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連載を終えて
「いやいやまあまあ」連載をおえて(京都新聞1980年10月15日)
予期しない反応が
「いやいやまあまあ」などという、なんやらつかまえ所のないタイトルの連載が終わって、数えてみればまだ十日ほどなのに、なんだか、あれはもう、ずっと前のことのような気がしている。
「大変だったでしょう」とねぎらってくれる人がいる。たしかに大変だったのがも知れないが、当の本人は、人が思うほど感じていなかったみたい。その「大変さ」が予想できる質のものであったからだと思う。もともと、人の物言いなどを気にしていたら、なんにも書けはしないのだ。
とはいえ、全く予期しない反応は気になった。たとえば、あの連載に登場した一人の昔の生徒が、そこを読んでごはんも喉に通らなくなったそうだ。彼女の友人が、十何年ぶりかに電話をかけてきたついでに、チラリとそういう彼女の反応を伝えた。それを聞いたとたん、ぼくの胃がキリキリと痛みだし、約一週間、おかゆを食べる破目になったりした。ぼくは、出来るだけありのまま書こうとしてきたし、いってみれば、フィクションみたいなものを入れないことを心意気としている。そうした勝手ないきがりの当然の報いとしては、まだ軽い方だったのだろう。
だれかの首がとぶぞ
連載が始まってすぐ、「これはまた、何とも破天荒な企画や」と告げた人がいた。そういわれてみれば、ああした欄にああいったものが載ったのは全国でも、初めてのことらしかった。おまけに、書いている男が、ぼくのような、まあ山登りの世界ではちょっとは知られているといった程度のヤツだったのだから・・・。彼が後につづけて「だれかの首がとぶぞ」などといったのも、あながち思いつきの誇張でもなかったようだ。
そうだとすれば、そこには、ぼくが自分を鼓舞する気もあって、「こんなもの」という顔をしていればいるほど、担当者たちのプレッシャーは強まるという図式があったといえるかも知れない。本当に大度だったと思う。
だから、「いやいやまあまあ」に対するおほめやねぎらいの言葉は、まずおし戴いて頂いてから、次に京都新聞にお渡したい気持ちだ。特に、ぼくを見つ出し、書かせることにした人達に・・・。それにカットの山本容子さんを忘れてはならない。
カットは、とにかくよかった。
「いやあ、あれは、まず企画の勝利で、カットの素敵さだけでもってるんですよ」などとぼくがいってたのは、あながち通りいっぺんの謙遜ではない、けっこう本気だったといえる。
なぜ教育が問題か
ところで、今日、どうして「教育」がそれほど問題となるのだろうか。
この極めて高度に発達した現代産業社会では、家庭・学校・企業が、整然と配置されている。その分業的配置は、それ自体、一つの規律と規範を生みだしているといえるようだ。
ところが、この現代社会自体が、先行き不安の材料となっている。世界各所に渦教派やテロ集団がひそみ、公害が発生し、エネルギーが残り少ないといわれ、株価が大変動し、ガス爆発が起こり、地震パニックがささやかれる。政治家は信用できない。
全ては信用できない。カネだけはまあ信用できる。そうした、先の見えない、ちょうど、雪原で霧にまかれたみたいな状態に、ぼくたちはあるようだ。誰か、自信ありげな奴が、こっちだと叫べばつい尾いてゆきたくなる。いや、引き返すのが一番いいような気もする。
山では、こうした時には、視界がきくまで、じっと待つのが、生きのびる唯一の方法なのだが、世の中、山みたいに単純ではない。こうした不安やイライラが、教育というか、「学校」に向けられるのだろう。ちょっとばかり、エラソにいわしてもらえば、今こそ「学校」は冷静さを要求されているのだろう。
女性論も書けそう
これまでにぼくは人から、「山以外のものを書いてみませんか。たとえば、女性論などは・・・」などといわれることが、ままあった。で、ぼくは「いやあ、それは、まあ身体がいうこときかんようになってからの話ですよ」と答えていた。
でも、この連載が済んだら、ちょっと気分が変わってきたようだ。結婚論や女性論も書けるぞ、という気になってきた。これは、実際に書くかどうかは別として、たいした収穫であったと思う。
さて、かなり多くの人が、「どうして終わったのか」という、すぐには意味の取れないような質問を発した。ここに、明言すると、あれは予定通りの回数で終わったので、別に中断させられたのではない。ある手紙にあったように、どこかの圧力ではない。
たしかに、ぼくとしても、いいたいことの半分も書けなかった、という気がしないでもない。
<″いやいやまあまあ″が単行本となって日本全国にカムバックすることは百恵ちゃんのカムバックより確実無比のことと拝察いたしております。その時には是非加筆して下さいますよう・・・>と、ファンレターにはあった。
いずれ、書き足して単行本にすることが、ちょうとしんどい気もしているけれど、「いやいやまあまあ」を愛読して下さった諸氏に感謝を示す方法だと考えてはいる。(府立桂高校教諭)
予期しない反応が
「いやいやまあまあ」などという、なんやらつかまえ所のないタイトルの連載が終わって、数えてみればまだ十日ほどなのに、なんだか、あれはもう、ずっと前のことのような気がしている。
「大変だったでしょう」とねぎらってくれる人がいる。たしかに大変だったのがも知れないが、当の本人は、人が思うほど感じていなかったみたい。その「大変さ」が予想できる質のものであったからだと思う。もともと、人の物言いなどを気にしていたら、なんにも書けはしないのだ。
とはいえ、全く予期しない反応は気になった。たとえば、あの連載に登場した一人の昔の生徒が、そこを読んでごはんも喉に通らなくなったそうだ。彼女の友人が、十何年ぶりかに電話をかけてきたついでに、チラリとそういう彼女の反応を伝えた。それを聞いたとたん、ぼくの胃がキリキリと痛みだし、約一週間、おかゆを食べる破目になったりした。ぼくは、出来るだけありのまま書こうとしてきたし、いってみれば、フィクションみたいなものを入れないことを心意気としている。そうした勝手ないきがりの当然の報いとしては、まだ軽い方だったのだろう。
だれかの首がとぶぞ
連載が始まってすぐ、「これはまた、何とも破天荒な企画や」と告げた人がいた。そういわれてみれば、ああした欄にああいったものが載ったのは全国でも、初めてのことらしかった。おまけに、書いている男が、ぼくのような、まあ山登りの世界ではちょっとは知られているといった程度のヤツだったのだから・・・。彼が後につづけて「だれかの首がとぶぞ」などといったのも、あながち思いつきの誇張でもなかったようだ。
そうだとすれば、そこには、ぼくが自分を鼓舞する気もあって、「こんなもの」という顔をしていればいるほど、担当者たちのプレッシャーは強まるという図式があったといえるかも知れない。本当に大度だったと思う。
だから、「いやいやまあまあ」に対するおほめやねぎらいの言葉は、まずおし戴いて頂いてから、次に京都新聞にお渡したい気持ちだ。特に、ぼくを見つ出し、書かせることにした人達に・・・。それにカットの山本容子さんを忘れてはならない。
カットは、とにかくよかった。
「いやあ、あれは、まず企画の勝利で、カットの素敵さだけでもってるんですよ」などとぼくがいってたのは、あながち通りいっぺんの謙遜ではない、けっこう本気だったといえる。
なぜ教育が問題か
ところで、今日、どうして「教育」がそれほど問題となるのだろうか。
この極めて高度に発達した現代産業社会では、家庭・学校・企業が、整然と配置されている。その分業的配置は、それ自体、一つの規律と規範を生みだしているといえるようだ。
ところが、この現代社会自体が、先行き不安の材料となっている。世界各所に渦教派やテロ集団がひそみ、公害が発生し、エネルギーが残り少ないといわれ、株価が大変動し、ガス爆発が起こり、地震パニックがささやかれる。政治家は信用できない。
全ては信用できない。カネだけはまあ信用できる。そうした、先の見えない、ちょうど、雪原で霧にまかれたみたいな状態に、ぼくたちはあるようだ。誰か、自信ありげな奴が、こっちだと叫べばつい尾いてゆきたくなる。いや、引き返すのが一番いいような気もする。
山では、こうした時には、視界がきくまで、じっと待つのが、生きのびる唯一の方法なのだが、世の中、山みたいに単純ではない。こうした不安やイライラが、教育というか、「学校」に向けられるのだろう。ちょっとばかり、エラソにいわしてもらえば、今こそ「学校」は冷静さを要求されているのだろう。
女性論も書けそう
これまでにぼくは人から、「山以外のものを書いてみませんか。たとえば、女性論などは・・・」などといわれることが、ままあった。で、ぼくは「いやあ、それは、まあ身体がいうこときかんようになってからの話ですよ」と答えていた。
でも、この連載が済んだら、ちょっと気分が変わってきたようだ。結婚論や女性論も書けるぞ、という気になってきた。これは、実際に書くかどうかは別として、たいした収穫であったと思う。
さて、かなり多くの人が、「どうして終わったのか」という、すぐには意味の取れないような質問を発した。ここに、明言すると、あれは予定通りの回数で終わったので、別に中断させられたのではない。ある手紙にあったように、どこかの圧力ではない。
たしかに、ぼくとしても、いいたいことの半分も書けなかった、という気がしないでもない。
<″いやいやまあまあ″が単行本となって日本全国にカムバックすることは百恵ちゃんのカムバックより確実無比のことと拝察いたしております。その時には是非加筆して下さいますよう・・・>と、ファンレターにはあった。
いずれ、書き足して単行本にすることが、ちょうとしんどい気もしているけれど、「いやいやまあまあ」を愛読して下さった諸氏に感謝を示す方法だと考えてはいる。(府立桂高校教諭)
「おわりはたて前で」ではなくて
「いやいやまあまあ」って、なんやらヘンなタイトルでしょう。でも、ぼくは、けっこう気に入っているのです。
担当記者の学芸部のクマさんは、
「ええっと、タイトルはやっぱり、オートバイを使いたいんで、〈ナナハン先生行状記〉とか〈ナナハン先生奮戦す〉とか……」
と、ちょっと口ごもりながらいいました。
「それもう、そんなんちょっと古いですョ」
とぼく、
「それに、ぼくのバイクは、ナナハンとちごて、ロクハンです。」
「はあん」
と、クマさんは、いやにがっかりした表情になったので、ぼくは少し気の毒になり、
「いやいや、ロクハンもナナハンも似たよなもんですよ」
「でもやっぱり、ロクハン先生よりナナハン先生の方が語呂がよいみたい……」
「まあまあ、よろしいやんか。まだ時間はありますし。なんか、デスクがいうたはったみ たいにパリイッとした奴、考えて下さい」
とぼくは、相手に押しつけることにしました。それをいち早く察したのか、クマさんは、
「センセイも考えて下さい。私も考えますから……」
そごでぼくは、ちょっと言ってみようか、という気になり、
「ちょっとあるんですョ。あのう、イヤイヤマアマアちゅうのんは、どうです」
「はあ?いや、いや、まあまあ、ねえ。なんか、もひとつ、はっきりしませんねえ」
「そうです。そのはっきりしんところがいいのとちがいますか」
このタイトル、ぜんぜん気に入られへんかったみたい。おかしいなあ、けっこうええはずやがなあ。 ‘
ラトックⅠ峰から帰ってきてしぼらくした秋口、ぼくたちビアフォ・カラコルム登攀隊は、京都で登頂報告会をやりました。報告会といっても、そんな普通のやり方ではなくて、朝日新聞、朝日放送を始めとする大口スポンサーだけを招待してのパーティです。場所はぼくが教師になったばかりの頃の教え子のケンシロウが、自分の店のクラブを開放してくれました。やり方といい、場所といい、それはえらくカッコウよかったのです。
このパーティに、やはりスポンサーだったキンシ正宗が、でっかい「こもかぶり」を寄贈してくれたのです。みんながんばって、マスで飲んだのだけれど、そんな三時間やそこらでは、とてもラチ、いやタルなどあきませんでした。
しかたなくぼくは、この巨大な「こもかぶり」を家に持帰り、床の間にでんと据えたのです。早く片付けないと、どんどん発酵が進んで駄目になるそうです。ぼくは、いろんな人を誘い、様ざまな人達が樽酒を飲みに、家にやってきました。
以前に桂高校にいて、その時からの付合いのN先生がやってきました。彼は、酔払うといつも、「おい、ナオキ」とぼくのことを呼ぶ癖があります。たとえば、ぼくの出版パーティなどで、彼が酔払ったとする。まあいつでもそうなのですが……。すると彼はぼくの悪口、本人はちっともそんな気はないらしいのですが、きいてる者にはそう聞こえるようなことをべらべらとしゃべる。東京の連中が、「あの人、高田さんと、どういう関係なのですか」ときいたそうです。
さて、彼は樽酒を一合ますでキューッ、キュッと一升近くを飲むと、例によって弁舌をふるい始めました。ほとんどしゃべり切っておいてもらってから、例によって、ぼくがチョコッ、チョコッと質問します。すると、
「いやいや、ちがいますよ。カーターはねえ……」
あるいはまた、
「いやいや、そうなんや、その通りやで」
そして、ぼくが、時に感心して、つまり、彼はぼくにできない見方や分析をすることがあって、「センセ、すごいなあ。その見方はおもろいで……」とゆうと、
「いやいや、まあまあそういうこっちゃ、ハッハッハァ」
いやまあびっくり。彼の場合、センテンスの冒頭はいつも〈いやいや〉とくるのです。こんなことは始めてでした。キンシ正宗の樽を飲んだ途端に、そんな具合になったのか。周りのみんなも、〈いやいや〉が耳につきだし、クスクス笑うのもいました。とまあ、そんな具合だったのです。でも、まだまだ樽の酒は減ってはいませんでした。
その何日か後、誰と一緒だったか忘れてしまいましたが、ぼく達は、まだ飽きもせず、もうかなり少なくなった酒を味わっていました。どういう話だったか、やっぱりこれも忘れていますが、ともかくぼくは急に腹が立ってきて、カッカして、
「けしからんやないか、そんなこと、だいたいやねえ……」
とやりだした時、いつの間にそこに来ていたのか、斜め後に立っていた中学生の息子が、ぼくの肩に手を置くと、
「まあまあまあまあ」
みんなは笑うし、ぼくもガックリして、苦笑しながら、「いやいや」などといっていたのです。
この〈まあまあ〉は、すでに冬のスキーの時、一緒だったグループで、すでにちょっと流行りかけていたようなのです。
〈いやいや〉に〈まあまあ〉。両方とも、何となくしまらない。けれど、なんとなくユーモラスで、それに、その時の状況で、何とでも使えるみたいなところが面白い。考えてみれば、この時、ぼくは、〈いやいやまあまあ〉というタイトルを決めたらしいのです。決めたとはいっても、絶対にいいと思った訳では決してなくて、なんとなく、まあまあやなあと思っただけなんです。だから、これにしますともなんとも言いませんでした。
新聞社は、いろいろ考えて、いくつかのタイトルを提示しました。でも、そのどれもぼくの気に入りませんでした。これならどうです、といって、クマさんが示した「ロクハン先生の山と谷」というのは、別に悪くもなかったけれど、よしそれにしようという気もしなかった。ぼくが考えた「月とスッポンポンの教育論」というのは、デスクや部長の、ふざけすぎてるという意見で没になったのだそうです。というような次第で、最終的には、「いやいやまあまあ」が、しつこく生き残ったという訳です。
さて、この単行本は、いまの話の新聞連載に何話かをつけ足したものなのですが、タイトルは、やっぱり問題となりました。ミネルヴァ書房のテラウチさんは、最初に会った時、 「この題は、なんとなく漠然としてますんで……。なんかいい題を考えなくては……。いい題を考えてみます」
といい、ぼくは、
「そうですネ、お願いします」
と答えていたのです。
何ヶ月かして今年になって、会うと、彼は突然なんだか複雑な顔をして、
「こんなことは初めてです」
といいます。ぼくは何のことやら分らず、
「はあ、何のことです」
「いやいや、タイトルですよ。これまで、あかんと一旦思ったものはあかんかったのに、どうしたことか、〈いやいやまあまあ〉が何となくいいように思えてきたんです。なんとなく変な気分なんですが……」
「へええ、そうですか。それでは〈いやいやまあまあ〉でゆくということですか」
と、ぼくは、なんだかホッとしたような気分でたづねました。
「そうします。いやあ、考えてみると、ぼくも、けっこう、いやいや、まあまあでやっとるんですねえ」
と彼は答え、ぼくは何となくカンくるい、黙ったままだったのです。
以上のような訳で、今、みなさんは、この『いやいやまあまあ』を手にされておる、ということです。
ただこの本は、テレビドラマみたいに、「実在するいかなる団体・個人とも関係ありません」という訳ではなく、みんなホントです。正確にいうと、ぼくは、ホントの積りです。自分自身も含めて、できるだけホントを書こうと努めました。ただ、ぼくの思い違いが、いちいち確かめませんでしたので、あるいはいくらかあるかも知れません。その際の責任の一切は、ぼく自身にあります。
多分、教育関係で、こうした種類の本がでたのは最初のことかも知れません。新聞連載が始まってしばらくすると、いくつかの団体から講演の依頼がありました。ぼくが面白いと思ったのは、ぼくの話を所望したのは、全て若い人達だったということでした。
連載が終った頃、奥丹の教員組合の青年部から、やはり講演の依頼がありました。「青年教師の集い」というのが、一泊二目であるのだそうです。
「いやあ、ほんとの話、センセイ相手にしゃべれるような教師じゃないんですよ、ぼくは」
正直いってぼくはあんまり気が進まなかったし、おまけに、本文で、若い教師のことをあんまりよく書いてないのです。面白くもないという気分でした。ところが相手はしつこく頼み込むし、聞いてみると、会場が、岩滝の公民館だというのです。岩滝といえば、ぼくの出生の地で、話にしか知らない土地です。「是非前夜からおいで下さい。若い連中が喜こびますから……」という話にのってぼくはOKしたのです。
ところが何日かして、家に、断わりの電話がポツリとあって、ぼく自身へ直接には何のコメントもないまま、この話はキャンセルされました。ふうん、どっちかからの庄力やろなあ。ぼくはそう思っただけです。そして同時に、やっぱり、ぼくが書いた通り、若い奴はあかんなあ。ぼくはなんだかホッともしたのでした。
いやいや。とはいえ、『いやいやまあまあ』は単なる読み物です。まあまあうまい具合に僕をおだてて、こんなものを書かせた新聞社のクマさん、それにこうした勝手な書き物を本にして頂いた「ミネルヴァ書房」さんとテラウチさん、素敵なさし絵と表紙で花をそえて頂いた山本容子さんに心より感謝しております。
といっても、これはほんとに「本音」でして、「おわりにたて前で」という訳では決してありません。重ねて御礼を申し上げます。
メーデーの日の夕
担当記者の学芸部のクマさんは、
「ええっと、タイトルはやっぱり、オートバイを使いたいんで、〈ナナハン先生行状記〉とか〈ナナハン先生奮戦す〉とか……」
と、ちょっと口ごもりながらいいました。
「それもう、そんなんちょっと古いですョ」
とぼく、
「それに、ぼくのバイクは、ナナハンとちごて、ロクハンです。」
「はあん」
と、クマさんは、いやにがっかりした表情になったので、ぼくは少し気の毒になり、
「いやいや、ロクハンもナナハンも似たよなもんですよ」
「でもやっぱり、ロクハン先生よりナナハン先生の方が語呂がよいみたい……」
「まあまあ、よろしいやんか。まだ時間はありますし。なんか、デスクがいうたはったみ たいにパリイッとした奴、考えて下さい」
とぼくは、相手に押しつけることにしました。それをいち早く察したのか、クマさんは、
「センセイも考えて下さい。私も考えますから……」
そごでぼくは、ちょっと言ってみようか、という気になり、
「ちょっとあるんですョ。あのう、イヤイヤマアマアちゅうのんは、どうです」
「はあ?いや、いや、まあまあ、ねえ。なんか、もひとつ、はっきりしませんねえ」
「そうです。そのはっきりしんところがいいのとちがいますか」
このタイトル、ぜんぜん気に入られへんかったみたい。おかしいなあ、けっこうええはずやがなあ。 ‘
ラトックⅠ峰から帰ってきてしぼらくした秋口、ぼくたちビアフォ・カラコルム登攀隊は、京都で登頂報告会をやりました。報告会といっても、そんな普通のやり方ではなくて、朝日新聞、朝日放送を始めとする大口スポンサーだけを招待してのパーティです。場所はぼくが教師になったばかりの頃の教え子のケンシロウが、自分の店のクラブを開放してくれました。やり方といい、場所といい、それはえらくカッコウよかったのです。
このパーティに、やはりスポンサーだったキンシ正宗が、でっかい「こもかぶり」を寄贈してくれたのです。みんながんばって、マスで飲んだのだけれど、そんな三時間やそこらでは、とてもラチ、いやタルなどあきませんでした。
しかたなくぼくは、この巨大な「こもかぶり」を家に持帰り、床の間にでんと据えたのです。早く片付けないと、どんどん発酵が進んで駄目になるそうです。ぼくは、いろんな人を誘い、様ざまな人達が樽酒を飲みに、家にやってきました。
以前に桂高校にいて、その時からの付合いのN先生がやってきました。彼は、酔払うといつも、「おい、ナオキ」とぼくのことを呼ぶ癖があります。たとえば、ぼくの出版パーティなどで、彼が酔払ったとする。まあいつでもそうなのですが……。すると彼はぼくの悪口、本人はちっともそんな気はないらしいのですが、きいてる者にはそう聞こえるようなことをべらべらとしゃべる。東京の連中が、「あの人、高田さんと、どういう関係なのですか」ときいたそうです。
さて、彼は樽酒を一合ますでキューッ、キュッと一升近くを飲むと、例によって弁舌をふるい始めました。ほとんどしゃべり切っておいてもらってから、例によって、ぼくがチョコッ、チョコッと質問します。すると、
「いやいや、ちがいますよ。カーターはねえ……」
あるいはまた、
「いやいや、そうなんや、その通りやで」
そして、ぼくが、時に感心して、つまり、彼はぼくにできない見方や分析をすることがあって、「センセ、すごいなあ。その見方はおもろいで……」とゆうと、
「いやいや、まあまあそういうこっちゃ、ハッハッハァ」
いやまあびっくり。彼の場合、センテンスの冒頭はいつも〈いやいや〉とくるのです。こんなことは始めてでした。キンシ正宗の樽を飲んだ途端に、そんな具合になったのか。周りのみんなも、〈いやいや〉が耳につきだし、クスクス笑うのもいました。とまあ、そんな具合だったのです。でも、まだまだ樽の酒は減ってはいませんでした。
その何日か後、誰と一緒だったか忘れてしまいましたが、ぼく達は、まだ飽きもせず、もうかなり少なくなった酒を味わっていました。どういう話だったか、やっぱりこれも忘れていますが、ともかくぼくは急に腹が立ってきて、カッカして、
「けしからんやないか、そんなこと、だいたいやねえ……」
とやりだした時、いつの間にそこに来ていたのか、斜め後に立っていた中学生の息子が、ぼくの肩に手を置くと、
「まあまあまあまあ」
みんなは笑うし、ぼくもガックリして、苦笑しながら、「いやいや」などといっていたのです。
この〈まあまあ〉は、すでに冬のスキーの時、一緒だったグループで、すでにちょっと流行りかけていたようなのです。
〈いやいや〉に〈まあまあ〉。両方とも、何となくしまらない。けれど、なんとなくユーモラスで、それに、その時の状況で、何とでも使えるみたいなところが面白い。考えてみれば、この時、ぼくは、〈いやいやまあまあ〉というタイトルを決めたらしいのです。決めたとはいっても、絶対にいいと思った訳では決してなくて、なんとなく、まあまあやなあと思っただけなんです。だから、これにしますともなんとも言いませんでした。
新聞社は、いろいろ考えて、いくつかのタイトルを提示しました。でも、そのどれもぼくの気に入りませんでした。これならどうです、といって、クマさんが示した「ロクハン先生の山と谷」というのは、別に悪くもなかったけれど、よしそれにしようという気もしなかった。ぼくが考えた「月とスッポンポンの教育論」というのは、デスクや部長の、ふざけすぎてるという意見で没になったのだそうです。というような次第で、最終的には、「いやいやまあまあ」が、しつこく生き残ったという訳です。
さて、この単行本は、いまの話の新聞連載に何話かをつけ足したものなのですが、タイトルは、やっぱり問題となりました。ミネルヴァ書房のテラウチさんは、最初に会った時、 「この題は、なんとなく漠然としてますんで……。なんかいい題を考えなくては……。いい題を考えてみます」
といい、ぼくは、
「そうですネ、お願いします」
と答えていたのです。
何ヶ月かして今年になって、会うと、彼は突然なんだか複雑な顔をして、
「こんなことは初めてです」
といいます。ぼくは何のことやら分らず、
「はあ、何のことです」
「いやいや、タイトルですよ。これまで、あかんと一旦思ったものはあかんかったのに、どうしたことか、〈いやいやまあまあ〉が何となくいいように思えてきたんです。なんとなく変な気分なんですが……」
「へええ、そうですか。それでは〈いやいやまあまあ〉でゆくということですか」
と、ぼくは、なんだかホッとしたような気分でたづねました。
「そうします。いやあ、考えてみると、ぼくも、けっこう、いやいや、まあまあでやっとるんですねえ」
と彼は答え、ぼくは何となくカンくるい、黙ったままだったのです。
以上のような訳で、今、みなさんは、この『いやいやまあまあ』を手にされておる、ということです。
ただこの本は、テレビドラマみたいに、「実在するいかなる団体・個人とも関係ありません」という訳ではなく、みんなホントです。正確にいうと、ぼくは、ホントの積りです。自分自身も含めて、できるだけホントを書こうと努めました。ただ、ぼくの思い違いが、いちいち確かめませんでしたので、あるいはいくらかあるかも知れません。その際の責任の一切は、ぼく自身にあります。
多分、教育関係で、こうした種類の本がでたのは最初のことかも知れません。新聞連載が始まってしばらくすると、いくつかの団体から講演の依頼がありました。ぼくが面白いと思ったのは、ぼくの話を所望したのは、全て若い人達だったということでした。
連載が終った頃、奥丹の教員組合の青年部から、やはり講演の依頼がありました。「青年教師の集い」というのが、一泊二目であるのだそうです。
「いやあ、ほんとの話、センセイ相手にしゃべれるような教師じゃないんですよ、ぼくは」
正直いってぼくはあんまり気が進まなかったし、おまけに、本文で、若い教師のことをあんまりよく書いてないのです。面白くもないという気分でした。ところが相手はしつこく頼み込むし、聞いてみると、会場が、岩滝の公民館だというのです。岩滝といえば、ぼくの出生の地で、話にしか知らない土地です。「是非前夜からおいで下さい。若い連中が喜こびますから……」という話にのってぼくはOKしたのです。
ところが何日かして、家に、断わりの電話がポツリとあって、ぼく自身へ直接には何のコメントもないまま、この話はキャンセルされました。ふうん、どっちかからの庄力やろなあ。ぼくはそう思っただけです。そして同時に、やっぱり、ぼくが書いた通り、若い奴はあかんなあ。ぼくはなんだかホッともしたのでした。
いやいや。とはいえ、『いやいやまあまあ』は単なる読み物です。まあまあうまい具合に僕をおだてて、こんなものを書かせた新聞社のクマさん、それにこうした勝手な書き物を本にして頂いた「ミネルヴァ書房」さんとテラウチさん、素敵なさし絵と表紙で花をそえて頂いた山本容子さんに心より感謝しております。
といっても、これはほんとに「本音」でして、「おわりにたて前で」という訳では決してありません。重ねて御礼を申し上げます。
メーデーの日の夕
23.教師はみんな特高かな
♣
ひところ、子供の自殺が相次いで起り、新聞誌上を賑わわしたことがありました。この頃では、あんまり多くないようで、あれはやっぱり、一時的な流行だったのかなと思う。
あの頃、自殺を防ごう、ということで、自殺防止のキャンペーンがありました。それによれば、自殺の前には、必ずサインがあるというか、前ぶれが現われる。たとえば、急に無口になるとか、死について興味をもって、それに関した本を読みだす……とか。だから、それらを素早くキャッチして、自殺を防ごう、というんです。
なんだか、けったいな気分でした。だって本人が、死にたいと本当に思っているのなら、どんなことをしてでも死ぬでしょう。問題は、なぜ生きる望みをなくしたのか、ということであるはずで、どうして止めようか、ではないように思ったんです。
その頃、中学生だった娘が、新聞を見ながら、突然、「私が自殺したらどうする」ときいたものです。
「どうするて、死んだらしまいやがな」
と、ぼくは素っとぼけて答えました。
「もし死んだら、どう思う」
と、おっかぶせて娘はきき、ぼくは、なお、
「どう思うかなあ。そんなこと考えたこともないし、まあその時にならんと分らんな。お前死にたい思とんのか。もし死のう思ってたら、止めようもないがな」
と、ぼくは、わざと素気なく答えていました。すると娘は、憤然として、あきれたように、
「それでも親か」
といったものでした。
彼女が、小学生だった頃、ぼくは、高校生の女の子二人と娘・息子の四人を連れて、信州ヘスキーに行ったことがありました。みんなで滑っているうちに、娘の姿が見当らなくなったのです。いくら周りを見回しても、どこにもいません。もしかしたら、もう滑るのがいやになっいて宿に帰ったのかも知れない。確かめるために、宿まで見に戻ろうか、と一瞬考えました。でも、よし宿に帰っていたら、それはそれで、もう安全です。小学校三年にもなっているのに、どうして勝手に帰ったのか、となじるのも変な具合だという気もしました。もし帰っていなかったら、ぼくは余計にイライラし、見つけた時にどなりつけることになるだろう。どっちにしても面白くない。
こんなことを、素早く考え、かなり心配だったけど、ほっとこうと決めたんです。ものの20分もしないうちに、ゲレンデで一人楽しそうに滑っている娘を、ぼくは見出していたのです。
去年のこと、家族で、やはりスキーにいった時、一番下の五歳の娘を、彼女はそり滑り専門でスキーができないので、ゲレンデのレストハウスに待たして、みんなで滑っていました。突然アナウンスがあり、
「タカダさん、お子達が迷子になっておられます、至急レストハウスにお戻り下さい」
いったい何事かと、ぶっとばして、レストハウスに戻ったら、娘は一人ポツンとストーブにあたっておりました。「おねえちゃんが三人、話しかけてきて、名前をきいた」というのです。
多分、一人置いとかれて、淋しくてベソでもかいていたのでしょう。それにしても、何とおせっかいな奴がいるもんだ。ぼくは頭にきて、娘に、
「お前が、ベソかいてるから間違われるんじゃ。バカモン」
と、どなりつけたのです。
♣♣
この頃では、自殺にかわって、校内暴力や家庭内暴力や非行や暴走族などが大流行のようです。
校内暴力というのは、どうやら中学の専売特許で、高校にはあんまりないみたい。ただ高校にも家庭内暴力はあるらしい。教室で、そうした話をすると、身に憶えがあるという感じの反応を示す生徒が多いのです。ぼくは、話のついでに、「親かて信用できへんぞ。晩ねていて、気がついたら首にひもが巻きついてるかも知れんぞ。そうされるような仕打ちはしてへんか」などとおどかしたりします。生徒はみんなショックで、少々考え込んでしまうようです。
それから、いわゆる非行や暴走族というのも、ごくありふれた出来ごとのようです。
それにしても〈非行〉ということばには、どうも少なからずある抵抗を感じてしまいます。〈非行少年〉は、いつかの時代の〈非国民〉に似て、中味の吟味はそっちのけの、レッテルのはりつけという気がしてしまうのです。そうすると、教師はみんな特高かな。まあ、ぼくは、そういう時代は、話でしか知らないのですが……。
「いいことはいい悪いことは悪いと云おう」などと叫ぶ教師がいる。なにをいうとるんか、という気がします。きまっとるやないか、そんなこと。問題は、いいか悪いか分らん部分なんです。明確に分る部分について、これまで知らんふりしていたとしたら、それは論外。分らん部分までをも、勝手にどっちかに決めて、それを押しつけて強要したら、それは権力的な強制でしかないのではなかろうか。そんな気がします。
ここに、〈高校生の意識調査〉というデータがあります。一九六九年の暮の朝日新聞にのったもので、平均的都立高校を対象に、回答回収総数七九二、五九問のアンケートによる調査です。それによれば、
教師に多いタイプ———表面だけとりつくろう偽善者。月給めあてだけのサラリーマン。規則ばかり押しつける役人根性。一方、生徒が教師に求めているのは信念で、うわべをとりつくろわない生の人間性といったものである、となっています。
六九年といえば、いまから十二年前、ひと昔以上も前なのですが、生徒が見た教師の姿は今もあんまり変らんのではないか、という気がします。いや、まだ、あの頃は、生徒は、それなりに真剣に教師を見つめ、批判した。そこには、まだ希望があったのかも知れません。だから彼等は、教師にある信頼をもって学園紛争を起こしたのかも知れない。ぼくにはそう思えます。ところがいまや、もうそんなもんではない。
教師は教師。うまい具合に立回り、睨まれんように……。腹立ててもしやあない。むかつくだけ、勉強の防げになるし……。それにしても、つっぱってるワルの連中は、アホや。あれはなんにも得にならんのに。けど、気持はよう分る。
教師と生徒の距離はもう宇宙的にひらいてしまったのかも知れません。
♣♣♣
教室で、四十数人の生徒を前にして、ぼくは教壇に立っています。小さな空間に、それらはぎっしりと詰め込まれた感じで、四十数個の顔が、二次元的に拡がっており、みんな無表情で、なんだか仮面の配列の様です。
その時、教師の顔も、ただ無意味に、パクパクと口を開け閉めする奇妙な仮面——生徒の眼には、きっとそう映っているのでしょう。
一つの教室空間に配列された生徒には、共通点といえば、もしかしたら、生活年齢が同じである、という一つことしかない。そういえるかも知れません。みんながみんな親がちがう。家もちがう。家の職業もちがう。育ちがちがう。家の喰い物の好みもちがう。
一つ一つの顔の後には、それらを生みだした一組の男女があり、その後にはまたその男女を生みだした二組のしわくちゃの男女がいて、その後にはまた……。そして、それらはみんなみんな、異なった顔で、異なった生い立ちと生活史をもっていて……。
そうした妄想みたいなものが一瞬、ぼくの頭に拡がると、教室はモザイクみたいに顔でうずまってしまい、ぼくはただ呆然と立ちすくんでしまいます。時として、そういうことがあるのです。
考えてみるまでもなく、生徒一人ひとりはみんなちがう。ことさらにいうまでもなく、そんなことは誰でも分っているはずです。ただ学校というととろは、そんな認識やたて前とは無関係に、生徒という名の画一化されたものを対象に組立てられたシステムであるかのようです。
生徒の画一化が問題だとなげきながら、教師達は、その問題を解決するために、自からの集団を画一化しようとしたりする。なんともけったいな話です。
もともと、日本の大衆教育制度は、富国強兵を目標に、軍隊の部品としての兵卒を作るために組立てられた。敗戦後の民主主義教育で、戦前の教育理念は完全に否定はされたものの、富国強兵にとってかわった高度成長のかけ声のもと、学校は産業兵士の生産工場であったのではないだろうか。
そのなかで、教師は、個性の尊重という空念仏を唱えながら、生徒ともども、ただひたすら、画一化してきたといえなくもない。
♣♣♣♣
どこの国でも、どの時代であっても、もともと若者は不安定で激しやすく暴力的なものだと思うのです。
ぼく自身だって、少々身に憶えもあります。ただ昔は、いまみたいに、すぐ新聞種になったり、警察が入ってきたり、というようなことはなかったのですが……。
だから、「あれは、いつかの学園紛争が、もっと若い層に移行したようなもんだ」という見解も一理あるという気もします。また、若者は暴力的なもので、そうした時期を通過して大人になるのだから、[まあ、いってみればはしかみたいなもんだ。伝染性もあるし……」などといわれると、なるほど、とも思います。
たしかに、いまの世の中、若者には極めて住みずらい状況になっているようです。目本はいまや大国、大人の、いや老年の国で、暴力に対する許容度が全くない。もしかりに、いまの時代に信長がいたとしたら、大犯罪人になっていたでしょうし、勤王の志士たちはみんな少年院送り、なんてことになったかも知れません。
だいたいいまの世の中、若者だけに限らず、みんな住みずらく息苦しいのかも知れません。まあ、すこし前は、その息苦しさの原因を見極めたら、それをどうにかできそうな気がした。ところがいまや、だいたいあんまりよく見極めがつかないし、なんやらよく分らない。分ったところでどうにもならんという気がしてしまう。ええいとばかり、いちばん手近なところに衝動的につき当り発散するという世の中みたい。
とすれば、校内暴力も、社会状況の反映ということになるのかしらん。
いまぼくの高校も平穏の限りだけれど、ひと昔前には、けっこう校内暴力みたいなこともありました。あんまりなぐられそうにもなかったけれど、オヤジや上級生に、散々なぐられたり、けんかしたりした経験のあるぼくは、なぐられたかて死なへんし、と思っていました。生徒だって、セクトの内ゲバじゃあるまいし、殺す気など全くないはずです。
先頃の新聞で、英国の教員組合が、生徒による傷害に備えて、全員保険に加入したということを知って、さすがだなあ、と変なところで感心してしまいました。
これからも分るように、校内暴力というようなものは、日本だけに限らず、先進国といわれる国に共通ですし、非行は中国でも問題になっている。
社会のひずみは、いちばん純な弱い部分に病理的に表われるのかも知れません。そうだとしても、この病める文明諸国を一気に治療するなんてことは、ちょっと誰にもできそうにありません。それこそ、カール・セーガンさんじゃないけれど、そうした危機を切りぬけた他の銀河系の宇宙人にでも聞いてみないと分るもんじゃないようです。
学者からオバチャンまで、みんな一家言あり、いろいろとおっしゃる。そのどれも正しいという気はします。しかし、それでどうなるもんでもない、という気もする。
♣♣♣♣♣
いまや世の中、教育教育と大変なさわぎ。新聞・テレビ、週刊誌と、アスコミあげてなんだかブームの感じさえします。まあ、それだからこそ、ぼくなんぞが、新聞に、教育論を書かされるような破目にもなったのでしょうが……。
でも考えてみれば、教育は、戦後ずっと、問題とされてきたように思うんです。日本国が、保守・革新と二大陣営に分れて対立抗争するなかで、教育は、その陣取合戦のフィールドであったのかも知れません。これは当然のことであって、次の時代を担う若者を育てるのが教育なのですから、両陣営は、自分達のイメージする人間を造ろうとして、教育で争った。教育を制するものは日本を制する、と云われたのかどうか知りませんが、とにかく、そんな風だった。そうした状況がつづくうちに、教育の荒廃が叫ばれだします。これは、政治が教育を政争の具にした当然の報いだ、という人もいました。もう十年以上も前の話です。
その頃の状況から考えれば、今の様子は、もう荒廃なんてもんではない。無いのです。教育なんて何にもない。そんな気がしてきます。
管理は教育ではないし、犬に芸を仕込むような訓練も教育とははづれる。
こういう状況になったのは、でも、教師が好んでそうした訳では決してないし、親が放任したからでもないのではないか。教師が総ざんげして良くなる問題ではないし、『父よ母よ』と呼びかけて解決する訳でもない。「人の子も叱ろう」とスローガンをかかげても、基本的には大して変らない。
誰が悪いというものではなく、こういう方向に、どうしようもなく時代が動いてきてしまったというべきなのでしょう。何かが悪いとしたら、旧い状況で出来たシステムをそのまま守っているのが悪いのかも知れません。
高校の頃、漢文で「性善説」「性悪説」を習いました。ぼくには「性善説」のほうがピンときたようで、〈孺子(ジュシ)のまさに井(セイ)に入らんとするを見れば、人みな怵惕惻隠(ジュッテキソクイン)の心あり〉なんていうのは、いまでも憶えています。(注:子供が井戸に落ちたら、誰でも驚き慌て可哀想だと思うというのが、この漢文の意で、「性善説」はここから始まる)
ところで、教師はみんな性は善なる人ばかりなんでしょうが、いまや、「性善説」を信じる教師はあたかもいないみたいです。管理と処罰がシステムとして強化されてくると、処罰の平等が問題となって、主義主張を別にして生徒を疑ってかからざるを得なくなる。夜更けの路上では、少年補導員の町内会のオジサンが、大学生をとっつかまえて、警官の職務質問みたいなことをやり、「ウソつけ、高校生やろ」などとやりだす。
教育というのは、騙されるのを承知したうえで、許容はせずに受容し、相手を信ずるというところにしか成立しないのではないかと、ぼくにはそう思えるのです。
いま、人みなイライラし、世の中の仕組みはとてつもなく複雑で、そうであるが故に、人は単純明快なものにあこがれ、また単純に反応しようとするかのようです。
やがていつの日か、学校は、今からは想像もつかない位、変るかも知れません。そして、その時、社会のシステムもやっぱり、今とはちがったものになっているでしょう。
ひところ、子供の自殺が相次いで起り、新聞誌上を賑わわしたことがありました。この頃では、あんまり多くないようで、あれはやっぱり、一時的な流行だったのかなと思う。
あの頃、自殺を防ごう、ということで、自殺防止のキャンペーンがありました。それによれば、自殺の前には、必ずサインがあるというか、前ぶれが現われる。たとえば、急に無口になるとか、死について興味をもって、それに関した本を読みだす……とか。だから、それらを素早くキャッチして、自殺を防ごう、というんです。
なんだか、けったいな気分でした。だって本人が、死にたいと本当に思っているのなら、どんなことをしてでも死ぬでしょう。問題は、なぜ生きる望みをなくしたのか、ということであるはずで、どうして止めようか、ではないように思ったんです。
その頃、中学生だった娘が、新聞を見ながら、突然、「私が自殺したらどうする」ときいたものです。
「どうするて、死んだらしまいやがな」
と、ぼくは素っとぼけて答えました。
「もし死んだら、どう思う」
と、おっかぶせて娘はきき、ぼくは、なお、
「どう思うかなあ。そんなこと考えたこともないし、まあその時にならんと分らんな。お前死にたい思とんのか。もし死のう思ってたら、止めようもないがな」
と、ぼくは、わざと素気なく答えていました。すると娘は、憤然として、あきれたように、
「それでも親か」
といったものでした。
彼女が、小学生だった頃、ぼくは、高校生の女の子二人と娘・息子の四人を連れて、信州ヘスキーに行ったことがありました。みんなで滑っているうちに、娘の姿が見当らなくなったのです。いくら周りを見回しても、どこにもいません。もしかしたら、もう滑るのがいやになっいて宿に帰ったのかも知れない。確かめるために、宿まで見に戻ろうか、と一瞬考えました。でも、よし宿に帰っていたら、それはそれで、もう安全です。小学校三年にもなっているのに、どうして勝手に帰ったのか、となじるのも変な具合だという気もしました。もし帰っていなかったら、ぼくは余計にイライラし、見つけた時にどなりつけることになるだろう。どっちにしても面白くない。
こんなことを、素早く考え、かなり心配だったけど、ほっとこうと決めたんです。ものの20分もしないうちに、ゲレンデで一人楽しそうに滑っている娘を、ぼくは見出していたのです。
去年のこと、家族で、やはりスキーにいった時、一番下の五歳の娘を、彼女はそり滑り専門でスキーができないので、ゲレンデのレストハウスに待たして、みんなで滑っていました。突然アナウンスがあり、
「タカダさん、お子達が迷子になっておられます、至急レストハウスにお戻り下さい」
いったい何事かと、ぶっとばして、レストハウスに戻ったら、娘は一人ポツンとストーブにあたっておりました。「おねえちゃんが三人、話しかけてきて、名前をきいた」というのです。
多分、一人置いとかれて、淋しくてベソでもかいていたのでしょう。それにしても、何とおせっかいな奴がいるもんだ。ぼくは頭にきて、娘に、
「お前が、ベソかいてるから間違われるんじゃ。バカモン」
と、どなりつけたのです。
♣♣
この頃では、自殺にかわって、校内暴力や家庭内暴力や非行や暴走族などが大流行のようです。
校内暴力というのは、どうやら中学の専売特許で、高校にはあんまりないみたい。ただ高校にも家庭内暴力はあるらしい。教室で、そうした話をすると、身に憶えがあるという感じの反応を示す生徒が多いのです。ぼくは、話のついでに、「親かて信用できへんぞ。晩ねていて、気がついたら首にひもが巻きついてるかも知れんぞ。そうされるような仕打ちはしてへんか」などとおどかしたりします。生徒はみんなショックで、少々考え込んでしまうようです。
それから、いわゆる非行や暴走族というのも、ごくありふれた出来ごとのようです。
それにしても〈非行〉ということばには、どうも少なからずある抵抗を感じてしまいます。〈非行少年〉は、いつかの時代の〈非国民〉に似て、中味の吟味はそっちのけの、レッテルのはりつけという気がしてしまうのです。そうすると、教師はみんな特高かな。まあ、ぼくは、そういう時代は、話でしか知らないのですが……。
「いいことはいい悪いことは悪いと云おう」などと叫ぶ教師がいる。なにをいうとるんか、という気がします。きまっとるやないか、そんなこと。問題は、いいか悪いか分らん部分なんです。明確に分る部分について、これまで知らんふりしていたとしたら、それは論外。分らん部分までをも、勝手にどっちかに決めて、それを押しつけて強要したら、それは権力的な強制でしかないのではなかろうか。そんな気がします。
ここに、〈高校生の意識調査〉というデータがあります。一九六九年の暮の朝日新聞にのったもので、平均的都立高校を対象に、回答回収総数七九二、五九問のアンケートによる調査です。それによれば、
教師に多いタイプ———表面だけとりつくろう偽善者。月給めあてだけのサラリーマン。規則ばかり押しつける役人根性。一方、生徒が教師に求めているのは信念で、うわべをとりつくろわない生の人間性といったものである、となっています。
六九年といえば、いまから十二年前、ひと昔以上も前なのですが、生徒が見た教師の姿は今もあんまり変らんのではないか、という気がします。いや、まだ、あの頃は、生徒は、それなりに真剣に教師を見つめ、批判した。そこには、まだ希望があったのかも知れません。だから彼等は、教師にある信頼をもって学園紛争を起こしたのかも知れない。ぼくにはそう思えます。ところがいまや、もうそんなもんではない。
教師は教師。うまい具合に立回り、睨まれんように……。腹立ててもしやあない。むかつくだけ、勉強の防げになるし……。それにしても、つっぱってるワルの連中は、アホや。あれはなんにも得にならんのに。けど、気持はよう分る。
教師と生徒の距離はもう宇宙的にひらいてしまったのかも知れません。
♣♣♣
教室で、四十数人の生徒を前にして、ぼくは教壇に立っています。小さな空間に、それらはぎっしりと詰め込まれた感じで、四十数個の顔が、二次元的に拡がっており、みんな無表情で、なんだか仮面の配列の様です。
その時、教師の顔も、ただ無意味に、パクパクと口を開け閉めする奇妙な仮面——生徒の眼には、きっとそう映っているのでしょう。
一つの教室空間に配列された生徒には、共通点といえば、もしかしたら、生活年齢が同じである、という一つことしかない。そういえるかも知れません。みんながみんな親がちがう。家もちがう。家の職業もちがう。育ちがちがう。家の喰い物の好みもちがう。
一つ一つの顔の後には、それらを生みだした一組の男女があり、その後にはまたその男女を生みだした二組のしわくちゃの男女がいて、その後にはまた……。そして、それらはみんなみんな、異なった顔で、異なった生い立ちと生活史をもっていて……。
そうした妄想みたいなものが一瞬、ぼくの頭に拡がると、教室はモザイクみたいに顔でうずまってしまい、ぼくはただ呆然と立ちすくんでしまいます。時として、そういうことがあるのです。
考えてみるまでもなく、生徒一人ひとりはみんなちがう。ことさらにいうまでもなく、そんなことは誰でも分っているはずです。ただ学校というととろは、そんな認識やたて前とは無関係に、生徒という名の画一化されたものを対象に組立てられたシステムであるかのようです。
生徒の画一化が問題だとなげきながら、教師達は、その問題を解決するために、自からの集団を画一化しようとしたりする。なんともけったいな話です。
もともと、日本の大衆教育制度は、富国強兵を目標に、軍隊の部品としての兵卒を作るために組立てられた。敗戦後の民主主義教育で、戦前の教育理念は完全に否定はされたものの、富国強兵にとってかわった高度成長のかけ声のもと、学校は産業兵士の生産工場であったのではないだろうか。
そのなかで、教師は、個性の尊重という空念仏を唱えながら、生徒ともども、ただひたすら、画一化してきたといえなくもない。
♣♣♣♣
どこの国でも、どの時代であっても、もともと若者は不安定で激しやすく暴力的なものだと思うのです。
ぼく自身だって、少々身に憶えもあります。ただ昔は、いまみたいに、すぐ新聞種になったり、警察が入ってきたり、というようなことはなかったのですが……。
だから、「あれは、いつかの学園紛争が、もっと若い層に移行したようなもんだ」という見解も一理あるという気もします。また、若者は暴力的なもので、そうした時期を通過して大人になるのだから、[まあ、いってみればはしかみたいなもんだ。伝染性もあるし……」などといわれると、なるほど、とも思います。
たしかに、いまの世の中、若者には極めて住みずらい状況になっているようです。目本はいまや大国、大人の、いや老年の国で、暴力に対する許容度が全くない。もしかりに、いまの時代に信長がいたとしたら、大犯罪人になっていたでしょうし、勤王の志士たちはみんな少年院送り、なんてことになったかも知れません。
だいたいいまの世の中、若者だけに限らず、みんな住みずらく息苦しいのかも知れません。まあ、すこし前は、その息苦しさの原因を見極めたら、それをどうにかできそうな気がした。ところがいまや、だいたいあんまりよく見極めがつかないし、なんやらよく分らない。分ったところでどうにもならんという気がしてしまう。ええいとばかり、いちばん手近なところに衝動的につき当り発散するという世の中みたい。
とすれば、校内暴力も、社会状況の反映ということになるのかしらん。
いまぼくの高校も平穏の限りだけれど、ひと昔前には、けっこう校内暴力みたいなこともありました。あんまりなぐられそうにもなかったけれど、オヤジや上級生に、散々なぐられたり、けんかしたりした経験のあるぼくは、なぐられたかて死なへんし、と思っていました。生徒だって、セクトの内ゲバじゃあるまいし、殺す気など全くないはずです。
先頃の新聞で、英国の教員組合が、生徒による傷害に備えて、全員保険に加入したということを知って、さすがだなあ、と変なところで感心してしまいました。
これからも分るように、校内暴力というようなものは、日本だけに限らず、先進国といわれる国に共通ですし、非行は中国でも問題になっている。
社会のひずみは、いちばん純な弱い部分に病理的に表われるのかも知れません。そうだとしても、この病める文明諸国を一気に治療するなんてことは、ちょっと誰にもできそうにありません。それこそ、カール・セーガンさんじゃないけれど、そうした危機を切りぬけた他の銀河系の宇宙人にでも聞いてみないと分るもんじゃないようです。
学者からオバチャンまで、みんな一家言あり、いろいろとおっしゃる。そのどれも正しいという気はします。しかし、それでどうなるもんでもない、という気もする。
♣♣♣♣♣
いまや世の中、教育教育と大変なさわぎ。新聞・テレビ、週刊誌と、アスコミあげてなんだかブームの感じさえします。まあ、それだからこそ、ぼくなんぞが、新聞に、教育論を書かされるような破目にもなったのでしょうが……。
でも考えてみれば、教育は、戦後ずっと、問題とされてきたように思うんです。日本国が、保守・革新と二大陣営に分れて対立抗争するなかで、教育は、その陣取合戦のフィールドであったのかも知れません。これは当然のことであって、次の時代を担う若者を育てるのが教育なのですから、両陣営は、自分達のイメージする人間を造ろうとして、教育で争った。教育を制するものは日本を制する、と云われたのかどうか知りませんが、とにかく、そんな風だった。そうした状況がつづくうちに、教育の荒廃が叫ばれだします。これは、政治が教育を政争の具にした当然の報いだ、という人もいました。もう十年以上も前の話です。
その頃の状況から考えれば、今の様子は、もう荒廃なんてもんではない。無いのです。教育なんて何にもない。そんな気がしてきます。
管理は教育ではないし、犬に芸を仕込むような訓練も教育とははづれる。
こういう状況になったのは、でも、教師が好んでそうした訳では決してないし、親が放任したからでもないのではないか。教師が総ざんげして良くなる問題ではないし、『父よ母よ』と呼びかけて解決する訳でもない。「人の子も叱ろう」とスローガンをかかげても、基本的には大して変らない。
誰が悪いというものではなく、こういう方向に、どうしようもなく時代が動いてきてしまったというべきなのでしょう。何かが悪いとしたら、旧い状況で出来たシステムをそのまま守っているのが悪いのかも知れません。
高校の頃、漢文で「性善説」「性悪説」を習いました。ぼくには「性善説」のほうがピンときたようで、〈孺子(ジュシ)のまさに井(セイ)に入らんとするを見れば、人みな怵惕惻隠(ジュッテキソクイン)の心あり〉なんていうのは、いまでも憶えています。(注:子供が井戸に落ちたら、誰でも驚き慌て可哀想だと思うというのが、この漢文の意で、「性善説」はここから始まる)
ところで、教師はみんな性は善なる人ばかりなんでしょうが、いまや、「性善説」を信じる教師はあたかもいないみたいです。管理と処罰がシステムとして強化されてくると、処罰の平等が問題となって、主義主張を別にして生徒を疑ってかからざるを得なくなる。夜更けの路上では、少年補導員の町内会のオジサンが、大学生をとっつかまえて、警官の職務質問みたいなことをやり、「ウソつけ、高校生やろ」などとやりだす。
教育というのは、騙されるのを承知したうえで、許容はせずに受容し、相手を信ずるというところにしか成立しないのではないかと、ぼくにはそう思えるのです。
いま、人みなイライラし、世の中の仕組みはとてつもなく複雑で、そうであるが故に、人は単純明快なものにあこがれ、また単純に反応しようとするかのようです。
やがていつの日か、学校は、今からは想像もつかない位、変るかも知れません。そして、その時、社会のシステムもやっぱり、今とはちがったものになっているでしょう。
22.ほんとの教育者てあるんか
♣
学生の時、春の穂高に登っての帰り路、松本駅にたどり着き、京都までの切符を買うと十円しか残りませんでした。夜行は出たあとで、ここのベンチでの夜明かしを決め、その十円でアンパンをひとつ買いました。両の手で、包み込むような気持で、それを喰べようとした時です。一人の男が、ジッとこっちを見ているのに気付いたのです。どうみても、それはルンペンでした。
ちょっとかじったのですが、その男はまだぼくのアンパンを見つめていました。なんだか申し訳ないような気分になって、ぼくは、パンを半分割って、彼に与えたのです。
これがきっかけで、彼はぼくに色んな話をしました。驚いたことに、彼は国立、いわゆる帝大出なのでした。哲学科だそうで、カントやヘーゲルなどがポンポンとびだしました。その人生哲学や世相批判は、社会の枠外からの視点にたってのものであるためか、なかなか面白かった。
当時の山登りの服装というのは、今に較べれば、なんともくすんだもので、帰りともなれば、服はボロボロ、髭ボウボウで、ちょっと見にはルンペンさながらでした。おまけに、帰りの金など無いことがままあり、なじみの旅館のオバチャンに借りたり、駅前の派出所に頼みこんだり、どっちかといえば乞食みたいなもんでした。
その所為か、よくルンペンに話しかけられることがあったのです。あの時、御在所岳で岩登りをしての帰りもそうでした。ぼく達は名古屋駅まで帰り着き、テレビ塔の下で寝るべく、歩いていったのです。そしたら、一人のルンペンが、「駅の方がいい、一諸にゆこう」と誘うので、また駅まで引返した訳です。
この男も、なかなか面白かった。彼は、朝鮮人で、戦時中、北海道の炭坑で強制労働に従事させられていた。真冬に、そこを脱走した時の九死に一生の恐しい体験を克明に語りました。彼はこういいました。
「人間鍛錬すれば、何でも出来る。オレはいまどんなに寒い真冬でも、新聞紙一枚で、アスファルトにごろ寝できるよ」
ぼくは、ただ感心していました。
こうした経験は、ぼくに、人は外見だけでは判断できないもんだ、ということを教えたようでした。
二回目のカラコルムに行った時、スワット・ヒマラヤの山中で、羊と共に暮らす山人達からも、多くの事を学びました。なによりも、物質的に全く恵まれない彼らの、その卑屈さの全くない誇り高さに、腹立たしさを覚えながらも感服し、やがて、感化を受けたのです。
——学校よりも、あらゆるタイプの人間のそろっている実社会こそが真の意味での
もっとも有効な教育の場所といえよう。実社会での結合・敵対等の一切の人間関係を
通じて、万人は万人に対する教育者としての役割を知らないうちにはたしているので
ある(家永三郎)——
♣♣
数年前、シンナーの悪習から抜けられず、とうとう病院に入れられた生徒がいました。彼が退院してきて、ぼくの授業に出てきた日、出欠をとって初めて彼がいるのに気付き、 「オッ、出てきたんか。それでどんな具合やった」
と、声をかけたのです。
「学校とおんなじことですよ。テレビが見れるだけいいくらいや。それにしても、今の学校も教師もひどすぎる」
と、勢い込んで、彼は不平を鳴らしつづけました。彼はぼくとの問答の中で、学校や教師はどうあってほしいかという例として、何度も何べんも、テレビの「学園もの」を引きあいに出しました。クラスの全員は、シンとして、彼とぼくとのやりとりを聞いていたのです。
「そらお前、テレビの見すぎやで。あんなもん、お話にすぎんのじゃ」
と、ぼくは断言しました。でも、その時、彼は期待が大きすぎるのだ。学校や教師に多くを望みすぎるのだ。そんな気がしたのです。そして、もしかしたら、彼はそうした現実と自分の幻想とのギャップにもだえ、シンナーを吸うことによって、空想の世界に遊ぶのではなかろうか。そんなことを考えたのでした。
ぼく自身、自分の学校生活をふり返ってみて、彼のような発想は、全くなかった。ぼくにとって、教師とは、のっけから、多分に偽善的であらねばならぬ職業についている人に過ぎなかった。
だから、人事院総裁だった佐藤達夫氏の次のような言葉などは、とても、まともに受取れない。なんだかあっ気にとられる。
——教育基本法の第一条は、教育の目的として、「教育は人格の完成をめざし……
自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わねばならない」と定め
ている。私が学校に通ったころは、むろんこのような法律のできるずっと前のことだ
ったけれども、小・中学校時代に私の教わった先生たちは、どの一人を思いだしてみ
ても、まさに、この理想にそった教育をしてくれたといっていい。これはほんとうに
幸いだったと思っている——
ほんまかいなあと思う。ほんとにそう信じ込める人がいたらそれこそ幸せだなあという気がします。これに較べれば、ゴールドブレンドのコマーシャルの、指揮者・岩城宏之などは、まことに心安まることをいっている。
——ぼくはいろんな人が[わが尊敬する師」などと生涯かけて尊敬し、お慕いなさ
れているのを読んだりしても、どうもピンと来ないのだ。そういう偉大な真の教育者
にめぐりあった運のよい人をうらやましいとは思う。でも百パーセント尊敬され得る
人、および百パーセント人をあがめる人の両方を、ぼくは信じない。(中略)少年時
代にぼくにおとな不信の精神を植えつけてくれた教育者でもあったおとなたちに、感
謝しないでもない——
どうやら、〈良い教師はない。よい生徒があるばかりだ(山根銀二)〉ということになるらしい。
♣♣♣
ぼくはよく人から、「ほんとに学校の先生なんですか」とか、「とても先生には見えません」などといわれます。まことにケッタイな話なのですが、そういわれると、なんだかホッとしたりする。
ところが、まれに「やはりタカダさんは先生なんてすねえ。安心しました」などと、その真意をつかみかねるようなことを云われることがある。なんだか、ガックリきて、ドッと疲れるような感じなのです。
ずっと昔、まだ車が少々珍しかった頃、ぼくは、新車の定期整備に工場に行きました。一人の中年のオッサンが、親しげに話しかけて来たのです。彼も整備に来たらしい。
「どうでっか。車の調子は。ああ、そうですか。私のも調子は上々でっせ。これ買うてよかった思うてます」
彼は矢つぎ早に話し、ぼくは適当に合槌を打っていました。そのうちに彼は、
「お商売は、なにやったはりますねん」
それ来た、とぼくは思いました。ぼくの一番いやな質問です。ところが、人は直ぐにこの問いを発する。ぼくは、やや言い澱んで、
「教師です」
とたんに、そのオッサンの顔が引きつった。「はあ、そうですか」とかなんとか、モゾモゾいいながら、すうっと、向こうに行ってしまったのです。
その時、ぼくは、そのオッサンの、学校生活での暗い過去を見たような気がしたのです。彼は、おそらく「いい生徒」ではなかったでしょうし、成績がよかったはずはありません。もしかしたら、教師にいじめ抜かれたのかも知れない。そうでもなければ、あの、彼の顔面をよぎった一瞬の、怖れと嫌悪の入り混った表情の説明がつかない。そんな気がしたのです。なんだか後めたいような、いやな気分でした。
劇作家の唐十郎はこう書く。
ーー教育者として私の前に現われた人の顔は、いつも血の気が薄く見えたもんだ。
まるで昼間に現われた吸血鬼のような。それは、場を間違えて少年たちの前をうろつ
く、知性の仮面をかぶった肉体の敗残者だった。(中略)教育者が現われるところは、
教室かブックの上であり、教える側と教わる側という位置は絶対に転換しないために、
それは、暴力的な設定でさえある。バカがゴマンと教育されるのも、その位置の不動
の約束に原因があるのだろう。だから私は、教室の住人である教育者を信奉しなかっ
たことを幸福に思う——
またグラフィックデザイナーの横尾忠則はこう書きます。
——私は「教育」という言葉を間くだけで鳥ハダが立つくらい、この言葉がきらい
だ。何故かこの言葉の裏には、強制的に人間を支配しようとする政治的なサディステ
ィックな力が隠されているようで、近よるのがおそろしい感じがする。人間が人間
を、「教育」という言葉を借りて所有しようとする非人間的な行為が、どうも好きに
なれない——
♣♣♣♣
大学の専攻生の頃、NHKの「歌のおばさん」をふとんの中できいてから出掛けるのが常でした。それで、昼前に校門に向かって歩いてゆくと、よくK教授と一緒になりました。門を入って校舎のビルの手前まで来ると、彼は、
「タカダ、ちょっと先に行って、向うにコンキンさんがいないか見てくれ」
コンキンさんというのは学長のことで、K教授の厳格な恩師なのです。
角を曲った所で、ぼくが振返って、OKサインをすると、彼はスタスタと追付いてきて、「なあ君、世の中はこういう風にやるんや」と云ったものでした。
ぼくの専攻講座のノダマン先生は、毎日、夜遅くまで実験に没頭しながら、いつも、
「ワシは職人や」といっていた。
高校の時、京大を出たばかりの英語教師のナカニシさんは、授業中誰かにリーダーを読ましておいて、ぼくのそばに来ると、小声で、
「タカダ、今晩飲もか」
と、誘うのが常でした。
こうした先生方は、特に何かをぼくに教えようとしたことはなかったみたいです。どっちかというと、ぼくが勝手に学んだ、というか盗んだのだろう。ただし、彼等が何かを身をもって示してくれていたから盗めたのかも知れないという気はします。
ところで、ぼくはいま教師という仕事をやってゼニをもらっているのだけれど、「理想の教師像」は、などとたずねられると、ハタと困ってしまいます。万人が万人の教師だという立場からすれば、それは「理想的人間像」みたいなことになって、もっと困る。はっきりしていることは、教師は必ずしも、教育者ではないということ位です。
——ほんとうの教育者というのがもしあるとしたら、それは円満具足、完璧な″理想像″的存在ではなく、どちらかといえば圭角のある、つまりデコボコな、どこやらに不可解なところを持った、だから教育される側からすれば抵抗を感じ、従って抵抗せざるを得ないところの、しかし抵抗しているうちにいつの間にか、こちらの自発性が引き出されて来ているという、そうした存在であるのだろうと私には考えられる。そのことをいい換えれば、一人の完全無欠な先生のイメージは私の記憶の中に浮かんでこない代りに、あの変な先生、この変な先生という記憶、そういう変な先生がたの記憶の総合、あるいはそこにあった共通項というものをもとに、私にとっての″ほんとうの教育者″のイメージは形づくられる——
この、劇作家・木下順二の見解は、まあ、なんだかもっともフィットするような気がしています。
学生の時、春の穂高に登っての帰り路、松本駅にたどり着き、京都までの切符を買うと十円しか残りませんでした。夜行は出たあとで、ここのベンチでの夜明かしを決め、その十円でアンパンをひとつ買いました。両の手で、包み込むような気持で、それを喰べようとした時です。一人の男が、ジッとこっちを見ているのに気付いたのです。どうみても、それはルンペンでした。
ちょっとかじったのですが、その男はまだぼくのアンパンを見つめていました。なんだか申し訳ないような気分になって、ぼくは、パンを半分割って、彼に与えたのです。
これがきっかけで、彼はぼくに色んな話をしました。驚いたことに、彼は国立、いわゆる帝大出なのでした。哲学科だそうで、カントやヘーゲルなどがポンポンとびだしました。その人生哲学や世相批判は、社会の枠外からの視点にたってのものであるためか、なかなか面白かった。
当時の山登りの服装というのは、今に較べれば、なんともくすんだもので、帰りともなれば、服はボロボロ、髭ボウボウで、ちょっと見にはルンペンさながらでした。おまけに、帰りの金など無いことがままあり、なじみの旅館のオバチャンに借りたり、駅前の派出所に頼みこんだり、どっちかといえば乞食みたいなもんでした。
その所為か、よくルンペンに話しかけられることがあったのです。あの時、御在所岳で岩登りをしての帰りもそうでした。ぼく達は名古屋駅まで帰り着き、テレビ塔の下で寝るべく、歩いていったのです。そしたら、一人のルンペンが、「駅の方がいい、一諸にゆこう」と誘うので、また駅まで引返した訳です。
この男も、なかなか面白かった。彼は、朝鮮人で、戦時中、北海道の炭坑で強制労働に従事させられていた。真冬に、そこを脱走した時の九死に一生の恐しい体験を克明に語りました。彼はこういいました。
「人間鍛錬すれば、何でも出来る。オレはいまどんなに寒い真冬でも、新聞紙一枚で、アスファルトにごろ寝できるよ」
ぼくは、ただ感心していました。
こうした経験は、ぼくに、人は外見だけでは判断できないもんだ、ということを教えたようでした。
二回目のカラコルムに行った時、スワット・ヒマラヤの山中で、羊と共に暮らす山人達からも、多くの事を学びました。なによりも、物質的に全く恵まれない彼らの、その卑屈さの全くない誇り高さに、腹立たしさを覚えながらも感服し、やがて、感化を受けたのです。
——学校よりも、あらゆるタイプの人間のそろっている実社会こそが真の意味での
もっとも有効な教育の場所といえよう。実社会での結合・敵対等の一切の人間関係を
通じて、万人は万人に対する教育者としての役割を知らないうちにはたしているので
ある(家永三郎)——
♣♣
数年前、シンナーの悪習から抜けられず、とうとう病院に入れられた生徒がいました。彼が退院してきて、ぼくの授業に出てきた日、出欠をとって初めて彼がいるのに気付き、 「オッ、出てきたんか。それでどんな具合やった」
と、声をかけたのです。
「学校とおんなじことですよ。テレビが見れるだけいいくらいや。それにしても、今の学校も教師もひどすぎる」
と、勢い込んで、彼は不平を鳴らしつづけました。彼はぼくとの問答の中で、学校や教師はどうあってほしいかという例として、何度も何べんも、テレビの「学園もの」を引きあいに出しました。クラスの全員は、シンとして、彼とぼくとのやりとりを聞いていたのです。
「そらお前、テレビの見すぎやで。あんなもん、お話にすぎんのじゃ」
と、ぼくは断言しました。でも、その時、彼は期待が大きすぎるのだ。学校や教師に多くを望みすぎるのだ。そんな気がしたのです。そして、もしかしたら、彼はそうした現実と自分の幻想とのギャップにもだえ、シンナーを吸うことによって、空想の世界に遊ぶのではなかろうか。そんなことを考えたのでした。
ぼく自身、自分の学校生活をふり返ってみて、彼のような発想は、全くなかった。ぼくにとって、教師とは、のっけから、多分に偽善的であらねばならぬ職業についている人に過ぎなかった。
だから、人事院総裁だった佐藤達夫氏の次のような言葉などは、とても、まともに受取れない。なんだかあっ気にとられる。
——教育基本法の第一条は、教育の目的として、「教育は人格の完成をめざし……
自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わねばならない」と定め
ている。私が学校に通ったころは、むろんこのような法律のできるずっと前のことだ
ったけれども、小・中学校時代に私の教わった先生たちは、どの一人を思いだしてみ
ても、まさに、この理想にそった教育をしてくれたといっていい。これはほんとうに
幸いだったと思っている——
ほんまかいなあと思う。ほんとにそう信じ込める人がいたらそれこそ幸せだなあという気がします。これに較べれば、ゴールドブレンドのコマーシャルの、指揮者・岩城宏之などは、まことに心安まることをいっている。
——ぼくはいろんな人が[わが尊敬する師」などと生涯かけて尊敬し、お慕いなさ
れているのを読んだりしても、どうもピンと来ないのだ。そういう偉大な真の教育者
にめぐりあった運のよい人をうらやましいとは思う。でも百パーセント尊敬され得る
人、および百パーセント人をあがめる人の両方を、ぼくは信じない。(中略)少年時
代にぼくにおとな不信の精神を植えつけてくれた教育者でもあったおとなたちに、感
謝しないでもない——
どうやら、〈良い教師はない。よい生徒があるばかりだ(山根銀二)〉ということになるらしい。
♣♣♣
ぼくはよく人から、「ほんとに学校の先生なんですか」とか、「とても先生には見えません」などといわれます。まことにケッタイな話なのですが、そういわれると、なんだかホッとしたりする。
ところが、まれに「やはりタカダさんは先生なんてすねえ。安心しました」などと、その真意をつかみかねるようなことを云われることがある。なんだか、ガックリきて、ドッと疲れるような感じなのです。
ずっと昔、まだ車が少々珍しかった頃、ぼくは、新車の定期整備に工場に行きました。一人の中年のオッサンが、親しげに話しかけて来たのです。彼も整備に来たらしい。
「どうでっか。車の調子は。ああ、そうですか。私のも調子は上々でっせ。これ買うてよかった思うてます」
彼は矢つぎ早に話し、ぼくは適当に合槌を打っていました。そのうちに彼は、
「お商売は、なにやったはりますねん」
それ来た、とぼくは思いました。ぼくの一番いやな質問です。ところが、人は直ぐにこの問いを発する。ぼくは、やや言い澱んで、
「教師です」
とたんに、そのオッサンの顔が引きつった。「はあ、そうですか」とかなんとか、モゾモゾいいながら、すうっと、向こうに行ってしまったのです。
その時、ぼくは、そのオッサンの、学校生活での暗い過去を見たような気がしたのです。彼は、おそらく「いい生徒」ではなかったでしょうし、成績がよかったはずはありません。もしかしたら、教師にいじめ抜かれたのかも知れない。そうでもなければ、あの、彼の顔面をよぎった一瞬の、怖れと嫌悪の入り混った表情の説明がつかない。そんな気がしたのです。なんだか後めたいような、いやな気分でした。
劇作家の唐十郎はこう書く。
ーー教育者として私の前に現われた人の顔は、いつも血の気が薄く見えたもんだ。
まるで昼間に現われた吸血鬼のような。それは、場を間違えて少年たちの前をうろつ
く、知性の仮面をかぶった肉体の敗残者だった。(中略)教育者が現われるところは、
教室かブックの上であり、教える側と教わる側という位置は絶対に転換しないために、
それは、暴力的な設定でさえある。バカがゴマンと教育されるのも、その位置の不動
の約束に原因があるのだろう。だから私は、教室の住人である教育者を信奉しなかっ
たことを幸福に思う——
またグラフィックデザイナーの横尾忠則はこう書きます。
——私は「教育」という言葉を間くだけで鳥ハダが立つくらい、この言葉がきらい
だ。何故かこの言葉の裏には、強制的に人間を支配しようとする政治的なサディステ
ィックな力が隠されているようで、近よるのがおそろしい感じがする。人間が人間
を、「教育」という言葉を借りて所有しようとする非人間的な行為が、どうも好きに
なれない——
♣♣♣♣
大学の専攻生の頃、NHKの「歌のおばさん」をふとんの中できいてから出掛けるのが常でした。それで、昼前に校門に向かって歩いてゆくと、よくK教授と一緒になりました。門を入って校舎のビルの手前まで来ると、彼は、
「タカダ、ちょっと先に行って、向うにコンキンさんがいないか見てくれ」
コンキンさんというのは学長のことで、K教授の厳格な恩師なのです。
角を曲った所で、ぼくが振返って、OKサインをすると、彼はスタスタと追付いてきて、「なあ君、世の中はこういう風にやるんや」と云ったものでした。
ぼくの専攻講座のノダマン先生は、毎日、夜遅くまで実験に没頭しながら、いつも、
「ワシは職人や」といっていた。
高校の時、京大を出たばかりの英語教師のナカニシさんは、授業中誰かにリーダーを読ましておいて、ぼくのそばに来ると、小声で、
「タカダ、今晩飲もか」
と、誘うのが常でした。
こうした先生方は、特に何かをぼくに教えようとしたことはなかったみたいです。どっちかというと、ぼくが勝手に学んだ、というか盗んだのだろう。ただし、彼等が何かを身をもって示してくれていたから盗めたのかも知れないという気はします。
ところで、ぼくはいま教師という仕事をやってゼニをもらっているのだけれど、「理想の教師像」は、などとたずねられると、ハタと困ってしまいます。万人が万人の教師だという立場からすれば、それは「理想的人間像」みたいなことになって、もっと困る。はっきりしていることは、教師は必ずしも、教育者ではないということ位です。
——ほんとうの教育者というのがもしあるとしたら、それは円満具足、完璧な″理想像″的存在ではなく、どちらかといえば圭角のある、つまりデコボコな、どこやらに不可解なところを持った、だから教育される側からすれば抵抗を感じ、従って抵抗せざるを得ないところの、しかし抵抗しているうちにいつの間にか、こちらの自発性が引き出されて来ているという、そうした存在であるのだろうと私には考えられる。そのことをいい換えれば、一人の完全無欠な先生のイメージは私の記憶の中に浮かんでこない代りに、あの変な先生、この変な先生という記憶、そういう変な先生がたの記憶の総合、あるいはそこにあった共通項というものをもとに、私にとっての″ほんとうの教育者″のイメージは形づくられる——
この、劇作家・木下順二の見解は、まあ、なんだかもっともフィットするような気がしています。
21.「四ない運動」は思考の暴走かも
♣
もう十年近くも前、初めてバイクに乗り始めた頃、ぼくは面白いことに気付きました。その当時はまだ、自動販売機などまずなかった。それでバイクでタバコ屋に乗りつけ、タバコを買おうとする。すると、タバコ屋のオバチャンが、まず例外はないといっていいくらい、なんともぞんざいなロのきき方をするんです。
初めの頃は、なぜそうなのか分らず面喰らう仕末で、腹を立てていたのですが、そのうちに、原因がバイクにあるらしいことが分りました。いかにもうさん臭げな対応をされると、ぼくも少しひがんで、この人は、バイクに乗る人間に対してなんか差別意識のような偏見をもってるのではなかろうか、などと考えたものです。
あるいは、もしかして、ぼくが、えらく若僧に見られたのかも知れません。オートバイには、まさかスーツで乗る訳にもゆきませんから、それなりの服装になるし、ヘルメットなどかぶっていると、年など判別できなくなるようなのです。それにしても、年が若いからぞんざいな応待をするというのも、やっぱりあんまり程度のいい話ではありません。程度悪いオバはんや、ぼくはひそかにそう思ってうっぷん晴しをしていたものです。
考えてみれば、こうした嫌悪感を表に出した拒否反応みたいな眼差しは、もっと以前にも、たしか経験した記憶がありました。それは、まだ学生の頃、山登りにゆく途中、汽車の中などで、出会ったものでした。その頃、山の大量遭難が新聞の社会面をにぎわわし、山登りは反社会的なものとして糾弾されており、最低のスポーツなどとこきおろされていたのです。群馬県や富山県などでは、冬期の登山禁止条例まで制定する騒ぎでした。まあいってみれば、いまの暴走族みたいに捉えられていたのかも知れません。
でも、当方のぼくたちとしては、若気の至りか浅はかさか、なにいうとんねん、お前ら素人に何が分るか、てなもんでした。むしろ、そうした社会的な圧迫があり、白眼視されることで、より一層結束し、もっと山にのめり込むみたいな心情が生れていました。
この頃では、えらく状況が変ってきたようで、山の遭難があっても、昔ほど騒がれないようです。山登りでは死ぬこともある、と遭難死が当り前みたいになって、みんな慣れてきたのでしょうか。
そして、この頃では、バイクでタバコ屋へ行っても、昔みたいな応待をされることは、ほとんどない。それほど、バイクが普通のものになってきて、オバチャンの偏見がなくなってきたのか。ミニバイクが大はやりで、家庭の主婦が、道路を暴走し初めたからなのか。ほんとの話、オバチャンの中には、暴走族みたいに蛇行走行はしないにしても、飛び出し等の信号無視に等しいような全く常識を逸した暴走みたいなことをやる人も多いのです。
♣♣
時代も時代だったのですが、ぼくが、自動車に興味をもったのは、大学を卒業して少したってからのことでした。それまでは、全くといっていいくらい関心がなかったようです。今の若者からすれば、えらいおくてということになる。
母親が四輪免許の教習に通い始め、クランクコースがどうの、幅寄せが難しいだの話しても、「ふうん」「へえ」てなものでした。ところが、ブルーバードがガレージに入った時から、急に様子が変ったようでした。
夜中、少々の興味を覚え、ドアを開け運転席に座ってみました。プンと独特のぼくがまだ知らない不思議な匂いが鼻をつき、計器類が青白く浮かんでいます。衝動的に、ぼくは、動かしてみたくなりました。オフクロは、駄目だめと、キーを渡してくれませんでした。
翌日、勤めからの帰り、ぼくは教習所にゆき、一時間の教習を申し込みました。云われた通り、ギヤを入れ、そっとクラッチをつなぐと、ずんぐりと大きい車体がスルスルと動きだしたのです。ぼくはただもう夢中で、ドキドキし、ウキウキしながら、何回も何回も周回コースを回り、ちょうど、遊園地で電気自動車に乗った子供みたいな気分でした。そして、ようし免許を取るぞ、と心に決めたのです。
その頃は新車を買うと、販売店のサービスで、教習チケットがついていました。つまり、このチケットがあれば、ある指定された教習所にゆくと、府の試験場で合格するまで、無料で練習ができるのです。
ぼくは、母親から、このチケットをもらうと、デルタ自動車教習所へ出掛けた訳です。
ぼくの担当になった教官は、「あんたを教えても、ワシー銭にもならんのや。このチケットでは……」といい、「動かせるんやったら、勝手に走り」と、何ともぶっきら捧この上なしでした。でも、ブチ当りそうになった時には、横でパッとブレーキをかけ、「殺さんといてや」などといっていました。なんでも彼の話によれば、彼は特攻隊帰りなのだそうです。そういえば、何となくニヒルな感じでした。
何回か通ううちに、ぼくはもう、かなり自在に車を操れるようになり、けっこうスイスイと走っていました。ふと気がつくと、鼾が聞こえ、見ると彼が傍で眠っているのでした。ぼくを信頼しないことには、眠れるはずがないのです。その頃すでに教師で、毎日生徒を教えていたぼくには、彼のように、自由にやらせることが、口やかましく教えることより難しいことが分りかけていたのでしょうか。その時ぼくは、一種奇妙な感動を覚えていたようです。
時には、急にむくりと起きあがり、「あの車、追いかけよや。ええ女の子がのっとる」
などと、ぼくをけしかけることもありました。
こういう次第で、ぼくは実に楽しく練習して、免許を手にしたのです。
♣♣♣
一緒に洗車している時などは、ぼくたち母子は、あたかも親しい友達か仲間のようでした。ところが、いざ、どちらが車を使うかという段になると、二人はたちまち仇敵の如くに変化するのが常でした。一応、母親の車ですから優先権は認めているものの、空いている時には使わせるという約束もありました。駄目だと云われても納得できないときがままあったのです。
車にしろ、バイクにしろ、スキーにしろ、岩攀りにしろ、そうした緊張を強いられるスポーツには、ある麻薬的魅力があるようです。ぼくはどうしても乗りたくて、どうや、これでも貸せんか、などと母親の腕をねじあげたこともあります。ちょっとした家庭内暴力だった。
勤め先に車でゆくと、フジタ先生が「その年で車に乗るのは早すぎる」とコメントしました。彼の持論によれば、車は、バイクを完全にマスターした後に乗るべきなのだそうです。彼は大のバイク好きで、毎日、京都から亀岡までバイクで通勤していました。彼がしつこく勧めるので、いやいやながら、彼のバイクのケツに乗せてもらって、京都まで帰ったこともありました。でも、いっこう、バイクに乗りたいとは思いませんでした。
桂高校に替った時、ちょうど、ここでは、生徒の四輪通学が禁止された時でした。コスゲ先生が、学校新聞に、「四輪通学禁止に思う」を書いています。
授業中にモーターバイクのメカニズムの話をした時の生徒達の生き生きした表情が極めて印象的であったこと。ダイムラー・ベンツは子供の時、与えられるすべての玩具を分解しないと納得しなかった。若い間にメカニズムに親しむことが、真の科学する心を育てる、などなどが述べてあります。お寺を巡ることが文化的であり、キカイには弱くて……などと恥づかし気もなくうそぶき、それが教養ある態度だと思っているアホな大人や教師が批判されています。
そして、この文章は、「いつか、この学校に四輪やバイクで集まり、昔は学校も禁止した時代があったなあと語り合える日が来ることを信じる」と結んでありました。
でも、コスゲ先生の予想に反し、その後、バイク通学も禁止され、さらにバイクに乗ることが禁止されました。それでも止まらないとなって、次は免許を取ることさえ禁止された訳です。
日本のあちこちで、「乗らない」「取らない」「買わせない」の〈三ない運動〉が初まります。そして、これが〈四ない運動〉になる。「同乗しない」がつけ加わった訳です。さらに〈プラス一ない運動〉(神奈川県)までゆく。プラス一は、「子供の要求に負けない」なのだそうで、そのうちに、〈十ない〉位までゆくんじゃないかな。ほんとに、世の中どうかしているという気がします。
♣♣♣♣
もう十年ほども前、ちょっとしたキッカケで、ぼくは単車に興味を持ち、W1(ダブルワン)という二〇〇kgを超えるでかい奴を買ってしまいました。それまでは、全く興味がないどころか、むしろ謙いだったのですから、自分でも不思議です。
免許に関しては、普通免許に自動二輪免許が自動的に付いていたから問題ありません。でも、運転の方は、なにしろ、生れて始めて二輪にまたがったのですから大変でした。約一ヶ月間、毎日、夜、二・三時間の、それこそ血のにじむような練習をしたものです。そうはいっても、そんなつらいものではなく、ただもう面白くて夢中になって乗っていた、といった方が当っているかも知れませんが……。それで完全に乗りこなせるようになったかというと、そうではなく、やはり、今から考えれば、二・三年かかってようやく、なんとか乗れるという程度になったのではないかと思うんです。
やはりバイクというのは、四輪に較べると、比較にならない位難しいものです。四輪はこけるということがないけれど、二輪は止ったら倒れるんですから……。それに身体を露出しているから、危険この上ない乗り物です。
しかし同時に、どうしようもなく魅力的で、すてきで、なにか人をとりこにする乗り物であることも事実です。ただどこがそんなにいいのかを問われて、納得ゆく説明をすることは、山登りの魅力を説明することより、もっと難しいような気がしています。
ごく最近、急に最新型がほしくなって、ぼくは二台目の二輪を買いました。いわゆるナナハンです。学校に乗ってゆくと、まだ発売間もなく、ほとんど走っていないこともあってか、生徒が群がって触っています。
触るといっても、レバーを握ったりアクセルを回したりといった感じのものではない。全身をすりつけるというか、脇にはさみこむというか……、その仕草は、見ていて、なんか異様な感じを受けました。
ぼくが、大学で山登りを始め、冬山に行こうとした時、母親は猛反対し、道具を買うお金をくれないどころか、山靴をどこかに隠してしまいました。ぼくは、だから、肉屋のデッチのアルバイトをして靴を買ったものです。
何年かたつと、もうオフクロもあきらめ、「誰にほめてもらう訳でもないのに、よくつらい目に会いに山にゆくねえ」などとひやかしをいったりしだしていた頃のことです。ある時、ぼくは予定より数日早く下山し、夜中に帰宅したのです。遅れることはあっても、予定より早く帰るなどということはまずなかった。それで、家に入り、よく眠っている母親を起こそうかどうしようかと、枕元に立って思案していたのです。そのとき突然、オフクロがむくりと起き上り、フトソの上にペタリと座ると、両手で顔をおおって、激しく泣き出したのです。ぼくは、びっくりして突っ立ったままでした。彼女は、てっきり、ぼくが夢枕に立ったと思ったのだそうです。この時始めて母親が息子の身の上をどれほど案じているかを、ぼくは身を刺すように理解できたのです。
しかし、それで山登りを止めようなどとは、全く考えませんでした。
♣♣♣♣♣
危険なことをやりながら成長するのが若者です。本人が承知でやろうとしていることを、危険だから止めなさいといくらいっても、それは通じない。いくら止めても、やり技こうとするのが若者です。
親のいうことをなんでもハイハイときくような奴の方がむしろ問題です。大人のいうことを素直にきく若者ばかりだったら、世の中に進歩はない。
バイクに乗らないよう子供を説得できなくて、学校に泣きつく。時には、お金を出してやっておきながら、学校で禁止してくれなどという。そういう態度に、自分は結構喜こんで読んでいるくせに、悪書追放運動に賛成する、どうしようもなく主体性のない大人の姿が重なってしまいます。
学校は学校で、そんな学校外のこと、本人の責任で、本人次第でしょうと突っぱねればいいものを、そういうことは云えない世の中、禁止を打ちだす。ところが違反者続出、手を焼いて免許を取りあげたら、生徒は、紛失したと偽りの申告をして再交付を受ける。そこで教師はサツ回りして、再交付の申請をしているかどうかを定期的に調べるなんてことになった。そしてとうとう、親と教師と警察が一つになって、〈三ない運動〉から〈四ない運動〉の大合唱とあいなった。生徒のかなり多くが、これを汚ないやり方と見ています。
こうした運動は、全くアホみたいに単純明快で、バイクは受験勉強の敵、非行の始まりと決めつけているかのようです。
「この子からバイクを取ったら何にも残りません。どうかバイクを禁止しないでやってほしい」と真剣に教師に頼む母親のいることなど、全く思案の外なのでしょう。
そこに結果されるものは、勝手な親の思い入れに反した断絶と不信感だけである。ぼくには、どうもそう思える。バイクに乗る若者の中のほんの一握りの暴走族のガキどもにふり回されて、大人の思考まで暴走を始めたとしか思えないのです。
とにかく手段を選ばず止めさせる、なんてことが教育的である訳がない。むしろ、前向きに現実をとらえ、それらを教育の素材とすべきではないだろうか。交通安全教育ととり組むことは、自動車・バイクメーカーのお先棒をかつぐことだ、などと考える教師がいたとしたら、それは全くどうしようもない時代錯誤としかいいようがありません。
いま、この夜更け、はるかな街道から、激しい排気音が聞えてきます。やりばのないエネルギーの一瞬の燃焼を賭けて、若者は生死の境界線を疾走しているのでしょう。全くアホなガキどもという気もします。しかし、同時に確信をもっていえることは、彼等は決してビルから飛びおりたり、自閉症になったりはしないし、金属バットをふりおろすこともないだろう、ということです。
もう十年近くも前、初めてバイクに乗り始めた頃、ぼくは面白いことに気付きました。その当時はまだ、自動販売機などまずなかった。それでバイクでタバコ屋に乗りつけ、タバコを買おうとする。すると、タバコ屋のオバチャンが、まず例外はないといっていいくらい、なんともぞんざいなロのきき方をするんです。
初めの頃は、なぜそうなのか分らず面喰らう仕末で、腹を立てていたのですが、そのうちに、原因がバイクにあるらしいことが分りました。いかにもうさん臭げな対応をされると、ぼくも少しひがんで、この人は、バイクに乗る人間に対してなんか差別意識のような偏見をもってるのではなかろうか、などと考えたものです。
あるいは、もしかして、ぼくが、えらく若僧に見られたのかも知れません。オートバイには、まさかスーツで乗る訳にもゆきませんから、それなりの服装になるし、ヘルメットなどかぶっていると、年など判別できなくなるようなのです。それにしても、年が若いからぞんざいな応待をするというのも、やっぱりあんまり程度のいい話ではありません。程度悪いオバはんや、ぼくはひそかにそう思ってうっぷん晴しをしていたものです。
考えてみれば、こうした嫌悪感を表に出した拒否反応みたいな眼差しは、もっと以前にも、たしか経験した記憶がありました。それは、まだ学生の頃、山登りにゆく途中、汽車の中などで、出会ったものでした。その頃、山の大量遭難が新聞の社会面をにぎわわし、山登りは反社会的なものとして糾弾されており、最低のスポーツなどとこきおろされていたのです。群馬県や富山県などでは、冬期の登山禁止条例まで制定する騒ぎでした。まあいってみれば、いまの暴走族みたいに捉えられていたのかも知れません。
でも、当方のぼくたちとしては、若気の至りか浅はかさか、なにいうとんねん、お前ら素人に何が分るか、てなもんでした。むしろ、そうした社会的な圧迫があり、白眼視されることで、より一層結束し、もっと山にのめり込むみたいな心情が生れていました。
この頃では、えらく状況が変ってきたようで、山の遭難があっても、昔ほど騒がれないようです。山登りでは死ぬこともある、と遭難死が当り前みたいになって、みんな慣れてきたのでしょうか。
そして、この頃では、バイクでタバコ屋へ行っても、昔みたいな応待をされることは、ほとんどない。それほど、バイクが普通のものになってきて、オバチャンの偏見がなくなってきたのか。ミニバイクが大はやりで、家庭の主婦が、道路を暴走し初めたからなのか。ほんとの話、オバチャンの中には、暴走族みたいに蛇行走行はしないにしても、飛び出し等の信号無視に等しいような全く常識を逸した暴走みたいなことをやる人も多いのです。
♣♣
時代も時代だったのですが、ぼくが、自動車に興味をもったのは、大学を卒業して少したってからのことでした。それまでは、全くといっていいくらい関心がなかったようです。今の若者からすれば、えらいおくてということになる。
母親が四輪免許の教習に通い始め、クランクコースがどうの、幅寄せが難しいだの話しても、「ふうん」「へえ」てなものでした。ところが、ブルーバードがガレージに入った時から、急に様子が変ったようでした。
夜中、少々の興味を覚え、ドアを開け運転席に座ってみました。プンと独特のぼくがまだ知らない不思議な匂いが鼻をつき、計器類が青白く浮かんでいます。衝動的に、ぼくは、動かしてみたくなりました。オフクロは、駄目だめと、キーを渡してくれませんでした。
翌日、勤めからの帰り、ぼくは教習所にゆき、一時間の教習を申し込みました。云われた通り、ギヤを入れ、そっとクラッチをつなぐと、ずんぐりと大きい車体がスルスルと動きだしたのです。ぼくはただもう夢中で、ドキドキし、ウキウキしながら、何回も何回も周回コースを回り、ちょうど、遊園地で電気自動車に乗った子供みたいな気分でした。そして、ようし免許を取るぞ、と心に決めたのです。
その頃は新車を買うと、販売店のサービスで、教習チケットがついていました。つまり、このチケットがあれば、ある指定された教習所にゆくと、府の試験場で合格するまで、無料で練習ができるのです。
ぼくは、母親から、このチケットをもらうと、デルタ自動車教習所へ出掛けた訳です。
ぼくの担当になった教官は、「あんたを教えても、ワシー銭にもならんのや。このチケットでは……」といい、「動かせるんやったら、勝手に走り」と、何ともぶっきら捧この上なしでした。でも、ブチ当りそうになった時には、横でパッとブレーキをかけ、「殺さんといてや」などといっていました。なんでも彼の話によれば、彼は特攻隊帰りなのだそうです。そういえば、何となくニヒルな感じでした。
何回か通ううちに、ぼくはもう、かなり自在に車を操れるようになり、けっこうスイスイと走っていました。ふと気がつくと、鼾が聞こえ、見ると彼が傍で眠っているのでした。ぼくを信頼しないことには、眠れるはずがないのです。その頃すでに教師で、毎日生徒を教えていたぼくには、彼のように、自由にやらせることが、口やかましく教えることより難しいことが分りかけていたのでしょうか。その時ぼくは、一種奇妙な感動を覚えていたようです。
時には、急にむくりと起きあがり、「あの車、追いかけよや。ええ女の子がのっとる」
などと、ぼくをけしかけることもありました。
こういう次第で、ぼくは実に楽しく練習して、免許を手にしたのです。
♣♣♣
一緒に洗車している時などは、ぼくたち母子は、あたかも親しい友達か仲間のようでした。ところが、いざ、どちらが車を使うかという段になると、二人はたちまち仇敵の如くに変化するのが常でした。一応、母親の車ですから優先権は認めているものの、空いている時には使わせるという約束もありました。駄目だと云われても納得できないときがままあったのです。
車にしろ、バイクにしろ、スキーにしろ、岩攀りにしろ、そうした緊張を強いられるスポーツには、ある麻薬的魅力があるようです。ぼくはどうしても乗りたくて、どうや、これでも貸せんか、などと母親の腕をねじあげたこともあります。ちょっとした家庭内暴力だった。
勤め先に車でゆくと、フジタ先生が「その年で車に乗るのは早すぎる」とコメントしました。彼の持論によれば、車は、バイクを完全にマスターした後に乗るべきなのだそうです。彼は大のバイク好きで、毎日、京都から亀岡までバイクで通勤していました。彼がしつこく勧めるので、いやいやながら、彼のバイクのケツに乗せてもらって、京都まで帰ったこともありました。でも、いっこう、バイクに乗りたいとは思いませんでした。
桂高校に替った時、ちょうど、ここでは、生徒の四輪通学が禁止された時でした。コスゲ先生が、学校新聞に、「四輪通学禁止に思う」を書いています。
授業中にモーターバイクのメカニズムの話をした時の生徒達の生き生きした表情が極めて印象的であったこと。ダイムラー・ベンツは子供の時、与えられるすべての玩具を分解しないと納得しなかった。若い間にメカニズムに親しむことが、真の科学する心を育てる、などなどが述べてあります。お寺を巡ることが文化的であり、キカイには弱くて……などと恥づかし気もなくうそぶき、それが教養ある態度だと思っているアホな大人や教師が批判されています。
そして、この文章は、「いつか、この学校に四輪やバイクで集まり、昔は学校も禁止した時代があったなあと語り合える日が来ることを信じる」と結んでありました。
でも、コスゲ先生の予想に反し、その後、バイク通学も禁止され、さらにバイクに乗ることが禁止されました。それでも止まらないとなって、次は免許を取ることさえ禁止された訳です。
日本のあちこちで、「乗らない」「取らない」「買わせない」の〈三ない運動〉が初まります。そして、これが〈四ない運動〉になる。「同乗しない」がつけ加わった訳です。さらに〈プラス一ない運動〉(神奈川県)までゆく。プラス一は、「子供の要求に負けない」なのだそうで、そのうちに、〈十ない〉位までゆくんじゃないかな。ほんとに、世の中どうかしているという気がします。
♣♣♣♣
もう十年ほども前、ちょっとしたキッカケで、ぼくは単車に興味を持ち、W1(ダブルワン)という二〇〇kgを超えるでかい奴を買ってしまいました。それまでは、全く興味がないどころか、むしろ謙いだったのですから、自分でも不思議です。
免許に関しては、普通免許に自動二輪免許が自動的に付いていたから問題ありません。でも、運転の方は、なにしろ、生れて始めて二輪にまたがったのですから大変でした。約一ヶ月間、毎日、夜、二・三時間の、それこそ血のにじむような練習をしたものです。そうはいっても、そんなつらいものではなく、ただもう面白くて夢中になって乗っていた、といった方が当っているかも知れませんが……。それで完全に乗りこなせるようになったかというと、そうではなく、やはり、今から考えれば、二・三年かかってようやく、なんとか乗れるという程度になったのではないかと思うんです。
やはりバイクというのは、四輪に較べると、比較にならない位難しいものです。四輪はこけるということがないけれど、二輪は止ったら倒れるんですから……。それに身体を露出しているから、危険この上ない乗り物です。
しかし同時に、どうしようもなく魅力的で、すてきで、なにか人をとりこにする乗り物であることも事実です。ただどこがそんなにいいのかを問われて、納得ゆく説明をすることは、山登りの魅力を説明することより、もっと難しいような気がしています。
ごく最近、急に最新型がほしくなって、ぼくは二台目の二輪を買いました。いわゆるナナハンです。学校に乗ってゆくと、まだ発売間もなく、ほとんど走っていないこともあってか、生徒が群がって触っています。
触るといっても、レバーを握ったりアクセルを回したりといった感じのものではない。全身をすりつけるというか、脇にはさみこむというか……、その仕草は、見ていて、なんか異様な感じを受けました。
ぼくが、大学で山登りを始め、冬山に行こうとした時、母親は猛反対し、道具を買うお金をくれないどころか、山靴をどこかに隠してしまいました。ぼくは、だから、肉屋のデッチのアルバイトをして靴を買ったものです。
何年かたつと、もうオフクロもあきらめ、「誰にほめてもらう訳でもないのに、よくつらい目に会いに山にゆくねえ」などとひやかしをいったりしだしていた頃のことです。ある時、ぼくは予定より数日早く下山し、夜中に帰宅したのです。遅れることはあっても、予定より早く帰るなどということはまずなかった。それで、家に入り、よく眠っている母親を起こそうかどうしようかと、枕元に立って思案していたのです。そのとき突然、オフクロがむくりと起き上り、フトソの上にペタリと座ると、両手で顔をおおって、激しく泣き出したのです。ぼくは、びっくりして突っ立ったままでした。彼女は、てっきり、ぼくが夢枕に立ったと思ったのだそうです。この時始めて母親が息子の身の上をどれほど案じているかを、ぼくは身を刺すように理解できたのです。
しかし、それで山登りを止めようなどとは、全く考えませんでした。
♣♣♣♣♣
危険なことをやりながら成長するのが若者です。本人が承知でやろうとしていることを、危険だから止めなさいといくらいっても、それは通じない。いくら止めても、やり技こうとするのが若者です。
親のいうことをなんでもハイハイときくような奴の方がむしろ問題です。大人のいうことを素直にきく若者ばかりだったら、世の中に進歩はない。
バイクに乗らないよう子供を説得できなくて、学校に泣きつく。時には、お金を出してやっておきながら、学校で禁止してくれなどという。そういう態度に、自分は結構喜こんで読んでいるくせに、悪書追放運動に賛成する、どうしようもなく主体性のない大人の姿が重なってしまいます。
学校は学校で、そんな学校外のこと、本人の責任で、本人次第でしょうと突っぱねればいいものを、そういうことは云えない世の中、禁止を打ちだす。ところが違反者続出、手を焼いて免許を取りあげたら、生徒は、紛失したと偽りの申告をして再交付を受ける。そこで教師はサツ回りして、再交付の申請をしているかどうかを定期的に調べるなんてことになった。そしてとうとう、親と教師と警察が一つになって、〈三ない運動〉から〈四ない運動〉の大合唱とあいなった。生徒のかなり多くが、これを汚ないやり方と見ています。
こうした運動は、全くアホみたいに単純明快で、バイクは受験勉強の敵、非行の始まりと決めつけているかのようです。
「この子からバイクを取ったら何にも残りません。どうかバイクを禁止しないでやってほしい」と真剣に教師に頼む母親のいることなど、全く思案の外なのでしょう。
そこに結果されるものは、勝手な親の思い入れに反した断絶と不信感だけである。ぼくには、どうもそう思える。バイクに乗る若者の中のほんの一握りの暴走族のガキどもにふり回されて、大人の思考まで暴走を始めたとしか思えないのです。
とにかく手段を選ばず止めさせる、なんてことが教育的である訳がない。むしろ、前向きに現実をとらえ、それらを教育の素材とすべきではないだろうか。交通安全教育ととり組むことは、自動車・バイクメーカーのお先棒をかつぐことだ、などと考える教師がいたとしたら、それは全くどうしようもない時代錯誤としかいいようがありません。
いま、この夜更け、はるかな街道から、激しい排気音が聞えてきます。やりばのないエネルギーの一瞬の燃焼を賭けて、若者は生死の境界線を疾走しているのでしょう。全くアホなガキどもという気もします。しかし、同時に確信をもっていえることは、彼等は決してビルから飛びおりたり、自閉症になったりはしないし、金属バットをふりおろすこともないだろう、ということです。
20.便りのないのが無事の便り
♣
ある秋の深い目の放課後のことでした。ぼくは、何の用事もないし、そうかといって家に帰るのも何となくじゃまくさいといった気分で、ただぼんやり椅子にだらしなく腰かけ、窓ごしに見える空を見あげていました。
その時、建てつけの悪くなった戸がゴトゴトと開き、卒業生のCちゃんが入ってきました。何とも陰欝な顔つきです。彼女は、在学中に何度か、山岳部の主催するスキー講習会には参加していましたし、一回きりぼくが顧問になった時の「社研」の部長だったりで、ぼくはかなりよく知っていました。たしか、彼女、浪人中のはずでした。「どうや、元気」というぼくの言葉を無視して、Cちゃんは、
「センセ、バイク乗せてくれへん」
と、か細い声でいいました。
ぼくは一瞬とまどい黙っていました。ちょっと真意を計りかねたのです。彼女は、ぼくが、めったに人をバイクに乗せたりはしないことを知っているはずでした。
三〇半ばを過ぎてからバイクに熱中した、あの当時、たしか、女の子をのっけて、走ったことはありました。
ぼくのイメージとしては、ぼくが乗せる女の子は髪の毛が長くないといけない。その女の子の髪の毛は、バイクの疾走と共に真直ぐに後になびかなければならない。でも、髪が長かったら誰でもいいという訳じゃありません。バイクに乗せるというのは、乗用車に乗せるというのとは、全然ちがいます。身体が何となく接触するし、胴に手を回されるのが普通です。かなり親近感がないと、くすぐったいし、気色悪いんです。
まあ、とにかく、そうした女の子が、うまい具合にいて、乗せてくれというので走りました。ショーウィンドーの前を走り過ぎながら、チラッと見たら、イメージに全く反して、髪の毛は、全然なびいていないのです。ただバサバサと乱れているだけでした。なんとも、ぼくばガッカリしたのでした。
さて、Cちゃんは、ぼくが黙っているので、じっと返事を待っている風でしたが、
「もうかなり参ってるの」
とポツリといいました。多分、受験勉強に疲れているのでしょう。
うっとしいなあ。ぼくはユーウツな感じだったのですが、なんだか、彼女の気迫に押されていました。「ワシ、髪の毛の長い奴しか乗せへんねん」などという冗談でごまかす訳にも行かぬ感じで、大分考えてから、ぼくは「よっしゃ」と答えていました。
校門から走り出ると、ぼくは、真直ぐに、西を目指しました。別にどこへというあてもありません。ただその時、秋の入日が西山に傾きつつあり、それがとてもキレイだったからです。
引返してきたとき、もう夕暮れがあたりを包み、秋の空は、物哀しい色でした。Cちゃんは、
「センセ、ありがと。スッとした」
とだけいって、自転車で帰ってゆきました。
♣♣
何年かたった一九七五年、ぼくは、カラコルムのラトックⅡ峰を攀りにゆくことになりました。この山を狙ったのは、登攀倶楽部というクライマーの集団でした。彼等は、ほとんどみんな、大学には行ってない連中で、いわゆるブルーカラーに属していました。でも、その攀り方は、大学山岳部の奴等とは比較にならない位、尖鋭的なものでした。
例えば、土曜日の午後、単身バイクに乗って穂高に向かい、ほとんど眠らず、そのまま数百米の岩壁の困難なルートを攀り、またバイクで走って日曜日の朝に帰ってくるというようなことをケロリとやってのけるといったものでした。
「五条坂クラブ」とかいう名前のバイク集団を作って、五条通りで白バイと追いかけっこをしているような奴もいました。また、四帖半の安アパートで、インスタントラーメンで飢えをしのぎながら、力仕事のアルバイトをして、金がたまると山へ出掛ける。「山ではまともなメシが食えるところが魅力です」などと冗談をいったりする彼等は、岩壁に張りつくと、見事なまでのテクニックとパワーを見せたものです。
若い頃から、どちらかといえば、恵まれた環境条件の中で、のんびりと山登りを楽しんできたともいえるぼくにとって、彼等の生きざまや山登りは驚異的に思えました。そして同時に何ともいえぬ新鮮さと魅力を感じたのも事実でした。頼まれるままに、彼等の雇われ隊長となるのを承知したのは、多分、こうした気分のせいだったと思います。
遠征準備の事務所というか、集会や物資集積や梱枹場所として、ぼくは古巣である大学山岳部の部室を使うことにしました。そこなら、昼夜を問わず自由に使えるし、寝泊りもできます。「山岳部ルーム」の隣りの部屋には数人の女子学生がいました。ぼくは、その中にCちゃんを見出したのでした。
「よお、久しぶりやな。これなに部やねん」
彼女が、志望通り大学に入って、ぼくの後輩ということになったということは聞いていました。でも、こんな所にいるとは思わなかった。この部屋は、「ジョモンケン」のボックスなのだそうです。
「それなんや」
ああそうか。女性問題研究会か。「女問研」てケッタイな名前やなあ。なんでも、いまは、どこの大学にも「女問研」があるのだそうです。そういえば、巷では榎美沙子がガンバッていました。
とにかく、もと「バロック音楽研究会」のボックスだったのを、女の力で乗っ取ったとかいう、このステレオもあるかなり快適な部屋を、ぼくは、遠征準備のための別室として使えることになったのです。
♣♣♣
Cちゃんは、このウーマンリブ・グループのリーダーでした。でも、彼女の温和で、どちらかというと内向的な性格を反映してか、この「女問研」は、他所の大学のそれとはちがい、極めて穏健だとのことでした。大してこれといった活動はせず、高群逸枝の『日本女性史』の輪読会などをやっているそうでした。「助言者として参加して下さい」などといわれ、好奇心の強いぼくは、「うん」と答えたのですが、遠征隊の準備に追われて、その機会はありませんでした。
この部屋でぼくが出会った「女問研」の面々は、やっぱり何となく、普通の女子大生とはちがうように感じました。キャアキャアワァワァいっている並の女子学生ともちがうし、あどけなさと幼稚さが売物みないな女性とは別物という感じでした。口数少なく、キリッとしていて、シャキッとした筋金入りみたいで、おまけに、それがわりかし整った顔立ちであったりしたら、ぼくは、年甲斐もなく、なんだかボーとしてしまい、ちょっとした少年のあこがれみたいな心情を覚えていたようでした。
さて、二ヶ月ほどの準備の後、ぼくは、パキスタンの高峰に向かい、失敗して帰ってきました。帰国してしばらくして、もう秋の気配の濃いある日、Cちゃんが学校に電話をかけてきました。例によって藪から棒です。
「センセ、ちょっと相談があるんですけど」
「元気か、ほんで、何ですか」
「あのう……。女問研の○○さんがドジったんです」
「はあ。何をです」
いきなりドジッたといわれても、何のことかも分らず、ぼくはポカンとして、全く要領を得ぬ返事をしていました。
「ほら、センセ、知ったはるでしょ。あの人、ステキやっていうたはった人」
ぼくには、まだはっきりしません。彼女にそんなこというたかな、と考えていました。
「あのう、ボーイフレンドと、それで失敗して……」
「ふうん」とだけ答えて、ぼくは絶句していました。別にうろたえもしなかったけれど、なんだか、事務室のみんなが、きき耳をたてているような気がしました。
「なるほど。分った。夜、家に電話してくれませんか」
さり気なくそういって、ぼくは電話を切ったのです。
やっぱり、ぼくは少しびっくりしていました。考えてみれば、そういうこともあって当然という話なのですが、なんだか、起こり得べからざることが起こったという気がしたのです。
並の女子大生ならいざ知らず、「女問研」の、あの女の子が……。全く信じられんという気分で、ぼくは化学準備室への廊下を歩いていました。と同時、何ともややこしい話を持ち込んできたCちゃんに、あるうとましさを感じていました。
♣♣♣♣
夜かかってきた電話で話を詳しく聞いているうちに、ぼくはムカムカ腹が立ってきました。当の本人はただオロオロとうろたえているだけだそうです。おまけに、なんだか、相手の男だけが悪いみたいないい方をしているようです。
「わたしらも、なんかほっとく訳にもゆかんという気がして……」
ぼくは、とうとう頭にきてしまい、
「アホか、自分の身体のことも自分でめんどうみれんと、なにが女性の権利じゃ。ええ年して、中学生みたいなこというとるな」
と怒鳴ってしまいました。しかし、考えてみれば、あの遠征のときには、色々手助けしてもらったことだし、ぼくにも少々の義理はありそうです。俺の知ったことかと、つっぱねる訳にもゆかんなあ。そんな気がしました。
ぼくは、直ぐ、遠征隊のドクターであった山岳部の後輩のタカヒコに電話したんです。
「へええ、そら困ったな。けど、それ、相手はタカダはんとちがうんかいな」
「バカモン」
ぼくはますますムカムカしました。
「そらね、あんなもん、盲腸の手術よりも簡単やということもできますよ。けど、盲腸とはやっぱりちがうんですワ」
と、タカヒコはいい、「なんとか考えたってえな」というぼくの頼みに、
「困ったなあ、そらぼくとこの病院へ来てもろたら、話は簡単ですねん。けど、ワシかて、看護婦に、変に疑われるのイヤですしねえ」
と答え、ここで、ぼくたちは、一緒に笑ったのです。
とにかく「なんとかええとこを探します」といってもらい、ようやくぼくはホッとし、女房に、ちょっと話したのです。すると彼女は、
「それ、パパとちがうの、相手」
「アホか」
ぼくは滅入ってしまったのでした。
しばらくして、一件落着の連絡が入りました。「女問研」の学生ということで、誰しもピンク・ヘルを連想したらしく、場所さがしはかなり難航したようでした。ところが、あんなうっとおしい話を持込んできた当のCちゃんからは、何の連絡もありませんでした。けっこう腹がたちました。もう話なんかするか、とも思いました。でも正直いって、ぼく自身も、そんなこと早く忘れたかったのです。
一年ほどして、ひょっこり、もう忘れた頃に、Cちゃんが学校にやってきました。
あれから、なかなか大変だったようです。まずお父さんがなくなった。教師だったお父さんは、冬は元気にスキーをしていたのに、春には入院し、ガンが脳に転移したため、記憶喪失みたいになり、死の床につきそう娘に、つきそってくれてうれしいが早く帰らないとお父さんが心配するよ、などといったそうです。父親が入院するのとほとんど同時に母親も入院した。胃潰瘍の手術はすぐに済んで、元気に退院したのですが、これもホントはガンだったのだそうです。それを知っているのはCちゃんだけです。
こういうややこしい話になると、彼女は、ほとんど毎日のようにぼくの所にやってきては、ポツリポツリと話しては帰ります。聞いてしまったぼくの方は、ほんとにつかれる感じなのです。
何日目かに、彼女は、こう話しました。
「お父さんには好きな人がいたみたい。入院してから分ったん。お母さんには、生徒の母親やいうてたけど……。その女の人私のこと小さいときから知ってるみたいな態度なんよ」
その人には高校生の娘がいるそうです。Cちゃんはそれが気がかりな様子で何度もこの話をするので、ぼくはからかい半分に、
「その高校へ行って、その娘見てきたら……。あんたに、よう似てたりして」
というと、彼女は、常になくキッとして、「お父さんが好きな女性がいくらいても、それはそれやけど、私とおんなじように可愛いがってる娘が他にいると想像することは耐えられないことなん」
あれから、もう何年にもなります。その後彼女からは何の連絡もありません。便りがないのが無事の便り……。きっと元気でやっているのだろう。ぼくはそう思っています。
ある秋の深い目の放課後のことでした。ぼくは、何の用事もないし、そうかといって家に帰るのも何となくじゃまくさいといった気分で、ただぼんやり椅子にだらしなく腰かけ、窓ごしに見える空を見あげていました。
その時、建てつけの悪くなった戸がゴトゴトと開き、卒業生のCちゃんが入ってきました。何とも陰欝な顔つきです。彼女は、在学中に何度か、山岳部の主催するスキー講習会には参加していましたし、一回きりぼくが顧問になった時の「社研」の部長だったりで、ぼくはかなりよく知っていました。たしか、彼女、浪人中のはずでした。「どうや、元気」というぼくの言葉を無視して、Cちゃんは、
「センセ、バイク乗せてくれへん」
と、か細い声でいいました。
ぼくは一瞬とまどい黙っていました。ちょっと真意を計りかねたのです。彼女は、ぼくが、めったに人をバイクに乗せたりはしないことを知っているはずでした。
三〇半ばを過ぎてからバイクに熱中した、あの当時、たしか、女の子をのっけて、走ったことはありました。
ぼくのイメージとしては、ぼくが乗せる女の子は髪の毛が長くないといけない。その女の子の髪の毛は、バイクの疾走と共に真直ぐに後になびかなければならない。でも、髪が長かったら誰でもいいという訳じゃありません。バイクに乗せるというのは、乗用車に乗せるというのとは、全然ちがいます。身体が何となく接触するし、胴に手を回されるのが普通です。かなり親近感がないと、くすぐったいし、気色悪いんです。
まあ、とにかく、そうした女の子が、うまい具合にいて、乗せてくれというので走りました。ショーウィンドーの前を走り過ぎながら、チラッと見たら、イメージに全く反して、髪の毛は、全然なびいていないのです。ただバサバサと乱れているだけでした。なんとも、ぼくばガッカリしたのでした。
さて、Cちゃんは、ぼくが黙っているので、じっと返事を待っている風でしたが、
「もうかなり参ってるの」
とポツリといいました。多分、受験勉強に疲れているのでしょう。
うっとしいなあ。ぼくはユーウツな感じだったのですが、なんだか、彼女の気迫に押されていました。「ワシ、髪の毛の長い奴しか乗せへんねん」などという冗談でごまかす訳にも行かぬ感じで、大分考えてから、ぼくは「よっしゃ」と答えていました。
校門から走り出ると、ぼくは、真直ぐに、西を目指しました。別にどこへというあてもありません。ただその時、秋の入日が西山に傾きつつあり、それがとてもキレイだったからです。
引返してきたとき、もう夕暮れがあたりを包み、秋の空は、物哀しい色でした。Cちゃんは、
「センセ、ありがと。スッとした」
とだけいって、自転車で帰ってゆきました。
♣♣
何年かたった一九七五年、ぼくは、カラコルムのラトックⅡ峰を攀りにゆくことになりました。この山を狙ったのは、登攀倶楽部というクライマーの集団でした。彼等は、ほとんどみんな、大学には行ってない連中で、いわゆるブルーカラーに属していました。でも、その攀り方は、大学山岳部の奴等とは比較にならない位、尖鋭的なものでした。
例えば、土曜日の午後、単身バイクに乗って穂高に向かい、ほとんど眠らず、そのまま数百米の岩壁の困難なルートを攀り、またバイクで走って日曜日の朝に帰ってくるというようなことをケロリとやってのけるといったものでした。
「五条坂クラブ」とかいう名前のバイク集団を作って、五条通りで白バイと追いかけっこをしているような奴もいました。また、四帖半の安アパートで、インスタントラーメンで飢えをしのぎながら、力仕事のアルバイトをして、金がたまると山へ出掛ける。「山ではまともなメシが食えるところが魅力です」などと冗談をいったりする彼等は、岩壁に張りつくと、見事なまでのテクニックとパワーを見せたものです。
若い頃から、どちらかといえば、恵まれた環境条件の中で、のんびりと山登りを楽しんできたともいえるぼくにとって、彼等の生きざまや山登りは驚異的に思えました。そして同時に何ともいえぬ新鮮さと魅力を感じたのも事実でした。頼まれるままに、彼等の雇われ隊長となるのを承知したのは、多分、こうした気分のせいだったと思います。
遠征準備の事務所というか、集会や物資集積や梱枹場所として、ぼくは古巣である大学山岳部の部室を使うことにしました。そこなら、昼夜を問わず自由に使えるし、寝泊りもできます。「山岳部ルーム」の隣りの部屋には数人の女子学生がいました。ぼくは、その中にCちゃんを見出したのでした。
「よお、久しぶりやな。これなに部やねん」
彼女が、志望通り大学に入って、ぼくの後輩ということになったということは聞いていました。でも、こんな所にいるとは思わなかった。この部屋は、「ジョモンケン」のボックスなのだそうです。
「それなんや」
ああそうか。女性問題研究会か。「女問研」てケッタイな名前やなあ。なんでも、いまは、どこの大学にも「女問研」があるのだそうです。そういえば、巷では榎美沙子がガンバッていました。
とにかく、もと「バロック音楽研究会」のボックスだったのを、女の力で乗っ取ったとかいう、このステレオもあるかなり快適な部屋を、ぼくは、遠征準備のための別室として使えることになったのです。
♣♣♣
Cちゃんは、このウーマンリブ・グループのリーダーでした。でも、彼女の温和で、どちらかというと内向的な性格を反映してか、この「女問研」は、他所の大学のそれとはちがい、極めて穏健だとのことでした。大してこれといった活動はせず、高群逸枝の『日本女性史』の輪読会などをやっているそうでした。「助言者として参加して下さい」などといわれ、好奇心の強いぼくは、「うん」と答えたのですが、遠征隊の準備に追われて、その機会はありませんでした。
この部屋でぼくが出会った「女問研」の面々は、やっぱり何となく、普通の女子大生とはちがうように感じました。キャアキャアワァワァいっている並の女子学生ともちがうし、あどけなさと幼稚さが売物みないな女性とは別物という感じでした。口数少なく、キリッとしていて、シャキッとした筋金入りみたいで、おまけに、それがわりかし整った顔立ちであったりしたら、ぼくは、年甲斐もなく、なんだかボーとしてしまい、ちょっとした少年のあこがれみたいな心情を覚えていたようでした。
さて、二ヶ月ほどの準備の後、ぼくは、パキスタンの高峰に向かい、失敗して帰ってきました。帰国してしばらくして、もう秋の気配の濃いある日、Cちゃんが学校に電話をかけてきました。例によって藪から棒です。
「センセ、ちょっと相談があるんですけど」
「元気か、ほんで、何ですか」
「あのう……。女問研の○○さんがドジったんです」
「はあ。何をです」
いきなりドジッたといわれても、何のことかも分らず、ぼくはポカンとして、全く要領を得ぬ返事をしていました。
「ほら、センセ、知ったはるでしょ。あの人、ステキやっていうたはった人」
ぼくには、まだはっきりしません。彼女にそんなこというたかな、と考えていました。
「あのう、ボーイフレンドと、それで失敗して……」
「ふうん」とだけ答えて、ぼくは絶句していました。別にうろたえもしなかったけれど、なんだか、事務室のみんなが、きき耳をたてているような気がしました。
「なるほど。分った。夜、家に電話してくれませんか」
さり気なくそういって、ぼくは電話を切ったのです。
やっぱり、ぼくは少しびっくりしていました。考えてみれば、そういうこともあって当然という話なのですが、なんだか、起こり得べからざることが起こったという気がしたのです。
並の女子大生ならいざ知らず、「女問研」の、あの女の子が……。全く信じられんという気分で、ぼくは化学準備室への廊下を歩いていました。と同時、何ともややこしい話を持ち込んできたCちゃんに、あるうとましさを感じていました。
♣♣♣♣
夜かかってきた電話で話を詳しく聞いているうちに、ぼくはムカムカ腹が立ってきました。当の本人はただオロオロとうろたえているだけだそうです。おまけに、なんだか、相手の男だけが悪いみたいないい方をしているようです。
「わたしらも、なんかほっとく訳にもゆかんという気がして……」
ぼくは、とうとう頭にきてしまい、
「アホか、自分の身体のことも自分でめんどうみれんと、なにが女性の権利じゃ。ええ年して、中学生みたいなこというとるな」
と怒鳴ってしまいました。しかし、考えてみれば、あの遠征のときには、色々手助けしてもらったことだし、ぼくにも少々の義理はありそうです。俺の知ったことかと、つっぱねる訳にもゆかんなあ。そんな気がしました。
ぼくは、直ぐ、遠征隊のドクターであった山岳部の後輩のタカヒコに電話したんです。
「へええ、そら困ったな。けど、それ、相手はタカダはんとちがうんかいな」
「バカモン」
ぼくはますますムカムカしました。
「そらね、あんなもん、盲腸の手術よりも簡単やということもできますよ。けど、盲腸とはやっぱりちがうんですワ」
と、タカヒコはいい、「なんとか考えたってえな」というぼくの頼みに、
「困ったなあ、そらぼくとこの病院へ来てもろたら、話は簡単ですねん。けど、ワシかて、看護婦に、変に疑われるのイヤですしねえ」
と答え、ここで、ぼくたちは、一緒に笑ったのです。
とにかく「なんとかええとこを探します」といってもらい、ようやくぼくはホッとし、女房に、ちょっと話したのです。すると彼女は、
「それ、パパとちがうの、相手」
「アホか」
ぼくは滅入ってしまったのでした。
しばらくして、一件落着の連絡が入りました。「女問研」の学生ということで、誰しもピンク・ヘルを連想したらしく、場所さがしはかなり難航したようでした。ところが、あんなうっとおしい話を持込んできた当のCちゃんからは、何の連絡もありませんでした。けっこう腹がたちました。もう話なんかするか、とも思いました。でも正直いって、ぼく自身も、そんなこと早く忘れたかったのです。
一年ほどして、ひょっこり、もう忘れた頃に、Cちゃんが学校にやってきました。
あれから、なかなか大変だったようです。まずお父さんがなくなった。教師だったお父さんは、冬は元気にスキーをしていたのに、春には入院し、ガンが脳に転移したため、記憶喪失みたいになり、死の床につきそう娘に、つきそってくれてうれしいが早く帰らないとお父さんが心配するよ、などといったそうです。父親が入院するのとほとんど同時に母親も入院した。胃潰瘍の手術はすぐに済んで、元気に退院したのですが、これもホントはガンだったのだそうです。それを知っているのはCちゃんだけです。
こういうややこしい話になると、彼女は、ほとんど毎日のようにぼくの所にやってきては、ポツリポツリと話しては帰ります。聞いてしまったぼくの方は、ほんとにつかれる感じなのです。
何日目かに、彼女は、こう話しました。
「お父さんには好きな人がいたみたい。入院してから分ったん。お母さんには、生徒の母親やいうてたけど……。その女の人私のこと小さいときから知ってるみたいな態度なんよ」
その人には高校生の娘がいるそうです。Cちゃんはそれが気がかりな様子で何度もこの話をするので、ぼくはからかい半分に、
「その高校へ行って、その娘見てきたら……。あんたに、よう似てたりして」
というと、彼女は、常になくキッとして、「お父さんが好きな女性がいくらいても、それはそれやけど、私とおんなじように可愛いがってる娘が他にいると想像することは耐えられないことなん」
あれから、もう何年にもなります。その後彼女からは何の連絡もありません。便りがないのが無事の便り……。きっと元気でやっているのだろう。ぼくはそう思っています。
19.問題生徒はぼくのカウンセラー
♣
大阪のある一流ホテルから学校に電話がかかり、「おたくの生徒に、次のような名前の生徒おりますか」と、五人ほどの名前をあげたのです。調べるまでもなく、その名前は、みんな、教師の名前だった。これが、いわゆる「ホテル事件」の発端でした。そのホテルの説明によれば、ことのいきさつは、こんなことでした。
ある日、同志社の学生のなにがしと名乗って、予約電話がかかった。翌日、その学生達が現われると、それぞれの部屋に投宿した。彼等は、その夜、ホテル内のレストランやバーで飲み喰いし、もちろんサイソだけで、です。そして、多分夜が明けてからでしょうが、いずこともなく姿を消してしまった。喰い逃げ、泊り逃げという訳です。
ホテルはすぐ調べました。これといった手掛りがある訳ではなかったのですが、ただひとつ、彼等が、夜、市外通話をした電話番号が記録されていたのです。それがみんな京都だった。ホテルは、その電話番号をダイヤルし、「お宅には、大学生がおいでになりますか」とたずねました。すると、その三つ四つの電話先はほとんど大学生の子供はいなかったけれど、共通して、カツラ高校に行っている女子高生がいるということが分ったのです。
そういう訳で、学校に電話が掛ってきたということだったのです。
学校はすぐ調査を始め、女生徒達のつながりから、泊り逃げ生徒を割り出すのに、ほとんど時間はかかりませんでした。彼等はみんな、ごく普通の、どっちかといえば成績もよい方に属する生徒でした。もう十数年も前のことで、ぼくは、もう彼等の名前さえ憶えていません。
さて、この泊り逃げ計画を思いついたのはAでした。それも、全くの思いつきなのです。彼は、小さい頃から、父親に連れられて、ホテルに泊ることがよくあって、ホテルの仕組みに詳しくなりました。今とちがって、もう十年以上も前のその頃は、ホテルは、なんか特殊な所という感じだったようです。
彼は、友人達と学校の芝生でだべっている時、ホテルという所は、サインだけで飲み喰いできるし、その気にさえなれば、ただで泊れるはずだといったんです。
それを聞いていた連中の意見は二つに分れたそうです。いや、そら無理やで、という者と、彼がそういうからには、やれるのとちがうかな、というグループとに、です。無理や、いややれる、と議論しているうちに、もともと架空の話として楽しんでいたみたいなこの計画は、だんだんと現実株を帯びてきて、可能性をとなえるグループは真剣になったのです。
「よし、これを証明するためには、実際やってみるよりしかたない。やるぞ」そういうことになり、「やれる」グループから何人かがおりて、五人ほどが残ったのです。
♣♣
生徒がなんらかの問題を起こした時には、その事実関係の取調べには担任があたるという規定があります。その内容は、補導委員会に報告され、五人の委員が、「生徒処置規定」に基づいて、生徒処置の原案を決めます。この会議には、生徒部長や担任はオブザーバーとして討議には参加できますが、票決権はありません。
この、生徒部が生徒処置の票決に参加できないという制度は、極めて異例の制度のようです。これは、生徒部(補導部あるいは指導部という名の所が多い)というところが、生徒を取り締まるのではなく、生徒の側に立って生徒指導の企画を行うという考え方を示したものです。
ほとんどの高校では、補導部というのは「学校警察」のように考えられているのですが、わがカツラ高校では、警察はなく、処罰機関として補導委員会がある。そういうことなのだと、ぼくは考えていました。京都教育というのが、ひところ有名で、他府県から、視察・見学の先生方が次々とやってきました。生徒部で、いまいったような仕組みを聞いて、
「へえ、変ってますねえ」とか「素晴らしい制度ですね」とかコメントしたものでした。
そういうことですから、この「ホテル事件」でも当然、それぞれの生徒の担任が取調べに当ることになります。ただ、問題生徒が、いくつかのクラスに分散していた場合には、担任の連絡係を兼ねて、生徒部の教師が、事情聴取に加わることになっていました。
それで、生徒部に属しており、カウンセラーみたいなことをやっていたぼくは、この係になった訳です。
ぼくが、カウソセリングというものに興味をもったのは、ずっと昔、学生時代にさかのぼるようです。山岳部のリーダーで少数精鋭主義を唱えてつっ走っていた頃が終り、リーダーを後輩にゆずり、OBとなって、「年寄り」みたいな立場になると、下級生の相談にいかに対応するかという問題に直面したからです。
この立場は、教師としてのぼくにも共通した状況ともいえました。ぼくは、カウンセリングの本を買い集め勉強を始めました。相談に来る生徒、いわゆるクライエントはいくらでもありましたし、参考書通り、面談をテープにとって、後で分析することもできました。
カウンセリングという、アメリカでできた治療法は、いわゆるノンディレクティブ・メソッド、非指示的方法によって、自己分析を助けるというものでした。このノンディレクティブ・カウンセリングでは、カウンセラーは、クライエントの前では、絶対に、価値判断を示していけないし、自分の感情を出してもいけない。
「これから死にます」といわれても「やめなさい」というべきではない。「あなたに抱かれたい。ねたい」などとといわれたとしても、「なんかこう、大変感情が高ぶっているんですネ」などと、その状況を反射する。
相手を無限に受容し、完全に密着しつつ、かつ厳然として一定の距離を保つ、一つの鏡のような状態に自分を保つカウンセリングという作業は、なかなか大変なことでした。
♣♣♣♣
六〇年代の半ば前後には、カウンセリングという言葉だけは、かなり教育現場へ持込まれたとはいえ、一般的には、ほとんど理解されてはいませんでした。まあ、この状況は今も変っていませんが……。
だいたい個人的な指導という考え方自体に強く反対する人達が多かったようです。「一人の悩みはみんなの悩み」といううたい文句がいつもでてくるのです。
ある職員会議の時、またしても、そういううたい文句が高らかに述べられたので、ぼくは少し腹が立ち、一言ひやかしのつもりで、
「もしかりに、自分のペニスが小さいと思い悩んでる生徒がいたとして、そうした短少コンプレックスは、クラス全体の悩みとして解決できるでしょうか」
と発言し、大方の失笑を買ってしまったのでした。
カウンセリングに興味を持っている教師などは、一人いるかいないかという状況で、コバヤシ校長との出合いは、ぼくの一生でも極めて印象的だったと今思います。彼は、ぼくが行った高校の、ぼくにとって二人目の校長としてやって来たのですが、就任しての初めての懇親会で、「君はカウンセリングに興味をもってるそうだネ」と話しかけてきました。どうして分ったんだろう。ぼくはちょっと驚きました。その夜は、二人で夜更けまで、カウンセリングについて語り合いました。「それは技術ではなく思想であり哲学だ」というような結論になったように記憶しています。
組合役員の教師が、この新任校長にケンノミを食わせるべく、勢い込んで、「組合の集会」のための休暇を要求に出掛けたら、「ええ、ええ、もう手配済みです」とやられて面喰ったのだそうです。しばらくして、自衛隊が勧誘ビラを配りにくるというニュースが入り、[来ても断ってくれるように」と交渉すべく、やはり役員達が押しかけたら、「もう電話で断わっときました」という話。いやすごい奴がきたという噂でした。
彼は、何かの折に行き合うと、それとなく、なん年なん組のだれそれという生徒がいて、英語が落ちそうで悩んでるから一度話してやってくれ、という調子で、ぼくがカウンセリングをやることをうながしました。
それにしても、どうして、そんな細かいことを知ってるのだろうと、少し不思議でした。後で分ったのですが、校長室には、いつも、何人かの生徒が押しかけていたのです。事実、その頃の卒業アルバムを見ると、ほぼ半数近くの生徒が、校長室でグループ写真を取っているのです。おそらくそうした生徒にとって、校長室は最も印象深い想い出の場所だったのでしょう。
ぼく自身、あれほどの大校長には、もう出合えないのではないかという気がしています。
♣♣♣♣
さて、「ホテル事件」の調査を依頼されても、ぼくは、その生徒達を取調べる気など全くありませんでした。グループ・カウンセリングという感じで、数回にわたり彼等と会い、自由にしゃべってもらっただけでした。
大変なことをしてしまった。親にも金銭的にだけではなく精神的にも迷惑をかけてしまった。みんな、そういう風にしょげ切ってはいました。しかしそういうことと、この行動の発端となった、「泊り逃げ」が出来るかどうかという問題とは別のことのようでした。彼らはやはり、それは出来ると思ったのでしょう。だって、あの電話から足がついただけなのですから……。誰かが、少し残念そうに、「あの電話さえかけへんかったらなあ……」といったものです。
ぼくの立場としては、それはそれとして、話し合いを続けるうちに、「やっぱり悪いことはせんとこう」という認識が生れてきたらえらく結構なことや。でも、そんなことより、「沙汰あるまで自宅待機」を命じられ、近所の手前、一室に閉じ込められて、半ばノイローゼみたいになっている彼等が元気づくのを期待する方に気を奪われている状態だったのです。
さて、職員会議で報告を求められ、ぼくは出来るだけ正確に彼等の心の状況を説明した積りでした。ところが意外にも、先生方の反応は、「何と不届きな、反省の色が見られんではないか」というものでした。後で分ったのですが、「電話さえかけなければ……」というB君の言葉をチラリとぼくが引用したのが決定的だったそうです。ぼくは、大いにあわてふためき、何とか誤解をとこうとしたのですが、もう後の祭りでした。処分は、えらく重いものになってしまったのです。
教師というヤツラは、何と表面しか見ようとしないものか。うわっ面のつじつまさえ合っとれば、それでいいんか。
自分も教師であるぼくがいうのも変な話なんでしょうが、ぼくに深い教師不信が住みついたとしたら、多分この時からだったように思います。もう決して、聞き知った生徒の心のうちは、教師には云わんぞ。ぼくはそう思い定めたのです。
もしかしたら、ぼくは、カウンセリングというものが、学校という場所では不可能であることを、すでに感じ取っていたのかも知れません。個人の価値観、つまり個人を認める風土の中に、それは成立するはずなのですから……。そして、同時に、アメリカという異質文化の中で生れた非指示的な方法が、この国では、ある限界を持つ場合もあるということもうすうす感じ初めていました。
ただ、ぼくが固く信じたことは、コバヤシ先生もいったように非指示的カウンセリングは一つの思想であり、〈人間は必ず自分自身でよくなり得る存在である〉という信念の上に成り立っているということでした。
そうしたことを若いぼくに確認させてくれた、ぼくのクライエントたちは、多分、ぼくのカウンセラーだったのでしょう。
大阪のある一流ホテルから学校に電話がかかり、「おたくの生徒に、次のような名前の生徒おりますか」と、五人ほどの名前をあげたのです。調べるまでもなく、その名前は、みんな、教師の名前だった。これが、いわゆる「ホテル事件」の発端でした。そのホテルの説明によれば、ことのいきさつは、こんなことでした。
ある日、同志社の学生のなにがしと名乗って、予約電話がかかった。翌日、その学生達が現われると、それぞれの部屋に投宿した。彼等は、その夜、ホテル内のレストランやバーで飲み喰いし、もちろんサイソだけで、です。そして、多分夜が明けてからでしょうが、いずこともなく姿を消してしまった。喰い逃げ、泊り逃げという訳です。
ホテルはすぐ調べました。これといった手掛りがある訳ではなかったのですが、ただひとつ、彼等が、夜、市外通話をした電話番号が記録されていたのです。それがみんな京都だった。ホテルは、その電話番号をダイヤルし、「お宅には、大学生がおいでになりますか」とたずねました。すると、その三つ四つの電話先はほとんど大学生の子供はいなかったけれど、共通して、カツラ高校に行っている女子高生がいるということが分ったのです。
そういう訳で、学校に電話が掛ってきたということだったのです。
学校はすぐ調査を始め、女生徒達のつながりから、泊り逃げ生徒を割り出すのに、ほとんど時間はかかりませんでした。彼等はみんな、ごく普通の、どっちかといえば成績もよい方に属する生徒でした。もう十数年も前のことで、ぼくは、もう彼等の名前さえ憶えていません。
さて、この泊り逃げ計画を思いついたのはAでした。それも、全くの思いつきなのです。彼は、小さい頃から、父親に連れられて、ホテルに泊ることがよくあって、ホテルの仕組みに詳しくなりました。今とちがって、もう十年以上も前のその頃は、ホテルは、なんか特殊な所という感じだったようです。
彼は、友人達と学校の芝生でだべっている時、ホテルという所は、サインだけで飲み喰いできるし、その気にさえなれば、ただで泊れるはずだといったんです。
それを聞いていた連中の意見は二つに分れたそうです。いや、そら無理やで、という者と、彼がそういうからには、やれるのとちがうかな、というグループとに、です。無理や、いややれる、と議論しているうちに、もともと架空の話として楽しんでいたみたいなこの計画は、だんだんと現実株を帯びてきて、可能性をとなえるグループは真剣になったのです。
「よし、これを証明するためには、実際やってみるよりしかたない。やるぞ」そういうことになり、「やれる」グループから何人かがおりて、五人ほどが残ったのです。
♣♣
生徒がなんらかの問題を起こした時には、その事実関係の取調べには担任があたるという規定があります。その内容は、補導委員会に報告され、五人の委員が、「生徒処置規定」に基づいて、生徒処置の原案を決めます。この会議には、生徒部長や担任はオブザーバーとして討議には参加できますが、票決権はありません。
この、生徒部が生徒処置の票決に参加できないという制度は、極めて異例の制度のようです。これは、生徒部(補導部あるいは指導部という名の所が多い)というところが、生徒を取り締まるのではなく、生徒の側に立って生徒指導の企画を行うという考え方を示したものです。
ほとんどの高校では、補導部というのは「学校警察」のように考えられているのですが、わがカツラ高校では、警察はなく、処罰機関として補導委員会がある。そういうことなのだと、ぼくは考えていました。京都教育というのが、ひところ有名で、他府県から、視察・見学の先生方が次々とやってきました。生徒部で、いまいったような仕組みを聞いて、
「へえ、変ってますねえ」とか「素晴らしい制度ですね」とかコメントしたものでした。
そういうことですから、この「ホテル事件」でも当然、それぞれの生徒の担任が取調べに当ることになります。ただ、問題生徒が、いくつかのクラスに分散していた場合には、担任の連絡係を兼ねて、生徒部の教師が、事情聴取に加わることになっていました。
それで、生徒部に属しており、カウンセラーみたいなことをやっていたぼくは、この係になった訳です。
ぼくが、カウソセリングというものに興味をもったのは、ずっと昔、学生時代にさかのぼるようです。山岳部のリーダーで少数精鋭主義を唱えてつっ走っていた頃が終り、リーダーを後輩にゆずり、OBとなって、「年寄り」みたいな立場になると、下級生の相談にいかに対応するかという問題に直面したからです。
この立場は、教師としてのぼくにも共通した状況ともいえました。ぼくは、カウンセリングの本を買い集め勉強を始めました。相談に来る生徒、いわゆるクライエントはいくらでもありましたし、参考書通り、面談をテープにとって、後で分析することもできました。
カウンセリングという、アメリカでできた治療法は、いわゆるノンディレクティブ・メソッド、非指示的方法によって、自己分析を助けるというものでした。このノンディレクティブ・カウンセリングでは、カウンセラーは、クライエントの前では、絶対に、価値判断を示していけないし、自分の感情を出してもいけない。
「これから死にます」といわれても「やめなさい」というべきではない。「あなたに抱かれたい。ねたい」などとといわれたとしても、「なんかこう、大変感情が高ぶっているんですネ」などと、その状況を反射する。
相手を無限に受容し、完全に密着しつつ、かつ厳然として一定の距離を保つ、一つの鏡のような状態に自分を保つカウンセリングという作業は、なかなか大変なことでした。
♣♣♣♣
六〇年代の半ば前後には、カウンセリングという言葉だけは、かなり教育現場へ持込まれたとはいえ、一般的には、ほとんど理解されてはいませんでした。まあ、この状況は今も変っていませんが……。
だいたい個人的な指導という考え方自体に強く反対する人達が多かったようです。「一人の悩みはみんなの悩み」といううたい文句がいつもでてくるのです。
ある職員会議の時、またしても、そういううたい文句が高らかに述べられたので、ぼくは少し腹が立ち、一言ひやかしのつもりで、
「もしかりに、自分のペニスが小さいと思い悩んでる生徒がいたとして、そうした短少コンプレックスは、クラス全体の悩みとして解決できるでしょうか」
と発言し、大方の失笑を買ってしまったのでした。
カウンセリングに興味を持っている教師などは、一人いるかいないかという状況で、コバヤシ校長との出合いは、ぼくの一生でも極めて印象的だったと今思います。彼は、ぼくが行った高校の、ぼくにとって二人目の校長としてやって来たのですが、就任しての初めての懇親会で、「君はカウンセリングに興味をもってるそうだネ」と話しかけてきました。どうして分ったんだろう。ぼくはちょっと驚きました。その夜は、二人で夜更けまで、カウンセリングについて語り合いました。「それは技術ではなく思想であり哲学だ」というような結論になったように記憶しています。
組合役員の教師が、この新任校長にケンノミを食わせるべく、勢い込んで、「組合の集会」のための休暇を要求に出掛けたら、「ええ、ええ、もう手配済みです」とやられて面喰ったのだそうです。しばらくして、自衛隊が勧誘ビラを配りにくるというニュースが入り、[来ても断ってくれるように」と交渉すべく、やはり役員達が押しかけたら、「もう電話で断わっときました」という話。いやすごい奴がきたという噂でした。
彼は、何かの折に行き合うと、それとなく、なん年なん組のだれそれという生徒がいて、英語が落ちそうで悩んでるから一度話してやってくれ、という調子で、ぼくがカウンセリングをやることをうながしました。
それにしても、どうして、そんな細かいことを知ってるのだろうと、少し不思議でした。後で分ったのですが、校長室には、いつも、何人かの生徒が押しかけていたのです。事実、その頃の卒業アルバムを見ると、ほぼ半数近くの生徒が、校長室でグループ写真を取っているのです。おそらくそうした生徒にとって、校長室は最も印象深い想い出の場所だったのでしょう。
ぼく自身、あれほどの大校長には、もう出合えないのではないかという気がしています。
♣♣♣♣
さて、「ホテル事件」の調査を依頼されても、ぼくは、その生徒達を取調べる気など全くありませんでした。グループ・カウンセリングという感じで、数回にわたり彼等と会い、自由にしゃべってもらっただけでした。
大変なことをしてしまった。親にも金銭的にだけではなく精神的にも迷惑をかけてしまった。みんな、そういう風にしょげ切ってはいました。しかしそういうことと、この行動の発端となった、「泊り逃げ」が出来るかどうかという問題とは別のことのようでした。彼らはやはり、それは出来ると思ったのでしょう。だって、あの電話から足がついただけなのですから……。誰かが、少し残念そうに、「あの電話さえかけへんかったらなあ……」といったものです。
ぼくの立場としては、それはそれとして、話し合いを続けるうちに、「やっぱり悪いことはせんとこう」という認識が生れてきたらえらく結構なことや。でも、そんなことより、「沙汰あるまで自宅待機」を命じられ、近所の手前、一室に閉じ込められて、半ばノイローゼみたいになっている彼等が元気づくのを期待する方に気を奪われている状態だったのです。
さて、職員会議で報告を求められ、ぼくは出来るだけ正確に彼等の心の状況を説明した積りでした。ところが意外にも、先生方の反応は、「何と不届きな、反省の色が見られんではないか」というものでした。後で分ったのですが、「電話さえかけなければ……」というB君の言葉をチラリとぼくが引用したのが決定的だったそうです。ぼくは、大いにあわてふためき、何とか誤解をとこうとしたのですが、もう後の祭りでした。処分は、えらく重いものになってしまったのです。
教師というヤツラは、何と表面しか見ようとしないものか。うわっ面のつじつまさえ合っとれば、それでいいんか。
自分も教師であるぼくがいうのも変な話なんでしょうが、ぼくに深い教師不信が住みついたとしたら、多分この時からだったように思います。もう決して、聞き知った生徒の心のうちは、教師には云わんぞ。ぼくはそう思い定めたのです。
もしかしたら、ぼくは、カウンセリングというものが、学校という場所では不可能であることを、すでに感じ取っていたのかも知れません。個人の価値観、つまり個人を認める風土の中に、それは成立するはずなのですから……。そして、同時に、アメリカという異質文化の中で生れた非指示的な方法が、この国では、ある限界を持つ場合もあるということもうすうす感じ初めていました。
ただ、ぼくが固く信じたことは、コバヤシ先生もいったように非指示的カウンセリングは一つの思想であり、〈人間は必ず自分自身でよくなり得る存在である〉という信念の上に成り立っているということでした。
そうしたことを若いぼくに確認させてくれた、ぼくのクライエントたちは、多分、ぼくのカウンセラーだったのでしょう。
18.バクチ事件のてんまつ
♣
あれはいつ頃のことだったか。浅間山荘事件があって、連合赤軍のリンチ事件が報じられた頃でしたから、一九七二年くらいだったかな。たしか、ホームルーム日記に、一人の赤軍シンパの生徒が、ひどいショックを受けたと書いていたのを億えていますから……。
とにかく、世の中、えらく騒然としていました。ぼくは、二年生のクラスを担任していました。教室は、木造校舎のはしっこの二階でした。どうも端のクラスというのはさわがしくなるようです。
永くおんなじ学校にいたりするとふと気づくのではないかと思うのですが、年が変って生徒が替っても、ある教室のクラスの雰囲気が、非常によく似ている、ということがままあります。どうやら、人間集団は、その居場所に極めて強い影響を受けるのではないかという気がするのです。これはなにも学校のクラスに限ったことではないようです。例えば、家族にしても、木造家屋に住んでいる人たちが、ビルに替れば、もしかしたら性格まで変ってくるのではないだろうか。
さて、あの「はしっこの教室」には、その場所に、そうさせる何かがあったのか。いつもにぎやかで、少なくとも、お行儀のよいクラスとはいえませんでした。
ぼくは、その頃、生徒に強制することをできるだけ少なくしたい、かなうことならゼロにしたいと考えていました。なにかを試みるのが好きなぼくとしては、ちょっとした実験をやっているような気分だったのです。
授業では、情緒的な圧迫感を与えないように気を配っていました。試験の点数など、特にきかれでもしない限り全然知らせませんでした。出欠も取りません。でも、欠席が特に増えたという訳でもなかった。
担任のクラスでは、生徒が昼のショート・ホームルームをさぼっても、出席を強要しませんでした。そのかわり、伝達事項を教室に掲示して、適当な時に、見るように云い渡しておきました。ぼくは当時、カナタイプに凝っていたので、掲示の文はひらがなでカナタイプで打つことにしました。これは、なかなかいいタイプの練習でもあったのです。
こういうやり方でも、決定的な不都合はなんにも生じなかったのですが、一つ困った問題が起ってきたのです。教室がどんどん汚なくなったのです。
「教室が汚れています。そうじするように、委員の人は方法を考えて下さい」
ぼくは何度もそういいましたが、委員達は、一向に当番を決めようともしなかったのです。教室は紙屑だらけになりました。
週一回のロング・ホームルームの時に、ぼくは屑箱をささげて、机の間をぐるぐる回りました。「みなさん、回りのゴミを拾って、ここに入れて下さい」
それで大分きれいになりますが、一日、二日で元の木阿弥でした。もう、臭いまでしてきていました。いろんな先生からの苦情も強烈でしたが、ぼくは、
「もう少しガマソして下さい。少し考えることがありますので……」とお願いしたり、相手によっては、「はあ、そうですネ」と無視したりしていました。
♣♣
二ヶ月もした頃、生徒もたまりかねたのか、掃除をしようといいだした。ホームルームで方法を決めるそうです。ぼくはホッとしました。でも、あんまり表情には出さないで、討議はみんなにまかして、引き上げたのです。
翌日の放課後、教室にゆくと、教室はみちがえるようにキレイになっていました。それでも、四、五人の女生徒が掃除中でした。男の子が一人も見あたりません。ははあ、男女交代でやることにしたのか、ぼくはそう思い、
「今日は女の番ケ」
と、ききました。すると一人が、
「いいえ、掃除は女子だけでやることになったん」
と、すました順で答えたのです。
「なんでや」
「多数決で、そう決まったんやもん。しかたないもん」
と、別の一人が、少しフクレッ面で答えました。少しあっ気にとられ、聞きだした事の次第は、まあ次のようなことでした。
一人の男子生徒が、掃除は女子がやることにすべぎだと提案した。彼は提案理由を、こう述べたといいます。
「みんな、家へ帰ってみ、掃除はお母さんがやってる。つまり掃除は女の仕事やないか」
もちろん女子側は、「そんな無茶な」と猛反対した。ところが、女子生徒の人数はクラスの三分の一ほどです。多数決で、簡単に押し切られてしまったのだそうです。
そんなアホな。無茶苦茶な話ではないか。
「お前らそんな。ソージするな。そら多数決の暴力や。拒否せえ」
ほんとに止めてもええのかいなあ、という顔をしている彼女等に、ぼくはしたり顔に説明したものです。あんなあ、民主主義イコール多数決とちゃうのやぞ。多数決原理というのは、もともと多数が強いのに決ってる中で、少数意見をどう取り入れようかという精神なんや。こんな雑な説明で分ったとは思えなかったのですが、とにかく、「明日からは止めます」ということになったのです。
翌日、放課後、散人の男子生徒が、血相をかえてやって来ました。
センセ、けしからんやないか。ワシらがクラス討議をして決めた全体の決定をくつがえすのか。多数決で決まったことを守らんでもええのか。すごい剣幕です。
「守る必要ないわい。それは多数決の暴力じゃ」
そういった時、フトぼくの頭にひらめき、
「あんなあ、生徒を男と女になんで分けるねん。ワシの頭には、男生徒も女生徒もないんや。みんな同じクラスの生徒や。そやし、あんな決定は何のことか分らん」
♣♣♣
掃除は普通に行われるようになり、まあ、毎日点検に出掛けて出欠をとるような担任のクラスに較べたら少しは汚ないかも知れないけど、並の教室程度にはなったようでした。
夏休みが済んで二学期が始まり、もうそろそろ秋風も吹き始めた頃、一つの事件が起こりました。一人の生徒が家出をしたのが発端でした。
その生徒は祖父母に養育されていることは分っていたし、何か家庭の問題が原因だろうとぼくは推測しました。でも、それは、ぼくにとって、あんまり関係のない事に思えたし、依頼もないのに、どうこうする必要もないと思ってほっといたのです。まあそのうちに帰ってきよるやろ、あいつの事やから……。
一週間ほどして、彼は警察に保護されたのですが、そこで重大な事実が明らかになったのです。
家出をした彼は、京都駅構内の格好の物置きをねぐらとして、そこに寝起きしていたのですが、落ちていたカメラを拾い、それを持って、河原町を歩いているところを補導され、そのカメラが盗難届けの出ているものだった。そこで取調べが始まり、その中で家出の原因が明らかになったのです。彼はクラスの教室で賭けポーカーをやって、負けがこんで、支払いに窮して家出したという訳です。えらいことです。関係ないどころの話ではなくなりました。ぼくは早速、その五、六人のばくちグループと話し合いました。
みんな友達なのですが、「アホなやっちゃ、家出しても済むことやない」という者もいれば、「警察でしゃべるとはケシカラン裏切りや」といきまく奴もいました。「あいつも可哀そうやで、家いってみ、あのバアさん、なんやらいう宗教にこったはるやろ。あいつに向いたら、二言目には、『あなたは神の子なんです』。あれではタマランと思うわ」
「それで、負けはなんぼになってんのや」
と、ぼくはたずね、みんながいった額を合計したら、なんと八万円をこえていました。
「へええ、なんでまたそんなぎょうさんになったんや」
「あいつ、負けを取り返そう思うて、どんどん点をあげよったしやろ」
いずれにしろ困った事態になったと思いました。こういう状況では、友達の手前、彼はもう学校へは来れないだろう。事実、家庭では、すでに私学への転校の用意をしているそうです。別の問題は、学校側の対応です。こういう場合、担任は、その生徒の処置を補導委員会に報告するのが普通です。でも、もし補導委員会に渡したら、この生徒が、学校に来れなくなることは、もっと明らかでした。
ぼくはあんまり相性のよくない校長に、この件は、ぼくが解決してみる積りですと言明しました。
♣♣♣♣
解決は、ばくち仲間共が、彼に「気にせんと来いや」といってやることしかない。でもこれは仲々大変なことです。これは強制してできることではありません。彼等は、「前に負けた時は、ワシはアイツにちゃんと払ったんや」などといってるんですから……。
とにかく、ぼくは、放課後にホームルームを招集したのです。いつも、ボケーッとしてのんべんだらりのぼくが真剣な顔付きしているからか、クラスはシーンとしていました。
ぼくは経過を説明し、「担任として、ぼくは彼が学校を止めるような事態は、なんとしても回避したいと考えている。この方向で、みんなで解決法を考え出してくれ」と依頼しました。
やがて一人の生徒が、「バクチはもともと悪いことや。みんなが反省したら、それでしまいや。彼は来たらええんや」
ぼくは黙って聞いていました。普通の場合、ぼぐはクラスの討議には席をはずすことにしていました。ぼくがいると自由な意見がでないと思ったからで、経過は後で誰かに聞くことにしていたのです。だから、クラスの一隅で、ぼくが耳を傾けているということ自体、異常なことでした。
すぐに別の一人が、「バクチがなんで悪いね、大人はみんなやっとる」と発言しました。すると「それは、違うと思います。賭博は法律で禁じられているはずです」と女生徒がいいました。「ニナガワはんは競輪を認めとるやないか」という反論がでて、ぼくは思わず苦笑してしまいました。
こんな具合にけっこう発言は活溌でしたが、当事者たちは終始沈黙を保っていました。誰かが、「彼は、負け込んだお金を払わなくてもいいはずだ。それで友情にひびが入るということもないはずだ」と発言したとき、別の一人が憤然として立ち、
「賭けが悪いとかいいとか、そんな問題とちゃうんじゃ。負けたら払わんならんもんなんじゃ。そういうことになってるねん。女房質に入れても……ということもあるんや」
みんなあっ気に取られ、シーンとなったのです。何人かは、ぼくの意見を読み取ろうとぼくの顔を見ました。ぼくは、
「人間の集団には、その集団のモラル、仁義があることは認めるし、それを悪いとは思わない。しかしこの場合、学校を止めねばならない瀬戸際に立ってる奴の立場で考えたい」
と述べました。
翌日、夕方、ぼくは、ばくちグループを学校の近くのキッサ店に集めました。
「あいつ学校止めよってもいいんか」
「もともと正当な金でもないし、もらおとは思ってません」
そういったのは、いちばん多額の貨しのある男でした。それにつられたように、次々と連鎖反応的に、「わしかてかまへん」とみんながうなずき、ぼくは、「ほな、電話するし、直接、そういうたれよ」
すぐに現われた彼に、連中はみんな、もうすっかり金のことはあきらめがついたのか、
「お前、気にすんな。わしら別にどうも思わへんぞ。学校へ来いや」
みんなから、肩をたたかれ、彼は消え入りそうな顔をしながら、それでも、うれしそうでした。ほんとにあの時は、ぼくもうれしかった。
彼等はみんな何事もなかったように卒業してゆきました。
たしかに、今現在、おんなじ事件が起こったとしたら、とてもこんな具合にはゆかないだろうとは思います。全てに、時代の流れと背景がある。
ただ、ぼくが思うのは、もしぼくが、あのクラスで、「掃除をせえ」というやり方をしていたら、ああいう感じの解決はできなかっただろうということ、これは多分確かなことだと思うのです。
あれはいつ頃のことだったか。浅間山荘事件があって、連合赤軍のリンチ事件が報じられた頃でしたから、一九七二年くらいだったかな。たしか、ホームルーム日記に、一人の赤軍シンパの生徒が、ひどいショックを受けたと書いていたのを億えていますから……。
とにかく、世の中、えらく騒然としていました。ぼくは、二年生のクラスを担任していました。教室は、木造校舎のはしっこの二階でした。どうも端のクラスというのはさわがしくなるようです。
永くおんなじ学校にいたりするとふと気づくのではないかと思うのですが、年が変って生徒が替っても、ある教室のクラスの雰囲気が、非常によく似ている、ということがままあります。どうやら、人間集団は、その居場所に極めて強い影響を受けるのではないかという気がするのです。これはなにも学校のクラスに限ったことではないようです。例えば、家族にしても、木造家屋に住んでいる人たちが、ビルに替れば、もしかしたら性格まで変ってくるのではないだろうか。
さて、あの「はしっこの教室」には、その場所に、そうさせる何かがあったのか。いつもにぎやかで、少なくとも、お行儀のよいクラスとはいえませんでした。
ぼくは、その頃、生徒に強制することをできるだけ少なくしたい、かなうことならゼロにしたいと考えていました。なにかを試みるのが好きなぼくとしては、ちょっとした実験をやっているような気分だったのです。
授業では、情緒的な圧迫感を与えないように気を配っていました。試験の点数など、特にきかれでもしない限り全然知らせませんでした。出欠も取りません。でも、欠席が特に増えたという訳でもなかった。
担任のクラスでは、生徒が昼のショート・ホームルームをさぼっても、出席を強要しませんでした。そのかわり、伝達事項を教室に掲示して、適当な時に、見るように云い渡しておきました。ぼくは当時、カナタイプに凝っていたので、掲示の文はひらがなでカナタイプで打つことにしました。これは、なかなかいいタイプの練習でもあったのです。
こういうやり方でも、決定的な不都合はなんにも生じなかったのですが、一つ困った問題が起ってきたのです。教室がどんどん汚なくなったのです。
「教室が汚れています。そうじするように、委員の人は方法を考えて下さい」
ぼくは何度もそういいましたが、委員達は、一向に当番を決めようともしなかったのです。教室は紙屑だらけになりました。
週一回のロング・ホームルームの時に、ぼくは屑箱をささげて、机の間をぐるぐる回りました。「みなさん、回りのゴミを拾って、ここに入れて下さい」
それで大分きれいになりますが、一日、二日で元の木阿弥でした。もう、臭いまでしてきていました。いろんな先生からの苦情も強烈でしたが、ぼくは、
「もう少しガマソして下さい。少し考えることがありますので……」とお願いしたり、相手によっては、「はあ、そうですネ」と無視したりしていました。
♣♣
二ヶ月もした頃、生徒もたまりかねたのか、掃除をしようといいだした。ホームルームで方法を決めるそうです。ぼくはホッとしました。でも、あんまり表情には出さないで、討議はみんなにまかして、引き上げたのです。
翌日の放課後、教室にゆくと、教室はみちがえるようにキレイになっていました。それでも、四、五人の女生徒が掃除中でした。男の子が一人も見あたりません。ははあ、男女交代でやることにしたのか、ぼくはそう思い、
「今日は女の番ケ」
と、ききました。すると一人が、
「いいえ、掃除は女子だけでやることになったん」
と、すました順で答えたのです。
「なんでや」
「多数決で、そう決まったんやもん。しかたないもん」
と、別の一人が、少しフクレッ面で答えました。少しあっ気にとられ、聞きだした事の次第は、まあ次のようなことでした。
一人の男子生徒が、掃除は女子がやることにすべぎだと提案した。彼は提案理由を、こう述べたといいます。
「みんな、家へ帰ってみ、掃除はお母さんがやってる。つまり掃除は女の仕事やないか」
もちろん女子側は、「そんな無茶な」と猛反対した。ところが、女子生徒の人数はクラスの三分の一ほどです。多数決で、簡単に押し切られてしまったのだそうです。
そんなアホな。無茶苦茶な話ではないか。
「お前らそんな。ソージするな。そら多数決の暴力や。拒否せえ」
ほんとに止めてもええのかいなあ、という顔をしている彼女等に、ぼくはしたり顔に説明したものです。あんなあ、民主主義イコール多数決とちゃうのやぞ。多数決原理というのは、もともと多数が強いのに決ってる中で、少数意見をどう取り入れようかという精神なんや。こんな雑な説明で分ったとは思えなかったのですが、とにかく、「明日からは止めます」ということになったのです。
翌日、放課後、散人の男子生徒が、血相をかえてやって来ました。
センセ、けしからんやないか。ワシらがクラス討議をして決めた全体の決定をくつがえすのか。多数決で決まったことを守らんでもええのか。すごい剣幕です。
「守る必要ないわい。それは多数決の暴力じゃ」
そういった時、フトぼくの頭にひらめき、
「あんなあ、生徒を男と女になんで分けるねん。ワシの頭には、男生徒も女生徒もないんや。みんな同じクラスの生徒や。そやし、あんな決定は何のことか分らん」
♣♣♣
掃除は普通に行われるようになり、まあ、毎日点検に出掛けて出欠をとるような担任のクラスに較べたら少しは汚ないかも知れないけど、並の教室程度にはなったようでした。
夏休みが済んで二学期が始まり、もうそろそろ秋風も吹き始めた頃、一つの事件が起こりました。一人の生徒が家出をしたのが発端でした。
その生徒は祖父母に養育されていることは分っていたし、何か家庭の問題が原因だろうとぼくは推測しました。でも、それは、ぼくにとって、あんまり関係のない事に思えたし、依頼もないのに、どうこうする必要もないと思ってほっといたのです。まあそのうちに帰ってきよるやろ、あいつの事やから……。
一週間ほどして、彼は警察に保護されたのですが、そこで重大な事実が明らかになったのです。
家出をした彼は、京都駅構内の格好の物置きをねぐらとして、そこに寝起きしていたのですが、落ちていたカメラを拾い、それを持って、河原町を歩いているところを補導され、そのカメラが盗難届けの出ているものだった。そこで取調べが始まり、その中で家出の原因が明らかになったのです。彼はクラスの教室で賭けポーカーをやって、負けがこんで、支払いに窮して家出したという訳です。えらいことです。関係ないどころの話ではなくなりました。ぼくは早速、その五、六人のばくちグループと話し合いました。
みんな友達なのですが、「アホなやっちゃ、家出しても済むことやない」という者もいれば、「警察でしゃべるとはケシカラン裏切りや」といきまく奴もいました。「あいつも可哀そうやで、家いってみ、あのバアさん、なんやらいう宗教にこったはるやろ。あいつに向いたら、二言目には、『あなたは神の子なんです』。あれではタマランと思うわ」
「それで、負けはなんぼになってんのや」
と、ぼくはたずね、みんながいった額を合計したら、なんと八万円をこえていました。
「へええ、なんでまたそんなぎょうさんになったんや」
「あいつ、負けを取り返そう思うて、どんどん点をあげよったしやろ」
いずれにしろ困った事態になったと思いました。こういう状況では、友達の手前、彼はもう学校へは来れないだろう。事実、家庭では、すでに私学への転校の用意をしているそうです。別の問題は、学校側の対応です。こういう場合、担任は、その生徒の処置を補導委員会に報告するのが普通です。でも、もし補導委員会に渡したら、この生徒が、学校に来れなくなることは、もっと明らかでした。
ぼくはあんまり相性のよくない校長に、この件は、ぼくが解決してみる積りですと言明しました。
♣♣♣♣
解決は、ばくち仲間共が、彼に「気にせんと来いや」といってやることしかない。でもこれは仲々大変なことです。これは強制してできることではありません。彼等は、「前に負けた時は、ワシはアイツにちゃんと払ったんや」などといってるんですから……。
とにかく、ぼくは、放課後にホームルームを招集したのです。いつも、ボケーッとしてのんべんだらりのぼくが真剣な顔付きしているからか、クラスはシーンとしていました。
ぼくは経過を説明し、「担任として、ぼくは彼が学校を止めるような事態は、なんとしても回避したいと考えている。この方向で、みんなで解決法を考え出してくれ」と依頼しました。
やがて一人の生徒が、「バクチはもともと悪いことや。みんなが反省したら、それでしまいや。彼は来たらええんや」
ぼくは黙って聞いていました。普通の場合、ぼぐはクラスの討議には席をはずすことにしていました。ぼくがいると自由な意見がでないと思ったからで、経過は後で誰かに聞くことにしていたのです。だから、クラスの一隅で、ぼくが耳を傾けているということ自体、異常なことでした。
すぐに別の一人が、「バクチがなんで悪いね、大人はみんなやっとる」と発言しました。すると「それは、違うと思います。賭博は法律で禁じられているはずです」と女生徒がいいました。「ニナガワはんは競輪を認めとるやないか」という反論がでて、ぼくは思わず苦笑してしまいました。
こんな具合にけっこう発言は活溌でしたが、当事者たちは終始沈黙を保っていました。誰かが、「彼は、負け込んだお金を払わなくてもいいはずだ。それで友情にひびが入るということもないはずだ」と発言したとき、別の一人が憤然として立ち、
「賭けが悪いとかいいとか、そんな問題とちゃうんじゃ。負けたら払わんならんもんなんじゃ。そういうことになってるねん。女房質に入れても……ということもあるんや」
みんなあっ気に取られ、シーンとなったのです。何人かは、ぼくの意見を読み取ろうとぼくの顔を見ました。ぼくは、
「人間の集団には、その集団のモラル、仁義があることは認めるし、それを悪いとは思わない。しかしこの場合、学校を止めねばならない瀬戸際に立ってる奴の立場で考えたい」
と述べました。
翌日、夕方、ぼくは、ばくちグループを学校の近くのキッサ店に集めました。
「あいつ学校止めよってもいいんか」
「もともと正当な金でもないし、もらおとは思ってません」
そういったのは、いちばん多額の貨しのある男でした。それにつられたように、次々と連鎖反応的に、「わしかてかまへん」とみんながうなずき、ぼくは、「ほな、電話するし、直接、そういうたれよ」
すぐに現われた彼に、連中はみんな、もうすっかり金のことはあきらめがついたのか、
「お前、気にすんな。わしら別にどうも思わへんぞ。学校へ来いや」
みんなから、肩をたたかれ、彼は消え入りそうな顔をしながら、それでも、うれしそうでした。ほんとにあの時は、ぼくもうれしかった。
彼等はみんな何事もなかったように卒業してゆきました。
たしかに、今現在、おんなじ事件が起こったとしたら、とてもこんな具合にはゆかないだろうとは思います。全てに、時代の流れと背景がある。
ただ、ぼくが思うのは、もしぼくが、あのクラスで、「掃除をせえ」というやり方をしていたら、ああいう感じの解決はできなかっただろうということ、これは多分確かなことだと思うのです。
17.一人旅は顔つきまで変える
♣
朝寝坊して、昼前に出発し、岩を登って遊んでいたら、日が暮れました。岩場の下山路を手探ぐりで降って、テント場に帰りついたら七時でした。昨夜から、ぼくは、ここ、大原のコンピラの岩場に来ています。敬老の日で連休になる土曜日から、高校山岳部の連中が十五人程で合宿を計画したのです。岩登りですから、ほっとく訳にもゆかず、付添ってきました。
この連載原稿に追われていたのですが、数日前から、中国登山協会親善訪日団が来洛して、レセプショソやらパーティーやら昼食会やらと、ニーハオ、カンペー、シェシェの繰り返しです。とても原稿書きどころではありませんでした。ぼくは、原稿用紙持参で、コンピラに来たんです。
暗闇のテント場に帰り着くと、早速、ザイル二巻きを積み重ねて椅子を作りました。持参した丸い大型ゴミ箱を前に据え、ベニヤ板を置くと、机ができ上り。
太い杉の木に張り渡した細引きに、ブタンガスのランプをぶら下げました。見上げると、亭亭とそびえたつ北山杉が、うす白く浮かび、さらに目をこらすと、黒々と茂った木棺のはるかその奥に、星が数個またたいているのがなんとか見てとれます。
生徒達は、ビーフシチューを作り始めたようです。テントに帰って来るなり花尻橋の方に向かったOBが、生ビールを買ってきました。つまみは、ぼくが持ってきた魚そーめん、酢だこに高知名産の「酒盗」。
原稿書きは、しばらく中断して、ビールを飲むことにします。
谷の瀬音がかすかにきこえ、虫のすだく声が澄んで聞こえてきます。あるともつかないかすかな風が、頬をなぜています。なんとも気分がよい。
岩登りの疲れがあったのか、少しの生ビールは、急激に回り、ぼくは眠り込んでしまったようでした。少し湿った山土は、ひんやりとして心地よく、なんだか大地の霊気が、身体にしみ通って、全細胞が甦えるような気がする。やっぱり人間は、少し小石のあるゴチゴチとした地面に寝ないと、おかしくなるんではないか。フワフワの蒲団や、スプリングのよく利いたベッドなどに寝ていたら、頭までふやけてしまうのではなかろうか。なんだかそんな気がして来ます。
だからぼくは、山に登ることよりも、山で寝ることをすすめている訳です。山岳部員などは、テントから通学したらよい。
本多勝一との『極限の民族』やベトナム取材で有名な、朝日新聞の編集委員、藤木高嶺さんは、旧制中学の頃、六甲の岩場のテントから通学を姶めたのだそうです。父親は山登りで有名な九三氏ですから文句はいわなかったのですが、テントの一人暮らしが1ヶ月に及ぶ頃、たまりかねた母親が担任に相談したらしい。ある日の夕方、肉と酒を土産に山に登って来た担任の教師は、
「藤木君、一晩どうかね、ぼくを泊めてくれんか」
♣♣
その担任の教師が持参した肉で酒を汲み交し、二人は、そのまま眠りました。翌朝、その先生は、
「どうや、テントたたむの手伝うよ」
と、いいました。「お母さんが心配してる。いっぺん帰ったら……」といわれて、藤木さんは、ようやく山を下ることにしたのだそうです。
まあ、テントでの一人住いなどということは、そうした生活技術を身につけている山岳部員でも、そう簡単にやれることでないのかも知れません。そこで、ぼくは、生徒に一人旅をすすめている。多分親は心配して反対するだろうから、その対策を立てること。特に女の場合は、なかなか大変なようで、ハイミスのおばちゃんでさえ、「親が心配して……」などといっているのを聞くと、なんだかけったいな気分になります。ぼくは、適当にごまかせ、嘘も方便、とけっこうけしからんことを、かなり堂々と述べております。
いつだったか、一人の生徒が、夏休み前、テント生活について、質問にやってきました。彼は、自転車に乗って、東海道を走り、東京まで行く積りなのだそうです。日程については別にして、テソトやコンロ等の装備について、相談に乗ったのです。何回目かに来た時、ぼくは、フト思い付いて、
「旗たてて走れ。京都———東京と書いた幟たてるんや」
と、いいました。
このアイデアはよかったらしく、遊園地などで休んでいると、買物帰りのオバさんなどが、「がんばりなさいよ」と激励し、お菓子やアイスクリーム等をくれた。そういうことが各地であったそうです。食糧に関しては、各地のスーパーで買う。生鮮野菜と米等は、都会からできるだけ離れた田舎の農家で頼む。これも頂戴することが多かったようです。だいたい田舎の人ほど親切なのです。
今回のコンビラの合宿でも、一人の生徒が米を持ってくるのを忘れ、大原の農家で、分けて下さいと頼んだら、十合(この頃の生徒は、一升のことを十合、一升五合は十五合という)もくれたのだそうです。
話を元に戻して、彼が鈴鹿峠を走り下り、愛知県に入った時、日が暮れ、ちょうどあった交番で、テント場について相談します。すると、その巡査は、「高校生が他府県ヘー人で旅行するとは不届きだ」と頭ごなしにしかりつけた。「なんだか関所役人という感じでした」
彼はあてどなく、町をさまよっていると、高校があって、柔道のかけ声が聞えました。柔道部員の彼は、そこにゆき、自己紹介すると、合宿中の部員達は大歓迎し、そこに泊って飯も食わしてもらったといいます。
こうした話は、彼が、ぼくの授業を取っていたので、一時間つぶして報告会をやってもらった時に聞いたのです。一番苦しかったのは、箱根越えだったそうです。
「帰り、新幹線がすぐトンネルに入り、あっという間に出る。この上を汗をたらして越えたのか。そう思うと、とても複雑な気分になりました」
と彼は報告を結びました。
♣♣♣
同じ年の二学期の末期、別の生徒が現われ、冬の北海道旅行の計画を打ち明けました。旅行といっても、彼の計画は、自転車で走るというのです。あの頃は、よほど自転車がはやりだったらしい。
それにしても、雪の上を自転車で走れるのかいな。ぼくは心配になりました。でも彼は、大丈夫だと答えました。その生徒がぼくに聞きたかったのは、雪の中でどうやって寝るか、ということでした。なんでも、ほとんど車の通らない道の峠越えが、予定コースにあるのだそうです。
もちろん装備についていろいろアドバイスしたのですが、ぼくが最も強調したのは、最後は装備ではない、ということでした。最終的にはオノレ白身の身体や。だから身体を寒さに慣らすこと。
ぼくが示した方法は、夜、ベランダで寝る。そしてどんどん蒲団を薄くする。さらには、早朝、桂川の土手を走る。ランニングシャツとショートパンツで、自転車で走ったらいいのではないか。
しばらくして廊下ですれちがったら、「やってますよ」ということでした。それ切り会わず、冬休みになり、ぼくも彼のことは忘れていました。
三学期が始まった日、彼が現われ、「行って来ました」とケロリとしています。予定通り完走した。一日、やはりあの峠越えが大変で、吹雪の吹きっさらしのバス停の片屋根ベンチで一夜を過ごしたと語りました。シートにくるまっていたのだが、やはり、少々はこわかったそうです。
この他にも四国一周を目指した奴もいるし、古タイヤチューブのいかだで保津峡を下った連中もいる。
こうした生徒を見ていると、計画をやりとげた後は、なにか前とちがってくるような気がするのです。ぼくの勝手な先入観によるものでは、どうもないようです。やっぱり、単純にいって、どことなくしっかりしてくる。なんだか、顔つきまで違っています。
東海道の生徒の場合、おそらく彼は、あの旅において、何十人という見知らぬ人達とかなり印象的な出会いを経験したはずです。そういう出合いを通じて、ある人間観みたいなものを得始めたのではないだろうか。また、毎日遭遇する出来事の一つ一つに、自分自身の判断を下さねばならないということがあって、自分の判断の限界が分ってきたという意味も含めて、判断力に自信がついたはづです。
北海道の生徒の場合、もっとシビアな状態で、判断力の自信を得たといえるでしょう。そうであれば、顔つきが変ってきても、何の不思議もありません。
それにしても、近ごろ、こうした旅をする生徒がまったくいなくなりました。
家と学校を決り切った時間に往復する。そういう単調な、他律的な、管理された空間の世界では、何の発見もないし、何の自覚も得ることはむづかしい。子供は幼稚園児のまま高校、大学へと進む。それが、今日の「若者の幼児化」の実態ではないかという気がします。
♣♣♣♣
大分前のことですが、いまいった、生徒の冒険旅行みたいな話を文部省の登山研修所で話したことがありました。一人の研修生の教師が質問して、
「もし何かの事故が起こったら、どうされるんですか」
つまり、事故が起こったら、それは止めさせなかったぼくの責任で、どう責任をとるのか、というのです。
そこでぼくは、彼に「山での事故は不可抗力的に起こることもある」ことを認めてもらってから、「例えば、あなたが同行している合宿で事故が起こったら、あなたはどう責任をとりますか」と切り返しました。彼はやや考えてから、
「おそらく一生、良心の苛責に悩むと思います」
ぼくは、イライラしてしまい、「それで責任をとったことになるんかなあ」と言いました。
教師は、「そんなことでは責任がもてない」などという具合に、どうも二言目には責任、責任というけれど、ぼくに云わすれば、もともと、責任などなんにも取れないのです。
この時は、このあと、研修生の先生方が二派に分れてかなり議論を闘わせました。いまかりに、研修所で、ぼくが同じ話をしたとしても、おそらく、あんまり反応はないのではないか。「へええ、そんな生徒もいたのか」てなもんで、それだけでしまいなのではないか。どうもそんな気がします。これはちょうど、今日この頃の生徒の状況とおなじことです。
考えてみれば、教師も、その前は生徒であり学生、若者であったのだから、当り前のことなのかも知れません。
文部省登山研修所には、もう二十年近く前の開設当時の第一回研修から、ずっと講師をしていましたから、色々と面白いことがありました。最初の頃は、講師も、研修生と一緒に朝の国旗掲揚に参加しなければならなかった。数年のうちにだんだん出て行かなくなり、二人目の所長の時からは、出向く必要がなくなりました。
ところが、この所長は、研修生の評価をしろといいだした。最も強硬に反対したのは、ぼくと、東大の中根千枝門下のカノさんの二人でした。数日間の山登りを一緒にしただけで評価などできる訳がないではないか、とぼく達は主張し、所長は、いや記録を残すためだけですからとがんばりました。東京の若い大学山岳部OBの講師達の中には、「それはいい。評価用紙をちらつかせて、しごくか」などと、冗談にしても、アホみたいなことをいっている者もいました。
さんざんもめたあげく、結論としては、原則としてオール3。特に目立ち、自信をもって判定できる点についてのみ、4と2をつけるということで合意に達しました。でも、これも次の所長の時からなくなりました。
最初の頃は、ぼくはずっと、大学山岳部リーダー対象のクラス専門だったのですが、途中から、高校山岳部顧門のクラスも持つようになったのです。その最初の時、イトー専門職が、彼もここに来るまでは高校の教師だったのですが、小声でぼくに耳うちし、
「いちばん何にもできないのに、口だけ達者なのが、高校教師のクラスなんです」
ぼくはなんだか、自分のことを云われたような気がしないでもなかったのです。
朝寝坊して、昼前に出発し、岩を登って遊んでいたら、日が暮れました。岩場の下山路を手探ぐりで降って、テント場に帰りついたら七時でした。昨夜から、ぼくは、ここ、大原のコンピラの岩場に来ています。敬老の日で連休になる土曜日から、高校山岳部の連中が十五人程で合宿を計画したのです。岩登りですから、ほっとく訳にもゆかず、付添ってきました。
この連載原稿に追われていたのですが、数日前から、中国登山協会親善訪日団が来洛して、レセプショソやらパーティーやら昼食会やらと、ニーハオ、カンペー、シェシェの繰り返しです。とても原稿書きどころではありませんでした。ぼくは、原稿用紙持参で、コンピラに来たんです。
暗闇のテント場に帰り着くと、早速、ザイル二巻きを積み重ねて椅子を作りました。持参した丸い大型ゴミ箱を前に据え、ベニヤ板を置くと、机ができ上り。
太い杉の木に張り渡した細引きに、ブタンガスのランプをぶら下げました。見上げると、亭亭とそびえたつ北山杉が、うす白く浮かび、さらに目をこらすと、黒々と茂った木棺のはるかその奥に、星が数個またたいているのがなんとか見てとれます。
生徒達は、ビーフシチューを作り始めたようです。テントに帰って来るなり花尻橋の方に向かったOBが、生ビールを買ってきました。つまみは、ぼくが持ってきた魚そーめん、酢だこに高知名産の「酒盗」。
原稿書きは、しばらく中断して、ビールを飲むことにします。
谷の瀬音がかすかにきこえ、虫のすだく声が澄んで聞こえてきます。あるともつかないかすかな風が、頬をなぜています。なんとも気分がよい。
岩登りの疲れがあったのか、少しの生ビールは、急激に回り、ぼくは眠り込んでしまったようでした。少し湿った山土は、ひんやりとして心地よく、なんだか大地の霊気が、身体にしみ通って、全細胞が甦えるような気がする。やっぱり人間は、少し小石のあるゴチゴチとした地面に寝ないと、おかしくなるんではないか。フワフワの蒲団や、スプリングのよく利いたベッドなどに寝ていたら、頭までふやけてしまうのではなかろうか。なんだかそんな気がして来ます。
だからぼくは、山に登ることよりも、山で寝ることをすすめている訳です。山岳部員などは、テントから通学したらよい。
本多勝一との『極限の民族』やベトナム取材で有名な、朝日新聞の編集委員、藤木高嶺さんは、旧制中学の頃、六甲の岩場のテントから通学を姶めたのだそうです。父親は山登りで有名な九三氏ですから文句はいわなかったのですが、テントの一人暮らしが1ヶ月に及ぶ頃、たまりかねた母親が担任に相談したらしい。ある日の夕方、肉と酒を土産に山に登って来た担任の教師は、
「藤木君、一晩どうかね、ぼくを泊めてくれんか」
♣♣
その担任の教師が持参した肉で酒を汲み交し、二人は、そのまま眠りました。翌朝、その先生は、
「どうや、テントたたむの手伝うよ」
と、いいました。「お母さんが心配してる。いっぺん帰ったら……」といわれて、藤木さんは、ようやく山を下ることにしたのだそうです。
まあ、テントでの一人住いなどということは、そうした生活技術を身につけている山岳部員でも、そう簡単にやれることでないのかも知れません。そこで、ぼくは、生徒に一人旅をすすめている。多分親は心配して反対するだろうから、その対策を立てること。特に女の場合は、なかなか大変なようで、ハイミスのおばちゃんでさえ、「親が心配して……」などといっているのを聞くと、なんだかけったいな気分になります。ぼくは、適当にごまかせ、嘘も方便、とけっこうけしからんことを、かなり堂々と述べております。
いつだったか、一人の生徒が、夏休み前、テント生活について、質問にやってきました。彼は、自転車に乗って、東海道を走り、東京まで行く積りなのだそうです。日程については別にして、テソトやコンロ等の装備について、相談に乗ったのです。何回目かに来た時、ぼくは、フト思い付いて、
「旗たてて走れ。京都———東京と書いた幟たてるんや」
と、いいました。
このアイデアはよかったらしく、遊園地などで休んでいると、買物帰りのオバさんなどが、「がんばりなさいよ」と激励し、お菓子やアイスクリーム等をくれた。そういうことが各地であったそうです。食糧に関しては、各地のスーパーで買う。生鮮野菜と米等は、都会からできるだけ離れた田舎の農家で頼む。これも頂戴することが多かったようです。だいたい田舎の人ほど親切なのです。
今回のコンビラの合宿でも、一人の生徒が米を持ってくるのを忘れ、大原の農家で、分けて下さいと頼んだら、十合(この頃の生徒は、一升のことを十合、一升五合は十五合という)もくれたのだそうです。
話を元に戻して、彼が鈴鹿峠を走り下り、愛知県に入った時、日が暮れ、ちょうどあった交番で、テント場について相談します。すると、その巡査は、「高校生が他府県ヘー人で旅行するとは不届きだ」と頭ごなしにしかりつけた。「なんだか関所役人という感じでした」
彼はあてどなく、町をさまよっていると、高校があって、柔道のかけ声が聞えました。柔道部員の彼は、そこにゆき、自己紹介すると、合宿中の部員達は大歓迎し、そこに泊って飯も食わしてもらったといいます。
こうした話は、彼が、ぼくの授業を取っていたので、一時間つぶして報告会をやってもらった時に聞いたのです。一番苦しかったのは、箱根越えだったそうです。
「帰り、新幹線がすぐトンネルに入り、あっという間に出る。この上を汗をたらして越えたのか。そう思うと、とても複雑な気分になりました」
と彼は報告を結びました。
♣♣♣
同じ年の二学期の末期、別の生徒が現われ、冬の北海道旅行の計画を打ち明けました。旅行といっても、彼の計画は、自転車で走るというのです。あの頃は、よほど自転車がはやりだったらしい。
それにしても、雪の上を自転車で走れるのかいな。ぼくは心配になりました。でも彼は、大丈夫だと答えました。その生徒がぼくに聞きたかったのは、雪の中でどうやって寝るか、ということでした。なんでも、ほとんど車の通らない道の峠越えが、予定コースにあるのだそうです。
もちろん装備についていろいろアドバイスしたのですが、ぼくが最も強調したのは、最後は装備ではない、ということでした。最終的にはオノレ白身の身体や。だから身体を寒さに慣らすこと。
ぼくが示した方法は、夜、ベランダで寝る。そしてどんどん蒲団を薄くする。さらには、早朝、桂川の土手を走る。ランニングシャツとショートパンツで、自転車で走ったらいいのではないか。
しばらくして廊下ですれちがったら、「やってますよ」ということでした。それ切り会わず、冬休みになり、ぼくも彼のことは忘れていました。
三学期が始まった日、彼が現われ、「行って来ました」とケロリとしています。予定通り完走した。一日、やはりあの峠越えが大変で、吹雪の吹きっさらしのバス停の片屋根ベンチで一夜を過ごしたと語りました。シートにくるまっていたのだが、やはり、少々はこわかったそうです。
この他にも四国一周を目指した奴もいるし、古タイヤチューブのいかだで保津峡を下った連中もいる。
こうした生徒を見ていると、計画をやりとげた後は、なにか前とちがってくるような気がするのです。ぼくの勝手な先入観によるものでは、どうもないようです。やっぱり、単純にいって、どことなくしっかりしてくる。なんだか、顔つきまで違っています。
東海道の生徒の場合、おそらく彼は、あの旅において、何十人という見知らぬ人達とかなり印象的な出会いを経験したはずです。そういう出合いを通じて、ある人間観みたいなものを得始めたのではないだろうか。また、毎日遭遇する出来事の一つ一つに、自分自身の判断を下さねばならないということがあって、自分の判断の限界が分ってきたという意味も含めて、判断力に自信がついたはづです。
北海道の生徒の場合、もっとシビアな状態で、判断力の自信を得たといえるでしょう。そうであれば、顔つきが変ってきても、何の不思議もありません。
それにしても、近ごろ、こうした旅をする生徒がまったくいなくなりました。
家と学校を決り切った時間に往復する。そういう単調な、他律的な、管理された空間の世界では、何の発見もないし、何の自覚も得ることはむづかしい。子供は幼稚園児のまま高校、大学へと進む。それが、今日の「若者の幼児化」の実態ではないかという気がします。
♣♣♣♣
大分前のことですが、いまいった、生徒の冒険旅行みたいな話を文部省の登山研修所で話したことがありました。一人の研修生の教師が質問して、
「もし何かの事故が起こったら、どうされるんですか」
つまり、事故が起こったら、それは止めさせなかったぼくの責任で、どう責任をとるのか、というのです。
そこでぼくは、彼に「山での事故は不可抗力的に起こることもある」ことを認めてもらってから、「例えば、あなたが同行している合宿で事故が起こったら、あなたはどう責任をとりますか」と切り返しました。彼はやや考えてから、
「おそらく一生、良心の苛責に悩むと思います」
ぼくは、イライラしてしまい、「それで責任をとったことになるんかなあ」と言いました。
教師は、「そんなことでは責任がもてない」などという具合に、どうも二言目には責任、責任というけれど、ぼくに云わすれば、もともと、責任などなんにも取れないのです。
この時は、このあと、研修生の先生方が二派に分れてかなり議論を闘わせました。いまかりに、研修所で、ぼくが同じ話をしたとしても、おそらく、あんまり反応はないのではないか。「へええ、そんな生徒もいたのか」てなもんで、それだけでしまいなのではないか。どうもそんな気がします。これはちょうど、今日この頃の生徒の状況とおなじことです。
考えてみれば、教師も、その前は生徒であり学生、若者であったのだから、当り前のことなのかも知れません。
文部省登山研修所には、もう二十年近く前の開設当時の第一回研修から、ずっと講師をしていましたから、色々と面白いことがありました。最初の頃は、講師も、研修生と一緒に朝の国旗掲揚に参加しなければならなかった。数年のうちにだんだん出て行かなくなり、二人目の所長の時からは、出向く必要がなくなりました。
ところが、この所長は、研修生の評価をしろといいだした。最も強硬に反対したのは、ぼくと、東大の中根千枝門下のカノさんの二人でした。数日間の山登りを一緒にしただけで評価などできる訳がないではないか、とぼく達は主張し、所長は、いや記録を残すためだけですからとがんばりました。東京の若い大学山岳部OBの講師達の中には、「それはいい。評価用紙をちらつかせて、しごくか」などと、冗談にしても、アホみたいなことをいっている者もいました。
さんざんもめたあげく、結論としては、原則としてオール3。特に目立ち、自信をもって判定できる点についてのみ、4と2をつけるということで合意に達しました。でも、これも次の所長の時からなくなりました。
最初の頃は、ぼくはずっと、大学山岳部リーダー対象のクラス専門だったのですが、途中から、高校山岳部顧門のクラスも持つようになったのです。その最初の時、イトー専門職が、彼もここに来るまでは高校の教師だったのですが、小声でぼくに耳うちし、
「いちばん何にもできないのに、口だけ達者なのが、高校教師のクラスなんです」
ぼくはなんだか、自分のことを云われたような気がしないでもなかったのです。
16.ほんまに腹たつなあ
♣
自分の子供が学齢期に達し、学校にゆくようになると、ぼくも父親ということになったらしく、父兄会とか両親学級とかの通知がやってくるようになりました。
女房は、行きましょうと誘います。でも、そうしたものは、決まって、日曜日とか、祭日とか、ぼくの最も重要な時間にあるのが普通でした。ほとんどスケジュールが詰っていど、あんまり行ったことありません。
息子が小学校の時、母親が、個人懇談というのに出席して帰ってくると、
「お父さんは、もっと一緒に遊んであげてほしい」と担任の先生がいったと、ぼくに話しました。女房に、よく問いただしてみたのですが、息子が、担任にそう告げたのではないようです。どうやら、息子の情緒不安定な状況から、担任がそう推測したらしいのです。
その先生の気持は分らぬではなかったけれど、ぼくは、頭にきました。
「なに、遊んでやれ。どうやって遊ぶんだ。ゲームするんか。トランプするんか。相撲とるんか。そんなことしとるヒマがあるか。若僧が、遊んでやれだと。えらそうなこというな」
ぼくは、息子にサービスする気なんか全くないし、自分が遊ぶことだけで精一杯です。まあ、子供もー緒に遊べることなら、一緒にやるのは別にイヤでもありません。だから、スキーにしろ山にしろ、連れていくこともある。しかし、そうした計画は、ほとんどの場合、あくまでもぼくが行くのであって、子供達のためのもんではありません。
それにぼくが、なんの相談もしていないのに、担任に、家のことまで指図されるいわれは全くない。だいたい教師は、あつかましく、家の内部のことにまで口出ししすぎる。
もし、ある生徒に、なんらかの情緒反応とか、異常な行動があったとしても、そんな単純な憶測だけで、父親・母親にえらそうに指図すべきではないと思うのです。だから、ぼくの子供のような場合、担任は、父親と遊んでいないのが原因かどうかを、まず本人を観察したり、たずねたりして、確認すべきでしょう。そして、かりにそうだ、それが原因だということになっても、なにも、親にいうべきではない。なにより、その児童・生徒本人に、「お父さんに遊んでほしいと自己表示しろ」ということをアドバイスすべきなのではないか。そう思うのです。
だいたい教師は、生徒と家庭との二重スパイみたいな役割を負わされている訳ですが、そうした認識は、あまりない。一生懸命にスパイに精を出す先生が、熱心な先生だみたいなことにもなっている。
賢い生徒が、二重スパイに、本当の心のうちを明かす訳がありません。だから、教師は、原則として、生徒の頭ごしに、親と連絡をとったりすべきではない。ぼくは、そう考えています。
♣♣
むかし、中学に勤めていた頃、担任の生徒の父親から電話がかかり、会いたいということです。その、ある私立大学の学生課に勤める父親は、学校に現われると、子供に会いたいというのです。父親が学校に来て、子供に会いたいとは、変な話だな、と思いました。
二人が、ぼくの前で会って、父親が母親のことや、今住んでる住所などをきいていることから、ぼくには、だいたいの察しがついてきました。母親に男ができて、子供をつれて家出したらしいのです。父親は、その後、何度も学校にやってきました。ぼくが担任をしているその子供は、別に父親に会うのを嫌がりもしていないので、二人が学校で会うために、便宜をはかっていた訳です。
そうしているうちに、父親は、母親に会えるように取計らってほしいと頼みました。あんまり気が進まなかったけれど、しかたなく約束させられたのです。母親に連絡すると会わないという返事です。それで、次に父親が来た時、その旨伝えると、彼は、いかにもぼくの努力が足りないような言い草で、不満を表明したのです。
ぼくは、ええかげん頭にきて、
「学校は家裁とちがいますよ。ぼくは教師ですが、調停員ではありません」
と、言明したのでした。
高校に替ってすぐの頃、三年生の学年主任の先生が、ぼくを呼び、ぼくの担任の生徒の親を呼び出してあるから、同席するように伝えました。
ほっそりとした母親が現われると、その学年主任は、ダミ声を張りあげ、頭ごなしに、「お母さん、子供の将来もあることですから、家庭の乱れは大問題です。子供は母親を心の依り所にしていますから、生活態度を正してもらわないと困ります」
その美しい母親はただ恐縮しており、傍のぼくは、まるで自分が叱られたみたいに、オロオロしていました。
なんで、こういう事になったのかはよく分りませんでした。生徒が別に悪いことをした訳でもありません。ぼくは、ただ、その学年主任が事情を聞こうともしないで、頭ごなしに叱りつけたのに腹が立っていました。だから、別れぎわに、「あの先生はああいういい方をする人ですから。まあ、家庭のことは、ぼく達が分らないことが色々あるでしょうから、どうか気にしないで下さい」といっておきました。
その生徒がしばらくして、ぼくに語った所では、母親は未亡人で、世話をしているおじさんが時々家に来る。お母さんは、もっと愛想よくしてほしがっているのは分るが、ボクはその男がきらいだ、ということでした。
「お母さんはお母さん。一人の人間やし、一人の女や。お前はお前や。まあ、大人になって、君も女ができたら、分るかも知れん。それまでは人のことほっといて勉強せえ」
卒業式の翌日、彼は、「お母さんが持っていけといった」といって、ウイスキーを持って家に来ました。
♣♣♣
ある年度、ぼくはまた三年生の担任をもつことになりました。一人の女の先生が、
「センセのクラスにFいう生徒がいます。二年の担任だったけどすごい問題生徒よ。友だちはほとんどいないし、学校に来ないの。わたし毎日電話したら、電話を改造して、ベルが鳴らないようにしてしまったんよ」
それまでのぼくの経験で、「すごくいい子」と告げられた生徒のことを問題児だと思ったことはあっても、問題生徒と前評判のあった生徒が問題だなんて、一回も思ったことがなかったので、「そうですか」とだけいって、気にもとめませんでした。
F君は本当に全く学校に現われません。ホームルームで聞いてみると、一人だけ、時々電話してくるという彼の友人がいました。「自分で学校と同じ時間割で勉強してるようです。中間テストは受けるというてました」ぼくは少し安心し、まあその時にでも話してみようと思いました。
中間テストを受けに釆たF君をつかまえ、
「もしよかったら、一度話したいんやけど……」
とだけいっておきました。けれどテストが終る日になっても彼はやって来ませんでした。欠席が五分の一をオーバーすると落第という学校の規定があります。困ったな、と思っていると、数日して、彼が現われました。彼が語ったことは、こんなことでした。
五分の一の規定は知っている。自分で勉強する方が能率があがる。天体観測をやっているので、徹夜することが多い。共働きの両親は朝早いので休んでいるのを知らない。分るとうるさい。顔をみるのもいやなので、メシも自分で作って喰べる。パンとジュースで済ますことが多い。将来は天文台に勤めたい。
これに対してぼくは、こんなことを話しました。
五分の一以内の欠席なら、責任をもつ。自分でよく計算してオーバーしないように。時々教師に聞きにいって、欠席時数を確かめること。昼のホームルームに出なかった時は、連絡事項を友だちから聞くこと、パンとジュースでは、身体をこわすから、今日早速本屋で料理の本を買うこと。
「お前、電話改造したんやそうやな」
とぼくがいうと、
「簡単ですよ。ネジ一本で底をはづして、ベルに紙はさんだだけです」
「なーんや、改造というほどでもないなあ」
と、ぼく達は笑い合ったのです。
彼の母親は、最初の頃、かなりヒステリックな調子で「なんとかなりませんか」と電話してきたりしました。でも、ぽくが、「彼はちゃんと考えてやってるようですから、大丈夫でしょう」などと答えているので、とうとうあきらめて、電話もかからなくなりました。
ぼくは、彼に関しては、「まかす主義」でやろうと思っていました。「まかす主義」と「放任主義」は似ていますが、全く別のものです。
F君は、五分の一ボーダーが近づく頃より、きちんと出席し、無事卒業しました。おまけに、早稲田大学の理学部に合格したのでした。
♣♣♣♣
ぼくはもう、十数年このかた床屋に行ったことがありません。とはいっても、一生髪の毛を切らないシーク教徒というようなもんではなく、家で散髪してもらうことにしているのです。タバコを吸い、本を読みながらの庭での散髪は、なかなか気分がよい。
ある土曜日の午後、眠気をさそう春ののどかな空気の中で、散髪をやってもらっていたら、一人の男が玄関先を回って、庭にやってきました。
「ご主人、海外にいかれることはないんですか」
チャキ、チャキという鋏の声をききながら、トロリとしていたぼくは、この不意の閣入者に気分はあんまりよくなくて、「え、うん、まあ」などといっていると、
「海外旅行も盛んですし、やはり語学ができるのとできないのはエライちがいです」
そうか、英会話教材のセールスか。
「毛唐の言葉はキライやねん。ヮシ何べんも外国いったけど、みんな日本語で通しとるんや」
女房が鋏を動かしながら笑いをかみ殺しているのが分りました。
セールス氏は、意外とあっさりあきらめ、
「ところで奥さん、お子様は……。あ、そうですか、小学生。いやあ、それくらいから、英語はやっとかないとものになりません」
ぼくは、「なんでや」とききました。いや、それからがスゴかった。セールス氏は、とうとうと、語学教育論をぶち始めたのです。なかなか学問的でした。ぼくも興味にかられ、いちいち反論したんです。彼も負けてはいなかった。まあ相当のセールス教育を受けているのでしょう。そのうち彼は、ぼくを論破するのはあきらめたようで、
「お考えは分ります、でも、そういう考えでは、お子さんが可哀そうです」
その時、ぽくの怒りが爆発したんです。
「なんでオレが、あんたに説教されないかんねや。子供の教育のことで。お前なに様やねん」
あとで考えてみても、なぜあれほど腹が立ったのかよく分らない。ただ、そのセールス氏の口説きを聞いて、世の親が、いかに教育という言葉の呪文に弱いか、ということがよく分りました。
教師は、「子供のために」という副詞句と「教育的な」という形容詞のエックスキューズさえあれば、何でも家庭に要求できると思っているかのようです。一方、親の側では、子を想う親の心は闇、とりあえず何でも学校に要求すればかたづくと思っている。その狭間で、当の生徒は、宙ぶらりんです。そして、学校も家庭もお互いに、「責任はそっちにある」といい合っているかのようです。
教師は、二重スパイ的な性格をできるだけおさえ、家庭と学校は、その境界と責任の範囲を明確にすることから初めなければならないのではないでしょうか。
自分の子供が学齢期に達し、学校にゆくようになると、ぼくも父親ということになったらしく、父兄会とか両親学級とかの通知がやってくるようになりました。
女房は、行きましょうと誘います。でも、そうしたものは、決まって、日曜日とか、祭日とか、ぼくの最も重要な時間にあるのが普通でした。ほとんどスケジュールが詰っていど、あんまり行ったことありません。
息子が小学校の時、母親が、個人懇談というのに出席して帰ってくると、
「お父さんは、もっと一緒に遊んであげてほしい」と担任の先生がいったと、ぼくに話しました。女房に、よく問いただしてみたのですが、息子が、担任にそう告げたのではないようです。どうやら、息子の情緒不安定な状況から、担任がそう推測したらしいのです。
その先生の気持は分らぬではなかったけれど、ぼくは、頭にきました。
「なに、遊んでやれ。どうやって遊ぶんだ。ゲームするんか。トランプするんか。相撲とるんか。そんなことしとるヒマがあるか。若僧が、遊んでやれだと。えらそうなこというな」
ぼくは、息子にサービスする気なんか全くないし、自分が遊ぶことだけで精一杯です。まあ、子供もー緒に遊べることなら、一緒にやるのは別にイヤでもありません。だから、スキーにしろ山にしろ、連れていくこともある。しかし、そうした計画は、ほとんどの場合、あくまでもぼくが行くのであって、子供達のためのもんではありません。
それにぼくが、なんの相談もしていないのに、担任に、家のことまで指図されるいわれは全くない。だいたい教師は、あつかましく、家の内部のことにまで口出ししすぎる。
もし、ある生徒に、なんらかの情緒反応とか、異常な行動があったとしても、そんな単純な憶測だけで、父親・母親にえらそうに指図すべきではないと思うのです。だから、ぼくの子供のような場合、担任は、父親と遊んでいないのが原因かどうかを、まず本人を観察したり、たずねたりして、確認すべきでしょう。そして、かりにそうだ、それが原因だということになっても、なにも、親にいうべきではない。なにより、その児童・生徒本人に、「お父さんに遊んでほしいと自己表示しろ」ということをアドバイスすべきなのではないか。そう思うのです。
だいたい教師は、生徒と家庭との二重スパイみたいな役割を負わされている訳ですが、そうした認識は、あまりない。一生懸命にスパイに精を出す先生が、熱心な先生だみたいなことにもなっている。
賢い生徒が、二重スパイに、本当の心のうちを明かす訳がありません。だから、教師は、原則として、生徒の頭ごしに、親と連絡をとったりすべきではない。ぼくは、そう考えています。
♣♣
むかし、中学に勤めていた頃、担任の生徒の父親から電話がかかり、会いたいということです。その、ある私立大学の学生課に勤める父親は、学校に現われると、子供に会いたいというのです。父親が学校に来て、子供に会いたいとは、変な話だな、と思いました。
二人が、ぼくの前で会って、父親が母親のことや、今住んでる住所などをきいていることから、ぼくには、だいたいの察しがついてきました。母親に男ができて、子供をつれて家出したらしいのです。父親は、その後、何度も学校にやってきました。ぼくが担任をしているその子供は、別に父親に会うのを嫌がりもしていないので、二人が学校で会うために、便宜をはかっていた訳です。
そうしているうちに、父親は、母親に会えるように取計らってほしいと頼みました。あんまり気が進まなかったけれど、しかたなく約束させられたのです。母親に連絡すると会わないという返事です。それで、次に父親が来た時、その旨伝えると、彼は、いかにもぼくの努力が足りないような言い草で、不満を表明したのです。
ぼくは、ええかげん頭にきて、
「学校は家裁とちがいますよ。ぼくは教師ですが、調停員ではありません」
と、言明したのでした。
高校に替ってすぐの頃、三年生の学年主任の先生が、ぼくを呼び、ぼくの担任の生徒の親を呼び出してあるから、同席するように伝えました。
ほっそりとした母親が現われると、その学年主任は、ダミ声を張りあげ、頭ごなしに、「お母さん、子供の将来もあることですから、家庭の乱れは大問題です。子供は母親を心の依り所にしていますから、生活態度を正してもらわないと困ります」
その美しい母親はただ恐縮しており、傍のぼくは、まるで自分が叱られたみたいに、オロオロしていました。
なんで、こういう事になったのかはよく分りませんでした。生徒が別に悪いことをした訳でもありません。ぼくは、ただ、その学年主任が事情を聞こうともしないで、頭ごなしに叱りつけたのに腹が立っていました。だから、別れぎわに、「あの先生はああいういい方をする人ですから。まあ、家庭のことは、ぼく達が分らないことが色々あるでしょうから、どうか気にしないで下さい」といっておきました。
その生徒がしばらくして、ぼくに語った所では、母親は未亡人で、世話をしているおじさんが時々家に来る。お母さんは、もっと愛想よくしてほしがっているのは分るが、ボクはその男がきらいだ、ということでした。
「お母さんはお母さん。一人の人間やし、一人の女や。お前はお前や。まあ、大人になって、君も女ができたら、分るかも知れん。それまでは人のことほっといて勉強せえ」
卒業式の翌日、彼は、「お母さんが持っていけといった」といって、ウイスキーを持って家に来ました。
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ある年度、ぼくはまた三年生の担任をもつことになりました。一人の女の先生が、
「センセのクラスにFいう生徒がいます。二年の担任だったけどすごい問題生徒よ。友だちはほとんどいないし、学校に来ないの。わたし毎日電話したら、電話を改造して、ベルが鳴らないようにしてしまったんよ」
それまでのぼくの経験で、「すごくいい子」と告げられた生徒のことを問題児だと思ったことはあっても、問題生徒と前評判のあった生徒が問題だなんて、一回も思ったことがなかったので、「そうですか」とだけいって、気にもとめませんでした。
F君は本当に全く学校に現われません。ホームルームで聞いてみると、一人だけ、時々電話してくるという彼の友人がいました。「自分で学校と同じ時間割で勉強してるようです。中間テストは受けるというてました」ぼくは少し安心し、まあその時にでも話してみようと思いました。
中間テストを受けに釆たF君をつかまえ、
「もしよかったら、一度話したいんやけど……」
とだけいっておきました。けれどテストが終る日になっても彼はやって来ませんでした。欠席が五分の一をオーバーすると落第という学校の規定があります。困ったな、と思っていると、数日して、彼が現われました。彼が語ったことは、こんなことでした。
五分の一の規定は知っている。自分で勉強する方が能率があがる。天体観測をやっているので、徹夜することが多い。共働きの両親は朝早いので休んでいるのを知らない。分るとうるさい。顔をみるのもいやなので、メシも自分で作って喰べる。パンとジュースで済ますことが多い。将来は天文台に勤めたい。
これに対してぼくは、こんなことを話しました。
五分の一以内の欠席なら、責任をもつ。自分でよく計算してオーバーしないように。時々教師に聞きにいって、欠席時数を確かめること。昼のホームルームに出なかった時は、連絡事項を友だちから聞くこと、パンとジュースでは、身体をこわすから、今日早速本屋で料理の本を買うこと。
「お前、電話改造したんやそうやな」
とぼくがいうと、
「簡単ですよ。ネジ一本で底をはづして、ベルに紙はさんだだけです」
「なーんや、改造というほどでもないなあ」
と、ぼく達は笑い合ったのです。
彼の母親は、最初の頃、かなりヒステリックな調子で「なんとかなりませんか」と電話してきたりしました。でも、ぽくが、「彼はちゃんと考えてやってるようですから、大丈夫でしょう」などと答えているので、とうとうあきらめて、電話もかからなくなりました。
ぼくは、彼に関しては、「まかす主義」でやろうと思っていました。「まかす主義」と「放任主義」は似ていますが、全く別のものです。
F君は、五分の一ボーダーが近づく頃より、きちんと出席し、無事卒業しました。おまけに、早稲田大学の理学部に合格したのでした。
♣♣♣♣
ぼくはもう、十数年このかた床屋に行ったことがありません。とはいっても、一生髪の毛を切らないシーク教徒というようなもんではなく、家で散髪してもらうことにしているのです。タバコを吸い、本を読みながらの庭での散髪は、なかなか気分がよい。
ある土曜日の午後、眠気をさそう春ののどかな空気の中で、散髪をやってもらっていたら、一人の男が玄関先を回って、庭にやってきました。
「ご主人、海外にいかれることはないんですか」
チャキ、チャキという鋏の声をききながら、トロリとしていたぼくは、この不意の閣入者に気分はあんまりよくなくて、「え、うん、まあ」などといっていると、
「海外旅行も盛んですし、やはり語学ができるのとできないのはエライちがいです」
そうか、英会話教材のセールスか。
「毛唐の言葉はキライやねん。ヮシ何べんも外国いったけど、みんな日本語で通しとるんや」
女房が鋏を動かしながら笑いをかみ殺しているのが分りました。
セールス氏は、意外とあっさりあきらめ、
「ところで奥さん、お子様は……。あ、そうですか、小学生。いやあ、それくらいから、英語はやっとかないとものになりません」
ぼくは、「なんでや」とききました。いや、それからがスゴかった。セールス氏は、とうとうと、語学教育論をぶち始めたのです。なかなか学問的でした。ぼくも興味にかられ、いちいち反論したんです。彼も負けてはいなかった。まあ相当のセールス教育を受けているのでしょう。そのうち彼は、ぼくを論破するのはあきらめたようで、
「お考えは分ります、でも、そういう考えでは、お子さんが可哀そうです」
その時、ぽくの怒りが爆発したんです。
「なんでオレが、あんたに説教されないかんねや。子供の教育のことで。お前なに様やねん」
あとで考えてみても、なぜあれほど腹が立ったのかよく分らない。ただ、そのセールス氏の口説きを聞いて、世の親が、いかに教育という言葉の呪文に弱いか、ということがよく分りました。
教師は、「子供のために」という副詞句と「教育的な」という形容詞のエックスキューズさえあれば、何でも家庭に要求できると思っているかのようです。一方、親の側では、子を想う親の心は闇、とりあえず何でも学校に要求すればかたづくと思っている。その狭間で、当の生徒は、宙ぶらりんです。そして、学校も家庭もお互いに、「責任はそっちにある」といい合っているかのようです。
教師は、二重スパイ的な性格をできるだけおさえ、家庭と学校は、その境界と責任の範囲を明確にすることから初めなければならないのではないでしょうか。
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