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西パキスタンの旅 第3話「シンド砂漠を走る−−その2−−カラチからラワルピンディヘ」
暑いのではなく、熱いのだ
十時ごろから、暑さが厳しくなった。そして、正午を過ぎると、それはもう堪えがたいという感じになった。
まわりから、熱気が、ガーンとしめつけてくるようで、それをはねのけるために、最大限の気力をふりしぼらねばならない。
ジープは、まさに走るオーブンだ。
道は、地平に一直線に消え、視野いっぱいに、かげろうがもえ立っている。
十一時に小さな村を見たが、それからは家影も見えず、この熱線を避ける場所もない。私たちは、ただ突走るしかないのだ。
そんな時、ふと自分を観察する。姿勢は前かがみになり、ハンドルに両肘をのせんばかりだ。ロが開いている。舌がだらりと下り、顔の筋肉は、完全に脱力している。こんな顔をどっかで見たことがある。そうだ、これはディラン隊の荷物を陸送した、アクバルの顔だ。あの時、夜、ピンディーの町をこの顔で運転する彼を見て、私は、こいつ大口あけて馬鹿じゃないかと思ったものだ。だが、何度も暑い所を走るうちに、この顔が、習慣となったらしい。
気をつけて見ると、安田も、まったく同じ顔で同じ姿勢になっている。してみると、これは砂漠の運転姿勢なのだろう。
それにしても、この熱さを何と表現したらよいだろう。これはまったく、暑いのではなく、熱いのだ。
ある在留邦人は、パキスタンの熟さを、次のように表現した。〈まわりに十個の赤外線ヒーターを置き、十個のスポットライトで照らされた感じ〉。だが、これでも充分な表現とはいえない。
中村が、時々壷から水をくんで、渡してくれる。
この水の温度、二九度C。これでも結構冷たいと感じる。ジープの室内気温四三度Cより、十四度Cも低いのだ。この秘密は、素焼の壷にある。にじみでた水が、どんどん蒸発して、壷全体を冷やすのだ。この、たかが二百円ほどの壷が、これほどの偉力をもつとは知らなかった。
砂漠の調査活動
午後一時、ようやく前方に、ポチリと家が見えてきた。トラックが止っている。ありがたい。やっとこの熱さをのがれることができる。そう思ったのは、とんだ早合点だった。
この土造りの家の中も、四四度C。深呼吸すると、胸の中まで熱くなる。ただ、火ぶくれのできそうな熱気が、直接にあたらないのはありがたい。
木の枠に、麻なわを編んだ網をはったベッドが三つ。あばた面のトラックの運チャンが、起きあがり、ベッドをすすめてくれる。(パキスタンには、天然痘によるあばた面が多い)
「サーブ、カハンセ、アーヤータ(旦那、どこからいらした)」
「カラチセ(カラチから)」
「アープ、キスムルクカ、アドミーハイン(あなた、どこの国の人でか)」
「ジャパニーヘー(日本人だ)」
「アッチャー(へェー)」
この運チャン、きれいなウルドーで、敬語まで知っている。あとの二人の助手は駄目らしい。彼は少々得意なんだろう。「サーブ。キャカーム、カルナーチャーテーハイン(どんな仕事をなさるつもりか)」
しきりに話しかけてくるが、こっちは、熱さでぐったりして、しゃべる気にもならない。
この店の主人が運んできた、パキスタニーチャエ(ミルクでたきだした紅茶)をのんだら、少々元気が出てきた。
安田は、この熱さの中を、戸外で化石を探している。アンモン貝ばかりで、大したものはなかったそうだ。
戸外気温を、影がないので、掌で影を作って測定したら、いつまでも昇りつづけ、五六度Cになつた時、目がくらんできたので止めにした。まだ昇りそうだったという。
中村は、子供の体力測定を始めている。この熱さでは、50m走をやらすわけにもいくまい。安田も一緒で、ヘルスメーターを取り出して、体重測定を始めた。ウルドーの苦手な中村は、大奮闘である。
身長、胸囲、座高、手首囲などを測り、ジャンプ測定までやったのは立派だ。
私も負けずに、調査開始だ。
「名前は」そばの大人が「プンヌン」と答える。
「年令は」「ウーン」と考えこむ。そばから、大人が「十四歳」別の男が「十五歳」
私はしかりつける。
「お前たちに聞いておるのではない。この少年に聞いておるのだ。お前たちはだまっておれ」
学校に行っているか。
どうして行かないのか。
大人になったらどんな職業につきたいか。
父親と母親とどちらが好きか。 等々の設定しておいた質問をつづけて行く。
「世界で一番偉い人は、誰だと思うか」
またしても、そばの大人どもが、
「そりあ、村長だ」
今度は、大人向きの調査だ。一〇枚の女の写真(これはJALのカレンダーを写真にとったもの。大体各国の女性を網羅している)を取り出す。
この中で、一番いいと思うのはどれか、それを取り出せといって、さらにその次はという具合に三番目までを選ばせる。最後に、最もよくないのを示させるものだ。
彼らは、大喜びだ。
ダークバンガローのある、メーハルまでは二百キロ以上ある。調査はこれ位にして、先を急がねばならない。
二時半、私たちは再び、灼熱の大地に走り出た。
暗い家−ダークバンガロー
メーハルのレストハウスにたどりついた時、三人は、まったく気息えんえんの状態だった。途中で道が分らなくなり、だいぶ苦労した。このあたりは、シンディ(シンド語)の領域で、道も満足に聞き出せないのだ。
何度も「トゥム、ウルドージャンテーホ(君、ウルドーがしゃべれるか)」と呼びかけても、手を横に振る者がほとんどだった。
ようやくレストハウスの一室で、ベッドに腰をおろしたのは、夜の十時に近かった。
チョキダール(番人)に水を運ばせ、砂だらけの身体を洗う。タルカムを振りかけると、少々すがすがしくなった。
ところが、安田は身体を洗うのを止めにした。田圃の水のような泥水なので、おぞ気をふるったのだ。その結果、彼の身体は、一面のあせもにおおわれることになった。
それにしても、レストハウスはありがたい。パキスタンには、どんなへんぴな地域にもレストハウスがある。これを利用できねば、パキスタンの辺地旅行は無理だといってよい。
これは、イギリス植民地時代からのもので、役人らが旅行して、宿泊するためのものである。部屋は、やたらに天井が高く、小さな窓があり、冬寒い地方では、暖房用に暖炉がついている。
建物は、土蔵のような造りである(熱をさえぎる生活の知恵か)。レストハウスが、ダークバンガローと呼ぼれるのは、イギリス官吏がそうよんだのではないかと思う。
レストハウスにはチョキダールとコックがいる。一人二役の場合もある。炊事、洗濯、何でもいいつければ、彼らがやってくれる。
排泄に関しては、少々問題がある。これはバスルームでやる。バスルームといっても、大きいばかり(大体四〜五畳)のガランとした部屋である。普通は、次のものが置いてある。
水浴(ナハーナ)用の金だらい。水をくんで身体にかけるための把手のついた水さし。すのこ板。それに、おまるの入った、大きな黒ぬりの箱。
この箱のふたをめくると、直径二十センチばかりの円筒形で、ホーロー引きのおまるがはめ込まれている。この上にのって、しやがんで用を足す。小さい方のときも同様だ(パキスタン人は、大小とも同じ姿勢をとる)。済んだら、外の方のドアの鍵をはずしておかねばならない。
すると、間もなく、そこから入ってきたチョキダールが、おまるを運び去るという寸法だ。
チヨキダールが気づかない時は、命じて直ぐに運び去らせる。ところが、これが仲々大変だ。どうしてもいい出せず、あふれそうになったおまるが、部屋中に臭気を充満させるということになる。
大体、自分のオヤジ位の年恰好の男を、アゴで使うということ自体、日本人にとっては、抵抗を感じることなのだ。
ましてや、自分のウンコやオシッコを持ち去れなどと命じることは、いくらパキスタンに慣れてきても、やはり気遅れするのは事実だ。
ある日本人旅行者がいた。彼らは、自分で水浴の水を運び、ウンコも自分で始末した。その結果はどうだったか。彼らは、感謝されるどころか、チョキダールの軽蔑を買っただけだった。
郷に入っては郷に従うことは、私たちにとって一つの技術といえそうだ。
夜半を過ぎても、暑さは一向に衰えない。私たちは、外で寝ることに決めた。ベッドを外に運ばせ、蚊帳を吊った。この蚊帳は、私の妻が嫁入道具でもってきたものだ。ふと日本のことを思った。
月が中天にかかっている。
モヘンジョダロ見物
七時半にレストハウスを出発。モヘンジョダロには十時半についた。
立派な建物がある。事務所、レストハウス(エアコン付きの部屋もある)、出土品陳列館。砂漠の土くれのような家を見なれた目には、驚きだ。
もっと驚きは、遺跡そのものだった。
一 家屋はすべてレンガ造りで、非常に強固に造られている。ことに土台は、素焼の土球や土レンガで固めてある。二階、三階建も多い。ほとんどの家に浴室があり、井戸がある。これらの整然と並んだ家並をぬって、約10m幅のメインストリートが、市街を東西、南北に貫き、さらに4〜5mの道路が縦横に走る。道はレンガで舗装されている。ー
この道にそって下水溝があり、家々からは、土管を伝って下水が流れ込むようにしてある.公衆浴場は、水泳競技ができる位の大きな長円形である。上手の井戸で水をくむと、土管を通って水が浴場に入る仕組になっている。混浴であったとガイドはいった。一時間ばかり、あちこち見て回ったら、熱さに目がくらみそうになった。レストハウスで昼食とする。
安田が「チキンカリー、チャワール、ジャルディー、ティケー(チキンカレー、飯、大急ぎ、分ったか」とオーダーしている。彼、だいぶふんぱつしたようだ。パキスタンでは、肉のうちでは、ニワトリが最も高く、羊の三倍位するのだ。
コックが、ニワトリを追い回している。庖丁を持って追いかけられては、ニワトリとて必死だ。
その間に、私たちは本日第一回目のナハーナ(水浴び)を行なう。機会あるごとに、水をかぶるのが、砂漠旅行の秘訣だ。肌着もついでに洗う。そのまま着ていれば、直ぐ乾いてしまう。
ここのツーリストビューローのオフィサーが観光案内の本と、ポスターを三十枚も持ってあいさつにきた。私たちも『山渓カラーガイド一京都』を贈る。この本には、英語で〈友情と共に、京都カラコルムクラブ〉と墨で書いた和紙がはってある。
昨日の経験で、日中走ることは、消耗以外の何物でもないことが分った。夕方までここで仮眠することにする。
ベッドに横たわり、空ろな頭で、先程見た遺跡のことを考えた一。
モヘンジョダロ。インダス文化の中心。紀元前二千年の昔にあれほどの都市。強力な都市計画。壮大な規模だ。それに、道路の角には、たしかポリスの詰所まであった。
この熱さの中で、人々はどうやってあんな都市を築き得たのか・・・。まったく信じられない。きっと地球は今より冷たかったんだ?
人々は、その時すでに文字を知っていた(インダス文字とよばれる未解読文字)。うわぐすりをつけた陶器も作った。一体全体、これはどうしたことなのだ。今から四千年も昔に、これほどの文化をもった都市が存在した。
そして四千年経った今。この遺跡から何キロも離れない所には、土くれで固めた家に、数個のアルミ茶碗しかない人間が生活している。一体どういうことなのだ。
四〇〇〇年! この間、自らを偉大と呼ぶ人類は何をしていたのだ。これが文化の不連続とか、文明の断絶で片づけられる問題なのだろうか。
熱さのせいか、耳鳴りが、頭全体にひびいている。頭が変になったのか。
六時。日が傾いた。
私たちはジープに乗り込み、ほとんど休みなく、翌日の明け方四時半まで走った。そして二時間の仮眠の後、今度は正午まで走り、ウチという村のレストハウスで、夕方まで眠った。
大体このように、夜明け前の数時間の仮眠と、午後の睡眠というぐあいにして、ジープは北上を続けたのである。
このあいだ、道をはずし、ジープが砂にうずまって立往生したこともあった。好奇心にみちた村人にとりまかれ、荷物をうばわれそうな危険を感じたこともあった。
とにかく、私たち三名は無事に、七月二日十三時十五分、ラワルピンディーの街に走り込んだ。
五日間の砂漠の旅は終わった。ジープのメーターは、カラチより一八三四キロの走行を示していた。
ちょうどこの日の夕刻、空路ピンディ一についた関田と合流。ここに、調査隊は全員顔をそろえた。ホテル・カムランの一室で、関田が運んできた菜の花漬をつまみに、私たちはナポレオンで祝杯をあげた。そして次のプランをねった。
十時ごろから、暑さが厳しくなった。そして、正午を過ぎると、それはもう堪えがたいという感じになった。
まわりから、熱気が、ガーンとしめつけてくるようで、それをはねのけるために、最大限の気力をふりしぼらねばならない。
ジープは、まさに走るオーブンだ。
道は、地平に一直線に消え、視野いっぱいに、かげろうがもえ立っている。
十一時に小さな村を見たが、それからは家影も見えず、この熱線を避ける場所もない。私たちは、ただ突走るしかないのだ。
そんな時、ふと自分を観察する。姿勢は前かがみになり、ハンドルに両肘をのせんばかりだ。ロが開いている。舌がだらりと下り、顔の筋肉は、完全に脱力している。こんな顔をどっかで見たことがある。そうだ、これはディラン隊の荷物を陸送した、アクバルの顔だ。あの時、夜、ピンディーの町をこの顔で運転する彼を見て、私は、こいつ大口あけて馬鹿じゃないかと思ったものだ。だが、何度も暑い所を走るうちに、この顔が、習慣となったらしい。
気をつけて見ると、安田も、まったく同じ顔で同じ姿勢になっている。してみると、これは砂漠の運転姿勢なのだろう。
それにしても、この熱さを何と表現したらよいだろう。これはまったく、暑いのではなく、熱いのだ。
ある在留邦人は、パキスタンの熟さを、次のように表現した。〈まわりに十個の赤外線ヒーターを置き、十個のスポットライトで照らされた感じ〉。だが、これでも充分な表現とはいえない。
中村が、時々壷から水をくんで、渡してくれる。
この水の温度、二九度C。これでも結構冷たいと感じる。ジープの室内気温四三度Cより、十四度Cも低いのだ。この秘密は、素焼の壷にある。にじみでた水が、どんどん蒸発して、壷全体を冷やすのだ。この、たかが二百円ほどの壷が、これほどの偉力をもつとは知らなかった。
砂漠の調査活動
午後一時、ようやく前方に、ポチリと家が見えてきた。トラックが止っている。ありがたい。やっとこの熱さをのがれることができる。そう思ったのは、とんだ早合点だった。
この土造りの家の中も、四四度C。深呼吸すると、胸の中まで熱くなる。ただ、火ぶくれのできそうな熱気が、直接にあたらないのはありがたい。
木の枠に、麻なわを編んだ網をはったベッドが三つ。あばた面のトラックの運チャンが、起きあがり、ベッドをすすめてくれる。(パキスタンには、天然痘によるあばた面が多い)
「サーブ、カハンセ、アーヤータ(旦那、どこからいらした)」
「カラチセ(カラチから)」
「アープ、キスムルクカ、アドミーハイン(あなた、どこの国の人でか)」
「ジャパニーヘー(日本人だ)」
「アッチャー(へェー)」
この運チャン、きれいなウルドーで、敬語まで知っている。あとの二人の助手は駄目らしい。彼は少々得意なんだろう。「サーブ。キャカーム、カルナーチャーテーハイン(どんな仕事をなさるつもりか)」
しきりに話しかけてくるが、こっちは、熱さでぐったりして、しゃべる気にもならない。
この店の主人が運んできた、パキスタニーチャエ(ミルクでたきだした紅茶)をのんだら、少々元気が出てきた。
安田は、この熱さの中を、戸外で化石を探している。アンモン貝ばかりで、大したものはなかったそうだ。
戸外気温を、影がないので、掌で影を作って測定したら、いつまでも昇りつづけ、五六度Cになつた時、目がくらんできたので止めにした。まだ昇りそうだったという。
中村は、子供の体力測定を始めている。この熱さでは、50m走をやらすわけにもいくまい。安田も一緒で、ヘルスメーターを取り出して、体重測定を始めた。ウルドーの苦手な中村は、大奮闘である。
身長、胸囲、座高、手首囲などを測り、ジャンプ測定までやったのは立派だ。
私も負けずに、調査開始だ。
「名前は」そばの大人が「プンヌン」と答える。
「年令は」「ウーン」と考えこむ。そばから、大人が「十四歳」別の男が「十五歳」
私はしかりつける。
「お前たちに聞いておるのではない。この少年に聞いておるのだ。お前たちはだまっておれ」
学校に行っているか。
どうして行かないのか。
大人になったらどんな職業につきたいか。
父親と母親とどちらが好きか。 等々の設定しておいた質問をつづけて行く。
「世界で一番偉い人は、誰だと思うか」
またしても、そばの大人どもが、
「そりあ、村長だ」
今度は、大人向きの調査だ。一〇枚の女の写真(これはJALのカレンダーを写真にとったもの。大体各国の女性を網羅している)を取り出す。
この中で、一番いいと思うのはどれか、それを取り出せといって、さらにその次はという具合に三番目までを選ばせる。最後に、最もよくないのを示させるものだ。
彼らは、大喜びだ。
ダークバンガローのある、メーハルまでは二百キロ以上ある。調査はこれ位にして、先を急がねばならない。
二時半、私たちは再び、灼熱の大地に走り出た。
暗い家−ダークバンガロー
メーハルのレストハウスにたどりついた時、三人は、まったく気息えんえんの状態だった。途中で道が分らなくなり、だいぶ苦労した。このあたりは、シンディ(シンド語)の領域で、道も満足に聞き出せないのだ。
何度も「トゥム、ウルドージャンテーホ(君、ウルドーがしゃべれるか)」と呼びかけても、手を横に振る者がほとんどだった。
ようやくレストハウスの一室で、ベッドに腰をおろしたのは、夜の十時に近かった。
チョキダール(番人)に水を運ばせ、砂だらけの身体を洗う。タルカムを振りかけると、少々すがすがしくなった。
ところが、安田は身体を洗うのを止めにした。田圃の水のような泥水なので、おぞ気をふるったのだ。その結果、彼の身体は、一面のあせもにおおわれることになった。
それにしても、レストハウスはありがたい。パキスタンには、どんなへんぴな地域にもレストハウスがある。これを利用できねば、パキスタンの辺地旅行は無理だといってよい。
これは、イギリス植民地時代からのもので、役人らが旅行して、宿泊するためのものである。部屋は、やたらに天井が高く、小さな窓があり、冬寒い地方では、暖房用に暖炉がついている。
建物は、土蔵のような造りである(熱をさえぎる生活の知恵か)。レストハウスが、ダークバンガローと呼ぼれるのは、イギリス官吏がそうよんだのではないかと思う。
レストハウスにはチョキダールとコックがいる。一人二役の場合もある。炊事、洗濯、何でもいいつければ、彼らがやってくれる。
排泄に関しては、少々問題がある。これはバスルームでやる。バスルームといっても、大きいばかり(大体四〜五畳)のガランとした部屋である。普通は、次のものが置いてある。
水浴(ナハーナ)用の金だらい。水をくんで身体にかけるための把手のついた水さし。すのこ板。それに、おまるの入った、大きな黒ぬりの箱。
この箱のふたをめくると、直径二十センチばかりの円筒形で、ホーロー引きのおまるがはめ込まれている。この上にのって、しやがんで用を足す。小さい方のときも同様だ(パキスタン人は、大小とも同じ姿勢をとる)。済んだら、外の方のドアの鍵をはずしておかねばならない。
すると、間もなく、そこから入ってきたチョキダールが、おまるを運び去るという寸法だ。
チヨキダールが気づかない時は、命じて直ぐに運び去らせる。ところが、これが仲々大変だ。どうしてもいい出せず、あふれそうになったおまるが、部屋中に臭気を充満させるということになる。
大体、自分のオヤジ位の年恰好の男を、アゴで使うということ自体、日本人にとっては、抵抗を感じることなのだ。
ましてや、自分のウンコやオシッコを持ち去れなどと命じることは、いくらパキスタンに慣れてきても、やはり気遅れするのは事実だ。
ある日本人旅行者がいた。彼らは、自分で水浴の水を運び、ウンコも自分で始末した。その結果はどうだったか。彼らは、感謝されるどころか、チョキダールの軽蔑を買っただけだった。
郷に入っては郷に従うことは、私たちにとって一つの技術といえそうだ。
夜半を過ぎても、暑さは一向に衰えない。私たちは、外で寝ることに決めた。ベッドを外に運ばせ、蚊帳を吊った。この蚊帳は、私の妻が嫁入道具でもってきたものだ。ふと日本のことを思った。
月が中天にかかっている。
モヘンジョダロ見物
七時半にレストハウスを出発。モヘンジョダロには十時半についた。
立派な建物がある。事務所、レストハウス(エアコン付きの部屋もある)、出土品陳列館。砂漠の土くれのような家を見なれた目には、驚きだ。
もっと驚きは、遺跡そのものだった。
一 家屋はすべてレンガ造りで、非常に強固に造られている。ことに土台は、素焼の土球や土レンガで固めてある。二階、三階建も多い。ほとんどの家に浴室があり、井戸がある。これらの整然と並んだ家並をぬって、約10m幅のメインストリートが、市街を東西、南北に貫き、さらに4〜5mの道路が縦横に走る。道はレンガで舗装されている。ー
この道にそって下水溝があり、家々からは、土管を伝って下水が流れ込むようにしてある.公衆浴場は、水泳競技ができる位の大きな長円形である。上手の井戸で水をくむと、土管を通って水が浴場に入る仕組になっている。混浴であったとガイドはいった。一時間ばかり、あちこち見て回ったら、熱さに目がくらみそうになった。レストハウスで昼食とする。
安田が「チキンカリー、チャワール、ジャルディー、ティケー(チキンカレー、飯、大急ぎ、分ったか」とオーダーしている。彼、だいぶふんぱつしたようだ。パキスタンでは、肉のうちでは、ニワトリが最も高く、羊の三倍位するのだ。
コックが、ニワトリを追い回している。庖丁を持って追いかけられては、ニワトリとて必死だ。
その間に、私たちは本日第一回目のナハーナ(水浴び)を行なう。機会あるごとに、水をかぶるのが、砂漠旅行の秘訣だ。肌着もついでに洗う。そのまま着ていれば、直ぐ乾いてしまう。
ここのツーリストビューローのオフィサーが観光案内の本と、ポスターを三十枚も持ってあいさつにきた。私たちも『山渓カラーガイド一京都』を贈る。この本には、英語で〈友情と共に、京都カラコルムクラブ〉と墨で書いた和紙がはってある。
昨日の経験で、日中走ることは、消耗以外の何物でもないことが分った。夕方までここで仮眠することにする。
ベッドに横たわり、空ろな頭で、先程見た遺跡のことを考えた一。
モヘンジョダロ。インダス文化の中心。紀元前二千年の昔にあれほどの都市。強力な都市計画。壮大な規模だ。それに、道路の角には、たしかポリスの詰所まであった。
この熱さの中で、人々はどうやってあんな都市を築き得たのか・・・。まったく信じられない。きっと地球は今より冷たかったんだ?
人々は、その時すでに文字を知っていた(インダス文字とよばれる未解読文字)。うわぐすりをつけた陶器も作った。一体全体、これはどうしたことなのだ。今から四千年も昔に、これほどの文化をもった都市が存在した。
そして四千年経った今。この遺跡から何キロも離れない所には、土くれで固めた家に、数個のアルミ茶碗しかない人間が生活している。一体どういうことなのだ。
四〇〇〇年! この間、自らを偉大と呼ぶ人類は何をしていたのだ。これが文化の不連続とか、文明の断絶で片づけられる問題なのだろうか。
熱さのせいか、耳鳴りが、頭全体にひびいている。頭が変になったのか。
六時。日が傾いた。
私たちはジープに乗り込み、ほとんど休みなく、翌日の明け方四時半まで走った。そして二時間の仮眠の後、今度は正午まで走り、ウチという村のレストハウスで、夕方まで眠った。
大体このように、夜明け前の数時間の仮眠と、午後の睡眠というぐあいにして、ジープは北上を続けたのである。
このあいだ、道をはずし、ジープが砂にうずまって立往生したこともあった。好奇心にみちた村人にとりまかれ、荷物をうばわれそうな危険を感じたこともあった。
とにかく、私たち三名は無事に、七月二日十三時十五分、ラワルピンディーの街に走り込んだ。
五日間の砂漠の旅は終わった。ジープのメーターは、カラチより一八三四キロの走行を示していた。
ちょうどこの日の夕刻、空路ピンディ一についた関田と合流。ここに、調査隊は全員顔をそろえた。ホテル・カムランの一室で、関田が運んできた菜の花漬をつまみに、私たちはナポレオンで祝杯をあげた。そして次のプランをねった。
西パキスタンの旅 第2話「シンド砂漠を走る(その1)−−カラチからラワルピンディヘ」
砂漠始まる
地平線から、砂漠の太陽が昇ってきた。ランドクルーザーの四千ccエンジンが、快調なひびきをあげている。
六月二八日、私たちは、カラチを発って、陸路ラワルピンディを目指した。
カラチ−ピンディは、直線にして、約千二百キロ。これは、京都−札幌あるいは束京−稚内くらいにあたるだろう。
大体インダス河(インダス沿岸の住民は、〈シンドの河〉と呼び、インダスでは通じない)にそって、北上する道を進む。途中で、モヘンジョダロの遺跡を見て、七月二日に、ラワルピンディで後発の関田隊員と合流する予定だ。
ジープの乗組員は、安田、中村、それに私の三名。
ジープの後部座席はおりたたまれ、天井までぎつしり荷物がつまっている。屋根には、カラチで苦心さんたんの末、あつらえたルーフキャリーが装着され、一五〇キロの荷物がのっている。前座席の足もとには、大きな素焼の水がめがすえてある。貴重な飲料水だ。
ドアには、日の丸のワッペンがはってある。
何やかやと忙しい出発の準備で、カラチ滞在は二週間になっていた。
住みなれた、タージホテルのベアラー(ボーイ)、チョキダール(門番)たちが見送る中を、私たちは出発した。
薄明のカラチの街を走り抜けると、すぐに砂漠が始まった。
さあ、いよいよ出発だ。私たちの前途には、何が待っているのだろうか。私たちはどこに行こうとするのか。最終日約地は今問題でない。まず、ピンディまでを走る、この行程が第一課題だ。
私たちの胸は、未知への期待に高鳴り、エンジンの唸りと気持よく調和している。
カラチでは、多くのパキスタン人が、いろいろのアドバイスをしてくれた。いわく、生水を飲むな。コーラとセブンナップを積み込んで行くべきだ。いわく、夜走って昼眠れ。いわく、蜂蜜をなめて、レモンをかじれば疲れない。俺はラホールまでノンストッブで走った。いわく、ペシャワールの長距離トラックに気をつけろ。チャラス(大麻)をのんだヨッパライが多い。いわく、道をはずしたら、無暗に走るな。方向が分らなくなって、ひぼしになるぞ。(事実そういうことがあった。四年前、イギリス人が死んだ。Englishmen Dry Upと新聞にでたのを、私も記憶している)
領事館の今川氏いわく、「ラクダと水牛に気をつけなさい。この間本当にあった話だが、乗用車がラクダの股ぐらにつっこみ、ちょうどラクダがすわったもんだから、車はペシャンコになりました。その時ラクダは何といったと思います?……」
これはスコッチを飲みながらの話−。
もう百キロ以上走った。一時間半ばかりだから、かなり快調だ。道もそんなに悪くない。ただ屋根に荷物を満載しているので、くぼみでゆれると、ベコンボコン音がする。どうやらへこんできたらしい。でも屋根がぬけることもあるまい。
それにそんなに暑くない。何だ、一向に暑くないじゃないか。パキスタンの連中は、おどかしてやろうと、いいかげんの嘘をいったのだろうか。
砂漠の路上教習
このあたりで、安田君と運転を交代しようと決心した。相当の覚悟がいった—。
私も彼も、うかつにも日本から国際免許証を持ってこなかった。
しかたがないので、領事館で〈この者は日本国の運転免許証を保持し、充分の経験と運転技術を有する〉という証明書を書いてもらった。領事館クラークのミスター・マーチャントと一緒に、カラチ警察署に日参した。そして、四日目に、OFFICER of traffic Karachi(カラチ交通部長というところか)の特別許可がおりた。
そこで、免許検査官(Inspector of Licence)が私たちのジープに同乗し、カラチ市街を走らせた。彼が横から巻き舌のパキスタン英語で、「右折の手信号は‥…・。市内制限速度は……」等と説明していたが、私も安田もほとんど上の空だった。
検査官が、「You can drive」といった時、二人は、パキスタンのドライバーライセンスを得た。(通常の手続では、早くて三カ月かかるという)
パキスタンの免許証は写真がいらない。サインだけでよい。写真は、字の書けない者に必要なのだ。そして、五年間有効だ。
安田が、「今度来た時も使える」と喜んでいる。彼は、二週間ほどの間に、二カ国のライセンスを得たことになる。というのは、彼は日本出発直前に免許をとった。いわばホヤホヤドライバーだ。
もう免許もあるからということで、警察の前から、安田君が運転席にすわった。動き出した時、小さな鈍い普がした。止めてあったパトカーの横腹がへこんでいる。
彼は知らん顔で走り出した。どうも気がついていないらしい。マーチャントも、知ってか知らぬか、知らん顔をしている。私一人、気が気ではなかった。
こんなこともあったから、運転の交代に覚悟がいったというわけだ。
ピンディまでの千八〇〇キロの道を、私一人で運転できるならともかく、なるべく早く、道の条件がいい間に、彼がジープの運転をマスターすることが先決だと思った。
二回目の事件は、交代後直ぐ起こった。
直線道路を、ジープは約七〇キロのスピードで走っていた。前方に何やら見えてきたと思うと、それは片側通行を示す石だ。柱状の石が、道路の真中に点々と一列に並べてある。「ブレーキ、ブレーキ」私は叫んだ。
ジープは一向に止まらない。そして、どちらにも寄らず、真直ぐに石に向かって行く。一つ目の石はうまい具合にまたげた。二つ目だ。今度はガーンと音がした。まだ止らない。三つ目の手前でようやく止った。
私が、屋根に荷物があるから急ハンドルを切ると引っくり返るぞと話していたのが、よはど頭にこびりついていたらしい。彼はいささかもハンドルを切ろうとはしなかったのだ。幸い、ジープには何の損傷もなく、ホッとした。
安田君はこの後、実にさまざまなものにぶつかった。しかし、いずれも大したことではなかったのはまことに幸運であった。
なにしろ、あの暑さとあの悪路で、四〇〇キロもの荷物を、屋根にまで満載したジープを操るのはそんなにたやすくはない。
彼のあたった物の中で、最もケッサクはラクダであった。正に、追突したのだ。今川氏の話が、単なる駄ジャレでなかったことが、その時初めて分った。
私たちに、幸せだったのは、ラクダが比較的小さかったことと、私たちの車が背のひくい乗用車でなかったことだ。
そして、気の毒にも、飼主の鞭で、こっぴどくたたかれたのは、安田君ではなく、ラクダの方であった。
西パキスタンの旅 第1話「辺地教育調査隊の出発」
カラコルム辺地教育調査隊の出発
変化をとげる回教の国
車と女−カラチの変化
一九六九年、四年振りにカラチにやって来てまず感じたこと。
一つ、車の増えたこと。
一つ、ブルカの女性が減ったこと。
車がやたらに増えた。それも日本の車が目立つ。四年前は、タクシーもモーリス等の英車ばかりで、ブルーバード等珍しいぐらいだった。ところが今度は、日本車なら全車種あるといってもいい。サニーのタクシーなどザラである。
また日本車はとばしているのが多い。そしてクラクションをならして、猛然と追越しをかけてくる。これは丁度、日本でムスタングがとばしているのと同じではないかと話しあった。
車が増えると共に事故も増え、パキスタンでも、交通事故は大きな社会問題となりつつある。そのためだろうが、映画館では、事故防止のキャンペーンが行なわれている。
はだしの少年、手に紅茶の盆をもち道路を横切る。突進してくる乗用車。少年の恐怖にゆがんだ顔のアップ。ブレーキのきしり。次のカットで道路に散乱した茶わんと盆。大きな血痕がうつり、アナウンスが流れるのである。「かくて少年の生命は去ったのであります」
車が増えたと反対にブルカ(回教徒女性が外出時に用いるベール)の女性は減った。パキスタンは、正式にはパキスタン回教徒共和国といい、回教徒の国である。そのコーランの教えの一つに、女性の隔離がある。
コーランには次のようにある。〈それから女の信仰者にもいっておやり、慎しみ深く目をさげて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分は仕方がないが、そのほかの美しいところは人に見せぬよう‥‥(24−31)〉ブルカの習俗はこの字句から生れた。
だからブルカの女性が減ったということは、重大な変化である。少々オーバーにいえばイスラム文化の変容ともいえるかも知れない。しかしよく考えれば、回教というのは生やさしいものではないことが分かる。
私たちがカラチについた六月十八日の夕刊、Evening Starには面白い記事があった一カラチの中心にあるジンナー公園に、午後、アベックがいた。恐らくベンチでほほを寄せ合っていたのであろう。ところが、警官はこの二人をキスと抱ようのかどで逮捕したのである。
冒頭から車と女が飛びだした。しかしこれは私たちに全く関係ないことではない。私たちはこの二カ月間、車で西パキスタンの調査を行なったのである。けれど後者に関しては、断じて関係はなかった。何しろ私たちは、教育調査隊というおかたい隊であった。
京都カラコルム辺地教育調査隊
京都に京都カラコルムクラブという‥・後につづける言葉に迷う。一般にいう山岳会では勿論ない。しかし山岳連盟に登録されたレッキとした社会人山岳団体ではある。強いていえば、海外登山の経験者及び経験予定者のみで構成された、海外登山クラブといえるだろう。(余談であるが、カラコルムクラブ婦人会なるものもあり、これはカラコルムクラブと異なり標語を持っている。曰く、銃後の守りは固し!)
カラコルムクラブでは、一九六五年のディラン峰が失敗したので、以後パキスタンに申請をつづけ再起を期していた。小谷代表も毎年外国出張の帰途パキスタンに寄って、プッシュを行なっていたが、いつもキャンセルの通知が来るだけだった。
そのうち一九六八年の秋、ディランが登られたという情報が入った。薬師さんによれば、松田雄一氏よりの手紙に書いてあるという。情報魔といわれる松田氏のニュースとあらばまず間違いなかろうが、念のため、直ちに問合せることにした。
返事によると、これは一橋大の倉知さんよりのニュースで、登ったのはオーストリアのハンス・シェル、八月に登ったと葉書で知らせてきたという。
全く予期していないことであった。私たちは毎年申請していたし、それにこの年の分には拒否の回答にも接していなかった。
恐らく奴はひそかにもぐりこんで一気に登ったに違いないということになった。
なお、この情報を疑問視する見方もあり、問題の倉知氏あてのハガキを見ることになった。そこには「幸運にも、私はディランに登ることができた」とのみ書いてあった。そこで文中のClimbというのは、必ずしも頂上に達するということを意味しない。普通は入域できない場所に入り得たという解釈が成立つ——という迷論を私は唱えた。
何とか登られてほしくないという気持だったのだろう。この気持は誰しも同じであった。
四月になって、ようやく、問合せの返事がハンス・シェルより、小谷さん宛に来た。彼はやはり登っていた。たったの三名で、オーストリアから装備と共に、フォルクスワーゲンで走ってきて、許可なしであっさり登ってしまったのだ。
ディランが登られたという最初のニュースの時、最も残念がったのはディラン隊の登頂隊員であった小山さんであった。彼は、われわれも同じやり方が可能であると確信した。勿論、ギルギットに長く滞在している友人の法政大探検部の平氏とも連絡をとり、充分の裏づけのもとにである。そこで彼は、カンピレディオールを狙うことにした。
小山隊は、現地合流も含めて六名となった。一方私は、登山隊は二の次とした四名の調査隊を組み、カンピレ隊と共に、カラコルムクラブ一九六九年遠征の一部にしてもらうことになった。カラコルム西部の総合的解明を行なったシュナイダー隊は、常に登山と調査の二つの部分よりなっていたし、現在でも充分意義のある形式だとの小谷代表の判断であった。
時は世界的にスチューデント・パワーがいわれ、京都もさわがしくなっていた。考えるに、これは機械文明の高度発達との関連が予想できた。私たちは、機械文明から遠く隔った場所において、人間が見失い、あるいは忘れ去った、何か貴重なものが発見できるかも知れないと考えた。だから本当は人間探求隊とでも名付けたかったが、メンバーの職業も考慮して、辺地教育調査隊と名付けることになった。できれば、チョゴルンマ氷河最奥の部落あたりを狙いたかったが、情勢悪化の報が次々と入り、場所は行ってからということになった。年末より始めていた準備のうちで、私たち調査隊が最も力を入れたのは、ウルドー語の勉強であった。
その5『ホモ・ルーデンス』について
登山と「神話」その五
『ホモ・ルーデンス』について
遠藤周作の「ぐうたらシリーズ」が、どんどん売れつづけているのだそうです。
だいぶ前には、「マジメ人間」ということばが流行しました。こういうことばができ上ったこと自体、「フマジメ人間」がある存在意義を認められたことを意味していた、ぼくはそう思います。「まじめに働くことが、日本の繁栄と幸福につながるのですよ」という、支配者のかけ声に、民衆が首をかしげ始めたことをも意味していたかも知れません。
「まじめ」の対極にあるのが「ぐうたら」です。
「まじめ」はいいが「ぐうたら」はわるい。単純にいえば、そうなります。
しかし、そう単純には考えられない。考えるべきではない。ただただ真面目に働いた結果として加速度的におこってきた、いろいろの、とんでもない社会現象を見て、民衆は考え始めたのではないでしょうか。
気づいている人は多くはないかも知れませんが、日本的なタテマエ主義の「マジメ人間」の時代は、もう去りました。そして「グウタラ人間」あるいは「ハミダシ人間」の時代がきているのかも知れない。
さて先号で、「山の死」の問題には「遊び」の社会的位置づけの問題が関わっている、とチラリと触れました。
このごろでは山関係の文章の中に、「遊び」ということばを見つけるのは、さほど難しいことではありません。「ホモ・ルーデンス」などというのは、ごろごろしています。
最近では、カイヨワも流行のようで、例えば、野村哲也さんは、「山と渓谷」一月号に次のように書いておられます。
一登山が所詮は個人の遊びであるとすれば、記録のためとか、登山のハクをつけるために人のお膳立てした遠征隊にのっかるといったような要素が加わっては、カイヨワ『遊びと人間』のいう恍惚と目まいの境地に酔いしれることはできない一
ところで、登山が個人の遊びであることがはっきりと、そういわれだしたのは、そんなに古いことではなさそうです。
そんなにバッチリ調べたわけではありませんが、明確にそう規定した「云い出しべえ」は、どうやら京都の塚本珪一さんみたいです。
一いろいろと理屈をこねたとしても、やはり登山は〈あそび〉である。〈あそび〉ではなく、人間限界に対する自己への挑戦、自然征服であるとしても、それは単に自己の行動の理屈づけとごまかしだと思う。正直にたのしい〈あそび〉、自分のための、自分を大切にする〈あそび〉といえばすっきりするだろう。徹底した〈あそび〉としての登山は結果として〈個人に属する登山〉の成立を見るだろう。(『岩と雪』10号、「続・登山は個人に属すべきである」一九六七)一
一九六七年当時としては、これは極めて新鮮な主張でした。一方的なおしつけ的ムードで、伝統的な「聖なる登山」論がありましたが、登山はすでに大衆化の時代に入っていたからです。しかし、今日では、こういうことは常識となってしまいました。
むしろ「個人に属し」きって、個人個人に分断孤立させられている、ぼくたち山に登るものたちは、どのようにして連帯を回復すればよいのか。それが問題となってきている。そう考えます。
ここに「遊び」の問題が浮かび上ってきます。ぼくたちは、「山の世界」でよく「遊び」をロにしますが、はたして「遊び」を正確に理解しているのだろうか。はなはだ疑問です。特にこの日本の精神風土においては……。
「アルピニズム」などというものが、ぼくたちの連帯に、もう何の効果ももたなくなった今日、「遊び」の再検討は何かの「ヒント」になるかも知れない。
そういうわけで、今回は、「遊び」をとりあげたいと思います。
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その4「山での死」について
登山と「神話」その四
「山での死」について
現代は情報化時代などといわれます。ぼくたちは、まさに情報の洪水のなかで溺死しかかっているような気さえするくらいです。
そういう状況の中では、一体何が本当なのか、物の見方にほんとうに客観的な立場などということがあるのか、なにがなんやら訳がわからなくなってきています。「真理は一つ」などということばは、なんとも白々しくひびくばかりです。
そして、そういう現状を、〈価値観の多様化〉とか、〈既成概念の崩壊〉などと表現することは、「シラジラシサ」の上塗りにすぎないように思えます。
しかし、ここに、だれでもが、どうしようもなく、認めざるを得ないことがあります。それは、「人は死ぬ」ということです。こればかりは、どうしようもない真理といえるでしょう。
そういうわけで、「死」はだれにとっても決して避けて通ることのできない問題です。そして、「死」をどう考えるか、ということは、その人の生き方・人生観・世界観などに、根元的に関わる本質的な問題だと思えます。
なんやら、話が宣教師めいてきて、いやになります。正直いって、ぼくは、こんな問題はあんまりとりあげたくありませんでした。なんとなく気が進みませんでした。
なんしろ、話が大きすぎますし、あまり多方面に亘りすぎる気もします。そうかといって、避けて通れないという気もします。
いろいろと迷ったあげく、結局、個人にとって避けて通れない問題であるのなら、この「登山と『神話』」でも、避けるべきでないというふうに思えてきました。
そういうわけで、今回は、「山登りにおける死」をとりあげる決心をしたわけです。
あなたは、「死」とはなんぞや、ときかれたらなんと答えますか。「生」の反対。
そうです。「死」あっての「生」です。バカみたいですが、これはなかなか重大な問題で、〈死にがい〉←→〈生きがい〉論の出発点です。これについては後でふれます。
「生」の終り。ごもっとも。「生」は必ず「死」に至ります。つまり「生」→「死」という図式が成り立ちます。これも極めて根元的なものです。
たとえば、最も未開な社会から文明社会まで、あらゆる社会には、いわゆる「他界」の概念があります。死は単にこの世での終りを示すにすぎず、死者は、別の世界(「他界」)で永遠に生きつづけるとするわけです。
さて、山登りには必然的に死が伴います。正直いってぼく自身、今なお生きているのは、幸運の女神に守られたか、あるいはそういう偶然の結果にすぎないと思っています。
もしかりに、「自分は細心の注意とトレーニングを怠たらなかったから……」などという人がいたとしたら、その人は倣慢です。あるいは、山の恐ろしさに対する無知さの故か、山らしい山に登らなくなった人なのに違いありません。
そもそも、山と「死」とは切っても切れない関係がある。ぼくはそう考えております。
ところが、こういう具合にスパッといえない事情がどうやらあるらしい。この日本の特殊性みたいなものとして、です。その原因・理由は何なのか。そこのところをここで考えてみたい。これが一つのテーマです。
それから、今いったこととも関係しますが、日本人には日本人の「死」についての考え方みたいなもの、つまり「死生観」があるはずです。これについて考察したいと思います。
そして、この「死生観」が、どのように変化してきたのか。特に今日いわれる、若者文化(Youth Culture)と成人文化(Adult Culture)の分極・対立化の観点を基底として、そのそれぞれにおける「死生観」と「登山観」をみてみたいわけです。
かなり大上段にふりかぶった前口上であることは、ぼくも認めます。実はあんまり自信ありません。
はたしてどういうことになりますか。
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その3『槍ヶ岳からの黎明』について
『槍ヶ岳からの黎明』について
ぼくの職場に毎月のようにやってくる、保険外交員のおばちゃんがいます。
ぼくに保険をすすめることが、絶望的に無駄であることには、彼女も、もうとっくに気付いているようです。それでも、毎月のように現われては、時計バンドにつけるカレンダーの金属片を渡し、世間話などしてから帰ってゆくのです。 ぼくの方としては、このカレンダーは結構重宝していますので、月末になっておばちゃんが現われないと、「どうしたのかな」などと思ったりするのです。
この間のことです。いつもの様に、おばちゃんが現われ、ぼくは「アリガトウ」とカレンダーをもらってから、例のごとく世間話になりました。
いったい何がきっかけだったのか、すっかり忘れてしまいましたが、とにかく、話が映画の『イージー・ライダー』になったのです。
「あの若い人、ほんまに可哀そうやった。あんな事故で死んでしもうて」
ぼくは、ちょっとおどろいて、あれは事故ではなくて殺されたのだ、といったのですが、彼女は「ちがう」といいはります。
「そら、鉄砲は撃たはったよ。けど、あれは当ってへん。何かの事故で単車が爆発したんやろ。第一何にもしてへん人が殺されるわけ、あらへん」
映画のストーリを追いながら、あるいはまた、アメリカの歴史背景なども含めて、ぼくは懸命に説明したのです。それでも彼女ほ、まだ信じられない、という面持で、
「そうやろか、殺されたんやろか」といいます。ぼくも、いいかげん頭にきて、
「あんた、眼あけて見てたんかいな。目あけてても、見えなんだんやろ」といいました。
その時、ぼくは思いました。「固定観念」というものは、何とおそろしい。人を盲目の状態にするものだ、ということでした。
彼女に、ぼくの説明が理解できなかったということは、まず考えられない。彼女はよく理解した。しかし、おそらく「人が全く理由もなく、しかも鉄砲で撃ち殺されるなどということはあり得ない」という「固定観念」が、彼女の判断をくるわせたのでしょう。
さて、ぼくのいう「神話」も、一種の「固定観念」を意味しています。だから、「神話」は、破られるべくして存在している、といえるでしょう。
ところが、ぼくの「登山と『神話』」に関して、こんなことをいう人がいます。
「あなたは、ああいうことを書くことによって、新しい『神話』を作っている」と。
これに対するぼくの答えは、じつは、そう云われる前からあったのですが、それについてはこの連載の最後にするつもりです。
それに、「神話をつぶすことによって、神話を作っているのだ」という云い方は、「『固定観念』はいけないというのも、一つの『固定観念』である」という云い方に似ております。
こういう議論は、不毛の回転論議になりやすい。それで、ここでは避けたい。そう思うわけです。
今回も、先回につづいて、「登山史」をとりあげたいと思います。
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