぼくと同じ応用化学科専攻の重廣だった。
 名古屋でのミーティングの時のこと。そこはスポーツ選手がよく合宿するというユースホステルだった。管理人のおじさんが、帰り際に説教した。「皆さんは難しい山に攀りに行かれるんでしょ。こんなにてんでばらばらで、大丈夫なんですか」
 ぼくは、すみませんと謝っておいたが、なにゆうとるんじゃい、お前らに分かるかと心の中で思っていた。
 登攀の最初のオペレーション、C2までのルート開拓は、落石をかいくぐってのものだった。神経をすり減らす一日のルート開拓を終わってC1に戻った隊員たちは、みんな互いに、遠く離れた氷河上の石に座って黙り込んでいた。きっと打ちひしがれた自分を他のメンバーに見せたくないのだとぼくは思った。それは一種のメディテーションの時間であり、精神的に強い自分を取り戻すための行動のように見えた。

****

 岩壁に張り付いた氷を削って、C2が建設された。
 C2から上部へのルート開拓が始まった段階で、ぼくもC2にあがることにした。開拓のオペレーションは、二つのグループが交互に開拓を行うことになっていた。ぼくと重廣はどちらのグループにも属さず、フリーで動けるようになっていた。
 この頃、C2では深刻なトイレットペーパー不足に悩まされていた。ぼくが何度か話して聞かせたラトックⅡでの状況が必要以上に隊員のみんなに浸み込み、誰もだれもがトイレットペーパーを荷物に入れるのを躊躇したらしいのだ。
 だからぼくは、トイレットペーパーの補給ということで、トイレットペーパーばかりを運びあげてもよかった。でも、ぼくはそうはせず、むしろうんと重い荷物を担いでC2に向かった。俺でもこれだけ担ぐんだぞというプレッシャーを与えてやろうと思ったのだった。
 しばらく氷河を進むと危険な氷のガリーに入る。
 すばやいステップでのぼり、止まるとすぐ上部をうかがう。氷を飛び跳ねながら握り拳から頭くらいの大きさの落石がやってくる。じっと待つ。当たりそうな直前にすばやく身をかわすのがコツである。
 しばらく登って大岩壁の取付きに達する。張られたフィックスに2個のユマールをセット。ユマーリングというのは、普通は垂れ下がったローブにぶら下がって10センチ刻みでずり上がる、なんとも単調な労働なのである。でもここでは、そんなのんびりしたものではなかった。
 朝日に照らされて、アイスキャップが白銀に輝いている。はるか上部の岩壁にも日が当たりだした。その美しい光景を、痛くなるほど首を曲げ仰ぎ見ていると、「ブゥーン」という蜂の羽音のような、なんだか耳の奥がくすぐったくなるような低周波の音が聞こえてきた。
 落石がくる!。岩に張り付き、顔を岩に擦り付け、目を閉じて身体を硬くする。音はだんだん周波数が高くなって、「ウゥーン」となり、そして耳元で「ピュッ」と鳴って、通り過ぎるのだ。不思議なことに岩にはねる音がない。落石はまったくノーバウンドで空中を飛んでくる。これに当たれば、銃で撃たれたようなものでひとたまりもないだろう。当たったら運が悪いのだ。そう思いながら、岩に張り付くことを10回もくり返さないうちに、まるで鷹の巣のようなC2に着いた。

*****

 重廣と一緒にルート開拓から帰ってきた渡辺が、ぼくのザックを受け取って、驚いたようにぼくの顔を見た。それにしても、C2はとんでもない場所にあった。そこはテラスにのった氷を削り取った所に、テントがかろうじてのっていた。テントの周りにはほとんどスペースがなく、テントを出るやいなや岩壁に手すりのように張ってあるフィックスロープにゼルブストを取らないとならない。
 もちろんキジ場などはない。この固定ロープを頼りに岩壁をトラバースして、まるでアブザイレンの姿勢で大も小も用を足すのだ。面白いC2小咄を聞いた。ここにはトイレットペーパーがなかったから、指を使わないといけない。拭いてから、手を激しく振って着いた汚物を振り飛ばそうとする。その時手が岩壁に当たり、「あ痛ったたー」と思わず、その手を口に入れてしまうというのである。
 この夜重廣は、終始ぼくと顔を合わさなかった。渡辺が小声で、「重さんどうする。隊長は頂上に行くつもりですよ」というのが聞こえていた。ぼくが行ったらそれは大きなお荷物だ。来るなとも言えず、彼は困っていたのだろう。でもぼくも、心配するなそんな気はないよという本心は告げなかった。そして翌日、ぼくは下に向かったのだった。このなんでもない出来事は、後々までなぜか心に残った。
 話は遡るが、これは山に向かう時のラワルピンディでのこと。ぼくたちも当時各国遠征隊の定宿となっていた、ホテル・ミセスデービスに滞在し、スカルド便の飛行機待ちをしていた。ベランダで重廣が漫画の本を読んでいる。訊くと『はぐれ雲』ですよと答えた。「それなんや」。はぐれ雲とは主人公の名前であるという。「へえぇ、どんな男なんや」というぼくの問いに、彼は半ばはき捨てるように「高田さんみたいな男ですよ」と答えた。
 帰国してから、シリーズ物の『はぐれ雲』を読んでみた。そして、彼がぼくのことを、けっこう無頼な遊び人と捉えていたことが分かった。でもそれはぼくにとっての褒め言葉のように思えたのであった。この本の主人公は突如人の意表をつく動きをする。そう考えれば、重廣のC2での困惑も理解出来るような気がしたのだった。
 ラトックⅠ遠征隊の試みは、当時まだ一般的な概念ではなかったが、ぼくにとってはプロジェクトチームであり、一つの実験的な遠征隊であった。そしてその試みは、幸運にも成功したのだった。
 30年近くが経ち、あの時一緒した、松見、渡辺、奥の三君はもうだいぶ前からこの世の人ではない。
 ラトックの山々とともに、あのときの日々と人たちが想いだされ、長い年月がたったのだと今更のように思い浮かぶのである。

回想の東大谷

回想の東大谷タイトルS.jpg 私の場合、日本の山といわれたらやっぱり、それは剣でしょう。いちおう登山家ということになっているぼくですが、日本で登った山の数なんぞしれたもの。ほとんどが剣かもしれません。
 初めて私が剣に向かったのは、それはずっとむかし、もう四十年以上も前の1957年の3月のことでした。ぼくはまだ20歳代に入ったばかりの若さでした。
 富山地鉄の本宮から線路を歩き、立山駅入り。ケーブルの階段を二往復して、美女平らまでの荷揚げ。荷物は40キロを超えていたでしょう。その重荷を背にシールをつけたスキーで、エッチラオッチラと弥陀ヶ原を進みました。
 泊まりはすべて雪洞でした。駆け出しのぼくにとって、これは強烈な体験でした。
 今みたいに優秀な装備はありません。寝具は、朝鮮戦線から死体をくるんできたといわれている、米軍放出の寝袋。シュラフカバーは棉製でした。靴が凍らないように脇に抱えて眠りました。
 つらかったけれど、今ではできないこともできました。天気さえよければ、雪上に作った火床の上で、豪華なたき火が楽しめました。
 視界が利かないと、まったく進めないルートなので、なかなか捗らず、雪洞に十数泊してようやく、雷鳥平にたどり着いたのです。
 ここの雪洞から、友人の芝やんがOBと一緒に剣岳にアタックに向かうことになりました。
 朝食の炊事当番を命じられたぼくは、夜中の2時起きだし、雪を溶かして水を作り、餅入りのみそ汁を作り、アタック隊のお茶をテルモスに詰めました。
 4時。外に出ると一面の星空でした。大日岳から別山、真砂、大汝、雄山とつづく雪山は、青黒く立ち並び太古の静寂があたりを支配していました。
 芝ヤンは別れ際に、「どうや、タカダ。テンジン(エベレストに初登頂したシェルパ)みたいやろ」と高ぶった声でいい、星空の下その白い歯だけが、くっきりとぼくの瞼に焼き付いたのです。

カット2S.jpg むくろと変わり果てた芝ヤンと再会したのは、それから4ヵ月たった7月、東大谷中ノ右俣の堅く凍った雪渓の上でした。
 剣岳登頂の帰り、前剣の腐った雪に足をとられ、転落行方不明となった芝ヤンを求めて、捜索が繰り返されていたのです。いまだ地形さえ定かでない谷での危険な捜索でした。
 融雪によって芝ヤンは雪上に出てきたのですが、それは同時に、東大谷の下部の通過不能の滝が現れることでもありました。遺体の搬出は不可能です。
 荼毘は現場でやらねばなりません。でもそこは、地元の人夫衆でもあの谷へは入るなというのが親父の遺言で、などというようなところでした。
 剣の主とされる剣沢小屋の文蔵さんと芦峅ガイドでは岩登り一番という栄治さんに導かれ、ぼくと先輩のオナベさんは、なかば決死の覚悟で、剣岳の一般登路から東大谷中ノ右俣を下降したのでした。
 大きく組んだ丸木のファイアーが赤々と燃え、そこに横たえられた岳人は、山仲間の「雪山賛歌」に送られる。映画で見たり、聞き知っていた山での荼毘は、そうした厳粛でロマンチックなものだった。でも、東大谷の荼毘はそんな生やさしいものではありませんでした。まず自分たちが生きて帰ることを考えねばならなかったのです。
 首の骨が折れているのか、体はうつぶせなのに顔が空を見ていても、芝ヤンが死んでいるとは思えませんでした。その体を動かしたとき、強烈な腐臭が鼻を突きました。ぼくは激しく嘔吐しながら、頭の芯を貫くように彼の死を知ったのです。
 雪渓上の乏しい薪を拾い集め、ガレ場の斜面に作った火で、荼毘を行いました。ガスが巻きはじめ、落石の音が響きました。
 帰りを急ぐ文さんにいわれるまま、ぼくは遺体の燃えづらい部分を、棒でかきおとす作業を続けていました。そして、文さんの差し出した握り飯をほおばると、不思議なことに、それがまたおいしかったのです。
 それは、感傷などの立ち入る余地のない極めて乾いた時間でした。ぼくはあえて無感動になることによって、自分の平静さを保とうとしていたのかもしれません。

 あの遭難事件を機に、山から遠ざかった人もいました。でもぼくの場合、もっと過酷な山登りにのめり込んでいったように思います。まったく記録のなかった厳冬期や積雪期の東大谷の尾根や稜の登攀を目指しました。
 これはひとつには、芝ヤンの捜索を続けた結果として、未知であった東大谷が解明されてきたこともありました。でも一方で、ぼくは明らかに芝ヤンが落下していった空間に身を置こうとしていたのではないだろうか。
 今になって思うのですが、中国大陸での戦争でそうした経験をした人もいるでしょうが、東大谷の荼毘のような過酷な体験をした人は極めて少ないはずです。
 年若くしてのそうした体験は、たぶん私の人生観までも変えたに違いありません。
 考えてみれば、ぼくが親しかった山の友人で山で死んだ人は、十指にあまります。よく知っていた人となると数十人を超えるでしょう。
 ぼくが今まで生き続けられたのは、たぶん芝ヤンはいつもぼくと一緒にいて、ぼくを守ってくれたのだ。そんな気がしているのです。
山と渓谷社の写真集シリーズ[日本の山と渓谷]全30巻17「剣岳(畠山高)」2000年8月刊の巻頭エッセイより引用(イラストレーション=古田忠男)

ラトック1峰遠征を終って(日本山岳会会報「山岳」1980年)

ラトック1峰遠征を終って                      高田直樹

 成功したにしろ、失敗したにしろ、遠征隊に関する分析は、すべて結果論である。ぼくはそう思っています。だから、いかにも科学的な装いで行われる因果関係の分析は、時に、実に馬鹿げた結論を引きだすことがあります。
 というようなことを充分承知したうえで、なおかつ、ラトック1峰隊の分析を試みたいと思うのは、一つには、今の山の世界で、行ってきました、登れました、では何とも芸のない話であると考えること。また、テクニカルなデータを披露してもあんまり意味はないし、第一、ぼく自身、むろんベースのお守りをしていたのではないにせよ、頂上に立ってはいない以上、それはぼくの任ではないと思うのです。
 そして、さらには、ラトックー峰を目指した、<ビアフオ・カラコルム隊>が、あんまり前例のない隊であったと考えるからであります。
 何のトラブルもなく、しかも成功裡に終った隊であっても、すんでしばらくの間は、色々の雑然とした思いが錯綜して、思考は一種の混沌の中にあるのが常のようです。遠征が終って、約一年が経過した今、ようやく、少しは客観的に、自分達の隊のことが考えられるのではないかと思う訳です。
 『岩と雪』71号の TO FOREIGIN SUBSCRIBERS には、次の如き記載があります。
 -And it may be a success by new kind of a mauntaineering party in Japan.
 ぼくは、だから、ここで、では、どこが、どういう風に、「ニュー・カインド・オブ」であったのか、それを考えてみたいと思う訳です。

1.プロジェクト・チームとしての登山隊
 登山を目的とする人間集団は、本来的に、プロジェクトチーム的な色彩を持っているはずです。ところが、現実には、そうした事が明確な隊はあまりなかったのではないか。これは、遠征隊に於ては、その構成員の目的が、多岐に亘っているからだと思います。もちろん、みんな頂上に登りたいという一点では一致しているとしても・・・。もちろん、最初から、ベースキャンプで満足する、あるいはある高度に達したら、それでいい、という人がいるのは論外としての話です。
 遠征隊は普通の場合、日本における山岳集団、山岳会やあるいはそれに類するものによって構成されてきました。それはいわゆる中根千枝のいう「場の理論」による集団、平たくいえば、「おなじ釜のメシ」集団にすぎず、その遠征は山に場を貸りた一つの旅行にすぎない、人数の大小に関係なく、理念的には、トレッキングと同列だといえる、と思うのです。
 誤解があっては困るのですが、ぼくは、ここで、プロジェクト・チームだけが遠征隊で、他はちがうといっている訳ではありません。またプロジェクト・チームとしての遠征隊だけが成功するといっている訳でもありません。
 プロジェクト・チームとしての隊は、当然、セレクト隊、選抜メンバーということになり、そして、普通の場合「混成隊」となります。
 これまで、「混成隊」は成功しないもの、内輪もめを起すもの、という定説ができあがっていたようです。どうしてそうなったのか。
 これまで「混成隊」の指導者がとったポリシーは、次の二つではなかったかと、ぼくは考えます。一つは、「混成隊」にその場限りの付け焼刃的「同志意識」を作ろうと試みたり、短かい準備期間に大急ぎの合宿をしつらえ、山岳会的「結社意識」を期待したりします。このどれも、全て疑似幻想にすぎませんから、厳しい高山の現実に直面すると崩壊して当然で、メンバーは、思い違いのいらだちをぶっつけ合うことになります。
 また、上層部がメンバー個々に、秘かに、「君だけに期待している」みたいな感じのささやきを行う。このやり方は、日本的風土によく合っていて、うまくゆきそうな気がします。でも、これまで、うまくゆかなかったのは、きっと「秘話式トランシーバー」がなかったからだと、ぼくは考えています。
 ところで、こうした形の「混成隊」は、すでにもう、プロジエクト・チームとはいえないことになります。
 もう一つの「混成隊」ポリシーの形は、はっきりと、全員登頂を唱ったり、強いものが登頂できるとして、登頂チャンスの公平化のタクティックスをとる。この場合、全員登頂というのは、見込みによるウソをついている一種のサギ的要素がある。それと、こうした場合、「混成隊」はプロジェクト・チームというより、一つの「コンペ集団」となって、アクシデントの確率は高まる。エベレストの国際隊がいい例のようです。このような混成隊の決定的なデメリットは、メンバーが、最後の突込みに備えて、エネルギーを温存し、お互いに競争相手をうかがうという状況が生じて、一向に荷上げがはかどらないということになる点です。
 そして、成功しても、失敗したときはなおさら、こうした競争相手、いわば敵としてのメンバー同志には、冷やかなものが残ることになるでしょう。
 さて、プロジェクト・チームとしての<ビアフオ・カラコルム隊>はどうであったか。
 プロジェクト・チームというものは、まず、人間関係において、またその他あらゆる発想においても、あいまいさのない明快なものであり、かつドライなものでなければならないと考えました。
 これは、目標の山の設定、隊員への呼びかけに於ては、ほぼ貫けたようです。ただ一人の隊員に関しては、少々原則をはずれたと思われるふしがあり、このことのあやまりは、後に事実となって示されたように思います。もう少し明確にすれば、参加不参加の決定は、神経質なまでに、相手の判断にまかせねばならないということです。
 電話を心当りにかけ、目的、期間、費用等を話していた頃、一人の人は、こんなことを言って、ぼくに忠告してくれました。
 「やっぱりこういう話は、じかに会って、酒でもくみ交しながら、やられた方がいいと思いますよ。みんなそうするんですよ」
 しかし、ぼくは、そのやり方自体を忌避していたのですし、そうしないと来れないような人は、こっちも必要としていなかったのです。だから、この忠告を、ぼくは「ありがとう」と素直に受けとっておきました。
 いま考えてみて、私たちの遠征隊は、プロジェクト・チームであったとしても、完全なものではなかったし、それは未完のプロジェクト・チームであったといえるでしょう。ただそうした方向性と志向を持っていたということは、はっきりしているといえます。
 でも、本質的に、遠征隊は、プロジェクト・チームであり続けられるのか。とくに、苛酷な自然条件の中で、四六時中、生命の危険におびやかされるような空間において……。
 これは、遠征期間中に、だんだんと、ぼくの心に発生した問題でした。

2.母性原理と父性原理
 唐突なタイトルで恐縮ですが、この二つの対立概念は、遠征期間中に、ぼくの頭に漠然と浮かび、帰国後しばらくして、かなり明確になったものです。
 明察な諸氏は、すでにご承知と思いますが、母性原理とは、没契約的、包容的、許容的な母の愛の様な考え方であり、父性原理は、反対に、契約的、区別的、競争的、価値判断的な切り捨て原理といえます。
 ところで、少し話がそれるようですが、近代日本は、父性原理を軸に発展してきたといえます。でも、それまでの日本は、母性原理を基底にすえており、この母性原理を貫くための権力者として家長があり父権が存在していました。戦後、父権は消滅したものの、企業等には、終身雇用制、年功序列制に見られる如く、母性原理は厳然と生きているようです。
 ある言い方をすれば、前近代的ともいえる母性原理を温存し、父権原理との日本独自のバランスを按配したところに、近代目本の発展があったともいえると思うのです。
 ところが、山登りの世界では、リーダーシップとパーティシップとか、メンバーシップと、フェローシップというような極めてバタ臭い父権原理に基づく概念導入がなされました。ゲマインシャフトとゲゼルシャフトというような舌をかみそうな考えが、喜々として語られ、それが現在に形を変えて生き残っているのではないかという気がするのです。
 「山登りは個人に属する」と考え、極めてヨーロッパ的な父権原理的発想で、海外登山に出掛けても、もともと「個人」の存在を許さない日本の風土に育った日本人であってみれば、すぐに馬脚が現われてくるという訳です。
 さて、<ビアフオ・カラコルム隊>の場合、ほとんどのメンバーが、海外登山の経験者でした。そうした経験を通じて、自分がどういう状況でどうなるかということを予測できる人間が多かったし、彼等においては、外国経験を通じて、ある程度、「個人」の確立が行われていたようです。
 そして、隊編成の始めから、明らかに父性原理的発想に基づくプロジェクト・チームとしての隊であることを感じ取っていたと思われます。
 ぼくは、遠征が、和気あいあいと遂行できるとは、全く考えませんでした。むしろそうしたムードは百害あって一利なしと思っていました。そうした見せかけのチーム・ワークと呼ばれるようなものは、どうでもよいと考えていました。
 もし、ピンディあたりのホテルの食堂で食事をしている私たちの隊を見た人がいたら、その人はきっと、なんと冷ややかな隊で、テンデンバラバラなチームか、と思ったことでしょう。
 登攀活動を開始すると、隊員は興味ある行動を示しました。一日の行動が終ると、各々、物理的にも精神的にも自分だけの場所に閉じこもる傾向を示したのです。肉体よりもむしろ神経をすりへらすような登攀が終った時、再び立直るためには、一人になるのが一番だったようです。とても、談笑のうちに回復するというような次元のものではないと思えました。それに、打ちひしがれている自分を人に見せたくないという気持が働いたのかも知れません。
 ぼくは隊長として、慰労に気を配るべきだったかも知れません。しかし、そんなことはあまり効果があるとは思えなかったし、ぼく自身まいっていて、自分がしやんとしていることだけで精一杯でした。
 ぼくは、荷上げに関しては、自己管理をするように申し渡してありました。自分の持てるだけ持って荷上げせよ、という訳です。もし、トータルとして予定量が上がらなかった場合は、ボッカ量の割り当てを行うことにしていました。結果、そうする必要はなく、予定通りの荷上げができました。
 でも、これは、皆が均等に持った訳では決してなく、誰かの分を誰かが肩代りして、余分に持上げていたことになります。
 トイレットペーパーばかり上部にあがったという、ぼくの過去の遠征隊での荷上げ自己管理の失敗は話しておきました。
「あんな奴はベースにおろせ」という要請が、あまリ持たない隊員に関してあった時、「なんにも上がらんよりましではないか」となだめたのは、隊長としての母性原理の行使でありました。そのため、だれもつぶれず、全員頂上に向えたのだと思うのです。
 今日の海外遠征登山に於て、隊の編成過程にあっては、父性原理にのっとり、遂行段階では日本の伝統的思考である母性原理を、うまい具合にからませてゆくのが、最もいいやり方ではないか。結論的にそういえるような気がしています。

3.メンバー相互の呼称
 「混成隊」の場合、メンバーがどう呼び合うかは、一つの重大な問題であると考えていました。なぜならば、高所登山というフィールドに於ては、登攀能力のみに限られない、総合的能力が必要とされ、そうした実力序列は、否応なしに、全メンバーの眼に明らかとなります。そして、そうした序列を反映するのが、呼称であると考えていたからです。
 基本的に、名前でよんだり、ニックネームをつけたり、あるいは「ちゃん」づけにするようなことには、賛成できませんでした。それは、安直に、擬似親近感を醸成するのみで「個人」の消滅につながるのではないかと考えていたのです。
 別の推論をやってみましょう。AとBがいて、Aの方が実力が上だとBは思っている。しかし、Bはその事実を認めたくないし、またAに、「ぼくは君が上だと思っている」ということを示したくないとします。この湯合、Bは、「Aさん」と呼んではいけないのです。たとえ、Aが「Bさん」と呼んでいたとしても、この時に現われる呼び方が、「Aちゃん」ではないのでしょうか。
 遠征登山に於ては、実力の序列は、それが自然なものならばあった方がよいと思います。例えば、トップを決める場合にも変な張り合いが起る危険も少ないのではないかと思うからです。「ちゃん」呼称は、無意味に序列づけを混乱させます。
 そんな風にぼくは考えていたので、準備段階で、「そんな幼稚園みたいな呼び方は止めよう」と提案しておきました。結論として、「ちゃん」呼称はなかったようです。ほとんどの隊員は、すべて、「さん」呼称で呼び合っていました。ぼくの場合は時として、「隊長」と呼ばれることがあった様です。ドクターは「ドクター」でした。
 ぼくが隊員を呼ぶ場合は、時として、呼びすてにすることもありました。これは、親近感をもった時には、そうなったようです。終始、呼びすてにしたメンバーも数人ありましたが、これは、この遠征に最初の段階からかかわったメンバーに対し、その事を明確にするためにそう呼んだのです。

4.終 り に
 いずれにしろ、ラトック1峰は、ぼく個人の見解ですが、一つの実験登山隊によって登られたと考えています。
 実験登山隊でありましたから、正直いってたとえ成功しなくても、ぼくとしては、それなりの成果はあったのだろうと思います。まあ、失敗していれば、こんなことを仰仰しく述べると、世間の失笑を買うことになったのでしょうから、やはり成功してよかったのでしょう。
 パキスタン放送のインタビューで、「これまでの隊が全て失敗していた山に、なぜ成功したか」という質問が出た時、ぼくは、つたないウルドー語で次の様に答えました。
 一つは、これまでの隊が見出せなかったルートのラインを見つけたこと。二つ、メンバーは、みんな経験があり極めて強力であった。三つ、アラーの神が、常に我々と共にあったからだ。
 いってみれば、成功とは何とも単純なことなのかも知れません。


<記録概要>
隊の名称 ビアフォ/カラコルム登山隊1979
活動期間 1959年5月〜7月
目  的 ラトック1峰初登頂

隊の構成
隊長=高田直樹(43)、登攀リーダー=重広恒夫(31)、隊員=松見親衛(32)、奥淳一(31)、遠藤甲太(30)、武藤英生(29)、中村達(29)、渡辺優(29)、城崎英明(22)、医師=五藤卓雄(34)

行動概要
 6月10日バインター・ルクパール氷河上4600メートル地点にBC建設。南壁右寄りのピラーにルートを取リ、途中ニケ所の中間デポを設けて6月20日CI(5500メートル)建設。6月21日雪崩によりCIが流失した為、以後はBC・CI間の第二デポをCIとして使用した。6月30日(5800メートル)建設。その後核心部である70メートルの重壁を二日間を費して突破し、7月8日C3予定地(6300メートル)に到達。C3予定地はテントを張るだけのスペースがなく、ビバークを繰り返すこととする。7月15日南壁上部のアイス・キャップに達し、C3(6500メートル)建設。7月17日重広、松見、渡辺の三隊員により第一回アタックを試みるが、ロープの不足と天候の悪化でに引返す。7月19日同じ三名にて再度アタック、新雪と頂上直下のスラブに苦労しながら19時45分初登頂に成功。7月22日第二次隊の三名(武藤、遠藤、奥)と重広がC3より第二次登頂を果す。

SWATマナリ・アン1969—マナリ・アン(マナリ峠)の位置の同定

 〜京都府山岳連盟西部カラコルム教育調査隊1969年の記録〜

 スワットというところは、あまり高い山もなく、いくつもの7000メーター級の未踏峰が残っていたその当時、訪れる人は少なく、未知の要素が多かった。
 マナリ・アンのことを知ったのは、1965年のディラン峰の遠征隊で同僚隊員だった土森君からの話だった。
 彼は、1967年、車とバイクでインドから北欧までを走破するという大遠征を行ったが、その途中スワットに立ち寄ったのだった。
 この文献でのみ知られる峠に興味を持った彼は、その所在を突き止めようとしたが果たさなかった。
 1969年、ディラン隊の隊員をそのままメンバーとする京都カラコルムクラブが、カラコルムの未踏峰カンピレディオールに隊を派遣することになった。
 ディラン峰登山の後、山ではなく人に的を絞った山登りなり旅なりをやってみたいと思い続けていた私は、これを好機と捉え、西パキスタン辺地教育調査隊を組織することにした。
 メンバーは、大学以来のザイル仲間の関田和雄、勤務していた高校の山岳部OBの安田越郎、中村達と私の4名。
 1965年のディラン峰遠征時、京大による日パ親善事業としてのガンダーラ合同発掘調査が行われており、そのために持ち込まれたトヨタのランドクルーザーがあった。その車はそのまま日本大使館に保管されていることを知っていたので、これを使うことを画策した。
 今川書記官の話では、この車は京大が無税で持ち込んだものであり、大使館でも処置に困っている。結局ペシャワールのミュージアムに寄贈することになったという。そこでその陸送を任せてもらえないかと持ちかけ、さらにじっくり話をつめて、渡す日取りにはいつまでという期限はないことにしてもらった。
 調査に関しては、京大人文研の梅棹忠夫教授に指導を仰いだ。各国女性のポートレートを見せて行う嗜好調査や音楽の嗜好調査などは、「そういう調査はパキスタンに限らず初めてでしょう」といわれた。調査には、ウルドー語が必要と思われたが、私たちはすでに、1年位前からウルドー語の勉強会を継続して行っていた。
 記録映画の作成も計画した。松竹映画社が、篠田監督による『白きたおやかな峰』の映画化を計画しているという話を聞き及んでいた。
 松竹映画社にボレックスの撮影機2台の貸与とフィルム10時間分の提供をお願いし、渋る相手を「あの映画化の話を諦めておいででなかったらOKしてくださいよ」と説得した。
 撮影は関田が担当し、帰国後、京都市役所広報課の映画製作のプロ、寺島卓二氏の編集協力によって、「ハラハリ〜幻の峠を求めて〜」(25分)の制作に取り掛かった。ナレーターは、劇団京芸の主任俳優にお願いし、インタビュアーは、桂高校放送部の女生徒に頼んだ。完成には約2ヶ月を要した。
 パキスタンはこの年、1958年の軍事クーデター以来ずっと軍政を敷いてきたアユブ・カーンが副官のヤヒア・カーンに取って代わられ、政情不安で戒厳令が敷かれているという状況であった。

【トヨタランドクルーザー。ルーフ・キャリーはカラチの鍛冶屋であつらえた】ジープ.jpg 6月28日、カラチを出発した私たちはランドクルーザーを駆ってシンド砂漠を突き切りラホールにいたる。さらに北上を続け、7月12日ラワルピンディーに到着した。走行距離2900km。
 ハラハリ谷に入った私たちは、ゴジリー語といういまだ学会にも報告されていない言葉をしゃべる部族の夏村に達した。ここで、マナリアンを越えたことがあるという60歳の老猟師、アドラム・カーンを見つけ出す。4名のポーターを連れた彼の案内によってマナリ・アン越えは成功した。高度計によるマナリ・アンの標高は、4680mであった。
 後に彼の語ったところによると、これまでいくつかのヨーロッパの隊に依頼されたことがあったが、意思疎通のできない者と危険地に赴く気にはなれなかったという。私たちのウルドー語の勉強が実を結んだというべきか。

【滞在して調査を行った放牧夏村ハラハリ村の少女メラージ】メラージ.jpg ハラハリ夏村に戻った私たちは、ここに定着して、調査を行った。この地の人たちが歌う民謡とその歌詞。子供の遊び、ゲームとそのルール。各家の配置および財産調べ(羊の頭数)など。
 スワットを後にした私たちは、カイバー峠をこえてアフガニスタンに行くことにして、まずはカブールを目指した。アフガニスタンのビザはもちろんイランのビザも取ってあった。ところが、カイバー峠を少し下ったところの検問所でストップをくらった。ロードパーミッションが必要ということだった。それに、車を無税で持ち込むにはカルネ(無税通関証)が必要だった。引き返さざるを得なかった。
(注:カルネとは他国に車を持ち込む際に、普通支払わねばならない関税を免除するための書類で、各国の自動車連盟が発行する。交付を受ける際には、当該自動車を売却しないように、かなり高額の保証金のデポジットが必要となる)
 そこで今度はギルギットに向かうことにした。

【ハラハリ氷河サイドモレーンを行くポーター】
ハラハリ谷ポーター.jpg いったんスワットに戻り、検問のないシャングラ峠を越えてインダス川へくだり、遡上することにした。
 私たちの服装といえば、全員白のパキスタン服。時に応じてランドクルーザの腹に日章旗を貼り付けたりした。
インダス川沿いのべシャンから川上に向かったが、パタンの工兵部隊にとめられた。
 スパイ容疑で部隊長のテントに留め置かれた。スパイ容疑とはいえ、毎夕部隊長と食事をともにして、いろいろと質問されるだけである。2日後に開放されたが、その時にはランドクルーザーは完全に整備されていた。
 次は、道を変えて、バブサル峠(4173m)を越えてパタンより上流のチラスに出ようと考えた。峠は越えられたが、しばらく下ったバタクンディ村の検問所で追い返された。
 車でのギルギット入りは、無理であった。
 たいした用事もないのに空路ギルギットに飛んだ私たちは、陸の孤島ギルギットで、帰りのフライトがなく、1週間の待機を余儀なくされた。 
ようやくラワルピンディに戻った私たちは、ペシャワールのミュージアムに行き、ここで、大使館との約束どおりランドクルーザーを渡し、カラチからペシャワールへのランドクルーザーの陸送は完了した。
 ランドクルーザの全走行距離:5108km。
この60日に及ぶドライブ遠征は、その日々がドラマにあふれ、実に楽しく、この思い出は消えることがないだろうとその時々に思ったものだったが、本当にその通りであった。(高田直樹記)

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