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15.なんでバイク乗るねん
♣
あれはたしか、栄作ちゃんか角栄ちゃんの頃だったから、もうずいぶんと昔のことです。たしかその頃、政府が、教師は聖職だ、みたいなことを云い出した。
それ反動だ、「いつか来た道」だと騒がしくなっていた時、こんどは、共産党が、教師は労働者とはいっても一般の労働者とは異なるという見解を出しました。なにいうとる、教育労働者は教育労働者ではないか、と社会党が怒った。
あんまり細かいことまでは知らないし、昔のことなので、すごく正確ではないかもしれませんが、まあだいたい、大筋はそんなところだったと思うんです。
ちょうどその頃、一人の生徒が、ぼくの部屋にやって来るとこう切り出しました。
「教師は労働者ですか、聖職ですか。どっちやと思うたはるんですか」
ぼくは一瞬身構えてしまい、少し考えてから、
「まあ聖職でないことはたしかやなあ」
すると、その生徒、キッと開き直り、「ほんなら労働者ですか。センセイは労働者ですか」と難詰してくる感じなのです。ぼくは、グッと詰まり、それからこっちも居直り、
「労働者やったらなんでいかんねん」
と、返しました。
「当り前ですよ。労働者は何を作るんですか。ぼくらは製品ですか。工場生産の部品ですか。流れ作業の規格品ですか」
なるほど、そういうことか。そう思うのも無理ないなあ、とも思いました。それでぼくは、「君は、聖職論かいな」とききました。すると、彼は憤然として、
「なにが聖職ですか。毎年おんなじことをバカみたいに繰り返ししゃべり、おんなじ説教していて……」
ぼくは少し混乱してきました。
「そうか。お前、教師テープレコーダ論やな」
すると彼はニヤリとして、
「ちがいます。ぼくは、教師ジューク・ボックス論です」
「なんやそれ」
「ジューク・ボックスは、ボタンを押した通りの曲を鳴らすでしょう。教師も、生徒が押したボタンの答を正確に鳴らしたらそれでいい。それ以上でも、それ以下でもないんです。教師なんか」
ぼくは、カッときました。ジューク・ボックスにされてたまるか。
これは大分後に聞いた話なのですが、岐阜大学の学園紛争の時、大衆団交に引っぱり出された学長の今西錦司さんは、学生どもに、「お前、それでも学長か」と詰め寄ってやじられ、
「ちがう。オレはサルじゃ」
と、やったのだそうです。学生がどっと湧いたといいます。ジューク・ボックスにされて、頭に来たのですが、今西さんみたいにゆう訳にもゆかずぼくは、
「バカもん、オレは人間じゃ」
♣♣
しばらくして中間テストになりました。あの、教師ジューク・ボックス論の生徒の答案を見ると、白紙答案でした。そしてこんなことが書いてありました。
〈ぼくは答えてはならない。何にも答えないことが、ぽくがぼくであることの証しなのである〉。
なんだか分るような気もしました。それにしても、一体どうなってるんや。ぼくは気になり、彼の友人の一人にたづねてみると、
「全教科、白紙で出したそうですよ。あいつオカシイんですワ」
ぼくはおかしいとは思わなかった。とにかく、勝手にもがいて、自分なりに答を出しよったら、それでいいことや。そう思って、何にもいわず、ほっておいたんです。
ある日、新聞部の生徒が現われ、ちょっと話したいということです。サテンへ行きましょうと誘われました。桂駅前の「カザマ」に入り、ぼくが忘れたタバコを探して、ポケットをさぐっていると、一人が、サッとハイライトの箱をさし出したのです。ぼくは、
「ああ、おおきに」
と一本抜き取り、
「お前すうたらあかんぞ、すうたら、ワシ生徒部に報告せんならんしな」
彼等は意外に素直に納得しました。「それで、なんの話や」「いや別に、これといった用事もないんです。一ぺん話してみよかいうことになっただけですワ」などといっています。でも彼等はそれとなく、話を「教師聖職論」や、「憲法第九条」などに向けてきたようでした。でもぼくはほとんどなんにもコメントしませんでした。
一ケ月ほどして、「学校新聞」が発行されました。見ると、「教師聖職論」などの特集記事があって、ポイントとなるような部分は、ほとんどすべて、ぼくのコメントの形になっています。例えば、共産党が、教師が一般の労働者とはちがうということをいいだしたのは、そこでは、「高田先生によれば、共産党の人気とり政策である」という具合になっているんです。うまい具合にぼくをダミーにしたらしい。ちょっとびっくりし、腹も立ったけれど、文句もいわずほっときました。
もっと前にも似たようなことがあったのです。一九六九年、ぼくは、「西部カラコルム辺地教育調査隊」というパーティを組織してパキスタンの、スワット・ヒマラヤ地方に出掛けました。
帰国して、しばらくした頃、新聞部の生徒が現われ、原稿を依頼しました。承諾はしたものの忙がしいので、そのままにしていました。一〇日ほどして、彼がまた現われ、原稿ができていないことを知ると、もう時間がないのでインタビュー記事にするといいます。その時は時間がなく、その後もなかなかぼくがつかまらなかったのです。彼はとうとうあきらめたようでした。
ところが、新聞が出来上ると、なんと、二面見開きで堂々としたインタビュー記事がのっているではありませんか。読んでみて、さらに驚いたことには、それは本当にぼくがしゃべったみたいに書いてあります。ぼくの話をきいた生徒に取材して、この記事を作りあげたのだそうです。彼、ハットリはいま神戸新聞の社会部記者となっており、昨年のぼくのラトックⅠ峰遠征のドキュメント本を執筆中です。
♣♣♣
高校生の時、ぼくは柔道をやっていました。柔道では「打ち込み」という練習をする。弱い方が強い方に、たとえば「背負い投げ」の型で相手を投げとばそうと、何度も何度も試みる。実力に差があるし、何の技を掛けるのか分っていますから、投げとばすのはまず無理です。グッとこらえられると技はかからない。ところが、教え上手の先輩は、時として、まともな「打ち込み」がされた時だけ、かかってくれます。ググーッとした全身の努責がパッと解放され、相手の身体は宙を舞う。この感覚を味わった時から、柔道は、不思議な魅力をもつようになる。ぼくにはそう感じられました。
少したとえがよくないかも知れないけれど、教師と生徒の関係も似たようなもんではないだろうか。だから、ぼくは、少々腹は立っても、そのある種の「打ち込み」が決った時には、投げとばされてやろう。よほどでない限り、痛さも我慢しょう。そう思っている訳です。などと、ええかっこ言っていても、それが実際の場合には、やっぱり頭にきてしまうこともあるのですが……。
ただ、近ごろは、以前のように、「打ち込み」をかけてくる生徒が減ってきました。減ったというより、全くないといった方がよい。少々さびしい気がしています。
さて昨年(一九七九)の秋、新聞部の生徒が二人やって来ました。「バイク」について原稿を書いてくれという依頼です。
「へええ。新聞部て、まだあったのか」
と、ぼくはひやかしました。
ちょうど、この頃、この学校でも、「バイクの全面禁止」 が決定されたのです。かつての昔、七〇年代の初め、バイクは「届け出制」をとっていたこともありました。その時は、生徒会が責任をもつから、ということで、親の同意書があれば、誰でも乗ってこれました。それが、「許可制」となり、こんどの「全面禁止」となった訳です。
「暴走族」が問題となり、警察が、学校に知らせたらその生徒が処分されるかもしれないと、教育的配慮をして伏せていたリストを知らせてきたのがきっかけのようでした。警察が教育的配慮をし、学校は処分処分といっているようなこの頃の状況は面白いと思います。そして、その暴走族生徒個々に問題をしぼらずに、「全面禁止」となるところに、ぼく自身少々疑問はありました。
とにかく新聞部は、このバイク問題を特集するということです。ぼくが、編集方針を聞くと、その部長は、「ぼくらは中立で、どっちの味方でもないんです」などといってるんです。
「中立なんて、あり得んのとちがうか」とぼくは、少々追求してやったのです。
以前の時とおんなじように、ぼくの原稿はいつまでたってもできません。でも、彼等も、あきず憶せず、毎日毎日現われて、ただジッと待っているのです。〆切はとっくに過ぎているそうです。
「テープで取ってインタビュー記事にしたら‥…」とぼくは助け舟を出しました。
♣♣♣♣
新聞部長ともう一人の生徒は、翌日、テレコを持って現われたのですが、何の質問もしようとはせず、やがて、
「適当にしゃべって下さい」
「適当にいうても、しやべれんがな」
少しうろたえている彼等を見て、イライラし、そして可哀そうになり根負けし、
「分った分った。今晩書くし」
それにしても、ともかく、彼等は、自分達の望む主旨の原稿を手に入れたのですから立派な編集者といえるかも知れません。この記事は、「なんでバイク乗るねん」というタイトルがつけられて一面にのっていました。
ぼくは、なんかこう、「死ぬ」というか「死」ということに対する感覚が、ちょっと変ってるみたい……。たとえば、誰か知ってる人が死んでも、少し極端な言い方をすれば、「ああ死んだか」というような感じなんです。これは多分、これまで人より多く、知人の死に接してきたからかも知れません。毎年、一人か二人は、知ってる奴が、山登りで死んでいる。
でも、考えてみれば、人はいつ死ぬか分からない存在なのでしょう。勿論、生きのびる為には、あらゆる努力をしなければなりませんが、ただ、「死ぬ」かも知れないことだから止めとこうという具合には、頭が回らないようなのです。むしろ、死ぬかも知れないことだから面白い。
ぼくがいい年をして、岩登りをやったり、オートバイに乗ったりしているのは、こうした理由によるもののようです。よく人から、「自分の子供が、そういうことをやりだしたらどうします」ときかれるけれど、「しゃあないなあ」と答えています。つらいやろうけど、ガマンせんと……と思っています。
ぼくには、若者の冒険を非難する良識は、じつは、チマチマした小市民的臆病さではなかろうか。その日の安穏だけを望む、ぬるま湯的な考え方は、小心な、刹那主義ではないのか。そんな気がするし、あらゆる種類の若者の冒険を抑え込もうとする動きに、大人達の精神状況の衰退を感じてしまうのです。
この桂高校では、五・六年前は、バイクは「届け出制」でした。誰でも乗ってこれた。その時から考えると、ウソみたいですが、最近バイクは全面禁止になりました。まあそれが、学校側からの、突然の、一方的な決定であったことに問題がないとは言いきれんでしょう。でもそんなことよりも、ぼくは、どうしようもない社会状況の推移を感じてしまいます。バイクについて語る時の、その若者の瞳の輝きを美しいと思うぼくとしては、「気の毒になあ、ホント」という気がします。
そしてさらに、そんな感傷より、ぼくが、「これは問題や」と思うのは、誰一人学校に抗議しようとしないことです。「依らしむべし、知らしむべからず」に平伏している生徒ばっかりでは、京都の未来は暗いのではないか。本当の自治の心は育たないのではないか。そして、「隠れて乗るんや」では、そんなコソコソしたことでは、それが何とも「しょうもない」ことであり、何ともアホみたいなことである暴走族より劣るんではないか。そう思えるのです。
あれはたしか、栄作ちゃんか角栄ちゃんの頃だったから、もうずいぶんと昔のことです。たしかその頃、政府が、教師は聖職だ、みたいなことを云い出した。
それ反動だ、「いつか来た道」だと騒がしくなっていた時、こんどは、共産党が、教師は労働者とはいっても一般の労働者とは異なるという見解を出しました。なにいうとる、教育労働者は教育労働者ではないか、と社会党が怒った。
あんまり細かいことまでは知らないし、昔のことなので、すごく正確ではないかもしれませんが、まあだいたい、大筋はそんなところだったと思うんです。
ちょうどその頃、一人の生徒が、ぼくの部屋にやって来るとこう切り出しました。
「教師は労働者ですか、聖職ですか。どっちやと思うたはるんですか」
ぼくは一瞬身構えてしまい、少し考えてから、
「まあ聖職でないことはたしかやなあ」
すると、その生徒、キッと開き直り、「ほんなら労働者ですか。センセイは労働者ですか」と難詰してくる感じなのです。ぼくは、グッと詰まり、それからこっちも居直り、
「労働者やったらなんでいかんねん」
と、返しました。
「当り前ですよ。労働者は何を作るんですか。ぼくらは製品ですか。工場生産の部品ですか。流れ作業の規格品ですか」
なるほど、そういうことか。そう思うのも無理ないなあ、とも思いました。それでぼくは、「君は、聖職論かいな」とききました。すると、彼は憤然として、
「なにが聖職ですか。毎年おんなじことをバカみたいに繰り返ししゃべり、おんなじ説教していて……」
ぼくは少し混乱してきました。
「そうか。お前、教師テープレコーダ論やな」
すると彼はニヤリとして、
「ちがいます。ぼくは、教師ジューク・ボックス論です」
「なんやそれ」
「ジューク・ボックスは、ボタンを押した通りの曲を鳴らすでしょう。教師も、生徒が押したボタンの答を正確に鳴らしたらそれでいい。それ以上でも、それ以下でもないんです。教師なんか」
ぼくは、カッときました。ジューク・ボックスにされてたまるか。
これは大分後に聞いた話なのですが、岐阜大学の学園紛争の時、大衆団交に引っぱり出された学長の今西錦司さんは、学生どもに、「お前、それでも学長か」と詰め寄ってやじられ、
「ちがう。オレはサルじゃ」
と、やったのだそうです。学生がどっと湧いたといいます。ジューク・ボックスにされて、頭に来たのですが、今西さんみたいにゆう訳にもゆかずぼくは、
「バカもん、オレは人間じゃ」
♣♣
しばらくして中間テストになりました。あの、教師ジューク・ボックス論の生徒の答案を見ると、白紙答案でした。そしてこんなことが書いてありました。
〈ぼくは答えてはならない。何にも答えないことが、ぽくがぼくであることの証しなのである〉。
なんだか分るような気もしました。それにしても、一体どうなってるんや。ぼくは気になり、彼の友人の一人にたづねてみると、
「全教科、白紙で出したそうですよ。あいつオカシイんですワ」
ぼくはおかしいとは思わなかった。とにかく、勝手にもがいて、自分なりに答を出しよったら、それでいいことや。そう思って、何にもいわず、ほっておいたんです。
ある日、新聞部の生徒が現われ、ちょっと話したいということです。サテンへ行きましょうと誘われました。桂駅前の「カザマ」に入り、ぼくが忘れたタバコを探して、ポケットをさぐっていると、一人が、サッとハイライトの箱をさし出したのです。ぼくは、
「ああ、おおきに」
と一本抜き取り、
「お前すうたらあかんぞ、すうたら、ワシ生徒部に報告せんならんしな」
彼等は意外に素直に納得しました。「それで、なんの話や」「いや別に、これといった用事もないんです。一ぺん話してみよかいうことになっただけですワ」などといっています。でも彼等はそれとなく、話を「教師聖職論」や、「憲法第九条」などに向けてきたようでした。でもぼくはほとんどなんにもコメントしませんでした。
一ケ月ほどして、「学校新聞」が発行されました。見ると、「教師聖職論」などの特集記事があって、ポイントとなるような部分は、ほとんどすべて、ぼくのコメントの形になっています。例えば、共産党が、教師が一般の労働者とはちがうということをいいだしたのは、そこでは、「高田先生によれば、共産党の人気とり政策である」という具合になっているんです。うまい具合にぼくをダミーにしたらしい。ちょっとびっくりし、腹も立ったけれど、文句もいわずほっときました。
もっと前にも似たようなことがあったのです。一九六九年、ぼくは、「西部カラコルム辺地教育調査隊」というパーティを組織してパキスタンの、スワット・ヒマラヤ地方に出掛けました。
帰国して、しばらくした頃、新聞部の生徒が現われ、原稿を依頼しました。承諾はしたものの忙がしいので、そのままにしていました。一〇日ほどして、彼がまた現われ、原稿ができていないことを知ると、もう時間がないのでインタビュー記事にするといいます。その時は時間がなく、その後もなかなかぼくがつかまらなかったのです。彼はとうとうあきらめたようでした。
ところが、新聞が出来上ると、なんと、二面見開きで堂々としたインタビュー記事がのっているではありませんか。読んでみて、さらに驚いたことには、それは本当にぼくがしゃべったみたいに書いてあります。ぼくの話をきいた生徒に取材して、この記事を作りあげたのだそうです。彼、ハットリはいま神戸新聞の社会部記者となっており、昨年のぼくのラトックⅠ峰遠征のドキュメント本を執筆中です。
♣♣♣
高校生の時、ぼくは柔道をやっていました。柔道では「打ち込み」という練習をする。弱い方が強い方に、たとえば「背負い投げ」の型で相手を投げとばそうと、何度も何度も試みる。実力に差があるし、何の技を掛けるのか分っていますから、投げとばすのはまず無理です。グッとこらえられると技はかからない。ところが、教え上手の先輩は、時として、まともな「打ち込み」がされた時だけ、かかってくれます。ググーッとした全身の努責がパッと解放され、相手の身体は宙を舞う。この感覚を味わった時から、柔道は、不思議な魅力をもつようになる。ぼくにはそう感じられました。
少したとえがよくないかも知れないけれど、教師と生徒の関係も似たようなもんではないだろうか。だから、ぼくは、少々腹は立っても、そのある種の「打ち込み」が決った時には、投げとばされてやろう。よほどでない限り、痛さも我慢しょう。そう思っている訳です。などと、ええかっこ言っていても、それが実際の場合には、やっぱり頭にきてしまうこともあるのですが……。
ただ、近ごろは、以前のように、「打ち込み」をかけてくる生徒が減ってきました。減ったというより、全くないといった方がよい。少々さびしい気がしています。
さて昨年(一九七九)の秋、新聞部の生徒が二人やって来ました。「バイク」について原稿を書いてくれという依頼です。
「へええ。新聞部て、まだあったのか」
と、ぼくはひやかしました。
ちょうど、この頃、この学校でも、「バイクの全面禁止」 が決定されたのです。かつての昔、七〇年代の初め、バイクは「届け出制」をとっていたこともありました。その時は、生徒会が責任をもつから、ということで、親の同意書があれば、誰でも乗ってこれました。それが、「許可制」となり、こんどの「全面禁止」となった訳です。
「暴走族」が問題となり、警察が、学校に知らせたらその生徒が処分されるかもしれないと、教育的配慮をして伏せていたリストを知らせてきたのがきっかけのようでした。警察が教育的配慮をし、学校は処分処分といっているようなこの頃の状況は面白いと思います。そして、その暴走族生徒個々に問題をしぼらずに、「全面禁止」となるところに、ぼく自身少々疑問はありました。
とにかく新聞部は、このバイク問題を特集するということです。ぼくが、編集方針を聞くと、その部長は、「ぼくらは中立で、どっちの味方でもないんです」などといってるんです。
「中立なんて、あり得んのとちがうか」とぼくは、少々追求してやったのです。
以前の時とおんなじように、ぼくの原稿はいつまでたってもできません。でも、彼等も、あきず憶せず、毎日毎日現われて、ただジッと待っているのです。〆切はとっくに過ぎているそうです。
「テープで取ってインタビュー記事にしたら‥…」とぼくは助け舟を出しました。
♣♣♣♣
新聞部長ともう一人の生徒は、翌日、テレコを持って現われたのですが、何の質問もしようとはせず、やがて、
「適当にしゃべって下さい」
「適当にいうても、しやべれんがな」
少しうろたえている彼等を見て、イライラし、そして可哀そうになり根負けし、
「分った分った。今晩書くし」
それにしても、ともかく、彼等は、自分達の望む主旨の原稿を手に入れたのですから立派な編集者といえるかも知れません。この記事は、「なんでバイク乗るねん」というタイトルがつけられて一面にのっていました。
ぼくは、なんかこう、「死ぬ」というか「死」ということに対する感覚が、ちょっと変ってるみたい……。たとえば、誰か知ってる人が死んでも、少し極端な言い方をすれば、「ああ死んだか」というような感じなんです。これは多分、これまで人より多く、知人の死に接してきたからかも知れません。毎年、一人か二人は、知ってる奴が、山登りで死んでいる。
でも、考えてみれば、人はいつ死ぬか分からない存在なのでしょう。勿論、生きのびる為には、あらゆる努力をしなければなりませんが、ただ、「死ぬ」かも知れないことだから止めとこうという具合には、頭が回らないようなのです。むしろ、死ぬかも知れないことだから面白い。
ぼくがいい年をして、岩登りをやったり、オートバイに乗ったりしているのは、こうした理由によるもののようです。よく人から、「自分の子供が、そういうことをやりだしたらどうします」ときかれるけれど、「しゃあないなあ」と答えています。つらいやろうけど、ガマンせんと……と思っています。
ぼくには、若者の冒険を非難する良識は、じつは、チマチマした小市民的臆病さではなかろうか。その日の安穏だけを望む、ぬるま湯的な考え方は、小心な、刹那主義ではないのか。そんな気がするし、あらゆる種類の若者の冒険を抑え込もうとする動きに、大人達の精神状況の衰退を感じてしまうのです。
この桂高校では、五・六年前は、バイクは「届け出制」でした。誰でも乗ってこれた。その時から考えると、ウソみたいですが、最近バイクは全面禁止になりました。まあそれが、学校側からの、突然の、一方的な決定であったことに問題がないとは言いきれんでしょう。でもそんなことよりも、ぼくは、どうしようもない社会状況の推移を感じてしまいます。バイクについて語る時の、その若者の瞳の輝きを美しいと思うぼくとしては、「気の毒になあ、ホント」という気がします。
そしてさらに、そんな感傷より、ぼくが、「これは問題や」と思うのは、誰一人学校に抗議しようとしないことです。「依らしむべし、知らしむべからず」に平伏している生徒ばっかりでは、京都の未来は暗いのではないか。本当の自治の心は育たないのではないか。そして、「隠れて乗るんや」では、そんなコソコソしたことでは、それが何とも「しょうもない」ことであり、何ともアホみたいなことである暴走族より劣るんではないか。そう思えるのです。
14.みんなでやりましょう
♣
化学実験の時、試験管に試薬を注ぎ入れる操作があったとします。一人の生徒が試験管をとる。別の一人がすかさず試薬ビンをとりあげると、もう一人が、スッと栓を抜く。構えた手の試験管に試薬は見事に注ぎ入れられ、四人目の生徒が、「もうちょっと」などといいながら、試験管を睨んでいます。
それは、まったく見事ともいうべき協同動作で、ぼくはいつも感心してしまいます。とても、あんな具合には、自分はできない。感嘆しながら、なぜか、イライラしてくる。もともと、こんな操作、一人で出来るではないか。一人でやるべきもので、四人でやったんでは、みんな四分の一人前ではないのか。
スキーのシーズンに、いつもゆく知人の別荘でも面白いことがあります。常連の場合、たとえば誰かが皿洗いを初めたとしても、知らん顔をしている。ところが、初めて来た人は、誰かが皿洗いを始めると、急いで一緒にやろうとする。誰かが掃除をやりだすと、自分も一諸にやろうとする。そして、かりになんか仕事をする気が起こったとして、その時、一人ででも出来る仕事をしている人の手伝いをするのではなく、その状況に於て、自分が最も有効に働ける作業、動作を適確に見出せるようになるまでに、やはり数日はかかるようです。
いつまでたっても、そういう風にゆかない人もいるようです。そんな人は、暗黙のうちに、あかん奴という烙印を、みんなから押され、自然に排除されてしまう。面白いことに、どうやら、学校でのいい子で優等生ほど、一緒にやろうとする傾向が強いようなのです。
こうゆうことが起こってきたのは、どうやら、小学校、中学校の教育のせいではないのかしらん。ぼくは、一人合点に、そう考えています。なんでも、〈一緒にやりましょう〉と教えた結果ではないのだろうか。
高校入試の前日、ぼくは、同じグループになった一人の先生と面白い問答をしました。一つの教室を三人の教師が一グループで担当することになっていました。一人が監督二人が採点というシステムでやりますから、一時間目だけは三人は必要ないのです。一人の先生にぼくは、早く来れるかとたずねました。「いや、来れへん」という返事です。
「そうですか。それじゃ、ぼくが来ます」
「いや、ワシも来るし」
「来れるんですか。来れるんやったら来て下さい。ぼくは来ませんから」
「いや来れへん」
と、いう問答を何度もくり返したんです。結局、ぼくが来たのですが、〈一緒にやる〉には、あるいじましい平等主義と近視眼的な均等志向がある。そんな気がしました。
昨年(一九七九)、ラトック1峰遠征の折、隊員のマツミは、一人で、乾燥あげを煮しめ、飯をたくと、いなりずしを作り始めました。休養日のことです。誰も手伝いません。
おいしいいなりずしを頬張りながら、エンドウが、「手伝わずに、喰うばかりで悪いなあ、マツミさん」というと、彼は、諏訪弁で、
「いや、オレ一人でごちそうした気分にひたれるにぃ。それがいいだよ」
♣♣
ラトックから帰ってくると、顧問不在で、夏山合宿ができなかったにもかかわらず、大量に入部した山岳部一年生は、比良山に行ったとかで張り切っているようでした。
ぼくは、出来るかぎり、個人山行をするようにアドバイスしました。
あんなあ、ぎょうさんで、みんなみたいに二十何人も一緒で、ぞろぞろ歩いとるやろ。道探すのは、先頭の一人か二人や。あとは、何にも考えへん。アホみたいにくっついてるだけや。何の勉強にもならへんで。
楽しかった、面白かったと、その集団での山歩きを報告し、予定ルートを間違って歩いてきても、何の失敗意識もない彼等に、ぼくは、集団主義のある無責任さを感じたのです。
それ以後、彼等は、いわれた通り、個人で歩いているということでした。ある時、よく問いただしてみたら、一人で歩いてはいるのだけれど、全く一人では怖いので、声がとどく位の距離だけ間をあけて、歩いている。夜寝る時は、合流するのだそうです。これにはぼくも二の句がつげず、「フウーン」 と感心していたんです。
岩登りを教えてほしいと、強くいうので、二回ばかり、大原のゲレンデにゆきました。岩登りというのは、失敗すると落ちる。もちろんロープを着けるけれど、そうするとこんどは、墜落した奴に引きずり込まれることもあり得る。落石に当ることもある。という具合で、ふつうの山歩きの何倍もの危険率があります。
もし事が起ったら、ただでは済まんやろなあ、という気がいつもします。もしぼくが素人だったら、高校生には無理やとか、禁止されてるといって、止めさすこともできるでしょう。でもそうはいかない。だいたい普通の山歩きのコースでも、岩の部分は出てくるし、基本的な技術は安全のために必要です。それに、止めても、行く奴は、勝手に行くに決っている。その方がよほど危険です。
大原には、前日から行って、キャンプします。ぼくは、後から、夜中になって合流するのが常です。彼等は、ヒート・パックのカレーなどを喰い、「胆だめし」などをやって遊んでいる。これは、面白いと思いました。
未開部族では、成人のイニシエーション(通過儀礼)として、いろんな「胆だめし」があります。彼等は、自分達だけで、もうこの現代文明社会で失われた通過儀礼をやっている。そんな気がしたのです。
五月の連休に、新しく入った一年生を連れて、由良川源流に行く合宿計画を持ってきました。総勢で一九人だそうです。ぼくも参加することにしました。ただ、引率するという形はとらず、OBの京大生等三人と組んで、別パーティが同行するみたいなことにしたのです。
食糧も全く別で、山菜などをふんだんに喰いながら歩き、傍らの彼等をうらやましがらせる、というちょっと陰険なたくらみでした。
たき火の経験のない彼等は、火をぼんぼんもやし、豪勢に食事するぼく達に、少し驚いたかも知れません。でも、ぼくも、彼等には、びっくりさせられたのです。
♣♣♣
地図が読めないとか、徒渉点の選定がまずいとか、そういう技術的なことではなく、ぼくが驚いたのは、彼等の食事でした。
食糧を、個人個人が用意しているのです。数人で一緒というのもありましたが、基本的には個人です。ある奴が、ボンカレーを作っていると、その隣りでは、かつおフレークの缶詰を開けている。
ひょっとしたら、オレは個人個人と強調しすぎたのかな。そう思って、たずねてみると、答えは意外なものでした。理由は、驚いたことに荷物の量にあったのです。個人が個人の食糧をもっていると、荷物が平等に減っていく。ところが食糧をまとめて持つと、毎日、荷物の調整をせねばならず、もめる。そういう事で、自分のメシは自分で持ち、自分で作るということに、前からなっているのだそうです。
「合宿と個人山行は別やで」とぼくはいいました。荷分けはリーダーの権限でやったらいい。合宿ではみんな同じものを喰うことにした方がよいとぼくはアドバイスしました。分りました、そうしますということで、夏山合宿になりました。夏山合宿の準備会にゆくと、サブ・リーダーが黒板に、装備の荷分け品目を書き出して、くじ引きをやっています。
だいたい彼等は、くじ引きやじゃんけんが大好きです。誰かが、例えばリーダーがパッパッと決めればいいものを、いちいちくじ引きで決める。それが最も民主的なやり方だと思っているみたいです。リーダーは、会議・談合の進行係、あるいはくじ引き表作成係みたい。しかし、リーダーにとって、これほど楽なことはない。だって、全ての責任は、「くじ」や「じゃんけん」や、そうした〈決定システム〉にあるのであって、自分にはないのですから……。現代社会の反映みたいで面白いと思いました。
ぼくは、「もしザイルが、一番スリップする確率の高い一年生に当たって、そいつが谷底に落ちたらどうなるの。もう助けにも降りれへんなあ」とだけいって、この方法に反対しておきました。
合宿は、有峰から薬師岳を越えて、劔岳までの縦走コースです。現地集合で集まった登山口の折立の朝、先ず問題が発生しました。食糧係が、毎朝の献立のみそ汁に入れるだしの素を忘れたのです。ところが、十数人のメンバーは、いとも寛大で、「まあ、しやあない」と平気な顔をしています。一週間近くもダシ抜きのミソ汁飲む積りなんかなあ。
ぼくは、源流にも同行した京大山岳部員のOBと一人の高校生の二人を、有峰口まで買出しに降ろすことにしました。二人の荷物は、他の者が分けて持つ。夕方までには、追いかけて合流できるはずです。
降り出した雨の中を登り、その日の泊り場、薬師峠に着いたのは、四時頃でした。大急ぎでテントを張って、茶を沸かし、水筒につめて、買出しの二人を迎えに降るように指示しました。またジャンケンをやり出しかねないので、リーダーと相談して迎えの人選をしたんです。
ぼくは、自分で張ったテントに入ってしばらくして外に出てみると、彼等は、まだ、一つのテントに六人が群がって、テントを張ろうとしています。ほんとに、〈一緒に張りましょう〉でした。えらく時間がかかって張り終え、食事の仕度を始めました。たずねると、食事当番は決めてなくて、みんなでやるのだそうです。
♣♣♣♣
雨はずっと続きそうでした。このままではヤバイという気がしました。ぼくは、リーダーとサブ・リーダーを呼んで、話をしたのです。
リーダーは全ての指示権と決定権をもっている。そうすることが、全員の安全につながるという全員の了解があってリーダーが存在するのだ。今日のお前みたいにバテていたら、正しい判断などできんではないか。バテると思ったら自分だけ荷物を減らしても構わん。リーダーは、常に全体を見わたして、仕事の分担を指示し、作業が無駄なく効率よく進行する様にするべきだ。具体的には、一つの仕事は原則的に一人か二人でやらす。責任を明確にするためだ。もし失敗したら罰を与えること。今朝みたいに、みんなでシンめしをたいて、しかたなくそれを喰い、一人一人が食器を洗っていたのでは、腹はこわすし、出発はおくれ、全員共倒れになるぞ。
ぼくは、山では民主主義は通用せん、といいたかったのかも知れないのですが、より正確には、これは「日本の民主主義」というべきかも知れない。
翌日、薬師岳を越えて、約九時間の行動で間山のテント場につきました。いつもある雪田は消え去っており、水が得られないので、往復一時間半の所にある水場まで、五人が水運びに走ることになりました。激しい雨の中で、残りはテントを張りました。水汲み組のテントの周りに、ぼくに言いつけられて、溝を掘っていた生徒が、
「オレの寝るテントでもないのに、なんで掘らんならんね」
と、ぼやくのを聞いて、「ああ、ええよ、掘るなよ。そのかわり、水は一滴ものむな。生米かじっとれ」とぼくはいい、彼は驚いたような顔で、「分りました。分りました」といったんです。
翌日も、もっとひどい雨。この日は、十時間歩いて、暗くなって五色ケ原着。物凄い風に吹かれて、みんなガタガタふるえ、死にそうになって、必死にテントを張りました。所要時間一五分。ようやく、みんなできてきたようでした。食事当番の二名だけは三時に起き、五時には、各テントにお茶を配ります。自分の持ち場で有効に働くことが、全体の、ひいては自分の安全につながる。そういうことが分ってきたようでした。
劔岳に登って劔沢のテントに帰ってくると、大学山岳部の後輩で、富山県庁の自然保護課に勤めるヨシユキが来ていました。
ぼく達は、この出合いを喜びあい、酒を汲み交しました。この合宿の経過を話すと、「そら、タカダはん、京都教育やで」と、彼は唐突にいい、こう続けました。
「ワシなあ、娘みとって思うんやけど、富山の教育はひどいもんや。何でも競争、競争。一番になれという教育や。そのせいか、娘はどうも人をバカにしよるみたいや。人をバカにするような教育はアカンで。ワシ、娘は京都のバアチャンに預けて、京都の高校へやろ思うてたけど、今の話でちょっと考えるなあ。」
「ほんまや、京都の高校生は、みんなでテント張ろう思うてるうちに、みんな死による」
「そやけど富山の高校生やったらナ、タカダはん、一人が、あんたこの柱もち、あんたこのポール引っぱっとり、ゆうて、そいつだけ中に入りよる」
化学実験の時、試験管に試薬を注ぎ入れる操作があったとします。一人の生徒が試験管をとる。別の一人がすかさず試薬ビンをとりあげると、もう一人が、スッと栓を抜く。構えた手の試験管に試薬は見事に注ぎ入れられ、四人目の生徒が、「もうちょっと」などといいながら、試験管を睨んでいます。
それは、まったく見事ともいうべき協同動作で、ぼくはいつも感心してしまいます。とても、あんな具合には、自分はできない。感嘆しながら、なぜか、イライラしてくる。もともと、こんな操作、一人で出来るではないか。一人でやるべきもので、四人でやったんでは、みんな四分の一人前ではないのか。
スキーのシーズンに、いつもゆく知人の別荘でも面白いことがあります。常連の場合、たとえば誰かが皿洗いを初めたとしても、知らん顔をしている。ところが、初めて来た人は、誰かが皿洗いを始めると、急いで一緒にやろうとする。誰かが掃除をやりだすと、自分も一諸にやろうとする。そして、かりになんか仕事をする気が起こったとして、その時、一人ででも出来る仕事をしている人の手伝いをするのではなく、その状況に於て、自分が最も有効に働ける作業、動作を適確に見出せるようになるまでに、やはり数日はかかるようです。
いつまでたっても、そういう風にゆかない人もいるようです。そんな人は、暗黙のうちに、あかん奴という烙印を、みんなから押され、自然に排除されてしまう。面白いことに、どうやら、学校でのいい子で優等生ほど、一緒にやろうとする傾向が強いようなのです。
こうゆうことが起こってきたのは、どうやら、小学校、中学校の教育のせいではないのかしらん。ぼくは、一人合点に、そう考えています。なんでも、〈一緒にやりましょう〉と教えた結果ではないのだろうか。
高校入試の前日、ぼくは、同じグループになった一人の先生と面白い問答をしました。一つの教室を三人の教師が一グループで担当することになっていました。一人が監督二人が採点というシステムでやりますから、一時間目だけは三人は必要ないのです。一人の先生にぼくは、早く来れるかとたずねました。「いや、来れへん」という返事です。
「そうですか。それじゃ、ぼくが来ます」
「いや、ワシも来るし」
「来れるんですか。来れるんやったら来て下さい。ぼくは来ませんから」
「いや来れへん」
と、いう問答を何度もくり返したんです。結局、ぼくが来たのですが、〈一緒にやる〉には、あるいじましい平等主義と近視眼的な均等志向がある。そんな気がしました。
昨年(一九七九)、ラトック1峰遠征の折、隊員のマツミは、一人で、乾燥あげを煮しめ、飯をたくと、いなりずしを作り始めました。休養日のことです。誰も手伝いません。
おいしいいなりずしを頬張りながら、エンドウが、「手伝わずに、喰うばかりで悪いなあ、マツミさん」というと、彼は、諏訪弁で、
「いや、オレ一人でごちそうした気分にひたれるにぃ。それがいいだよ」
♣♣
ラトックから帰ってくると、顧問不在で、夏山合宿ができなかったにもかかわらず、大量に入部した山岳部一年生は、比良山に行ったとかで張り切っているようでした。
ぼくは、出来るかぎり、個人山行をするようにアドバイスしました。
あんなあ、ぎょうさんで、みんなみたいに二十何人も一緒で、ぞろぞろ歩いとるやろ。道探すのは、先頭の一人か二人や。あとは、何にも考えへん。アホみたいにくっついてるだけや。何の勉強にもならへんで。
楽しかった、面白かったと、その集団での山歩きを報告し、予定ルートを間違って歩いてきても、何の失敗意識もない彼等に、ぼくは、集団主義のある無責任さを感じたのです。
それ以後、彼等は、いわれた通り、個人で歩いているということでした。ある時、よく問いただしてみたら、一人で歩いてはいるのだけれど、全く一人では怖いので、声がとどく位の距離だけ間をあけて、歩いている。夜寝る時は、合流するのだそうです。これにはぼくも二の句がつげず、「フウーン」 と感心していたんです。
岩登りを教えてほしいと、強くいうので、二回ばかり、大原のゲレンデにゆきました。岩登りというのは、失敗すると落ちる。もちろんロープを着けるけれど、そうするとこんどは、墜落した奴に引きずり込まれることもあり得る。落石に当ることもある。という具合で、ふつうの山歩きの何倍もの危険率があります。
もし事が起ったら、ただでは済まんやろなあ、という気がいつもします。もしぼくが素人だったら、高校生には無理やとか、禁止されてるといって、止めさすこともできるでしょう。でもそうはいかない。だいたい普通の山歩きのコースでも、岩の部分は出てくるし、基本的な技術は安全のために必要です。それに、止めても、行く奴は、勝手に行くに決っている。その方がよほど危険です。
大原には、前日から行って、キャンプします。ぼくは、後から、夜中になって合流するのが常です。彼等は、ヒート・パックのカレーなどを喰い、「胆だめし」などをやって遊んでいる。これは、面白いと思いました。
未開部族では、成人のイニシエーション(通過儀礼)として、いろんな「胆だめし」があります。彼等は、自分達だけで、もうこの現代文明社会で失われた通過儀礼をやっている。そんな気がしたのです。
五月の連休に、新しく入った一年生を連れて、由良川源流に行く合宿計画を持ってきました。総勢で一九人だそうです。ぼくも参加することにしました。ただ、引率するという形はとらず、OBの京大生等三人と組んで、別パーティが同行するみたいなことにしたのです。
食糧も全く別で、山菜などをふんだんに喰いながら歩き、傍らの彼等をうらやましがらせる、というちょっと陰険なたくらみでした。
たき火の経験のない彼等は、火をぼんぼんもやし、豪勢に食事するぼく達に、少し驚いたかも知れません。でも、ぼくも、彼等には、びっくりさせられたのです。
♣♣♣
地図が読めないとか、徒渉点の選定がまずいとか、そういう技術的なことではなく、ぼくが驚いたのは、彼等の食事でした。
食糧を、個人個人が用意しているのです。数人で一緒というのもありましたが、基本的には個人です。ある奴が、ボンカレーを作っていると、その隣りでは、かつおフレークの缶詰を開けている。
ひょっとしたら、オレは個人個人と強調しすぎたのかな。そう思って、たずねてみると、答えは意外なものでした。理由は、驚いたことに荷物の量にあったのです。個人が個人の食糧をもっていると、荷物が平等に減っていく。ところが食糧をまとめて持つと、毎日、荷物の調整をせねばならず、もめる。そういう事で、自分のメシは自分で持ち、自分で作るということに、前からなっているのだそうです。
「合宿と個人山行は別やで」とぼくはいいました。荷分けはリーダーの権限でやったらいい。合宿ではみんな同じものを喰うことにした方がよいとぼくはアドバイスしました。分りました、そうしますということで、夏山合宿になりました。夏山合宿の準備会にゆくと、サブ・リーダーが黒板に、装備の荷分け品目を書き出して、くじ引きをやっています。
だいたい彼等は、くじ引きやじゃんけんが大好きです。誰かが、例えばリーダーがパッパッと決めればいいものを、いちいちくじ引きで決める。それが最も民主的なやり方だと思っているみたいです。リーダーは、会議・談合の進行係、あるいはくじ引き表作成係みたい。しかし、リーダーにとって、これほど楽なことはない。だって、全ての責任は、「くじ」や「じゃんけん」や、そうした〈決定システム〉にあるのであって、自分にはないのですから……。現代社会の反映みたいで面白いと思いました。
ぼくは、「もしザイルが、一番スリップする確率の高い一年生に当たって、そいつが谷底に落ちたらどうなるの。もう助けにも降りれへんなあ」とだけいって、この方法に反対しておきました。
合宿は、有峰から薬師岳を越えて、劔岳までの縦走コースです。現地集合で集まった登山口の折立の朝、先ず問題が発生しました。食糧係が、毎朝の献立のみそ汁に入れるだしの素を忘れたのです。ところが、十数人のメンバーは、いとも寛大で、「まあ、しやあない」と平気な顔をしています。一週間近くもダシ抜きのミソ汁飲む積りなんかなあ。
ぼくは、源流にも同行した京大山岳部員のOBと一人の高校生の二人を、有峰口まで買出しに降ろすことにしました。二人の荷物は、他の者が分けて持つ。夕方までには、追いかけて合流できるはずです。
降り出した雨の中を登り、その日の泊り場、薬師峠に着いたのは、四時頃でした。大急ぎでテントを張って、茶を沸かし、水筒につめて、買出しの二人を迎えに降るように指示しました。またジャンケンをやり出しかねないので、リーダーと相談して迎えの人選をしたんです。
ぼくは、自分で張ったテントに入ってしばらくして外に出てみると、彼等は、まだ、一つのテントに六人が群がって、テントを張ろうとしています。ほんとに、〈一緒に張りましょう〉でした。えらく時間がかかって張り終え、食事の仕度を始めました。たずねると、食事当番は決めてなくて、みんなでやるのだそうです。
♣♣♣♣
雨はずっと続きそうでした。このままではヤバイという気がしました。ぼくは、リーダーとサブ・リーダーを呼んで、話をしたのです。
リーダーは全ての指示権と決定権をもっている。そうすることが、全員の安全につながるという全員の了解があってリーダーが存在するのだ。今日のお前みたいにバテていたら、正しい判断などできんではないか。バテると思ったら自分だけ荷物を減らしても構わん。リーダーは、常に全体を見わたして、仕事の分担を指示し、作業が無駄なく効率よく進行する様にするべきだ。具体的には、一つの仕事は原則的に一人か二人でやらす。責任を明確にするためだ。もし失敗したら罰を与えること。今朝みたいに、みんなでシンめしをたいて、しかたなくそれを喰い、一人一人が食器を洗っていたのでは、腹はこわすし、出発はおくれ、全員共倒れになるぞ。
ぼくは、山では民主主義は通用せん、といいたかったのかも知れないのですが、より正確には、これは「日本の民主主義」というべきかも知れない。
翌日、薬師岳を越えて、約九時間の行動で間山のテント場につきました。いつもある雪田は消え去っており、水が得られないので、往復一時間半の所にある水場まで、五人が水運びに走ることになりました。激しい雨の中で、残りはテントを張りました。水汲み組のテントの周りに、ぼくに言いつけられて、溝を掘っていた生徒が、
「オレの寝るテントでもないのに、なんで掘らんならんね」
と、ぼやくのを聞いて、「ああ、ええよ、掘るなよ。そのかわり、水は一滴ものむな。生米かじっとれ」とぼくはいい、彼は驚いたような顔で、「分りました。分りました」といったんです。
翌日も、もっとひどい雨。この日は、十時間歩いて、暗くなって五色ケ原着。物凄い風に吹かれて、みんなガタガタふるえ、死にそうになって、必死にテントを張りました。所要時間一五分。ようやく、みんなできてきたようでした。食事当番の二名だけは三時に起き、五時には、各テントにお茶を配ります。自分の持ち場で有効に働くことが、全体の、ひいては自分の安全につながる。そういうことが分ってきたようでした。
劔岳に登って劔沢のテントに帰ってくると、大学山岳部の後輩で、富山県庁の自然保護課に勤めるヨシユキが来ていました。
ぼく達は、この出合いを喜びあい、酒を汲み交しました。この合宿の経過を話すと、「そら、タカダはん、京都教育やで」と、彼は唐突にいい、こう続けました。
「ワシなあ、娘みとって思うんやけど、富山の教育はひどいもんや。何でも競争、競争。一番になれという教育や。そのせいか、娘はどうも人をバカにしよるみたいや。人をバカにするような教育はアカンで。ワシ、娘は京都のバアチャンに預けて、京都の高校へやろ思うてたけど、今の話でちょっと考えるなあ。」
「ほんまや、京都の高校生は、みんなでテント張ろう思うてるうちに、みんな死による」
「そやけど富山の高校生やったらナ、タカダはん、一人が、あんたこの柱もち、あんたこのポール引っぱっとり、ゆうて、そいつだけ中に入りよる」
13.教師こそ主体的な旅を
♣
東京オリンピックの次の年、一九六五年、ぼくは、カラコルム・ヒマラヤの登山に行けることになりました。京都府山岳連盟の遠征登山隊に参加することになったのです。
当時は、いまみたいに、地球上のどこへ行っても日本人旅行者がいるという状況ではありません。海外登山にしても極めて珍しい時代でした。ぼくたちの隊が、京都新聞後援ということで、紙上に発表されると、山科の一人の女性が、小谷隊長宅に小包を送り着けました。そこには、九つの手製の人形が入っており、手紙が同封してありました。
--どんなに厳しい世界なのか素人の私には想像もつきません。どうか充分に気をおつけになって無事お帰り下さい。この拙い手製の人形は、そんな気持で作ったものです。皆さんのザックにでもぶらさげて下さい--(想い出して書いたので正確でないかも知れません)。
いまの時代ではちょっと考えられないことです。まあ、そういう時代でした。
ぼくたち隊員も、今から考えると、アホみたいにイキッて準備に走り回りました。だいたい今みたいに情報が豊富ではないし、必死で情報を得ても、それを解釈するだけの経験や能力がなかったようです。
その時ぼくは二十八歳で、いまみたいに、そんなエゲツナイ顔ではありません。どっちかというと紅顔の美青年だった。ぼくは、隊長のカバン持ちで、いろんな会社や役所を回っていました。これはなかなか面白かった。なんだか、だんだん世の中の仕組みが見えてくるような気がしたんです。そして、もしかしたら、ぼくの紅顔は少し厚顔になったのかも知れません。
この隊には、ドクターとして、北杜夫氏が参加しました。なにしろ、彼はドクターとはいっても神経科医ですから、「咳がでて、熱があります」というと、「あの、ルルを三錠のんで下さい」などとコマーシャルみたいなことをいっていました。
彼は、この失敗したカラコルム登山隊のことを後に、『白きたおやかな峰』で書きます。
ぼくは、そこで、竹屋という名前で、化学ではなく生物の教師になっています。きっと彼がとり違えたのでしょう。
さて、ぼくと、山岳部後輩のウエダ君の二人は、先発で、本隊より一ケ月先行して、パキスタンのカラチに向け、出発することになりました。二人は、連盟会長のスミクラさんの家にあいさつにゆきます。
彼はいつものように、柔かい眼差しで、ぼくを見つめながら、こういいました。
「あっちいったら、いろいろと、偉い人にも会わんならんし、交渉もせんならんやろ。気遅れするかも分らんなあ。そうした時にはネ。タカダ君、アノネ、その人がおかあちゃんと、おふとんに入ったはるときを想像したらええんやで」
♣♣
この、京都カラコルム登山隊で、ぼくは装備関係を担当していました。装備は、できる限り最上のものを、と考えていました。いまほど市販ものが多くなく、誂えることが多かったのです。
いつもの悪いくせで、なにか面白いことをやってやろうと思いだして、ぼくは羽毛服、羽毛寝袋に思いあたった訳です。
この頃では、特に日中友好条約締結後は、中国産のダウンが安く入ってくるようになったので、羽毛製品は街にあふれている。でもあの頃は、羽毛製品なんて、山の寝袋ぐらいのものでした。
その寝袋にしても、米軍のお古(ぼくら、それをアメションといっていました)で、なんでも、朝鮮の戦場から戦死死体をくるんで日本に送ってきたものを業者が買いとり、クリーニングして売っているという噂でした。
当時、フランスのモンクレ一社の羽毛服が入ってきていて、これが最高ということになっていました。なんとも素晴らしくしなやかな手ざわりで、おそろしく高価でしたが、アメションとは月とスッポンでした。
国産のものも、フェザー産業という会社から出ていましたが、布に傘地をつかっているので、ガサガサのゴワゴワです。モンクレーのものとは比較になりません。すでに産業力を誇りだしている日本にしては、なんとも不細工な話ではないか。そんなら、ひとつやってみようか。そう思ったのです。成功すれば、試作品ということでタダになるかも知れないという計算もありました。製作はフェザー産業に頼むとしても布地が問題でした。羽毛製品の布地は、極めて細かいその羽が出ない位に目がつんでいないといけない。あれほどの風合い(手ざわり)の、あんな薄い生地で、モンクレーはどうやって、羽毛の出るのを止めているのか。
こうした方面で権威の、武庫川短大のヤスダ先生に電話で問い合せると、「あれは目つぶし加工という特殊な加工がしてあるんです」と教えてくれました。
東レの技術部に頼むと、「目つぶしは、ヨットの帆にはやってますが、そんな薄いものはやったことばありません」ということです。技術畑の人は、でも、新しいことをやりたがる。OKをとりつけました。ただ、布地から織るのは時間的に無理だそうで、ぼくは、云われた通り、厖大な(生地サンプル)から、いくつかを選びだしたのです。
四、五種類を選び出してから、「これが一番いいみたいな感じですが……」とぼくがその内の一つを示すと、その技術開発部の人は、
「あのね、それは、実はブラジャー用の生地でして。あれ、以外と弾性がありまして、たて横のヤーン数がそろってないと、織維がスリップするんですよ」
それで結局、モンクレ一に決して劣らない羽毛服と羽毛寝袋の製作には成功しました。ただ、目つぶし加工の結果では、ぼくが一番いいと感じた、あの生地は不合格となったので、「これはひょっとしたら、日夜ブラジャー用の生地にくるまっておれるぞ」というぼくの一瞬の想いは、ぬか悦こびに終ったのです。
♣♣♣
パキスタンのカラチについて、ぼくは、タージ・ホテルという、まあ二流と三流の間ぐらいのホテルに投宿しました。本隊がやってくるまでの一ケ月ばかりの間、ここがぼくたち先発隊の本拠でした。
でも、この期間の大半を、ぼくたちは、日本大使館と、書記官のマキウチさんの家で過ごしたみたいです。彼は、ウルドー語の達人で、ずっとインド・パキスタン勤務だったので、この地には通じていました。だから、ぼくたちにとって、彼は、ウルドー語の先生であり、パキスタンという回教圏での生活技術の先生でもあったのです。彼がパキスタン人にどの様に対応するか、交渉ごとの運びをどんな具合にやるか。それを観察し、疑問の点はあとで、飲んでいる時などにさりげなく質問する。これは、ガイド・ブック何拾冊にもまさる勉強のように思いました。
彼の下の方の息子は、たしか小学校の四年生でした。このジュンちゃんは、パキスタンで生れて、子守りのパキスタン人に育てられたので、ウルドー語は母国語みたいなものでした。マキウチさんが、ベアラー(召使い)を呼ぶときに、
「デーコー(おいこら)」
などといっていると、ぼくに「ああいう言葉は、汚い言葉なんだよ。よくないんだよ」と、注釈してくれました。英語も、英語のミッションスクールに通っていて達者なものでした。
マキウチさんは、ジュンちゃんのことを、ぼくたちに語るとき、いつも、「彼は…‥」
という風にいいました。それが、ぼくには、なにか大変新鮮にひびきました。
あるとき、ぼくは、ジュンちゃんに誘われて映画を見にいきました。少し前に、イギリス映画の「嵐ケ丘」を見たとき、大体分ったので、行く気になったのです。ところが、この時はハリウッド映画の「ヘラクレス」だったので、まったくチンプンカンプンでした。ジュンジは、一人熱心に見入っているので、「全然分らんよ」というと、彼は、
「分らなくても、見ていたら、そのうちに分るようになってくるよ。ぼくも昔は全然分らなかった」
と、いうので、ガックリ来てしまいました。
彼は、中学から日本に帰り、日本の中学に通うことになりました。さすがに、英語は得意だった。他の教科もまあまあだったそうですが、「灯台もと暗し」の意味が分らなかったりしたそうです。面白いことは、達者な英語以上にペラペラだったウルドー語を、きれいさっぱり忘れてしまったことです。ぼくが、ウルドー語の単語をいっても、「ああ、そんなのが、あったみたい」なんていってるんです。
物心づかないうちに習得した言語は、また忘れるのも早いという法則があるようです。
彼が、中学からの帰り路、黒い服をきた人が沢山群れているので、興味にかられて、「何事ですか」ときくと、誰かが、ひどく怒った顔をして、「ソウシキですよ」といったのだそうです。彼は、家に帰ると、
「ママ、誰かが、国外追放になったらしいよ」
♣♣♣♣
朝、騒がしい雀の鳴き声で目覚め、窓から下の道路を見ると、出勤する人達が歩いています。みんな、実に悠然と足を運んでゆく。その時、ぼくは、どうしてみんなあんなにゆっくり歩くんだろう、とは考えませんでした。日本では、どうしてみんな、セカセカと歩くのだろう、と考えていました。
パキスタン人は、あいさつする時は握手、少し離れていると、手をあげる。日本人は、どっちもおじきする。なんでやろ。まったく、何から何まで、なんで、なんで、なんでやろの連続でした。今まで、なんとも思っていなかった、というか、全然意識していなかったことが、全部ワッとばかり、押しよせてくるみたいな感じだった。
「ヒロシマ・ナガサキはどうなってる」ときかれて困りました。ぼくはいったことなかったし、死傷者の数も知らなかった。ショウグン・ノギのことをたずねられても、何にも答えられなかった。その他、あらゆることで、日本人でありながら、いかに日本を知らないかということを思い知らされたのです。考えてみれば、ぼくは海外に出る度毎に、日本を考えさせられ、自分を考えさせられ、まあいってみれば、世界観や価値観の再検討をせまられているみたいなところがある。このカラコルム登山は、そうした経験の最初でした。
初めて、異文化、異宗教の人達との接触を体験して、日本に帰ってきたとき、わが祖国日本は、なんとなく、前とはちがったものとなっていたようです。それは、ちょうど、高い山に登って、空気の薄さに気づき、平地に降りてきて、空気の存在や、酸素の認識を得るみたいな感じといえるかも知れません。
後に起こった学園紛争の大騒ぎのなかで、ぼくが比較的冷静さを保ち得たのは、もしかしたら、こうした経験をして、日本や日本の仕組みみたいなものの認識を得ていたからかも知れない、と思うのです。
さて、最近、旅行会社が親の弱みにつけ込んだのか、親が希望するのか、子供の海外パック旅行が盛んなようです。でもあんなもの、親の一人よがり以外の意味はありません。大人であれ子供であれ、旅というものは、主体性の回復でないと意味ないし、子供を団体さんで海外にやっても、「ホーム・ステイ」させても、それはちょうど、幼児期修得言語みたいなもので、頭に残らない。
そんなことをするより、日本国内でよいから、金をもたせてほっぽり出した方がよほど勉強になるでしょう。
さて、この頃、「国際的視野の必要性」が教育界で注目されているらしく、東京都の校長試験の問題に、(国際的視野に立つ日本人の育成を学校教育の中でいかに進めるか)というのがでている。その雑誌にのっている模範解答では、「まず教師自身の国家観、世界観の成熟が必然的条件になる」そうです。ところが、そのための具体的な方策というのが、全く示されていないのです。
現場主義・体験主義のぼくに云わすれば実に簡単明瞭。教師に、主体的な旅の機会を保障すること、それが先決、最低必要条件だと思うのです。
東京オリンピックの次の年、一九六五年、ぼくは、カラコルム・ヒマラヤの登山に行けることになりました。京都府山岳連盟の遠征登山隊に参加することになったのです。
当時は、いまみたいに、地球上のどこへ行っても日本人旅行者がいるという状況ではありません。海外登山にしても極めて珍しい時代でした。ぼくたちの隊が、京都新聞後援ということで、紙上に発表されると、山科の一人の女性が、小谷隊長宅に小包を送り着けました。そこには、九つの手製の人形が入っており、手紙が同封してありました。
--どんなに厳しい世界なのか素人の私には想像もつきません。どうか充分に気をおつけになって無事お帰り下さい。この拙い手製の人形は、そんな気持で作ったものです。皆さんのザックにでもぶらさげて下さい--(想い出して書いたので正確でないかも知れません)。
いまの時代ではちょっと考えられないことです。まあ、そういう時代でした。
ぼくたち隊員も、今から考えると、アホみたいにイキッて準備に走り回りました。だいたい今みたいに情報が豊富ではないし、必死で情報を得ても、それを解釈するだけの経験や能力がなかったようです。
その時ぼくは二十八歳で、いまみたいに、そんなエゲツナイ顔ではありません。どっちかというと紅顔の美青年だった。ぼくは、隊長のカバン持ちで、いろんな会社や役所を回っていました。これはなかなか面白かった。なんだか、だんだん世の中の仕組みが見えてくるような気がしたんです。そして、もしかしたら、ぼくの紅顔は少し厚顔になったのかも知れません。
この隊には、ドクターとして、北杜夫氏が参加しました。なにしろ、彼はドクターとはいっても神経科医ですから、「咳がでて、熱があります」というと、「あの、ルルを三錠のんで下さい」などとコマーシャルみたいなことをいっていました。
彼は、この失敗したカラコルム登山隊のことを後に、『白きたおやかな峰』で書きます。
ぼくは、そこで、竹屋という名前で、化学ではなく生物の教師になっています。きっと彼がとり違えたのでしょう。
さて、ぼくと、山岳部後輩のウエダ君の二人は、先発で、本隊より一ケ月先行して、パキスタンのカラチに向け、出発することになりました。二人は、連盟会長のスミクラさんの家にあいさつにゆきます。
彼はいつものように、柔かい眼差しで、ぼくを見つめながら、こういいました。
「あっちいったら、いろいろと、偉い人にも会わんならんし、交渉もせんならんやろ。気遅れするかも分らんなあ。そうした時にはネ。タカダ君、アノネ、その人がおかあちゃんと、おふとんに入ったはるときを想像したらええんやで」
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この、京都カラコルム登山隊で、ぼくは装備関係を担当していました。装備は、できる限り最上のものを、と考えていました。いまほど市販ものが多くなく、誂えることが多かったのです。
いつもの悪いくせで、なにか面白いことをやってやろうと思いだして、ぼくは羽毛服、羽毛寝袋に思いあたった訳です。
この頃では、特に日中友好条約締結後は、中国産のダウンが安く入ってくるようになったので、羽毛製品は街にあふれている。でもあの頃は、羽毛製品なんて、山の寝袋ぐらいのものでした。
その寝袋にしても、米軍のお古(ぼくら、それをアメションといっていました)で、なんでも、朝鮮の戦場から戦死死体をくるんで日本に送ってきたものを業者が買いとり、クリーニングして売っているという噂でした。
当時、フランスのモンクレ一社の羽毛服が入ってきていて、これが最高ということになっていました。なんとも素晴らしくしなやかな手ざわりで、おそろしく高価でしたが、アメションとは月とスッポンでした。
国産のものも、フェザー産業という会社から出ていましたが、布に傘地をつかっているので、ガサガサのゴワゴワです。モンクレーのものとは比較になりません。すでに産業力を誇りだしている日本にしては、なんとも不細工な話ではないか。そんなら、ひとつやってみようか。そう思ったのです。成功すれば、試作品ということでタダになるかも知れないという計算もありました。製作はフェザー産業に頼むとしても布地が問題でした。羽毛製品の布地は、極めて細かいその羽が出ない位に目がつんでいないといけない。あれほどの風合い(手ざわり)の、あんな薄い生地で、モンクレーはどうやって、羽毛の出るのを止めているのか。
こうした方面で権威の、武庫川短大のヤスダ先生に電話で問い合せると、「あれは目つぶし加工という特殊な加工がしてあるんです」と教えてくれました。
東レの技術部に頼むと、「目つぶしは、ヨットの帆にはやってますが、そんな薄いものはやったことばありません」ということです。技術畑の人は、でも、新しいことをやりたがる。OKをとりつけました。ただ、布地から織るのは時間的に無理だそうで、ぼくは、云われた通り、厖大な(生地サンプル)から、いくつかを選びだしたのです。
四、五種類を選び出してから、「これが一番いいみたいな感じですが……」とぼくがその内の一つを示すと、その技術開発部の人は、
「あのね、それは、実はブラジャー用の生地でして。あれ、以外と弾性がありまして、たて横のヤーン数がそろってないと、織維がスリップするんですよ」
それで結局、モンクレ一に決して劣らない羽毛服と羽毛寝袋の製作には成功しました。ただ、目つぶし加工の結果では、ぼくが一番いいと感じた、あの生地は不合格となったので、「これはひょっとしたら、日夜ブラジャー用の生地にくるまっておれるぞ」というぼくの一瞬の想いは、ぬか悦こびに終ったのです。
♣♣♣
パキスタンのカラチについて、ぼくは、タージ・ホテルという、まあ二流と三流の間ぐらいのホテルに投宿しました。本隊がやってくるまでの一ケ月ばかりの間、ここがぼくたち先発隊の本拠でした。
でも、この期間の大半を、ぼくたちは、日本大使館と、書記官のマキウチさんの家で過ごしたみたいです。彼は、ウルドー語の達人で、ずっとインド・パキスタン勤務だったので、この地には通じていました。だから、ぼくたちにとって、彼は、ウルドー語の先生であり、パキスタンという回教圏での生活技術の先生でもあったのです。彼がパキスタン人にどの様に対応するか、交渉ごとの運びをどんな具合にやるか。それを観察し、疑問の点はあとで、飲んでいる時などにさりげなく質問する。これは、ガイド・ブック何拾冊にもまさる勉強のように思いました。
彼の下の方の息子は、たしか小学校の四年生でした。このジュンちゃんは、パキスタンで生れて、子守りのパキスタン人に育てられたので、ウルドー語は母国語みたいなものでした。マキウチさんが、ベアラー(召使い)を呼ぶときに、
「デーコー(おいこら)」
などといっていると、ぼくに「ああいう言葉は、汚い言葉なんだよ。よくないんだよ」と、注釈してくれました。英語も、英語のミッションスクールに通っていて達者なものでした。
マキウチさんは、ジュンちゃんのことを、ぼくたちに語るとき、いつも、「彼は…‥」
という風にいいました。それが、ぼくには、なにか大変新鮮にひびきました。
あるとき、ぼくは、ジュンちゃんに誘われて映画を見にいきました。少し前に、イギリス映画の「嵐ケ丘」を見たとき、大体分ったので、行く気になったのです。ところが、この時はハリウッド映画の「ヘラクレス」だったので、まったくチンプンカンプンでした。ジュンジは、一人熱心に見入っているので、「全然分らんよ」というと、彼は、
「分らなくても、見ていたら、そのうちに分るようになってくるよ。ぼくも昔は全然分らなかった」
と、いうので、ガックリ来てしまいました。
彼は、中学から日本に帰り、日本の中学に通うことになりました。さすがに、英語は得意だった。他の教科もまあまあだったそうですが、「灯台もと暗し」の意味が分らなかったりしたそうです。面白いことは、達者な英語以上にペラペラだったウルドー語を、きれいさっぱり忘れてしまったことです。ぼくが、ウルドー語の単語をいっても、「ああ、そんなのが、あったみたい」なんていってるんです。
物心づかないうちに習得した言語は、また忘れるのも早いという法則があるようです。
彼が、中学からの帰り路、黒い服をきた人が沢山群れているので、興味にかられて、「何事ですか」ときくと、誰かが、ひどく怒った顔をして、「ソウシキですよ」といったのだそうです。彼は、家に帰ると、
「ママ、誰かが、国外追放になったらしいよ」
♣♣♣♣
朝、騒がしい雀の鳴き声で目覚め、窓から下の道路を見ると、出勤する人達が歩いています。みんな、実に悠然と足を運んでゆく。その時、ぼくは、どうしてみんなあんなにゆっくり歩くんだろう、とは考えませんでした。日本では、どうしてみんな、セカセカと歩くのだろう、と考えていました。
パキスタン人は、あいさつする時は握手、少し離れていると、手をあげる。日本人は、どっちもおじきする。なんでやろ。まったく、何から何まで、なんで、なんで、なんでやろの連続でした。今まで、なんとも思っていなかった、というか、全然意識していなかったことが、全部ワッとばかり、押しよせてくるみたいな感じだった。
「ヒロシマ・ナガサキはどうなってる」ときかれて困りました。ぼくはいったことなかったし、死傷者の数も知らなかった。ショウグン・ノギのことをたずねられても、何にも答えられなかった。その他、あらゆることで、日本人でありながら、いかに日本を知らないかということを思い知らされたのです。考えてみれば、ぼくは海外に出る度毎に、日本を考えさせられ、自分を考えさせられ、まあいってみれば、世界観や価値観の再検討をせまられているみたいなところがある。このカラコルム登山は、そうした経験の最初でした。
初めて、異文化、異宗教の人達との接触を体験して、日本に帰ってきたとき、わが祖国日本は、なんとなく、前とはちがったものとなっていたようです。それは、ちょうど、高い山に登って、空気の薄さに気づき、平地に降りてきて、空気の存在や、酸素の認識を得るみたいな感じといえるかも知れません。
後に起こった学園紛争の大騒ぎのなかで、ぼくが比較的冷静さを保ち得たのは、もしかしたら、こうした経験をして、日本や日本の仕組みみたいなものの認識を得ていたからかも知れない、と思うのです。
さて、最近、旅行会社が親の弱みにつけ込んだのか、親が希望するのか、子供の海外パック旅行が盛んなようです。でもあんなもの、親の一人よがり以外の意味はありません。大人であれ子供であれ、旅というものは、主体性の回復でないと意味ないし、子供を団体さんで海外にやっても、「ホーム・ステイ」させても、それはちょうど、幼児期修得言語みたいなもので、頭に残らない。
そんなことをするより、日本国内でよいから、金をもたせてほっぽり出した方がよほど勉強になるでしょう。
さて、この頃、「国際的視野の必要性」が教育界で注目されているらしく、東京都の校長試験の問題に、(国際的視野に立つ日本人の育成を学校教育の中でいかに進めるか)というのがでている。その雑誌にのっている模範解答では、「まず教師自身の国家観、世界観の成熟が必然的条件になる」そうです。ところが、そのための具体的な方策というのが、全く示されていないのです。
現場主義・体験主義のぼくに云わすれば実に簡単明瞭。教師に、主体的な旅の機会を保障すること、それが先決、最低必要条件だと思うのです。
12.学校生活監獄暮らし
♣
学園紛争の大さわぎが終息して、高校がだいぶ平静をとりもどした頃、大学にゆくと、ぼくの先生のノダマンは、「どうや、そっちは」と、ぼくにたずねてから、
「こっちは、もう静かなもんや、みんな死んどる」
といいました。そして、「お前も、いま学生やったら、きっと、先頭切って、やっとったぞ」と断言したのです。
勿論ぼくは即座に否定しました。でも、彼は、「いやちがうで」とがんばり、「眼がちがう。ああいう学生の眼の輝きは、君が山登りやっとった時とおんなじやで」と、いい切りました。
そこまで確信をもっていわれると、もうどうしようもなく、なんやらほめられたみたいな気分になってしまい、「そうですかねえ」などといっていました。
だいたい、ノダマンは、ぼくをあんまりほめることはなかったみたいです。
卒論実験のやり方に関しては、いつもケンカみたいなことをしていました。実験の、ある段階で、やり方が五通りあったとする。ぼくは、一番成功しそうなのからやろうとする。ところが、ノダマンは、一番うまくゆきそうでないのからやれというのです。彼の考えは、ひとつの消去法で、これは正統的な科学の方法かも知れないけど、ぼくには時間の無駄に思えた。
「その方法はアカンと思います」
「やってもみんと、なんで分る」
「そら分りませんけど、こっちの方がええという気がしますし」
「そんな気分だけでやるもんとちがう」
そのうち、彼はカッカッと怒りだし、
「もうええ、君がやらん分のやり方は、ワシがやる」
ぼくにしてみれば、そんなうまく行きそうにないことは、やる気がしなかった。でも、彼は、きっと、そういうぼくの要領のよさみたいなものが気に喰わなかったのでしょう。
まだ教養課程の時、彼の講座の実験がありました。テーマは「アミノ酸のペーパークロマトグラフィー」でした。試料のアミノ酸は、自分の髪の毛を硫酸で加水分解して得ることになっていました。この加水分解だけに、まる二日位はかかります。回りくどいという気がしました。それでぼくは、先生に、
「アミノ酸は、毛髪のんでないといけないんですか」
と、きくと、「いや別に何でもええです」という話です。よし、言質はとった。
そんならと、ぼくは薬局にある栄養剤の注射アンプルを考えたのですが、一本だけでは売ってくれないだろうし、お金がかかります。ただのものはと思案したら、ありました。うどんの汁。ぼくは学生食堂にゆき、「おばちゃん、ちょっとだし汁おくれえな」
二日間準備にかかるところを、ぼくは半日ほどでやってしまい、できあがったペーパクロマトグラフを、その日のうちにもってゆくと、ノダマンは、ケゲンな顔をしました。
「いや、ウドンの汁でやりました」
彼はムッとして、「お前みたいな要領のええ奴は知らん」
♣♣
ぼくの先生は、ぼくに、職人的な、あるいはドイツ的な化学を教え込もうとしたのかも知れません。
ドイツ人は、体系的で整然としたものが好きなようで、どうも、民族体質的に全体主義的です。ところが、フランス人は、もっと感覚的、直感的で、だから、もっと個人主義的ではないかと思うんです。
たとえば、スキーの教程では、ドイツ・オーストリアのそれは、一つの技術を、細かく分解して、その一つ一つを順次教えるように配列する。全部やれるようになって始めて、その技術ができるようになるはずだと固く信じる。ところが、フランス・スキーでは、もっと個人のフィーリングを重視する。その教程はより人間的だという気がします。
ぼくは、自分がフランス人的だという気なんて、さらさらありませんが、ただ、結果が分り切っていることを、忍の一字でやりとげるなんていうことは、どうも性に合わないようなんです。
高校一年生の時、生物の先生が、「植物の正常分布曲線」を作ること、という宿題をだしました。それが、木の葉っぱであれ、米粒であれ、その大きさの分布を調べると、うんと大きいものや、うんと小さいものは少なくて、普通の大きさのものが一番多い。だから、分布曲線というのは、裾野をひっぱった山型になる。ただ、そういう形になるためには、おそらく何千個という個体を測定しなければならない。数が多ければ多いほど、曲線はなめらかなものとなります。先生は、最低、千個から二千個は測る必要があります、といいました。
あほらし、そんなどうなるか分っていることやってられるかい。時間の無駄ではないか。ぼくはそう思ったのです。
ぼくは、それでも、よりもっともらしくするため、家にあった大豆二・三〇個の長径を測り、分布範囲の、大体のめやすをつけてから、教科書的な分布曲線を下画きしました。そして、こんどは、その曲線の近辺の点をえらんで、測定したことにしての個数をでっちあげた訳です。
学校というところは、教科の中身を教えるということより、こうした教科を素材として、訓練を行なう場所のようです。そういう場所では、理解してるかどうかより、理解できるような、「真面目」な態度であるかどうかの方が、より問題となる。生徒にはいろいろあって、ある分類を試みれば、態度よくて理解してる者、態度はよいが理解できない者、態度は悪いが理解してる者、態度は悪く理解できない者。教師は、このうちの二類型を消して、別の二類型を浮かびあがらせ、「真面目な態度」であれば理解できると独善的に思い込む。「態度点」などを加減したらそうなるのは当り前でしょう。
「真面目な態度」などというのも、自分に対する、犬のような従順さを要求している訳で、そうなると、学校は忍耐の学校となり、生徒はある無感動・無表情の仮面で対抗せざるを得ない。
♣♣♣
ある時、進級判定会議で、一人の教師が、自分の教科で、その生徒を不認定にした理由を説明して、「この生徒は、0点となっていますが、はんとは、マイナス二五点なんです」
きいていた他の教師達は、みんな、どうしてマイナスなのかといぶかりました。彼は続けて、
「どうしてマイナスかというと、私は、一分遅刻に対して、一点減点するという風に申し渡してあります。ただ、後から、医師の診断書その他の証明をもって、正当な理由を申し出た時は、帳消しにしております。この生徒は試験では二〇点の得点がありますが、一度も遅刻の申し出もなく、遅刻の減点が四五点となったので、マイナス二五点ということなんです」
と説明しました。まあこんな風に詳しく説明する人は珍しい。態度点をつけている人はごくふつうにあるのですが、そうした点なんて、あんまり合理的根拠はありません。ただ、どういう風に評価は行われるかということに関しては、あの、全ての問題が生徒の論議の俎上にのった学園紛争の時でさえ、手をつけようとされなかった。まあいってみれば教師の聖域みたいなものです。
いまかりに、全部の生徒が、自分の点数を全部見せあい、評価を検討したら、どうしてそうなっているのか分らない点が続出するのではないかと思います。
それはともかく、遅刻一分で一点というのでは、まあ理由を申告すれば帳消しになるとはいうものの、五〇点取っていても、トータル五〇分の遅刻で○点となってしまう。理屈は通るとしても、ちょっとひどい。ぼくはそう思いました。それで、その先生に質問し、
「なるほど、ご説明をきいてよく分りました。ただぼくがききたいのは、その理屈で先生が遅刻された場合はどうしておられるかということです。一分につき、全生徒に、一点づつ返しておられるか、ということです」
その先生は、「そういうことはやっていません」と答えました。ぼく自身、それ以上追求する気は起りませんでした。遅刻で減点などということはあんまり突飛なことでもないのです。
そもそも、学校教育には、最初から教科教育の後にかくされたカリキュラムがあったらしいのです。
〈労働の場が、田畑や家庭から工場へ移行するにつれ、工場労働に適合することを目的とした大衆教育のシステムには、その背後にかくされたカリキュラムがあったのである。大半の産業国家に共通することだが、そのカリキュラムは、時間厳守、従順、単純反復労働への適応という三つの要素から成り立っていた(アルビン・トフラー)〉
流れ作業的な分業社会では、時間厳守は絶対的要請ですし、管理者の命令につべこべいわず従う労働者であることや、単純労働に忍耐強くたえることも必要とされる。だから、遅刻で減点し、生徒の生意気な態度で減点する教師は、なかなか立派な教師ということになる。そうするとぼくみたいに、それをおかしいと思う教師はおかしいということになるのかなあ。
♣♣♣♣
大学に入って間もないある日の午後、ぼくは大学の図書館で、赤線で真赤になった五万分の一地図に、真剣に見入っている一人の学生を見出します。興味にかられて、ぼくは話しかけ、これが、ぼくにとって、一つの決定的出会いとなって、ぼくは、それまでの気ままな一人歩きではない、より高度な山登りを始めることになる訳です。
この時、ぼくは誘われるまま、その日の夕方から、彼、スミさんと二人で比良山の縦走に出掛けることにします。彼の父は、京都府山岳連盟の会長をやっていて、比良の権威で、ガイドブックも書いている。この時の山行も、そうした本を書くための下調べを、オヤジさんから依頼されてのものだった。というようなことは、ずっと後で知りました。
それで、ぼく達は、最終の電車で高島町までゆき、その日は、蛇谷ケ峰の登り口でごろ寝をします。
翌日、「これメシの足しにしよう」と、出くわした青大将を二・三匹つかまえ、ザックにぶら下げて歩いていたら、山道を降って来た里のオバさんが、「ヘビがついてまっせ」と金切声をあげました。
コヤマノ岳から八雲ケ原へ、夕闇の中を降ってゆくと小屋がありました。スミさんが、「シーッ、囚人小屋やぞ」などというので、ぼくは、なぜかひどくビビって足音をひそめて通り過ぎたのです。ところが、その次の時、一人で日中にここを通ったら、数十人のごく普通の若者が雑木を伐っていました。
この、ぼくにとっては極めて印象的な山行で、最初の夜、たき火をしながら、スミさんは、こんな歌を唱ったんです。
「朝のはよから弁当箱さげて学校通いはつらいもの/学校生活監獄暮らし足に鎖がないばかり/学校焼け焼け寄宿舎ぶっこわせ/校長コレラで死ねばよい/校長死んだとて誰泣くものか/彼のワイフが泣くばかり/彼のワイフが唯泣くものか/彼の月給の恋しさに…
この歌は、彼の出身校、鴨折高校で昔から唱われていたそうです。そんな感じの歌をきいたのは初めてだったので、ひどく新鮮な驚きを覚えたのを憶えています。多分、一中あたりで、大正デモクラシー期頃にでもできたのでしょう。
それにしても「学校生活監獄暮らし」とはよくいったものです。ちなみに、現代の極めてユニークなフランスの哲学者ミッシェル・フーコーは、こういっています。
--拍子をつけるように明確に区分されたそこの時問経過、そこでの強制労働。監視と評点記入のそこでの審級段階、裁判官の機能を代理として果たし得る多様化するそこの規格化状態の専門家たち、そうした監獄が刑罰制度の近代化手段となったとしても何にも不思議ではない。監獄が工場や学校や兵営や病院に似かよい、こうしたすべてが監獄に似かよって何にも不思議はないのである(『監獄の誕生』)--
学園紛争の大さわぎが終息して、高校がだいぶ平静をとりもどした頃、大学にゆくと、ぼくの先生のノダマンは、「どうや、そっちは」と、ぼくにたずねてから、
「こっちは、もう静かなもんや、みんな死んどる」
といいました。そして、「お前も、いま学生やったら、きっと、先頭切って、やっとったぞ」と断言したのです。
勿論ぼくは即座に否定しました。でも、彼は、「いやちがうで」とがんばり、「眼がちがう。ああいう学生の眼の輝きは、君が山登りやっとった時とおんなじやで」と、いい切りました。
そこまで確信をもっていわれると、もうどうしようもなく、なんやらほめられたみたいな気分になってしまい、「そうですかねえ」などといっていました。
だいたい、ノダマンは、ぼくをあんまりほめることはなかったみたいです。
卒論実験のやり方に関しては、いつもケンカみたいなことをしていました。実験の、ある段階で、やり方が五通りあったとする。ぼくは、一番成功しそうなのからやろうとする。ところが、ノダマンは、一番うまくゆきそうでないのからやれというのです。彼の考えは、ひとつの消去法で、これは正統的な科学の方法かも知れないけど、ぼくには時間の無駄に思えた。
「その方法はアカンと思います」
「やってもみんと、なんで分る」
「そら分りませんけど、こっちの方がええという気がしますし」
「そんな気分だけでやるもんとちがう」
そのうち、彼はカッカッと怒りだし、
「もうええ、君がやらん分のやり方は、ワシがやる」
ぼくにしてみれば、そんなうまく行きそうにないことは、やる気がしなかった。でも、彼は、きっと、そういうぼくの要領のよさみたいなものが気に喰わなかったのでしょう。
まだ教養課程の時、彼の講座の実験がありました。テーマは「アミノ酸のペーパークロマトグラフィー」でした。試料のアミノ酸は、自分の髪の毛を硫酸で加水分解して得ることになっていました。この加水分解だけに、まる二日位はかかります。回りくどいという気がしました。それでぼくは、先生に、
「アミノ酸は、毛髪のんでないといけないんですか」
と、きくと、「いや別に何でもええです」という話です。よし、言質はとった。
そんならと、ぼくは薬局にある栄養剤の注射アンプルを考えたのですが、一本だけでは売ってくれないだろうし、お金がかかります。ただのものはと思案したら、ありました。うどんの汁。ぼくは学生食堂にゆき、「おばちゃん、ちょっとだし汁おくれえな」
二日間準備にかかるところを、ぼくは半日ほどでやってしまい、できあがったペーパクロマトグラフを、その日のうちにもってゆくと、ノダマンは、ケゲンな顔をしました。
「いや、ウドンの汁でやりました」
彼はムッとして、「お前みたいな要領のええ奴は知らん」
♣♣
ぼくの先生は、ぼくに、職人的な、あるいはドイツ的な化学を教え込もうとしたのかも知れません。
ドイツ人は、体系的で整然としたものが好きなようで、どうも、民族体質的に全体主義的です。ところが、フランス人は、もっと感覚的、直感的で、だから、もっと個人主義的ではないかと思うんです。
たとえば、スキーの教程では、ドイツ・オーストリアのそれは、一つの技術を、細かく分解して、その一つ一つを順次教えるように配列する。全部やれるようになって始めて、その技術ができるようになるはずだと固く信じる。ところが、フランス・スキーでは、もっと個人のフィーリングを重視する。その教程はより人間的だという気がします。
ぼくは、自分がフランス人的だという気なんて、さらさらありませんが、ただ、結果が分り切っていることを、忍の一字でやりとげるなんていうことは、どうも性に合わないようなんです。
高校一年生の時、生物の先生が、「植物の正常分布曲線」を作ること、という宿題をだしました。それが、木の葉っぱであれ、米粒であれ、その大きさの分布を調べると、うんと大きいものや、うんと小さいものは少なくて、普通の大きさのものが一番多い。だから、分布曲線というのは、裾野をひっぱった山型になる。ただ、そういう形になるためには、おそらく何千個という個体を測定しなければならない。数が多ければ多いほど、曲線はなめらかなものとなります。先生は、最低、千個から二千個は測る必要があります、といいました。
あほらし、そんなどうなるか分っていることやってられるかい。時間の無駄ではないか。ぼくはそう思ったのです。
ぼくは、それでも、よりもっともらしくするため、家にあった大豆二・三〇個の長径を測り、分布範囲の、大体のめやすをつけてから、教科書的な分布曲線を下画きしました。そして、こんどは、その曲線の近辺の点をえらんで、測定したことにしての個数をでっちあげた訳です。
学校というところは、教科の中身を教えるということより、こうした教科を素材として、訓練を行なう場所のようです。そういう場所では、理解してるかどうかより、理解できるような、「真面目」な態度であるかどうかの方が、より問題となる。生徒にはいろいろあって、ある分類を試みれば、態度よくて理解してる者、態度はよいが理解できない者、態度は悪いが理解してる者、態度は悪く理解できない者。教師は、このうちの二類型を消して、別の二類型を浮かびあがらせ、「真面目な態度」であれば理解できると独善的に思い込む。「態度点」などを加減したらそうなるのは当り前でしょう。
「真面目な態度」などというのも、自分に対する、犬のような従順さを要求している訳で、そうなると、学校は忍耐の学校となり、生徒はある無感動・無表情の仮面で対抗せざるを得ない。
♣♣♣
ある時、進級判定会議で、一人の教師が、自分の教科で、その生徒を不認定にした理由を説明して、「この生徒は、0点となっていますが、はんとは、マイナス二五点なんです」
きいていた他の教師達は、みんな、どうしてマイナスなのかといぶかりました。彼は続けて、
「どうしてマイナスかというと、私は、一分遅刻に対して、一点減点するという風に申し渡してあります。ただ、後から、医師の診断書その他の証明をもって、正当な理由を申し出た時は、帳消しにしております。この生徒は試験では二〇点の得点がありますが、一度も遅刻の申し出もなく、遅刻の減点が四五点となったので、マイナス二五点ということなんです」
と説明しました。まあこんな風に詳しく説明する人は珍しい。態度点をつけている人はごくふつうにあるのですが、そうした点なんて、あんまり合理的根拠はありません。ただ、どういう風に評価は行われるかということに関しては、あの、全ての問題が生徒の論議の俎上にのった学園紛争の時でさえ、手をつけようとされなかった。まあいってみれば教師の聖域みたいなものです。
いまかりに、全部の生徒が、自分の点数を全部見せあい、評価を検討したら、どうしてそうなっているのか分らない点が続出するのではないかと思います。
それはともかく、遅刻一分で一点というのでは、まあ理由を申告すれば帳消しになるとはいうものの、五〇点取っていても、トータル五〇分の遅刻で○点となってしまう。理屈は通るとしても、ちょっとひどい。ぼくはそう思いました。それで、その先生に質問し、
「なるほど、ご説明をきいてよく分りました。ただぼくがききたいのは、その理屈で先生が遅刻された場合はどうしておられるかということです。一分につき、全生徒に、一点づつ返しておられるか、ということです」
その先生は、「そういうことはやっていません」と答えました。ぼく自身、それ以上追求する気は起りませんでした。遅刻で減点などということはあんまり突飛なことでもないのです。
そもそも、学校教育には、最初から教科教育の後にかくされたカリキュラムがあったらしいのです。
〈労働の場が、田畑や家庭から工場へ移行するにつれ、工場労働に適合することを目的とした大衆教育のシステムには、その背後にかくされたカリキュラムがあったのである。大半の産業国家に共通することだが、そのカリキュラムは、時間厳守、従順、単純反復労働への適応という三つの要素から成り立っていた(アルビン・トフラー)〉
流れ作業的な分業社会では、時間厳守は絶対的要請ですし、管理者の命令につべこべいわず従う労働者であることや、単純労働に忍耐強くたえることも必要とされる。だから、遅刻で減点し、生徒の生意気な態度で減点する教師は、なかなか立派な教師ということになる。そうするとぼくみたいに、それをおかしいと思う教師はおかしいということになるのかなあ。
♣♣♣♣
大学に入って間もないある日の午後、ぼくは大学の図書館で、赤線で真赤になった五万分の一地図に、真剣に見入っている一人の学生を見出します。興味にかられて、ぼくは話しかけ、これが、ぼくにとって、一つの決定的出会いとなって、ぼくは、それまでの気ままな一人歩きではない、より高度な山登りを始めることになる訳です。
この時、ぼくは誘われるまま、その日の夕方から、彼、スミさんと二人で比良山の縦走に出掛けることにします。彼の父は、京都府山岳連盟の会長をやっていて、比良の権威で、ガイドブックも書いている。この時の山行も、そうした本を書くための下調べを、オヤジさんから依頼されてのものだった。というようなことは、ずっと後で知りました。
それで、ぼく達は、最終の電車で高島町までゆき、その日は、蛇谷ケ峰の登り口でごろ寝をします。
翌日、「これメシの足しにしよう」と、出くわした青大将を二・三匹つかまえ、ザックにぶら下げて歩いていたら、山道を降って来た里のオバさんが、「ヘビがついてまっせ」と金切声をあげました。
コヤマノ岳から八雲ケ原へ、夕闇の中を降ってゆくと小屋がありました。スミさんが、「シーッ、囚人小屋やぞ」などというので、ぼくは、なぜかひどくビビって足音をひそめて通り過ぎたのです。ところが、その次の時、一人で日中にここを通ったら、数十人のごく普通の若者が雑木を伐っていました。
この、ぼくにとっては極めて印象的な山行で、最初の夜、たき火をしながら、スミさんは、こんな歌を唱ったんです。
「朝のはよから弁当箱さげて学校通いはつらいもの/学校生活監獄暮らし足に鎖がないばかり/学校焼け焼け寄宿舎ぶっこわせ/校長コレラで死ねばよい/校長死んだとて誰泣くものか/彼のワイフが泣くばかり/彼のワイフが唯泣くものか/彼の月給の恋しさに…
この歌は、彼の出身校、鴨折高校で昔から唱われていたそうです。そんな感じの歌をきいたのは初めてだったので、ひどく新鮮な驚きを覚えたのを憶えています。多分、一中あたりで、大正デモクラシー期頃にでもできたのでしょう。
それにしても「学校生活監獄暮らし」とはよくいったものです。ちなみに、現代の極めてユニークなフランスの哲学者ミッシェル・フーコーは、こういっています。
--拍子をつけるように明確に区分されたそこの時問経過、そこでの強制労働。監視と評点記入のそこでの審級段階、裁判官の機能を代理として果たし得る多様化するそこの規格化状態の専門家たち、そうした監獄が刑罰制度の近代化手段となったとしても何にも不思議ではない。監獄が工場や学校や兵営や病院に似かよい、こうしたすべてが監獄に似かよって何にも不思議はないのである(『監獄の誕生』)--
11.制服は一種の軍服かも
♣
新年度が始まり、ぼくは3年生の担任となりました。すぐに遠足があって、奈良方面へ行ったと思います。
京都駅に何百人という生徒が、黒づくめの服をきて集まりました。生徒達は、プラットフォームに整然と並び、しやがまされました。
一人の教師が階段を四・五段上ると、全員を睨み回し、大声をはりあげて、
「お前たちは、これから奈良に向う。・……」
と訓示し始めました。
そのカン高い声は、ビンビンとひびき渡り、ぼくは、これはすごい、と感心していました。傍の先生にきくと、ヤマキンは軍隊帰りで、あの声が得意なのだ、ということです。そういわれてみると、その訓示は、これからの作戦行動を告げる上官のようでした。
その遠足、どういうコースだったのか、もうすっかり忘れてしまっています。でも、ハイキングコースを歩いて、「石舞台」をみたのは憶えています。
その「石舞台」に向かうハイキング・コースの坂道を登っている時のことです。その時、ぼくは、ぼくのクラスの集団の真ん中あたりを歩いていました。一人の生徒が、追いついてくると、なんとか君が、調子が悪いから引き返した、と報告しました。友人が、一緒について帰ったそうです。調子が悪いんだったら、追いかけてつれ戻す訳にもゆくまい。まあ、付き添いがいるんだったら問題もなかろう。人里離れた山の中という訳でもなし……。ぼくはそう思い、「ああ、そうか」といっただけでした。
ところが、しばらくしてその事を知った他の先生達は、意外にも、それは大変だといって、あわてました。大変だといっても、どうする訳にもゆきません。その生徒はもう帰りの電車か汽車に乗っているはずでした。
その時ぼくは気付いたのですが、一ケ月近くも、人跡まれという感じの山の中で過ごすということを何回となくやっているぼくには、こんなコースは、街中みたいな感覚があった。ところが他の先生達はそうではなく、その辺のところで先ずズレがあったんだろう。
ぼくは学生の頃、体育科に依頼されて、百人近い学生を引率して、北アルプスの数日間の山旅をしたことが二回ほどありましたが、そういう場所では、調子が悪いからといって勝手に引き返すような奴はいなかった。そんなことしたら、死ぬかも知れんと思うから、誰もやらない。
その生徒が引き返したのは、自分で帰れると思ったからなので、それはそれでいいのではないかと思いました。むしろ、引き返した瞬間から、彼等二人にとっては、非常に貴重な体験が始まるのではないだろうか。帰りに奈良市街から電話したら、まだ家に帰っていないというので、少し心配しましたが、ぼくが帰宅してもう一度電話したら、帰っていました。途中で寄り道したらしい。
翌日、大職員室で、ぼくを見るなり、ヤマキンは、例の大声で、「オマエー、きのうのことは軍隊なら重営倉だ」と怒鳴りつけたんです。
♣♣
「重営倉だ」
と怒鳴りつけられて、ぼくほポカンとしていました。
その意味ぐらいは分りましたが、なにしろ、どっちかというと戦争を知らない世代に属するぼくとしては、もう一つピンとこなかったのです。でも、すぐムカムカと腹が立ってきて、何といい返そうかと考えてもいい文句も浮かばず、
「学校は、軍隊とちがいますよ」
と、もぞもぞいっていました。
しかし、よく考えてみれば、学校は、もしかしたら、兵営とおんなじなのかも知れません。
まず、制服があること。やたら細かい規則。時間割による身体的拘束、点呼。集団訓練。罰則。そして、「無用の者立入を禁ず」の閉鎖性。そうすると学生服は一種の軍服である、といえるかも知れません。
まあ、こんな風に思いだしたのは、大分後のことで、その当時ぼくは、なんともイノセントに、学校は真理を教える所、なんて思っていたんです。
数年して、制服問題が起こりました。生徒が制服を廃止しろと要求し始めたのです。その頃には、もう、帽子をかぶっている者なぞは、一人もいません。制服を着ない、いわゆる異装生徒が増えていました。
学生服とちがう服を着る場合には、「異装届」を出さないといけない、という規定がありました。これを受付けるのは「生徒部」です。この 「生徒部」というのは、「生徒補導部」という名称だったのですが、ぼくが、補導というのでは、生徒全体を非行生徒扱いしていることになる、と主張して補導を抜き取ることになったのです。
さて、「異装届」は届けですから、適切な指導はできても、拒否はできません。取締りは、もっぱら、無届けの異装に限られていました。ぼくたち教師は、毎朝一時間目の授業で、異装の生徒には、届けの用紙の提示を求め確認し、不携帯生徒を報告するという申し合せをしていました。ぼくは、なんとくだらんことかいなと思いつつ、それでも、時々はやっていたんです。
ちょうどこの頃だったと思います。「赤シャツ」が出現したのは……。「赤シャツ」といっても、『坊ちゃん』のそれではなく、これは生徒なのでした。三年の「赤シャツ」君は、それこそ真赤なセーターを着て毎日登校しました。
当時は、世人の色彩感覚も、おそらく今とは大ちがいだったはずでした。「赤シャツ」は一躍有名になり、「目障りでしようがない。なんとかしてくれ」という教師の苦情が、再々「生徒部」に持ち込まれてきます。彼ほ、いつも三階の窓べりの席に座り、その赤は、どこからでも、目に刺さるが如き鋭どさで映じたようでした。
いつもカメラを肩にかけ、「赤シャツ」君は、一人で、威風堂々と潤歩していました。
♣♣♣
「赤シャツ」君が当時、まあ勇気あることだとはしても、存在し得たのは、半数近い教師が、その行為を是認していたからなのだと思うのです。もし、そうでなければ、たかが生徒の一人、たちまちのうちに誅殺されてしまったはずでした。
生徒部の部長のT先生は、なんとかして、「赤シャツ」君から、その赤シャツを脱がそうと、手を変え品を変えてやっていました。初めは部屋に呼んで説教に努めていました。全く効き目がないと分ると、今度は、彼をキッサ店に連れ出し、コーヒを飲みながらの説得に切り替えたということでした。
「赤シャツ」にごちそうしたコーヒ代だけでも相当の額になったはずです。それでも、「赤シャツ」君は信念を変えないまま卒業し、T先生の努力は全くの徒労に終ったのです。
軍隊の位では偉かったというT先生の、その教育的、いや正確には訓育的情熱には、ぼくも感心せざるを得なかった。そして、いつか、彼が、『あゝ江田島』という写真集を購入し、目を輝やかせて見入っているのを見て、なんとなく、「あゝこれは大変だ」と思ったのを憶えています。
あれはたしか「赤シャツ」君が卒業する時の卒業式でのことだったと思います。卒業式では、送辞・答辞の文案は、それをよむ生徒に任されているのが常でした。いつも、なかなかシビアな文句が飛びだして、ぼくは、いつもそれを聞くのだけが楽しみで、式に出席していたのです。答辞が始まり、その女生徒が、「大和は国のまはろば‥…・」とやり出し、「私たちは、日の丸を掲げることさえ許されませんでした」と続け、教師も生徒も一瞬あっけにとられて、シーンとなったその時、横に座っているT先生の腕がサッと動くのを、ぼくは感じました。
見ると、T先生の目からは、思わず涙が溢れており、手で目頭を押えているのです。ぼくは、ドキリとし、なんだか見てはならぬものを見た様に感じました。それは程度の差こそあれ、あの三島由起夫の割腹を知った時の感じと同質のものだったかも知れません。
T先生の思想というか考え方は、ぼくのそれとは相当にちがったものでした。でも、ぼくは、比較的よく彼とは議論したように思います。当時ぼくも生徒部に所属していたからということだけが、その理由ではないという気がしています。
彼には、千万人といえども我行かん、といった気概があるみたいで、それがちょっとよかった。彼の信条は、どうも軍隊体験と軍隊式教育の旧師範に依っているようで、気になりましたが、やたら教条主義的で、理論だけが先走りして、なんともちぐはぐな教師に較べたら、まだましだとも思いました。人間的にはなんか信頼できるという感じもありました。
教師と教師、あるいは生徒と教師、つまり人間と人間との関係というのは、思想信条、主義主張が同じかどうかではなく、つまるところ、お互いにどこかの一点に、一目おけるかどうかということではなかろうか、と思うのです。
♣♣♣♣
生徒会が制服を問題として取りあげ、生徒の討論をうながしたのには、相反する二つの意味があったようです。現状を規律の乱れととらえ生徒の自覚をうながそうということが一つ。もう一つは、制服規定自体が問題であるから、そんなものは削除すべしという考え。
そして、それはもう際限のない水かけ論が起こりました。たとえば生徒大会などでの討論で、一人が、制服の方が遅刻しなくなると主張します。そうだそうだその通りとの拍手。すると別の一人が、制服は、寝押しに時間がかかるし、ほこりが目立つので、ブラシュしているうちに時間がかかって、よけい遅刻すると反論。また大拍手、という具合‥‥・。
T先生は、こういう風に学校が乱れたのは、戦後のベビー・ブームの生徒急増期を機に、規律がみだれ、高校全入の状況がそれに輪をかけているのだと、ぼくに説明しました。彼の制服護持論に、ぼくはこんな反論をしました。
江戸時代には、武士を初めとして色んな階級があって、着物は規定されていた。女も丸まげ、お歯黒で、未婚・既婚が明らかになる仕組であった。その仕組をはずれた異装の者は傾者(かぶきもの)として社会から指弾、疎外された。こういう服装による身分規定はなくなってくるのが、時代の流れだとぼくは思う。それに、江戸の支配階級は、倹約令などを出して、華美の風潮をいましめていたから、目立たないもので、しかも高価な大島などを着用した。そこで、こうした支配階級の地味な好みが上品であるという観念が生れた。だから、こういう考え方に反逆するためには、むしろ下品なものこそいいという考えも生れるんではないでしょうか。
などと、いまから思うと、なんともいきった、ちょっと気はずかしいようなことを述べたてたものでした。
さて、生徒会は、全校投票で賛否を問い、僅少差で、制服は存続したのです。ところが次の年、もう一度投票が行われ、やはり僅少差で、こんどは逆転、制服廃止、自由服ということになりました。日本中、いや世界中をゆさぶった、スチューデントパワー、学園紛争は、もう目前にせまっていました。
T先生は、大分後に、新設校の校長となり、その学校は、制服はもちろんのこと、規則ずくめの厳格さで有名となりました。もしかしたら、彼は、なんとも時代錯誤的に、そこに現代の「江田島」を夢みたのかも知れない、とぼくは思ったのです。
桂高校は、そのままずっと自由服です。卒業生は、ぼくが聞く範囲で、自由服でよかったといっている。ところが、近ごろでは、「毎朝、子供が着る服に迷っているのを見るのがつらいから制服がよい」という親が現われるしまつで、ほんとにアホらしくなります。就職部では、就職試験には学生服を着ないとすぺります、と指導しています。
とはいえ、制服校では、校門で、スカートの丈、ズボンの幅を物差しで測ったりしている。そんなんよりは、かなりましなんではないか。ぼくはそう思っているのです。
新年度が始まり、ぼくは3年生の担任となりました。すぐに遠足があって、奈良方面へ行ったと思います。
京都駅に何百人という生徒が、黒づくめの服をきて集まりました。生徒達は、プラットフォームに整然と並び、しやがまされました。
一人の教師が階段を四・五段上ると、全員を睨み回し、大声をはりあげて、
「お前たちは、これから奈良に向う。・……」
と訓示し始めました。
そのカン高い声は、ビンビンとひびき渡り、ぼくは、これはすごい、と感心していました。傍の先生にきくと、ヤマキンは軍隊帰りで、あの声が得意なのだ、ということです。そういわれてみると、その訓示は、これからの作戦行動を告げる上官のようでした。
その遠足、どういうコースだったのか、もうすっかり忘れてしまっています。でも、ハイキングコースを歩いて、「石舞台」をみたのは憶えています。
その「石舞台」に向かうハイキング・コースの坂道を登っている時のことです。その時、ぼくは、ぼくのクラスの集団の真ん中あたりを歩いていました。一人の生徒が、追いついてくると、なんとか君が、調子が悪いから引き返した、と報告しました。友人が、一緒について帰ったそうです。調子が悪いんだったら、追いかけてつれ戻す訳にもゆくまい。まあ、付き添いがいるんだったら問題もなかろう。人里離れた山の中という訳でもなし……。ぼくはそう思い、「ああ、そうか」といっただけでした。
ところが、しばらくしてその事を知った他の先生達は、意外にも、それは大変だといって、あわてました。大変だといっても、どうする訳にもゆきません。その生徒はもう帰りの電車か汽車に乗っているはずでした。
その時ぼくは気付いたのですが、一ケ月近くも、人跡まれという感じの山の中で過ごすということを何回となくやっているぼくには、こんなコースは、街中みたいな感覚があった。ところが他の先生達はそうではなく、その辺のところで先ずズレがあったんだろう。
ぼくは学生の頃、体育科に依頼されて、百人近い学生を引率して、北アルプスの数日間の山旅をしたことが二回ほどありましたが、そういう場所では、調子が悪いからといって勝手に引き返すような奴はいなかった。そんなことしたら、死ぬかも知れんと思うから、誰もやらない。
その生徒が引き返したのは、自分で帰れると思ったからなので、それはそれでいいのではないかと思いました。むしろ、引き返した瞬間から、彼等二人にとっては、非常に貴重な体験が始まるのではないだろうか。帰りに奈良市街から電話したら、まだ家に帰っていないというので、少し心配しましたが、ぼくが帰宅してもう一度電話したら、帰っていました。途中で寄り道したらしい。
翌日、大職員室で、ぼくを見るなり、ヤマキンは、例の大声で、「オマエー、きのうのことは軍隊なら重営倉だ」と怒鳴りつけたんです。
♣♣
「重営倉だ」
と怒鳴りつけられて、ぼくほポカンとしていました。
その意味ぐらいは分りましたが、なにしろ、どっちかというと戦争を知らない世代に属するぼくとしては、もう一つピンとこなかったのです。でも、すぐムカムカと腹が立ってきて、何といい返そうかと考えてもいい文句も浮かばず、
「学校は、軍隊とちがいますよ」
と、もぞもぞいっていました。
しかし、よく考えてみれば、学校は、もしかしたら、兵営とおんなじなのかも知れません。
まず、制服があること。やたら細かい規則。時間割による身体的拘束、点呼。集団訓練。罰則。そして、「無用の者立入を禁ず」の閉鎖性。そうすると学生服は一種の軍服である、といえるかも知れません。
まあ、こんな風に思いだしたのは、大分後のことで、その当時ぼくは、なんともイノセントに、学校は真理を教える所、なんて思っていたんです。
数年して、制服問題が起こりました。生徒が制服を廃止しろと要求し始めたのです。その頃には、もう、帽子をかぶっている者なぞは、一人もいません。制服を着ない、いわゆる異装生徒が増えていました。
学生服とちがう服を着る場合には、「異装届」を出さないといけない、という規定がありました。これを受付けるのは「生徒部」です。この 「生徒部」というのは、「生徒補導部」という名称だったのですが、ぼくが、補導というのでは、生徒全体を非行生徒扱いしていることになる、と主張して補導を抜き取ることになったのです。
さて、「異装届」は届けですから、適切な指導はできても、拒否はできません。取締りは、もっぱら、無届けの異装に限られていました。ぼくたち教師は、毎朝一時間目の授業で、異装の生徒には、届けの用紙の提示を求め確認し、不携帯生徒を報告するという申し合せをしていました。ぼくは、なんとくだらんことかいなと思いつつ、それでも、時々はやっていたんです。
ちょうどこの頃だったと思います。「赤シャツ」が出現したのは……。「赤シャツ」といっても、『坊ちゃん』のそれではなく、これは生徒なのでした。三年の「赤シャツ」君は、それこそ真赤なセーターを着て毎日登校しました。
当時は、世人の色彩感覚も、おそらく今とは大ちがいだったはずでした。「赤シャツ」は一躍有名になり、「目障りでしようがない。なんとかしてくれ」という教師の苦情が、再々「生徒部」に持ち込まれてきます。彼ほ、いつも三階の窓べりの席に座り、その赤は、どこからでも、目に刺さるが如き鋭どさで映じたようでした。
いつもカメラを肩にかけ、「赤シャツ」君は、一人で、威風堂々と潤歩していました。
♣♣♣
「赤シャツ」君が当時、まあ勇気あることだとはしても、存在し得たのは、半数近い教師が、その行為を是認していたからなのだと思うのです。もし、そうでなければ、たかが生徒の一人、たちまちのうちに誅殺されてしまったはずでした。
生徒部の部長のT先生は、なんとかして、「赤シャツ」君から、その赤シャツを脱がそうと、手を変え品を変えてやっていました。初めは部屋に呼んで説教に努めていました。全く効き目がないと分ると、今度は、彼をキッサ店に連れ出し、コーヒを飲みながらの説得に切り替えたということでした。
「赤シャツ」にごちそうしたコーヒ代だけでも相当の額になったはずです。それでも、「赤シャツ」君は信念を変えないまま卒業し、T先生の努力は全くの徒労に終ったのです。
軍隊の位では偉かったというT先生の、その教育的、いや正確には訓育的情熱には、ぼくも感心せざるを得なかった。そして、いつか、彼が、『あゝ江田島』という写真集を購入し、目を輝やかせて見入っているのを見て、なんとなく、「あゝこれは大変だ」と思ったのを憶えています。
あれはたしか「赤シャツ」君が卒業する時の卒業式でのことだったと思います。卒業式では、送辞・答辞の文案は、それをよむ生徒に任されているのが常でした。いつも、なかなかシビアな文句が飛びだして、ぼくは、いつもそれを聞くのだけが楽しみで、式に出席していたのです。答辞が始まり、その女生徒が、「大和は国のまはろば‥…・」とやり出し、「私たちは、日の丸を掲げることさえ許されませんでした」と続け、教師も生徒も一瞬あっけにとられて、シーンとなったその時、横に座っているT先生の腕がサッと動くのを、ぼくは感じました。
見ると、T先生の目からは、思わず涙が溢れており、手で目頭を押えているのです。ぼくは、ドキリとし、なんだか見てはならぬものを見た様に感じました。それは程度の差こそあれ、あの三島由起夫の割腹を知った時の感じと同質のものだったかも知れません。
T先生の思想というか考え方は、ぼくのそれとは相当にちがったものでした。でも、ぼくは、比較的よく彼とは議論したように思います。当時ぼくも生徒部に所属していたからということだけが、その理由ではないという気がしています。
彼には、千万人といえども我行かん、といった気概があるみたいで、それがちょっとよかった。彼の信条は、どうも軍隊体験と軍隊式教育の旧師範に依っているようで、気になりましたが、やたら教条主義的で、理論だけが先走りして、なんともちぐはぐな教師に較べたら、まだましだとも思いました。人間的にはなんか信頼できるという感じもありました。
教師と教師、あるいは生徒と教師、つまり人間と人間との関係というのは、思想信条、主義主張が同じかどうかではなく、つまるところ、お互いにどこかの一点に、一目おけるかどうかということではなかろうか、と思うのです。
♣♣♣♣
生徒会が制服を問題として取りあげ、生徒の討論をうながしたのには、相反する二つの意味があったようです。現状を規律の乱れととらえ生徒の自覚をうながそうということが一つ。もう一つは、制服規定自体が問題であるから、そんなものは削除すべしという考え。
そして、それはもう際限のない水かけ論が起こりました。たとえば生徒大会などでの討論で、一人が、制服の方が遅刻しなくなると主張します。そうだそうだその通りとの拍手。すると別の一人が、制服は、寝押しに時間がかかるし、ほこりが目立つので、ブラシュしているうちに時間がかかって、よけい遅刻すると反論。また大拍手、という具合‥‥・。
T先生は、こういう風に学校が乱れたのは、戦後のベビー・ブームの生徒急増期を機に、規律がみだれ、高校全入の状況がそれに輪をかけているのだと、ぼくに説明しました。彼の制服護持論に、ぼくはこんな反論をしました。
江戸時代には、武士を初めとして色んな階級があって、着物は規定されていた。女も丸まげ、お歯黒で、未婚・既婚が明らかになる仕組であった。その仕組をはずれた異装の者は傾者(かぶきもの)として社会から指弾、疎外された。こういう服装による身分規定はなくなってくるのが、時代の流れだとぼくは思う。それに、江戸の支配階級は、倹約令などを出して、華美の風潮をいましめていたから、目立たないもので、しかも高価な大島などを着用した。そこで、こうした支配階級の地味な好みが上品であるという観念が生れた。だから、こういう考え方に反逆するためには、むしろ下品なものこそいいという考えも生れるんではないでしょうか。
などと、いまから思うと、なんともいきった、ちょっと気はずかしいようなことを述べたてたものでした。
さて、生徒会は、全校投票で賛否を問い、僅少差で、制服は存続したのです。ところが次の年、もう一度投票が行われ、やはり僅少差で、こんどは逆転、制服廃止、自由服ということになりました。日本中、いや世界中をゆさぶった、スチューデントパワー、学園紛争は、もう目前にせまっていました。
T先生は、大分後に、新設校の校長となり、その学校は、制服はもちろんのこと、規則ずくめの厳格さで有名となりました。もしかしたら、彼は、なんとも時代錯誤的に、そこに現代の「江田島」を夢みたのかも知れない、とぼくは思ったのです。
桂高校は、そのままずっと自由服です。卒業生は、ぼくが聞く範囲で、自由服でよかったといっている。ところが、近ごろでは、「毎朝、子供が着る服に迷っているのを見るのがつらいから制服がよい」という親が現われるしまつで、ほんとにアホらしくなります。就職部では、就職試験には学生服を着ないとすぺります、と指導しています。
とはいえ、制服校では、校門で、スカートの丈、ズボンの幅を物差しで測ったりしている。そんなんよりは、かなりましなんではないか。ぼくはそう思っているのです。
10.ルールはルール、モラルはモラル
♣
今から二〇年近くもまえ、ぼくが赴任した桂高校は、木造の校舎で、制服・制帽・二足制でした。ただ、帽子をかぶっている生徒は、ほとんどいなくて、教師の間では、これが問題になっていました。近づいた修学旅行だけくらいは、全員制帽をかぶらせようというようなことが、しきりに話題になっていました。
二足制というのは、上ばきのズック靴の着用が義務づけられている訳です。大きな下駄箱があって、各自が定められた所に、自分のズック靴を入れておく。このズック靴も規格が定められていて、白色で先が円く、上に幅広のゴムの帯のある、何とも不細工なものでした。教師の中には、ほんのわずか、こうした規格品とちがうものをはいている人もいたので、ぼくも、自分でモードばきを用意しました。
こうした規格品は、なにしろみんな同じですから、ちょっと見には、自分のものか人のものか分らない訳です。不注意で間違うこともある。また、だれか一人が不届きにも人のものをはくと、始業時のあわただしい中ですから、つい隣のものを失敬するということが起こる。すると盗まれた奴は、他の上ばきを盗み返す。こうして盗みの連鎖反応が起こるわけです。
これは明らかに盗みにはちがいないのですが、当人にしてみれば、自分のを誰かが拝借していったのだから、自分もまた、ちょっと借りただけだ、という訳で、あんまり罪の意識はありません。
学校側は、盗みはいけないと、しきりに訴えていましたが、こうしたことは一向に減らず、補導部では、毎朝、上ばきを盗まれたという生徒が殺到して、音をあげていました。
ぼくは、ひそかに、こんなもんいっそのこと全部共有制にしてしまったら、一挙に問題が解決するのではないか、と思ってはいました。
近ごろ、おんなじようなことが、学校に限らず地域社会で、自転車に関しておこっているようです。放置自転車が問題となる一方で、その自転車に乗って、「盗み」の罪に問われるということが起こる。外国では、何日間か放置された自転車は没収のうえ公開し、引き取り人のない場合、縞模様にべソキを塗り、「公共用」として誰でも乗れますという具合にやっているそうです。なかなか合理的だと思います。
さて、上ばき盗難はつづき、学校鴻決定的には打つ手なしの状況になっていたある日の朝のことです。
ぼくは、自分の担任のクラスで、一時間目の授業をやっていました。
どこか近ぐでパトカーのサイレンの音がしたと思っていると、数学のナカトン先生が息せき切って現われ、
「F君をパトカーが探しているので出してほしい」
と、ぼくに告げました。
生徒の誰かが一一〇番して、「ぼくの上ばきを盗んだ犯人を見つけた」と通報し、それで、パトカーが駆けつけてきているというのです。
♣♣
たしかにそのFという生徒はこのクラスにいます。「ちょっと」と、その生徒を呼んで、行ってもらっても、別に何の差しっかえもない。そんな気がしました。
でも一方では、なんとなく、パトカーが堂々と学校に入ってきたということが、気に障りました。警察はあんまり好きじゃない。まあ、当時ぼくは、夏山では、富山県警の山岳救助隊の臨時コーチをしたりしていましたから、親しいポリさんは何人もいました。学生の頃には、山登りの帰りに金がなくなって、松本駅の派出所で、何回か金を借りたこともありました。けれど、これは、どっちも、個人的というか、人間としての接触という気がしていました。パトカーの警官に生徒を差し出すなんて、なんとも気分が悪かったんです。ぼくは直ぐ、断ってやろうと思いました。
考えてみれば、教室というのは、一つの閉鎖空間で、そこでの全ては、教師であるぼくに任されているはずです。そこで、ぼくは、「いま授業中ですから、生徒を出す訳にはゆかない。授業がすむまで待たしといて下さい」と返答したのです。
ぼくは知らん顔で授業を続けました。
授業が済んだ時には、パトカーはもう待ちくたびれて帰ってしまっていました。ただ、彼等としても、この件についての報告書を書かないと、桂高校の中で、「油を売っていた」ことになる。書類を作るのに必要なことは後で電話する、ということだったそうです。かかってきた電話で、F君の父親の勤務先などを聞いてきました。だから、ぼくは直ぐその勤務先に電話して、少し仰天しているらしい父親に、
「いや、大したことではありませんから……。警察から電話がかかったら適当に答えておいて下さい。詳しいことはお子さんから聞いて下さい」
とだけ、知らせておきました。
当の本人には、「オヤジさんにはちゃんと説明せえよ」といっただけです。こんなこと、幼稚園児じゃあるまいし、叱責するまでもなく、本人自身十分に分っていることだと思っていました。だいたい本人にもよく分っていることを、大袈裟に騒ぎすぎて、よけいに事態を悪化させることがよくあるのです。
ずっと後になってからのことです。ある生徒が、自転車に二人乗りしていて警官にとっつかまり、悪いことに、その放置自転車が、盗難届の出ているものだった。直ぐの調べで、彼等が乗った地点が「届け」の場所と全然ちがう離れた場所だったので、二人の生徒は、説諭だけで帰されました。
警察からこの報告を受けた担任は、校長と相談して、勝手に 「校長訓戒」の処分を決め、その当日の土旺日、月旺日に父兄同伴で来るように通告した。「勝手に」 というのは、当時、全ての生徒の処置は職員会議の議決承認を経ること、というルールがあったからです。
その生徒が、首をつったのは、土旺日の夕刻だったのだそうです。
♣♣♣
パトカーを呼んだ生徒が誰かは、すぐに分りました。O君は、四条中学出身で、その中学では一番けんかが強かったと豪語していることで有名だったので、ぼくもよく知っていました。そんなに腕っ節が強いのなら、自分で制裁を加えてもいいし、教師に告げてもいいはずなのに、そうしなかったのが、彼の面白いところだと思いました。
彼はきっと、そんな、生徒仲間を売るようなことはしたくなかったのでしょう。それと、何の手も打てない教師への面当てもあったはずです。だから、もしぼくが彼に、パトカーを呼んだことに関して難詰したら、あんたらは頼りにならんではないかと開き直ることは目に見えていました。ぼくは、わざと知らん顔をしていました。
この事件は、すぐ何人かの悪童どもの話題になったらしく、
「そらおもしろい、ワシも一一〇番したろ」 ということになったようなのです。
朝になると、ウワーンとサイレンが鳴ってパトカーが現われる。生徒どもは、「来たあ」「来よった」と喜んでいます。こんなことが度重なって、とうとう二足制は廃止することになった訳です。
もちろん、かなり長い間つづいてきた制度を止めるというのは、なかなか大変なことで、職員会議でほ賛否両論あいなかばして、結構もめたように記憶しています。
こうした場合、賛成にしろ、反対にしろ、それはほとんど直感的に決まっていて、意見は、あとから、もっともらしい理由をくっつけるということが多いようです。廃止に反対する人は、内と外とは履物を替えるのは当り前で、それで問題が起ってややこしいから止めるといっていたのでは「しつけ」ができない。めんどうだから止めるというのは教育ではない、と主張していました。
ここに釆て一年にもならない新参者のぼくは、黙っていようかなと少し逡巡してから、こんな風なことを発言しました。
冬山では氷の上が歩けるようにアイゼンという鉄の爪をはく。山小屋の中から、それを着けて外に出ると、床が穴だらけになるので、外に出てからはくべきだと教えている。ところが、猛吹雪の中で、アイゼンをつけるというのは、なかなかつらいことで、中でつける奴もいる。この頃そういう登山者が増えてきて、「この頃の若い者はモラルを知らない」とか「しっけ」ができてないとか言われている。ところが、ヨーロッパ・アルプスでは、みんな山小屋の中でもアイゼンはつけっぱなしだそうだ。どうしてかというと、向うの小屋は、床がみんな、ジュラルミン張りにしてある。つまり、「アイゼンは外ではく」といぅのはモラルでもなんでもない。そういう約束ごと、ルールに過ぎなかった。
二足制という約束ごとは情況が変れば、いくら変えてもなんのさしつかえもないんではないでしょうか。
♣♣♣♣
車で走っていると、道が工事中で、片側通行になっていて、臨時の信号機がついていることがあります。ずっと見通しのよく利く道で、対向車など全くみえないのに、みんな、じっとがまん強く、信号が変るのを待っています。夜中などで、急いでいる時など、ぼくはあんまり気にしないで、つっ走り、後の子供に「お父さん、赤やんか」と叱られる。
街中の歩道でも、急いでいる時には、充分見てから、車がきていないと分ると、堂々と渡ります。面白いことに、必ず後につづく奴がいるんです。
ぼくにしてみれば、赤信号は交通の流れをスムースにし、危険を減らす約束事に過ぎない。だから逆に青信号でも、車が来ていたらそれなりに気を付けます。ぼくの考えでは、もしポリさんに見つかったら、それ相応の処罰は覚悟のうえで、赤信号でも進むのは、ぼくのモラルに何ら反しない訳です。
……なんて書いてくると、「教師なのに」「先生ともあろうものが……」という声が、どっかから聞こえてくるような気がします。
まあちょっと聞いてください。これは決して弁解ではありません。
日本人ほど〈道徳〉と〈ルール〉を混同している国民はいない。ぼくはそう信じています。われわれは、二言目には道徳を口にしますが、かんじんなその意味は、まことにあいまいなのです。だから、道徳の支えともいうべき〈良心〉の意味もまた大変漠然としています。
たとえば、憲法第一九条には〈思想及び良心の自由は、これを侵してはならない〉とあり、法学協会の「註解日本国憲法」によると、この〈良心〉とは、信念、世界観の意味に解すべきである、などとなっている。
ところが、回教圏やキリスト教圏や、その他の国でも、〈良心〉とは、間違いなく〈内なる神の声〉なのです。それは信仰の問題なのです。だから、〈道徳〉教育は、外国では教会の仕事のはずです。それを日本では学校が、なんと生身の教師が、受けもっている。神をも恐れぬ所業ではないか。日本に勝った連合軍は、そう思って、〈修身教育〉を追放させたのでしょう。その結果、ルール教育もなくなった訳で、公共のルールをわきまえぬ大人が、大量に生れました。
いま、学校は、〈道徳〉と〈ルール〉の教育をごちゃまぜに請け負ったことになって混乱しているかのようです。
ルールの番人であるはずの警官が、交通違反すると〈道徳的〉に責められるように、教師も、「教師ともあろうものが」と、余分に道徳的に非難される。そして、どっちも、すぐに道徳的に説教をしたがる。〈道徳・モラル〉とは、個人の心の問題で、教師や、警官や、国家がどうのこうのという問題ではないのです。ぼくたちはまず、ルールとモラルをはっきり区別せねばならないでしょう。教師はルールはルールとして教え、生徒に勝手なモラルを一方的に押しっけるべきではないと思うのです。
今から二〇年近くもまえ、ぼくが赴任した桂高校は、木造の校舎で、制服・制帽・二足制でした。ただ、帽子をかぶっている生徒は、ほとんどいなくて、教師の間では、これが問題になっていました。近づいた修学旅行だけくらいは、全員制帽をかぶらせようというようなことが、しきりに話題になっていました。
二足制というのは、上ばきのズック靴の着用が義務づけられている訳です。大きな下駄箱があって、各自が定められた所に、自分のズック靴を入れておく。このズック靴も規格が定められていて、白色で先が円く、上に幅広のゴムの帯のある、何とも不細工なものでした。教師の中には、ほんのわずか、こうした規格品とちがうものをはいている人もいたので、ぼくも、自分でモードばきを用意しました。
こうした規格品は、なにしろみんな同じですから、ちょっと見には、自分のものか人のものか分らない訳です。不注意で間違うこともある。また、だれか一人が不届きにも人のものをはくと、始業時のあわただしい中ですから、つい隣のものを失敬するということが起こる。すると盗まれた奴は、他の上ばきを盗み返す。こうして盗みの連鎖反応が起こるわけです。
これは明らかに盗みにはちがいないのですが、当人にしてみれば、自分のを誰かが拝借していったのだから、自分もまた、ちょっと借りただけだ、という訳で、あんまり罪の意識はありません。
学校側は、盗みはいけないと、しきりに訴えていましたが、こうしたことは一向に減らず、補導部では、毎朝、上ばきを盗まれたという生徒が殺到して、音をあげていました。
ぼくは、ひそかに、こんなもんいっそのこと全部共有制にしてしまったら、一挙に問題が解決するのではないか、と思ってはいました。
近ごろ、おんなじようなことが、学校に限らず地域社会で、自転車に関しておこっているようです。放置自転車が問題となる一方で、その自転車に乗って、「盗み」の罪に問われるということが起こる。外国では、何日間か放置された自転車は没収のうえ公開し、引き取り人のない場合、縞模様にべソキを塗り、「公共用」として誰でも乗れますという具合にやっているそうです。なかなか合理的だと思います。
さて、上ばき盗難はつづき、学校鴻決定的には打つ手なしの状況になっていたある日の朝のことです。
ぼくは、自分の担任のクラスで、一時間目の授業をやっていました。
どこか近ぐでパトカーのサイレンの音がしたと思っていると、数学のナカトン先生が息せき切って現われ、
「F君をパトカーが探しているので出してほしい」
と、ぼくに告げました。
生徒の誰かが一一〇番して、「ぼくの上ばきを盗んだ犯人を見つけた」と通報し、それで、パトカーが駆けつけてきているというのです。
♣♣
たしかにそのFという生徒はこのクラスにいます。「ちょっと」と、その生徒を呼んで、行ってもらっても、別に何の差しっかえもない。そんな気がしました。
でも一方では、なんとなく、パトカーが堂々と学校に入ってきたということが、気に障りました。警察はあんまり好きじゃない。まあ、当時ぼくは、夏山では、富山県警の山岳救助隊の臨時コーチをしたりしていましたから、親しいポリさんは何人もいました。学生の頃には、山登りの帰りに金がなくなって、松本駅の派出所で、何回か金を借りたこともありました。けれど、これは、どっちも、個人的というか、人間としての接触という気がしていました。パトカーの警官に生徒を差し出すなんて、なんとも気分が悪かったんです。ぼくは直ぐ、断ってやろうと思いました。
考えてみれば、教室というのは、一つの閉鎖空間で、そこでの全ては、教師であるぼくに任されているはずです。そこで、ぼくは、「いま授業中ですから、生徒を出す訳にはゆかない。授業がすむまで待たしといて下さい」と返答したのです。
ぼくは知らん顔で授業を続けました。
授業が済んだ時には、パトカーはもう待ちくたびれて帰ってしまっていました。ただ、彼等としても、この件についての報告書を書かないと、桂高校の中で、「油を売っていた」ことになる。書類を作るのに必要なことは後で電話する、ということだったそうです。かかってきた電話で、F君の父親の勤務先などを聞いてきました。だから、ぼくは直ぐその勤務先に電話して、少し仰天しているらしい父親に、
「いや、大したことではありませんから……。警察から電話がかかったら適当に答えておいて下さい。詳しいことはお子さんから聞いて下さい」
とだけ、知らせておきました。
当の本人には、「オヤジさんにはちゃんと説明せえよ」といっただけです。こんなこと、幼稚園児じゃあるまいし、叱責するまでもなく、本人自身十分に分っていることだと思っていました。だいたい本人にもよく分っていることを、大袈裟に騒ぎすぎて、よけいに事態を悪化させることがよくあるのです。
ずっと後になってからのことです。ある生徒が、自転車に二人乗りしていて警官にとっつかまり、悪いことに、その放置自転車が、盗難届の出ているものだった。直ぐの調べで、彼等が乗った地点が「届け」の場所と全然ちがう離れた場所だったので、二人の生徒は、説諭だけで帰されました。
警察からこの報告を受けた担任は、校長と相談して、勝手に 「校長訓戒」の処分を決め、その当日の土旺日、月旺日に父兄同伴で来るように通告した。「勝手に」 というのは、当時、全ての生徒の処置は職員会議の議決承認を経ること、というルールがあったからです。
その生徒が、首をつったのは、土旺日の夕刻だったのだそうです。
♣♣♣
パトカーを呼んだ生徒が誰かは、すぐに分りました。O君は、四条中学出身で、その中学では一番けんかが強かったと豪語していることで有名だったので、ぼくもよく知っていました。そんなに腕っ節が強いのなら、自分で制裁を加えてもいいし、教師に告げてもいいはずなのに、そうしなかったのが、彼の面白いところだと思いました。
彼はきっと、そんな、生徒仲間を売るようなことはしたくなかったのでしょう。それと、何の手も打てない教師への面当てもあったはずです。だから、もしぼくが彼に、パトカーを呼んだことに関して難詰したら、あんたらは頼りにならんではないかと開き直ることは目に見えていました。ぼくは、わざと知らん顔をしていました。
この事件は、すぐ何人かの悪童どもの話題になったらしく、
「そらおもしろい、ワシも一一〇番したろ」 ということになったようなのです。
朝になると、ウワーンとサイレンが鳴ってパトカーが現われる。生徒どもは、「来たあ」「来よった」と喜んでいます。こんなことが度重なって、とうとう二足制は廃止することになった訳です。
もちろん、かなり長い間つづいてきた制度を止めるというのは、なかなか大変なことで、職員会議でほ賛否両論あいなかばして、結構もめたように記憶しています。
こうした場合、賛成にしろ、反対にしろ、それはほとんど直感的に決まっていて、意見は、あとから、もっともらしい理由をくっつけるということが多いようです。廃止に反対する人は、内と外とは履物を替えるのは当り前で、それで問題が起ってややこしいから止めるといっていたのでは「しつけ」ができない。めんどうだから止めるというのは教育ではない、と主張していました。
ここに釆て一年にもならない新参者のぼくは、黙っていようかなと少し逡巡してから、こんな風なことを発言しました。
冬山では氷の上が歩けるようにアイゼンという鉄の爪をはく。山小屋の中から、それを着けて外に出ると、床が穴だらけになるので、外に出てからはくべきだと教えている。ところが、猛吹雪の中で、アイゼンをつけるというのは、なかなかつらいことで、中でつける奴もいる。この頃そういう登山者が増えてきて、「この頃の若い者はモラルを知らない」とか「しっけ」ができてないとか言われている。ところが、ヨーロッパ・アルプスでは、みんな山小屋の中でもアイゼンはつけっぱなしだそうだ。どうしてかというと、向うの小屋は、床がみんな、ジュラルミン張りにしてある。つまり、「アイゼンは外ではく」といぅのはモラルでもなんでもない。そういう約束ごと、ルールに過ぎなかった。
二足制という約束ごとは情況が変れば、いくら変えてもなんのさしつかえもないんではないでしょうか。
♣♣♣♣
車で走っていると、道が工事中で、片側通行になっていて、臨時の信号機がついていることがあります。ずっと見通しのよく利く道で、対向車など全くみえないのに、みんな、じっとがまん強く、信号が変るのを待っています。夜中などで、急いでいる時など、ぼくはあんまり気にしないで、つっ走り、後の子供に「お父さん、赤やんか」と叱られる。
街中の歩道でも、急いでいる時には、充分見てから、車がきていないと分ると、堂々と渡ります。面白いことに、必ず後につづく奴がいるんです。
ぼくにしてみれば、赤信号は交通の流れをスムースにし、危険を減らす約束事に過ぎない。だから逆に青信号でも、車が来ていたらそれなりに気を付けます。ぼくの考えでは、もしポリさんに見つかったら、それ相応の処罰は覚悟のうえで、赤信号でも進むのは、ぼくのモラルに何ら反しない訳です。
……なんて書いてくると、「教師なのに」「先生ともあろうものが……」という声が、どっかから聞こえてくるような気がします。
まあちょっと聞いてください。これは決して弁解ではありません。
日本人ほど〈道徳〉と〈ルール〉を混同している国民はいない。ぼくはそう信じています。われわれは、二言目には道徳を口にしますが、かんじんなその意味は、まことにあいまいなのです。だから、道徳の支えともいうべき〈良心〉の意味もまた大変漠然としています。
たとえば、憲法第一九条には〈思想及び良心の自由は、これを侵してはならない〉とあり、法学協会の「註解日本国憲法」によると、この〈良心〉とは、信念、世界観の意味に解すべきである、などとなっている。
ところが、回教圏やキリスト教圏や、その他の国でも、〈良心〉とは、間違いなく〈内なる神の声〉なのです。それは信仰の問題なのです。だから、〈道徳〉教育は、外国では教会の仕事のはずです。それを日本では学校が、なんと生身の教師が、受けもっている。神をも恐れぬ所業ではないか。日本に勝った連合軍は、そう思って、〈修身教育〉を追放させたのでしょう。その結果、ルール教育もなくなった訳で、公共のルールをわきまえぬ大人が、大量に生れました。
いま、学校は、〈道徳〉と〈ルール〉の教育をごちゃまぜに請け負ったことになって混乱しているかのようです。
ルールの番人であるはずの警官が、交通違反すると〈道徳的〉に責められるように、教師も、「教師ともあろうものが」と、余分に道徳的に非難される。そして、どっちも、すぐに道徳的に説教をしたがる。〈道徳・モラル〉とは、個人の心の問題で、教師や、警官や、国家がどうのこうのという問題ではないのです。ぼくたちはまず、ルールとモラルをはっきり区別せねばならないでしょう。教師はルールはルールとして教え、生徒に勝手なモラルを一方的に押しっけるべきではないと思うのです。
9.一人になって一人で泣けばいい
♣
レオン・ブルムの『結婚論』に共鳴し、結婚なんてするとしても三〇代後半や。ぼくはそう思い込んでいたのですが、実は、少し前、なかば衝動的に、結婚を考えたことがあったのです。大学を卒業したばかりの頃、ぼくが中学の教師だった頃でした。
タカちゃんは、ぼくの担任の生徒でした。最初、ぼくが押しかけたのか、彼女が誘ったのか、どっちかあんまりはっきりしません。とにかく、彼女の家は学校の近くだったので、ぼくはよく遊びにゆきました。
彼女には、小学校の姪が二人いて、名前は忘れてしまいましたが、妹の方がケッサクでした。
「わたしナ、なんでも人につられてすぐやってしまうんや。こないだ、川へ行ったら、男の子がぎょうさん泳いだはってん。みんな橋の上に並んで、セーノーゆうて飛び込まはったん。気ィ付いたら、私も服着たまま飛び込んでたん」
彼女はそう話し、ぼくは大笑いしました。
家族の人たちも、いつも歓迎してくれたので、生来厚かましいところのあるぼくは、かなり足しげく通っていたんです。でも、そのうちに、こんな風に特定の生徒とだけ親しくしていて、いいもんなんかなあ、と気になりだしました。
ぼくは、児童劇の分野ではスゴイという評判のフクチ先生に相談してみました。彼は即座に、
「何いうとるんや。タカダ君、一人の生徒が好きになれなくて、どうしてみんなの生徒を愛せますか」
と断言し、ぼくは、なるほど、そんなもんかいなあ、と思いつつ、ホッと安心した訳です。
ぼくは、その頃、時々は、自動車で行くこともあり、そんな時には、タカちゃんの家の前に駐車しておくことにしていました。もし、お酒を飲んでも、彼女の家で醒まして帰ると、都合がよかったからです。
ある時、ぼくは、かなり夜更けに、相当に酔払って、そこに行きました。タカちゃんは、
「あー、お酒くさい。センセ、大分飲んだんやね。ちょっと眠っていったら」
と、いい、おふとんを敷いてくれました。ぼくは、バタン、グーと寝込み、ふと目覚めて、時計を見ると、もう明け方の四時でした。あわてて起きあがり、見ると、タカちゃんは、枕元で編物をしているのです。
「よおねたはったもん。起こすの可哀そうで」
といい、ぼくを送って戸口までついてきました。その時、なにか形容しがたいある感情がぼくをとらえ、ぼくは彼女の額にキスしました。
数日後、ぼくは、彼女に、真剣な気持で、いつまでも待ってるから、ぼくのお嫁さんになってほしいと頼んだのです。そしたら、
「わたしかて、考えてたん。でも、やっぱし、年がちがいすぎるしねえ」
そういわれて、ぼくは完全にめげてしまったのでした。
♣♣
まあ、ほとんど毎日ぐらい顔を合せる間柄でもある。やっぱり、読ましとく必要あるやろなあ。そう思って、ぼくは、女房に、彼女がぼくに出会う辺りからの原稿を読ませたのです。
「へええ、こんなことあったん。全然知らんかった」
女房は驚いてこういい、それから声を張りあげて、
「あかん、こんなん出したら絶対あかん。もし出したら、わたし死んでやるから」
と、叫びました。
全然知らん人が読んだら、私のことどんな遊び好きの女かと思うではないか。そういうのです。そういわれてみれば、当時彼女はまだ一九で、ほんとに子供子供していました。たしかに誤まり受けとられることがあるかも知れない。でも、そんなことまで、そんな正確に書けるもんでもない。ぼくは困ってしまいました。たしかに、正直いって、死なれたら困ります。そうかといって、話のいきがかり上、カットする訳にもゆかないんです。ぼくだって、なんにも露出狂じゃあるまいし、好きこのんで、こんな男のストリップみたいな原稿書いてる訳じゃない……‥などと考えていました。
そしたら、女房はも一度、最初から、続けて読み直してから、「まあ、いいわ。とにかく書いてみたら」と、いってくれました。ちょっとはホッとしたような気分になりました。
さて、話をもとに戻しましょう。
コスゲ先生にすすめられても、全然、その気のなかったぼくは、ある偶然のキッカケで、どうした気の迷いか、彼女とつきあい、一年もしないうちに結婚することになったのです。
まあいってみれば、人間とは、そんなもんかも知れません。ちょっと大袈裟に云えば、不条理な存在であるのでしょう。
でも、その当時は、ぼくはえらく真剣で、いま結婚しなかったら、もう一生独身のままやろう。結婚なんて、こうしたクレージーな状況においてのみ、踏みきれるもんではないやろか、などと考えていました。今になって考えてみると、多分ぼくは、当時のぼくの女友達の誰にもなかった、彼女のある幼稚さと素直さに感じ入り、それにひかれたんではないかと思うのです。
彼女とつき合い始めても、ぼくは先生には云いませんでした。あれほど拒否した手前、云いにくかったのか。それとも、いやあんまりよく分らない。とにかく、彼に打明けたのは、大分たってからでした。ぼくは、彼女と二人で、予告なしに、彼の家を訪問したのです。全く意外なことに、彼は、不快の感情をかくしませんでした。
これは、後に分ったのですが、彼女は、ぼくのことを隠したままで、彼のスキー行などの誘いをみんな断っていたのです。彼は、これを、重大な裏切りと、後に語りました。
♣♣♣
結婚式が済んで一ケ月ほどした頃、先生は、披露宴で弾くつもりだった、という手紙と共に、ヴァイオリン曲の楽譜を送ってきました。楽譜は「ホーム・スイートホーム(主題と変奏)」でした。
--もし何の抵抗もなく、披露の宴に出席していたら、親しい友人の披露宴では、いつもそおしていたように、祝いの詞のかわりに、この曲を弾いていたでしょう。(中略)家に来た時にでもと思いましたが、年末まで多事多難、あえないと思います故、郵送します。元気で--
年が明けて、ある日の夕刻、ぼくは国際観光ホテルのロビーで、彼と落ち合いました。彼は以前からそこが好きだったからです。二人の問には、もう以前の様な親密感がないようにぼくは感じていました。そのことを素直に、ぼくが言葉にすると、彼は、「気にするな、時間だけが解決してくれる」といいました。
まだ仕事が残っているので、もいちど役所に引返すのだそうです。色々話したいことがあるけれど、時間がない。会議の合間などに書いたメモがあるから、そのうちに送るよ。
小一時間ほどで、ぼく達は、別れました。彼は疲れている風で、別れぎわに云った言葉を、ぼくは印象的に憶えています。
「この頃、チョークを握って講義してたり、生徒とテニスをやってる夢をよく見るんだよ」
そのメモが着いたのは、多分、三月の末頃だったと思います。適当に抜き書きすると、
--今課内では、来年度の京都府下全部の小中高の教員定数が最低ギリギリのところどれだけあれば行けそうかを決める(財務と折衝する最後の数)一番大事なと思われる会議をしています。時刻は午后八時三〇分をまわったところです。小・中学校の生徒数が減るので、その余った先生を高校へ配転する。しかし小中としては、無理にそんなことをしないで、この際、少しでも多く抱えて良い教育をしたい。かりに高校へあげても、そのかわりに新しい卒業生をほしいと云うのです。でも、それは時間の問題で、府の財政の考え方では金のことしか考えていないので、なる様にしかならんと思います。池田首相は人づくりなんてえらそうに云っていますが、実際には何の手も打ってくれません。無理をしなくても、一(学)級五〇人を四〇人にすればそれですむことなんです。それはしかし徐々にしか良くならない。僕が六〇歳になって現役を去る頃、そんな様になれば良い。まあ方向は分っている(後略)一・二四--
このメモは、手帳の切れっぱしの黄色い紙に、小さな、きれいな字で、びっしりとつめて書いてあります。ぼくは、いま、この原稿を書くために、一五・六年ぶりに、引出しの奥から取り出して読んでみて、驚きを新たにしています。かなりの書き魔だったかも知れないけれど、これほど克明に自分の感想を書きのこす必要がどうしてあったのか。
♣♣♣♣
--比エイ山の雪はすっかり消えて、この部屋のまどからも、賀茂のせせらぎが春をかなではじめているのがわかる様になりました。でも北東の方、遠く比良連峰、蓬莱山はまだ真っ白です--
という書きだしで始まる分は、三月一八日付ですから、手紙を出す直前に書いたものです。この頃、彼は、人事という仕事の性質上、秘密の場所に移っていました。連日、夜遅くまで、電話の応対と高校長の訪問の応待に明けくれ、一度ゆっくり休みたいと書いてあります。
そして、こうも書いている。
--今やっている仕事が教育なのか、と時々思います。でも教育は立派な教員によって支えられているんだと思って、その教員を適所にいかに確保するかが僕の腕にかかっていると考えようとしています。それが、仕事をする唯一の力になっているのです--
それにしても、なぜ、こうしたメモを、ぼくに送ったのか。なんだか、分るようで分らない。いろいろ憶測は可能なんですが、もういない彼に確かめてみる訳にもゆきません。
さて、四月の始め頃だったと思います。ぼくは女房と彼女の実家にゆき、すきやきを喰べていました。
水が飲みたくなったので、流しに立ち、コップに水を入れると、パチンと音がして、そのコップが割れました。それで、もう一つのコップを取ると、また割れたのです。何か不吉な予感がして、合宿中の大学山岳部の連中のことが気にかかったのを憶えています。
その翌日、一通の絵はがきが着きました。それは先生からのもので、「久しぶりのシガの山は素敵で、しみじみと眺め入りました。ようやく自分が取り戻せたようです」とありました。先生は久しぶりのスキーを楽しんでいるだろうとぼくは思いました。
遭難の報が入ったのは、その翌日のことです。あとで考えると、彼が死んだのは、だいたい、あのコップの割れた頃だったのです。
彼は、山田峠でルートを誤り、別の沢へと誘い込まれたのです。あとで、生残りの同行者から、当時の状況をくわしく聞いて、ぼくには、彼がどのように迷い込み、どのように死に至ったかが、かなりはっきり分りました。山登りの経験があり、山で迷ったことがある人ならともかく、山の素人では、まずどうしようもない死への経路の様に思えました。
遭難の第一報で、ぼくは家族や友人の人達と、現場へ急行するべく長野に向かいました。でも、その時は、もう彼の生命は絶え、ぼくが見たのは、棺の中にまるで眠っているみたいな先生だったのです。
チラと見ただけで、ぼくは急いでその場を離れました。ここでは泣くまい。人に涙を見せてはならぬ。なぜだか、そう思ったからです。一人になってから一人で泣けばいい。
京都に帰り、北山へ出掛け、誰もいない山道を一人歩きました。ぼくを一番理解してくれた人はもういない。そんな思いが万力のようにぼくの心をしめつけ、鳴咽をこらえて、ぼくは山道であえぎました。
レオン・ブルムの『結婚論』に共鳴し、結婚なんてするとしても三〇代後半や。ぼくはそう思い込んでいたのですが、実は、少し前、なかば衝動的に、結婚を考えたことがあったのです。大学を卒業したばかりの頃、ぼくが中学の教師だった頃でした。
タカちゃんは、ぼくの担任の生徒でした。最初、ぼくが押しかけたのか、彼女が誘ったのか、どっちかあんまりはっきりしません。とにかく、彼女の家は学校の近くだったので、ぼくはよく遊びにゆきました。
彼女には、小学校の姪が二人いて、名前は忘れてしまいましたが、妹の方がケッサクでした。
「わたしナ、なんでも人につられてすぐやってしまうんや。こないだ、川へ行ったら、男の子がぎょうさん泳いだはってん。みんな橋の上に並んで、セーノーゆうて飛び込まはったん。気ィ付いたら、私も服着たまま飛び込んでたん」
彼女はそう話し、ぼくは大笑いしました。
家族の人たちも、いつも歓迎してくれたので、生来厚かましいところのあるぼくは、かなり足しげく通っていたんです。でも、そのうちに、こんな風に特定の生徒とだけ親しくしていて、いいもんなんかなあ、と気になりだしました。
ぼくは、児童劇の分野ではスゴイという評判のフクチ先生に相談してみました。彼は即座に、
「何いうとるんや。タカダ君、一人の生徒が好きになれなくて、どうしてみんなの生徒を愛せますか」
と断言し、ぼくは、なるほど、そんなもんかいなあ、と思いつつ、ホッと安心した訳です。
ぼくは、その頃、時々は、自動車で行くこともあり、そんな時には、タカちゃんの家の前に駐車しておくことにしていました。もし、お酒を飲んでも、彼女の家で醒まして帰ると、都合がよかったからです。
ある時、ぼくは、かなり夜更けに、相当に酔払って、そこに行きました。タカちゃんは、
「あー、お酒くさい。センセ、大分飲んだんやね。ちょっと眠っていったら」
と、いい、おふとんを敷いてくれました。ぼくは、バタン、グーと寝込み、ふと目覚めて、時計を見ると、もう明け方の四時でした。あわてて起きあがり、見ると、タカちゃんは、枕元で編物をしているのです。
「よおねたはったもん。起こすの可哀そうで」
といい、ぼくを送って戸口までついてきました。その時、なにか形容しがたいある感情がぼくをとらえ、ぼくは彼女の額にキスしました。
数日後、ぼくは、彼女に、真剣な気持で、いつまでも待ってるから、ぼくのお嫁さんになってほしいと頼んだのです。そしたら、
「わたしかて、考えてたん。でも、やっぱし、年がちがいすぎるしねえ」
そういわれて、ぼくは完全にめげてしまったのでした。
♣♣
まあ、ほとんど毎日ぐらい顔を合せる間柄でもある。やっぱり、読ましとく必要あるやろなあ。そう思って、ぼくは、女房に、彼女がぼくに出会う辺りからの原稿を読ませたのです。
「へええ、こんなことあったん。全然知らんかった」
女房は驚いてこういい、それから声を張りあげて、
「あかん、こんなん出したら絶対あかん。もし出したら、わたし死んでやるから」
と、叫びました。
全然知らん人が読んだら、私のことどんな遊び好きの女かと思うではないか。そういうのです。そういわれてみれば、当時彼女はまだ一九で、ほんとに子供子供していました。たしかに誤まり受けとられることがあるかも知れない。でも、そんなことまで、そんな正確に書けるもんでもない。ぼくは困ってしまいました。たしかに、正直いって、死なれたら困ります。そうかといって、話のいきがかり上、カットする訳にもゆかないんです。ぼくだって、なんにも露出狂じゃあるまいし、好きこのんで、こんな男のストリップみたいな原稿書いてる訳じゃない……‥などと考えていました。
そしたら、女房はも一度、最初から、続けて読み直してから、「まあ、いいわ。とにかく書いてみたら」と、いってくれました。ちょっとはホッとしたような気分になりました。
さて、話をもとに戻しましょう。
コスゲ先生にすすめられても、全然、その気のなかったぼくは、ある偶然のキッカケで、どうした気の迷いか、彼女とつきあい、一年もしないうちに結婚することになったのです。
まあいってみれば、人間とは、そんなもんかも知れません。ちょっと大袈裟に云えば、不条理な存在であるのでしょう。
でも、その当時は、ぼくはえらく真剣で、いま結婚しなかったら、もう一生独身のままやろう。結婚なんて、こうしたクレージーな状況においてのみ、踏みきれるもんではないやろか、などと考えていました。今になって考えてみると、多分ぼくは、当時のぼくの女友達の誰にもなかった、彼女のある幼稚さと素直さに感じ入り、それにひかれたんではないかと思うのです。
彼女とつき合い始めても、ぼくは先生には云いませんでした。あれほど拒否した手前、云いにくかったのか。それとも、いやあんまりよく分らない。とにかく、彼に打明けたのは、大分たってからでした。ぼくは、彼女と二人で、予告なしに、彼の家を訪問したのです。全く意外なことに、彼は、不快の感情をかくしませんでした。
これは、後に分ったのですが、彼女は、ぼくのことを隠したままで、彼のスキー行などの誘いをみんな断っていたのです。彼は、これを、重大な裏切りと、後に語りました。
♣♣♣
結婚式が済んで一ケ月ほどした頃、先生は、披露宴で弾くつもりだった、という手紙と共に、ヴァイオリン曲の楽譜を送ってきました。楽譜は「ホーム・スイートホーム(主題と変奏)」でした。
--もし何の抵抗もなく、披露の宴に出席していたら、親しい友人の披露宴では、いつもそおしていたように、祝いの詞のかわりに、この曲を弾いていたでしょう。(中略)家に来た時にでもと思いましたが、年末まで多事多難、あえないと思います故、郵送します。元気で--
年が明けて、ある日の夕刻、ぼくは国際観光ホテルのロビーで、彼と落ち合いました。彼は以前からそこが好きだったからです。二人の問には、もう以前の様な親密感がないようにぼくは感じていました。そのことを素直に、ぼくが言葉にすると、彼は、「気にするな、時間だけが解決してくれる」といいました。
まだ仕事が残っているので、もいちど役所に引返すのだそうです。色々話したいことがあるけれど、時間がない。会議の合間などに書いたメモがあるから、そのうちに送るよ。
小一時間ほどで、ぼく達は、別れました。彼は疲れている風で、別れぎわに云った言葉を、ぼくは印象的に憶えています。
「この頃、チョークを握って講義してたり、生徒とテニスをやってる夢をよく見るんだよ」
そのメモが着いたのは、多分、三月の末頃だったと思います。適当に抜き書きすると、
--今課内では、来年度の京都府下全部の小中高の教員定数が最低ギリギリのところどれだけあれば行けそうかを決める(財務と折衝する最後の数)一番大事なと思われる会議をしています。時刻は午后八時三〇分をまわったところです。小・中学校の生徒数が減るので、その余った先生を高校へ配転する。しかし小中としては、無理にそんなことをしないで、この際、少しでも多く抱えて良い教育をしたい。かりに高校へあげても、そのかわりに新しい卒業生をほしいと云うのです。でも、それは時間の問題で、府の財政の考え方では金のことしか考えていないので、なる様にしかならんと思います。池田首相は人づくりなんてえらそうに云っていますが、実際には何の手も打ってくれません。無理をしなくても、一(学)級五〇人を四〇人にすればそれですむことなんです。それはしかし徐々にしか良くならない。僕が六〇歳になって現役を去る頃、そんな様になれば良い。まあ方向は分っている(後略)一・二四--
このメモは、手帳の切れっぱしの黄色い紙に、小さな、きれいな字で、びっしりとつめて書いてあります。ぼくは、いま、この原稿を書くために、一五・六年ぶりに、引出しの奥から取り出して読んでみて、驚きを新たにしています。かなりの書き魔だったかも知れないけれど、これほど克明に自分の感想を書きのこす必要がどうしてあったのか。
♣♣♣♣
--比エイ山の雪はすっかり消えて、この部屋のまどからも、賀茂のせせらぎが春をかなではじめているのがわかる様になりました。でも北東の方、遠く比良連峰、蓬莱山はまだ真っ白です--
という書きだしで始まる分は、三月一八日付ですから、手紙を出す直前に書いたものです。この頃、彼は、人事という仕事の性質上、秘密の場所に移っていました。連日、夜遅くまで、電話の応対と高校長の訪問の応待に明けくれ、一度ゆっくり休みたいと書いてあります。
そして、こうも書いている。
--今やっている仕事が教育なのか、と時々思います。でも教育は立派な教員によって支えられているんだと思って、その教員を適所にいかに確保するかが僕の腕にかかっていると考えようとしています。それが、仕事をする唯一の力になっているのです--
それにしても、なぜ、こうしたメモを、ぼくに送ったのか。なんだか、分るようで分らない。いろいろ憶測は可能なんですが、もういない彼に確かめてみる訳にもゆきません。
さて、四月の始め頃だったと思います。ぼくは女房と彼女の実家にゆき、すきやきを喰べていました。
水が飲みたくなったので、流しに立ち、コップに水を入れると、パチンと音がして、そのコップが割れました。それで、もう一つのコップを取ると、また割れたのです。何か不吉な予感がして、合宿中の大学山岳部の連中のことが気にかかったのを憶えています。
その翌日、一通の絵はがきが着きました。それは先生からのもので、「久しぶりのシガの山は素敵で、しみじみと眺め入りました。ようやく自分が取り戻せたようです」とありました。先生は久しぶりのスキーを楽しんでいるだろうとぼくは思いました。
遭難の報が入ったのは、その翌日のことです。あとで考えると、彼が死んだのは、だいたい、あのコップの割れた頃だったのです。
彼は、山田峠でルートを誤り、別の沢へと誘い込まれたのです。あとで、生残りの同行者から、当時の状況をくわしく聞いて、ぼくには、彼がどのように迷い込み、どのように死に至ったかが、かなりはっきり分りました。山登りの経験があり、山で迷ったことがある人ならともかく、山の素人では、まずどうしようもない死への経路の様に思えました。
遭難の第一報で、ぼくは家族や友人の人達と、現場へ急行するべく長野に向かいました。でも、その時は、もう彼の生命は絶え、ぼくが見たのは、棺の中にまるで眠っているみたいな先生だったのです。
チラと見ただけで、ぼくは急いでその場を離れました。ここでは泣くまい。人に涙を見せてはならぬ。なぜだか、そう思ったからです。一人になってから一人で泣けばいい。
京都に帰り、北山へ出掛け、誰もいない山道を一人歩きました。ぼくを一番理解してくれた人はもういない。そんな思いが万力のようにぼくの心をしめつけ、鳴咽をこらえて、ぼくは山道であえぎました。
8.ぼくはほんとに分身なのかなあ
♣
夏山のシーズンが近づいた頃、大学山岳部の監督をやっていたぼくは、準備会に出席してくれるように頼まれました。
ちょうどその頃は、一学期末のテストが終った時でした。ぼくは、パッグに答案をぎっしり詰め込んで、山岳部のルームに出掛けました。
「お前ら、スマンけどなあ、準備会の前にちょっと仕事頼まれてくれ」
なにしろ人海戦術というのはすごいもので、ぼく一人でやったら、何日かかるか分らないという答案の採点は、アッという間に済んでしまいました。
準備会がすんで、ぼくはついでに、コスゲ先生の家を訪問したんです。彼は、三脚にセットしたカメラとストロボの傍につっ立って、水槽の魚を睨んでいました。
「これ、キッシング・フィッシュゆうてな。キッスしよるんや。その瞬間とったろ思うてこないだからやっとるんやけど、狙うてると何にもやりよらん」
ぼくが、大学山岳部の連中に、採点をやらしたので、成績が、〆切より大分早く出せそうだと話すと、彼は真剣な顔つきになって、
「あんなあ、成績は絶対はよ出したらあかんぞ。はよ出しよる奴は、多分ええかげんに評価しとるんや。評価はほんまに慎重にやらなあかんもんや。喜こんではよ出しよる奴いっぱいいよるけど……。ワシはギリギリまで出さへん」
きっと彼は、ぼくのやり方を批判したのだろうという気もしました。ただぼくは、この教えのうわっ面だけを忠実に守りすぎたせいか、ギリギリか、あるいは少し遅れることが多いようです。
さて、いつもの調子で、話し込んでいるうちに夜が更けました。奥さんはいつもの様に、ぼく達の話をききながら、コクリと居眠りをし、ぼくが、「そろそろ……」と例によって腰を浮かし、コスゲ先生は、またいつも通り、「かまへん、かまへん、気にするな」と止めました。
それから、彼は急に「実は…」と声を改め、「これは、人事のことやから、土壇場の土壇場まで分らん話やけど、ワシ、府教委に出る話があってなあ」と打ち明けました。人事を司る課に行くそうです。後釜に、ぼくを推薦しておいたという話でした。
やがて、中学の校長から、ぼくの意向の打診がありました。「こっちも後の替りがないから困るんじゃ」と校長はいいました。でも、意外とスンナリ、ぼくは、桂高校に九月一日付で転勤することになったのです。
夏山から帰って、明日、新しい学校にゆくという日、呼ばれてコスゲ先生の家にゆくと、彼は上気嫌で、
「君の学校、大分出ししぶったみたいや。ワシ、タカダいう奴が来んのやったら、出ん。そういうたってん」
それから、彼はやおら、自分の高校の職員名簿を取り出すと、それを開いてぼくに示し、
「こいつマル、これはペケ」
と、教師に順番に○×をつけ始めたんです。いや、ぴっくりしました。
♣♣
今から十七・八年も前、ぼくは当時としては、まだ珍しかった四輪自動車に乗っていました。ブルーバードが発売されて、最初のモデルチェンジの頃だったと思いす。オフクロが乗りだしたので、ぼくも免許をとったんです。交代に使うことになっていました。
コスゲ先生に、桂で車に乗っている先生がいるかどうか聞いてみると、年配の生物の先生が、ルノーのポソコツに乗ってるだけ、という話です。ピカピカの新車みたいな車で初日から登校するのは、何となく気が引けました。
「ハデやし、乗ってゆくの止めます」
とぼくが云うと、彼は、
「かまへん、かまへん、乗っていけ、乗ってけ」
と、強く勧め、ぼくがなお逡巡していると、「みんなびっくりしよるで」と、一人大はしゃぎで、地図を書いて、車を止める場所まで指示したのでした。
桂高校へ行っても、そこはぼくにとって、教育実習をした学校で、新しい学校へ来たという気が、全くといっていいほどしなかった。化学の、いまは同僚となった先生も、みんな顔見知りで、「やあ、よう来たな」と声をかけ、なんだか、また教育実習が始まったみたいな感じで、ぼくの学生気分は、なかなか抜けなかったようです。ただ、コスゲ先生が、ペケをつけた人達の何人かは、「あいつの子分や……」という感じを、はっきり顔に出していたように思います。
桂に替って、まだ一ケ月にもならない時、ぼくは、校長に呼ばれました。そのチョボひげの校長は、君は、数学のテストの監督をしていた時に、女生徒に、解答を教えたそうだね、と決めつけました。
「いや、誰から聞いたかは、いえない。その先生は、職員会議で問題にするといきまいているので、私が止めたんだ」
「そうですか、結構ですから問題にして下さい」
と、ぼくは、怒りを押えていいました。
ぼくは、その時、分っていたのです。ことの真相は、監督の時、クラスの大多数が、題意をとり違えているのに気付いたので、みんなにそういっただけのことなんです。それを、一人の女生徒だけに教えた、という風に話を捏造した奴がいる。ぼくは頭にきていました。
校長は、「火のない所に煙は立たんからねえ」などというものですから、ますますカッカしてきました。
ぼくは、直ぐ、こういうことを校長に、告げ口した奴がいる。そいつが、分ったら、半殺しにしたる。教師なんか止めるから‥…。そういって廻り、様子を見ていました。すぐに、告げ口した奴が誰か、何となく分ったんです。でも報復する気も起こりませんでした。
こうしたことは、その後何年もの間、何度も起こり、ぼくは結構いじめられたようです。
でも、そのせいで、ぼくはだんだん強くなった。いじめ教師に感謝せんならんと思ってる訳です。
♣♣♣
その年の暮れ、ぼくは呼ばれて、コスゲ先生の家にゆきました。一人の女の子がきていて、なんでも、その女の子の誕生パーティなのだそっです。紹介されて、なんだか、寒そな顔した、少しりんかくのぼやけた感じの女の子やなあ、という感じでした。あんまり、これという印象は受けなかったように思います。でも、先生は、週刊誌のグラビアをぼくに示し、「どうや、似てるやろ」と、一人悦に入っていました。そのグラビアには、倍賞千恵子が丹前かなんか着て写っていて、ぼくとしては、そういわれてみれば、そんな気もするような感じで、「そうですなあ」と、あんまり乗らぬ返事を返していたようでした。
きっと彼のお気に入りの生徒だったんだろう。そう思っただけです。まさか一年ほど後に結婚することになるなんて、夢にも、考えもしなかった。
冬に、大学の時の友人と志賀高原にゆく。彼女も来るから君も来い。そういってコスゲ先生は、いつもの、断定的でかなり命令的口調で、ぼくを誘いました。でも、ぼくには、もう、冬山の計画ができあがっていたし、あんまり気乗りもしていませんでした。「冬山合宿が、はやく済んだら行けるかも分りませんけど……」
そう答えておきましたけれど、ぼくには全然行く気がなかったみたいです。
その後、何度も、こうした調子で誘われたけれど、ぼくはいつも、どっちともつかぬ返事をして、そして行かなかった。そしたら、いつも彼は、後でぼくにどうしてこなかったのかとなじり、どんなに楽しかったかを話しました。ぼくは、適当に相槌をうちながら聞いているのが常でした。
そしたら、ある時、彼は冗談ともつかぬ調子で、「どうや、彼女と結婚せんか」といったのです。ぼくも冗談めかして、「取ったら気の毒ですし……」と答えました。
正直なところ、ぼくには、相手が誰にせよ、結婚する気などまるでなかったのです。ただ、女友達は、かなり沢山いて、デートの誘いに全部応じていたら、一週間では足らん、というくらいだった。彼女達は、ぼくのことを、大分変っていて、もしかしたら、独身主義者だと思っていたのかも知れません。だから、ぽくが、結婚することになって、順番にデートして、申し訳なさそうに、そう告げた時、みんなは、ほんとに申し合せでもしたかのように、一様に、
「タカダさんも結局は、普通の人だったんですね」
といいました。
ぼくは、いじけ切って、憮然として、
「そういうことやろなあ」
と、答えていたのです。
♣♣♣♣
その頃、ぼくは、レオン・ブルムの『結婚論』(一九〇七)に共鳴していたようです。
ブルムは、当時フランスの社会問題であった離婚を考察して、この本を書いたらしい。後に彼はフランスの首相となったのですが、彼の失脚の原因がこの『結婚論』であるとする説があるくらい、当時としては先進的だった。
彼の云う所によれば、男も女も、若くてカッカしている間-これを彼は「疾風怒涛期」と呼んでいたと思うんですが-は、結婚すべきではない。自由に恋愛すべし。そのうちに、疲れてきて、魂の安息というか、心の安らぎを求めるようになる。そうなった時、そうした要求を満たし合えるような相手と結婚すればよい。と、まあ、そんな骨子のものだったように思います。
考えてみれば、ブルムの頃とは、世の中も随分と変り、先進的には「イン・セックス」と「アウト・セックス」という、結婚という社会的枠組みと古典的モラルを超えた一種のフリー・セックスの主張が現われる今日でも、離婚が社会問題であることには変りがないようです。
やっぱり、カッカして目がくらんだ状態で結婚し、醒めてきてから、「性格の不一致」などといいだす例が多いらしい。レオン・ブルムの主張は、なお新しいというぺきでしょう。
さて、話をもとに戻しましょう。
最初は、ほとんど冗談半分みたいな話だったのですが、そのうちに、彼の、結婚のすすめは、だんだんと真剣になってきました。ぼくは不思議だった。どうして、そんなに懸命に一人の女性をすすめるのか分りませんでした。
教育実習での最初の出合いの時から、ぼくは彼に、一種独得の魅力みたいなものを感じていたのは事実です。東京教育大をでた彼は、こと化学の専門分野に関しても、ぼくの様に極めて職人的に化学を専攻した男とちがっているように思いました。かなりすっきりとずっと先まで見通した卓見を述べることがあって、もう教師をつづける気になっていたぼくを感心させました。まあ、数少ない尊敬するに足る先生だと思っていたのです。
でも、こと結婚なんていうことに関しては話はまるきり別のはずです。それは完全にぼくの判断で、人にとやかくいわれる筋合いのもんではない。
大分以前から、彼はよく、ぼくのことを「分身」などと呼び、バーで飲んでいる時など「これがぼくの分身です」と紹介したりしていました。このこと自体はいやでもなかった。
でも、ある女性が好きであっても、勝手に「分身」をこしらえて、ひっつけられてはたまったもんではない。ぼくは不快になっていました。
ある日、バーで飲んでの帰り途、彼を送って下鴨神社のあたりまできたとき、突然、車を止めるように命じました。そして、重苦しい沈黙のあとに、
「彼女は君以外の男に渡したくない」
といいました。ぼくはあるおぞましさを感じ、「もうその話は聞きたくない」と答えたのです。
夏山のシーズンが近づいた頃、大学山岳部の監督をやっていたぼくは、準備会に出席してくれるように頼まれました。
ちょうどその頃は、一学期末のテストが終った時でした。ぼくは、パッグに答案をぎっしり詰め込んで、山岳部のルームに出掛けました。
「お前ら、スマンけどなあ、準備会の前にちょっと仕事頼まれてくれ」
なにしろ人海戦術というのはすごいもので、ぼく一人でやったら、何日かかるか分らないという答案の採点は、アッという間に済んでしまいました。
準備会がすんで、ぼくはついでに、コスゲ先生の家を訪問したんです。彼は、三脚にセットしたカメラとストロボの傍につっ立って、水槽の魚を睨んでいました。
「これ、キッシング・フィッシュゆうてな。キッスしよるんや。その瞬間とったろ思うてこないだからやっとるんやけど、狙うてると何にもやりよらん」
ぼくが、大学山岳部の連中に、採点をやらしたので、成績が、〆切より大分早く出せそうだと話すと、彼は真剣な顔つきになって、
「あんなあ、成績は絶対はよ出したらあかんぞ。はよ出しよる奴は、多分ええかげんに評価しとるんや。評価はほんまに慎重にやらなあかんもんや。喜こんではよ出しよる奴いっぱいいよるけど……。ワシはギリギリまで出さへん」
きっと彼は、ぼくのやり方を批判したのだろうという気もしました。ただぼくは、この教えのうわっ面だけを忠実に守りすぎたせいか、ギリギリか、あるいは少し遅れることが多いようです。
さて、いつもの調子で、話し込んでいるうちに夜が更けました。奥さんはいつもの様に、ぼく達の話をききながら、コクリと居眠りをし、ぼくが、「そろそろ……」と例によって腰を浮かし、コスゲ先生は、またいつも通り、「かまへん、かまへん、気にするな」と止めました。
それから、彼は急に「実は…」と声を改め、「これは、人事のことやから、土壇場の土壇場まで分らん話やけど、ワシ、府教委に出る話があってなあ」と打ち明けました。人事を司る課に行くそうです。後釜に、ぼくを推薦しておいたという話でした。
やがて、中学の校長から、ぼくの意向の打診がありました。「こっちも後の替りがないから困るんじゃ」と校長はいいました。でも、意外とスンナリ、ぼくは、桂高校に九月一日付で転勤することになったのです。
夏山から帰って、明日、新しい学校にゆくという日、呼ばれてコスゲ先生の家にゆくと、彼は上気嫌で、
「君の学校、大分出ししぶったみたいや。ワシ、タカダいう奴が来んのやったら、出ん。そういうたってん」
それから、彼はやおら、自分の高校の職員名簿を取り出すと、それを開いてぼくに示し、
「こいつマル、これはペケ」
と、教師に順番に○×をつけ始めたんです。いや、ぴっくりしました。
♣♣
今から十七・八年も前、ぼくは当時としては、まだ珍しかった四輪自動車に乗っていました。ブルーバードが発売されて、最初のモデルチェンジの頃だったと思いす。オフクロが乗りだしたので、ぼくも免許をとったんです。交代に使うことになっていました。
コスゲ先生に、桂で車に乗っている先生がいるかどうか聞いてみると、年配の生物の先生が、ルノーのポソコツに乗ってるだけ、という話です。ピカピカの新車みたいな車で初日から登校するのは、何となく気が引けました。
「ハデやし、乗ってゆくの止めます」
とぼくが云うと、彼は、
「かまへん、かまへん、乗っていけ、乗ってけ」
と、強く勧め、ぼくがなお逡巡していると、「みんなびっくりしよるで」と、一人大はしゃぎで、地図を書いて、車を止める場所まで指示したのでした。
桂高校へ行っても、そこはぼくにとって、教育実習をした学校で、新しい学校へ来たという気が、全くといっていいほどしなかった。化学の、いまは同僚となった先生も、みんな顔見知りで、「やあ、よう来たな」と声をかけ、なんだか、また教育実習が始まったみたいな感じで、ぼくの学生気分は、なかなか抜けなかったようです。ただ、コスゲ先生が、ペケをつけた人達の何人かは、「あいつの子分や……」という感じを、はっきり顔に出していたように思います。
桂に替って、まだ一ケ月にもならない時、ぼくは、校長に呼ばれました。そのチョボひげの校長は、君は、数学のテストの監督をしていた時に、女生徒に、解答を教えたそうだね、と決めつけました。
「いや、誰から聞いたかは、いえない。その先生は、職員会議で問題にするといきまいているので、私が止めたんだ」
「そうですか、結構ですから問題にして下さい」
と、ぼくは、怒りを押えていいました。
ぼくは、その時、分っていたのです。ことの真相は、監督の時、クラスの大多数が、題意をとり違えているのに気付いたので、みんなにそういっただけのことなんです。それを、一人の女生徒だけに教えた、という風に話を捏造した奴がいる。ぼくは頭にきていました。
校長は、「火のない所に煙は立たんからねえ」などというものですから、ますますカッカしてきました。
ぼくは、直ぐ、こういうことを校長に、告げ口した奴がいる。そいつが、分ったら、半殺しにしたる。教師なんか止めるから‥…。そういって廻り、様子を見ていました。すぐに、告げ口した奴が誰か、何となく分ったんです。でも報復する気も起こりませんでした。
こうしたことは、その後何年もの間、何度も起こり、ぼくは結構いじめられたようです。
でも、そのせいで、ぼくはだんだん強くなった。いじめ教師に感謝せんならんと思ってる訳です。
♣♣♣
その年の暮れ、ぼくは呼ばれて、コスゲ先生の家にゆきました。一人の女の子がきていて、なんでも、その女の子の誕生パーティなのだそっです。紹介されて、なんだか、寒そな顔した、少しりんかくのぼやけた感じの女の子やなあ、という感じでした。あんまり、これという印象は受けなかったように思います。でも、先生は、週刊誌のグラビアをぼくに示し、「どうや、似てるやろ」と、一人悦に入っていました。そのグラビアには、倍賞千恵子が丹前かなんか着て写っていて、ぼくとしては、そういわれてみれば、そんな気もするような感じで、「そうですなあ」と、あんまり乗らぬ返事を返していたようでした。
きっと彼のお気に入りの生徒だったんだろう。そう思っただけです。まさか一年ほど後に結婚することになるなんて、夢にも、考えもしなかった。
冬に、大学の時の友人と志賀高原にゆく。彼女も来るから君も来い。そういってコスゲ先生は、いつもの、断定的でかなり命令的口調で、ぼくを誘いました。でも、ぼくには、もう、冬山の計画ができあがっていたし、あんまり気乗りもしていませんでした。「冬山合宿が、はやく済んだら行けるかも分りませんけど……」
そう答えておきましたけれど、ぼくには全然行く気がなかったみたいです。
その後、何度も、こうした調子で誘われたけれど、ぼくはいつも、どっちともつかぬ返事をして、そして行かなかった。そしたら、いつも彼は、後でぼくにどうしてこなかったのかとなじり、どんなに楽しかったかを話しました。ぼくは、適当に相槌をうちながら聞いているのが常でした。
そしたら、ある時、彼は冗談ともつかぬ調子で、「どうや、彼女と結婚せんか」といったのです。ぼくも冗談めかして、「取ったら気の毒ですし……」と答えました。
正直なところ、ぼくには、相手が誰にせよ、結婚する気などまるでなかったのです。ただ、女友達は、かなり沢山いて、デートの誘いに全部応じていたら、一週間では足らん、というくらいだった。彼女達は、ぼくのことを、大分変っていて、もしかしたら、独身主義者だと思っていたのかも知れません。だから、ぽくが、結婚することになって、順番にデートして、申し訳なさそうに、そう告げた時、みんなは、ほんとに申し合せでもしたかのように、一様に、
「タカダさんも結局は、普通の人だったんですね」
といいました。
ぼくは、いじけ切って、憮然として、
「そういうことやろなあ」
と、答えていたのです。
♣♣♣♣
その頃、ぼくは、レオン・ブルムの『結婚論』(一九〇七)に共鳴していたようです。
ブルムは、当時フランスの社会問題であった離婚を考察して、この本を書いたらしい。後に彼はフランスの首相となったのですが、彼の失脚の原因がこの『結婚論』であるとする説があるくらい、当時としては先進的だった。
彼の云う所によれば、男も女も、若くてカッカしている間-これを彼は「疾風怒涛期」と呼んでいたと思うんですが-は、結婚すべきではない。自由に恋愛すべし。そのうちに、疲れてきて、魂の安息というか、心の安らぎを求めるようになる。そうなった時、そうした要求を満たし合えるような相手と結婚すればよい。と、まあ、そんな骨子のものだったように思います。
考えてみれば、ブルムの頃とは、世の中も随分と変り、先進的には「イン・セックス」と「アウト・セックス」という、結婚という社会的枠組みと古典的モラルを超えた一種のフリー・セックスの主張が現われる今日でも、離婚が社会問題であることには変りがないようです。
やっぱり、カッカして目がくらんだ状態で結婚し、醒めてきてから、「性格の不一致」などといいだす例が多いらしい。レオン・ブルムの主張は、なお新しいというぺきでしょう。
さて、話をもとに戻しましょう。
最初は、ほとんど冗談半分みたいな話だったのですが、そのうちに、彼の、結婚のすすめは、だんだんと真剣になってきました。ぼくは不思議だった。どうして、そんなに懸命に一人の女性をすすめるのか分りませんでした。
教育実習での最初の出合いの時から、ぼくは彼に、一種独得の魅力みたいなものを感じていたのは事実です。東京教育大をでた彼は、こと化学の専門分野に関しても、ぼくの様に極めて職人的に化学を専攻した男とちがっているように思いました。かなりすっきりとずっと先まで見通した卓見を述べることがあって、もう教師をつづける気になっていたぼくを感心させました。まあ、数少ない尊敬するに足る先生だと思っていたのです。
でも、こと結婚なんていうことに関しては話はまるきり別のはずです。それは完全にぼくの判断で、人にとやかくいわれる筋合いのもんではない。
大分以前から、彼はよく、ぼくのことを「分身」などと呼び、バーで飲んでいる時など「これがぼくの分身です」と紹介したりしていました。このこと自体はいやでもなかった。
でも、ある女性が好きであっても、勝手に「分身」をこしらえて、ひっつけられてはたまったもんではない。ぼくは不快になっていました。
ある日、バーで飲んでの帰り途、彼を送って下鴨神社のあたりまできたとき、突然、車を止めるように命じました。そして、重苦しい沈黙のあとに、
「彼女は君以外の男に渡したくない」
といいました。ぼくはあるおぞましさを感じ、「もうその話は聞きたくない」と答えたのです。
7.冬の第一ルンゼは透明の心境で
♣
今から二〇年以上も前のキッサ店のコーヒ代は、多分、百円少々ではなかったかと思います。一杯のコーヒで、ぼくたちは、何時間もねばったもんです。先輩のナオベさんやフジイさんなどは、「フランソア」で何時間どころか七・八時間も、それこそオニのようにねばり、ウエイトレスから、「出て下さい」と叱られていました。山登りの人達というのは、吹雪になると、何日間も穴ぐらのようなテントで、ただ無為に晴天を待つんですから、時間を気にせず、ボケーとしているなんてのは、得意そのもののようでした。
ぼくも、この先輩ほどではなかったにせよ、本を読んだり、レポートを書いたりして、けっこう長時間居据ったものです。けれど、例の山小舎みたいなキッサ店の、かなり年配のママさんは、何にも怒りませんでした。
A子さんが初めて、コーヒを運んできた時、ぼくは、ほんとにドキッとしました。あんまり美人だったから、いやいや、美人といういい方はあんまり月並でのっぺらぼう、キュートなというか、キュッとくるというか、とにかくよかった。色は忘れましたが、黒っぽいワンピースと、白いうなじが印象的でした。
それからぼくは、せっせと、そのキッサ店に通ったんです。うまい具合に、もう卒論の実験はすんで、総まとめの時期になっていました。ぼくは大学ノートをかかえて出掛けたのです。
しばらくして、ぼくがゆくと、音楽が変って、必ず、ぼくの好きな曲が鳴りだすということに気付きました。ぼくは何となくしあわせな気分になっていました。
そのうちに時々一言二言くらい言葉を交すようになりました。
どういうきっかけだったのか、はっきりしないのですが、多分、ぼくの方から、ちょっと話しかけたんだろうと思います。
ある日、もう大分遅くなったから帰ろうかなと思っていると、彼女がさりげなくやってきました。そして、そっと小声で、もう直ぐ時間が終るから先に出て待ってて、と別のキッサ店の名をいったんです。それでぼく達はそこで落ち合い、丁度帰る方向が同じなので、一緒に京阪電車に乗って、丹波橋で別れました。それからは、毎回決まったように、ぼくがそのキッサ店にゆくと、一緒に帰ることになりました。
丹波橋で、ぼくが同じホームに並んだ奈良行に乗りかえると、真横のドアから彼女がジッとこちらを見ています。二台の電車は、同時に走り出し、ぼくたちは見つめあったままでした。やがて、二台の電車は右と左に分れて遠ざかり、ガラスの向うに白く浮かんだ彼女の顔も小さくなってゆきました。時には、ぼく達は小さく手を振り合うこともありました。
ぼくは、なんやらこれは映画のシーンみたいや、なんて考えていたんです。
♣♣
ぼくの卒業が近づいた頃、A子さんは、スキーに連れていってほしいと、電車の中でいいました。それまで、ぼく達は、何十回となく会っていましたが、それはいつも、「四条」から「丹波橋」までの電車の中だけでした。彼女は、昼間はどこかで働き、夕方からキッサ店のウエイトレスをやっているらしい。家庭のことも少しは話してくれました。なんか事情がありそうでしたが、ぼくも、あんまり聞き出そうともしなかったのです。
日曜日にデートに誘う気が全く起らなかったといえば嘘になります。でも、ぼくとしては、気の向いた時に、そのキッサ店にゆき、最終電車に乗って、言葉少なにしゃべり合い、そして「丹波橋」で映画のシーンのような別れをする。それだけのことで、充分満足していたようです。彼女に関しては、それ以上の付き合いをする必要はないんだ、と自分で納得していたのかも知れません。
ところが、スキーに連れてってといわれた時、ぼくは、まんざらでもない気がした。むしろ、うれしかったのです。でも、ぼくには春山合宿の計画がもう出来ており、卒業式を済まして直ぐ剱岳に向かったことはすでに話した通りです。そして、山から帰ってきて直ぐ、福知山に赴いたことも既に話しました。それで、彼女とは、それ切りになっていました。ぼくは名前だけはきいていたけれど、住所は知らなかったんです。もちろん、亀岡に帰ってくると、すぐそのキッサ店へ行きました。でも、もう彼女はいなかった。ママに聞くと止めたということでした。
まあ縁がなかったんや。それきり忘れてしまっていたら、こんどの再会です。べつに、焼けぼっくいに火がついたというような下世話なもんではないんですが、ぼく達は、大いにのっていたようです。二人は、電車の中で、以前の頃とは大ちがいに、大はしゃぎしていました。
彼女は、また、スキー行を望みました。でも、直ぐ目前に迫った春休みには、ぼくには、かなりでかい山の計画があったのです。
ぼくと、ぼくのザイルパートナーのセキタは、二人で、穂高の屏風岩の第一ルンゼを登攀する決心をしていました。このルートは、二〇年前、新村正一という関西の伝説的名クライマーによって初登攀されたまま、以後、その悪絶さに恐れをなしてか誰も近づかず、二〇年間の静寂を保ち続けていたのです。
無理はしない積りでしたが、もしかしたら死ぬかも知れん、という気もしていました。ぼくは、彼女に、このことを話し、信州のどっかのスキー場で落ち合うことにしようと提案したのです。
ぼくが山に出発する前、彼女はぼくに青磁の小さいかえるの焼物の包みを渡し、
「これ、無事に帰るというお守りなの。スキー場できっと返して」
といいました。
♣♣♣
スキー場で会いましょう、とはいったものの、そのスキー場を決める段になって、ぼくは困ってしまいました。もちろん、ぼくも信州のスキー場はかなり知ってはいたんですが、それはみんな山登りの基地としてのスキー宿で、彼女と一緒に出向く感じの場所ではないという気がしていました。あるいは、もしかしたら、そういう山登りの領域に、その女の子を連れて行くのが、いやだったのかも知れません。
そこで、ぼくは、コスゲさんの家に行きました。
「そら、やっぱりシガや。シガ高原はロマンチックやで。彼女と一緒にいくんやったら絶対や」
コスゲさんは、そう断言し、発哺温泉スキー場の宿を紹介してくれました。
そして、ぼくが、屏風岩第一ルンゼの計画を話すと、
「そんな″魚津″みたいなことして大丈夫かいな。心配やなあ」
と、いいました。魚津というのは、井上靖の『氷壁』の主人公で、かおるという恋人と徳沢園で落ち合う予定で、滝谷を攀って、そこで遭難死するという筋立てなんです。
コスゲさんは、小説が好きだったようです。なかでも、井上靖が好きで、ほとんど読んでいる様子でした。そしてまあ誰でもそうなのかも知れませんが、登場人物を自分を含めての誰かにあてはめるのがクセのようでした。彼が井上靖が好きだったのは、多分、その小説にある、俗にいう「男のロマン」みたいなものにひかれていたんではないか、そんな気がします。
この時、コスゲ先生は「高校に変る気はないか」とぼくに聞きました。
もともと、ぼくは、小学校や中学の教師はいややと思っていたんです。小学生や中学生は、まだ人格が固まっていない。でも高校生ともなると、ぼく自身の経験からしても、もうほとんど人格が出来あがっている。だから、教師を自主的に取捨選択できるし、自分にとって、いい影響だけを選択的に受取ることもできる。つまり、高校の教師であれば、生徒への影響などを考えて、自分をとりつくろう必要が比較的少ないんではないか。まあ、比較の問題として、より自由に振舞え、自分自身であり得るんではないだろうか。いつも自分は自分自身でありたい、と昔から思っていたぼくは、このコスゲ先生の問いに、
「できれば、変りたいですなあ。いやべつに、今の中学がイヤという訳ではないんですが‥‥‥」
と、即座に答えたのでした。でも、この話は、これだけで、
「気いつけて行っといで。シガの報告待ってるしなあ」
という声を背に、ぼくはおいとましたのです。
♣♣♣♣
中学の終業式があったその日の夜行で、ぼくは上高地に向かいました。
そこには、予定通り、セキタとタカヒコの二人がぼくを待ち受けていました。彼等は、大学の女子山岳部の付添いで、西穂高岳へ登るために、先行していたのです。女子山岳部の連中が、西穂高を登った後に、ぼくたちの食糧・装備を、ベース・ハウスの横尾山荘に運び込んでくれていました。
ぼくたち三人は、ここに腰をすえ、毎日、双眼鏡で、第一ルンゼを観察しました。だいたい、高島屋のビルを二〇数個積み重ねた位の高距の屏風岩からは、雪崩と落石が、連日、速射砲のように落下していました。ルンゼというのは、岩溝のことで、第一ルンゼは、屏風岩に、丁度、中華料理のスプーンを逆さに立てたみたいな感じの溝になっています。全ての雪崩と落石は、みんなここに集中してくるのです。
気易く取り付いたら、オダブツ間違いなしという感じ。もう止めようという気持と闘いながら、それでもしつこく、ぼくは毎日双眼鏡をのぞいていました。
一週間もした頃、ようやく、やれる、という気になりました。降雪の後、二日間は危ないこと、落石の周期性や時間帯などが分ってきたからです。
ぼくとセキタの二人は、タカヒコのサポートを受けて、まだ暗いうちに出発し、取付で夜明けを待っていました。その時の気持というのは、後に報告書に書いたように、ほんとの話、〈ぼく達は、恐れと迷いとためらいを超えて、いまはもう、ある透明の心境であった〉のです。
下部の雪崩の危険区域は素早く抜け出したものの、ぼく達は上部の氷壁にてこずりました。セキタは、薄氷のはったツルツルの岩壁でスリップし、細い潅木に片腕でぶら下ってしまいました。そして、「タカダはん、助けて、助けて」という悲痛な叫びと共に、つぶての様に落下していったのです。不思議にも彼は無傷でした。一方ぼくの方は、この個所を登るとき、ロープを握った掌が痙攣して、はなれなくなり、口で指をこじあけねばなりませんでした。
まあ、そんな、いつもと違ったこともあったけれど、ぼく達二人は、二日かかって、無事、この記録的登攀をやりとげたんです。
満ち足りたというか、半ば虚脱状態みたいな気分で、ぼくは松本でセキタと別れ、シガに向かいました。
A子さんは、ちゃんと待っていました。その夜、部屋のベランダから星がよく見えるので、ここの方がいい、とぼくはフトンを引っぱり出して、そこで寝ました。
たしか三日間ほど一緒に滑りました。でも気力体力を使い切った感じのぼくは、半分は心ここにあらずといった態でボケーとしていたようです。今思い返してみても、はとんど何にも憶い出せません。ただ、ベランダで見た、あの星空だけが穂高の星と奇妙に重なりあって浮ぶだけなのです。
今から二〇年以上も前のキッサ店のコーヒ代は、多分、百円少々ではなかったかと思います。一杯のコーヒで、ぼくたちは、何時間もねばったもんです。先輩のナオベさんやフジイさんなどは、「フランソア」で何時間どころか七・八時間も、それこそオニのようにねばり、ウエイトレスから、「出て下さい」と叱られていました。山登りの人達というのは、吹雪になると、何日間も穴ぐらのようなテントで、ただ無為に晴天を待つんですから、時間を気にせず、ボケーとしているなんてのは、得意そのもののようでした。
ぼくも、この先輩ほどではなかったにせよ、本を読んだり、レポートを書いたりして、けっこう長時間居据ったものです。けれど、例の山小舎みたいなキッサ店の、かなり年配のママさんは、何にも怒りませんでした。
A子さんが初めて、コーヒを運んできた時、ぼくは、ほんとにドキッとしました。あんまり美人だったから、いやいや、美人といういい方はあんまり月並でのっぺらぼう、キュートなというか、キュッとくるというか、とにかくよかった。色は忘れましたが、黒っぽいワンピースと、白いうなじが印象的でした。
それからぼくは、せっせと、そのキッサ店に通ったんです。うまい具合に、もう卒論の実験はすんで、総まとめの時期になっていました。ぼくは大学ノートをかかえて出掛けたのです。
しばらくして、ぼくがゆくと、音楽が変って、必ず、ぼくの好きな曲が鳴りだすということに気付きました。ぼくは何となくしあわせな気分になっていました。
そのうちに時々一言二言くらい言葉を交すようになりました。
どういうきっかけだったのか、はっきりしないのですが、多分、ぼくの方から、ちょっと話しかけたんだろうと思います。
ある日、もう大分遅くなったから帰ろうかなと思っていると、彼女がさりげなくやってきました。そして、そっと小声で、もう直ぐ時間が終るから先に出て待ってて、と別のキッサ店の名をいったんです。それでぼく達はそこで落ち合い、丁度帰る方向が同じなので、一緒に京阪電車に乗って、丹波橋で別れました。それからは、毎回決まったように、ぼくがそのキッサ店にゆくと、一緒に帰ることになりました。
丹波橋で、ぼくが同じホームに並んだ奈良行に乗りかえると、真横のドアから彼女がジッとこちらを見ています。二台の電車は、同時に走り出し、ぼくたちは見つめあったままでした。やがて、二台の電車は右と左に分れて遠ざかり、ガラスの向うに白く浮かんだ彼女の顔も小さくなってゆきました。時には、ぼく達は小さく手を振り合うこともありました。
ぼくは、なんやらこれは映画のシーンみたいや、なんて考えていたんです。
♣♣
ぼくの卒業が近づいた頃、A子さんは、スキーに連れていってほしいと、電車の中でいいました。それまで、ぼく達は、何十回となく会っていましたが、それはいつも、「四条」から「丹波橋」までの電車の中だけでした。彼女は、昼間はどこかで働き、夕方からキッサ店のウエイトレスをやっているらしい。家庭のことも少しは話してくれました。なんか事情がありそうでしたが、ぼくも、あんまり聞き出そうともしなかったのです。
日曜日にデートに誘う気が全く起らなかったといえば嘘になります。でも、ぼくとしては、気の向いた時に、そのキッサ店にゆき、最終電車に乗って、言葉少なにしゃべり合い、そして「丹波橋」で映画のシーンのような別れをする。それだけのことで、充分満足していたようです。彼女に関しては、それ以上の付き合いをする必要はないんだ、と自分で納得していたのかも知れません。
ところが、スキーに連れてってといわれた時、ぼくは、まんざらでもない気がした。むしろ、うれしかったのです。でも、ぼくには春山合宿の計画がもう出来ており、卒業式を済まして直ぐ剱岳に向かったことはすでに話した通りです。そして、山から帰ってきて直ぐ、福知山に赴いたことも既に話しました。それで、彼女とは、それ切りになっていました。ぼくは名前だけはきいていたけれど、住所は知らなかったんです。もちろん、亀岡に帰ってくると、すぐそのキッサ店へ行きました。でも、もう彼女はいなかった。ママに聞くと止めたということでした。
まあ縁がなかったんや。それきり忘れてしまっていたら、こんどの再会です。べつに、焼けぼっくいに火がついたというような下世話なもんではないんですが、ぼく達は、大いにのっていたようです。二人は、電車の中で、以前の頃とは大ちがいに、大はしゃぎしていました。
彼女は、また、スキー行を望みました。でも、直ぐ目前に迫った春休みには、ぼくには、かなりでかい山の計画があったのです。
ぼくと、ぼくのザイルパートナーのセキタは、二人で、穂高の屏風岩の第一ルンゼを登攀する決心をしていました。このルートは、二〇年前、新村正一という関西の伝説的名クライマーによって初登攀されたまま、以後、その悪絶さに恐れをなしてか誰も近づかず、二〇年間の静寂を保ち続けていたのです。
無理はしない積りでしたが、もしかしたら死ぬかも知れん、という気もしていました。ぼくは、彼女に、このことを話し、信州のどっかのスキー場で落ち合うことにしようと提案したのです。
ぼくが山に出発する前、彼女はぼくに青磁の小さいかえるの焼物の包みを渡し、
「これ、無事に帰るというお守りなの。スキー場できっと返して」
といいました。
♣♣♣
スキー場で会いましょう、とはいったものの、そのスキー場を決める段になって、ぼくは困ってしまいました。もちろん、ぼくも信州のスキー場はかなり知ってはいたんですが、それはみんな山登りの基地としてのスキー宿で、彼女と一緒に出向く感じの場所ではないという気がしていました。あるいは、もしかしたら、そういう山登りの領域に、その女の子を連れて行くのが、いやだったのかも知れません。
そこで、ぼくは、コスゲさんの家に行きました。
「そら、やっぱりシガや。シガ高原はロマンチックやで。彼女と一緒にいくんやったら絶対や」
コスゲさんは、そう断言し、発哺温泉スキー場の宿を紹介してくれました。
そして、ぼくが、屏風岩第一ルンゼの計画を話すと、
「そんな″魚津″みたいなことして大丈夫かいな。心配やなあ」
と、いいました。魚津というのは、井上靖の『氷壁』の主人公で、かおるという恋人と徳沢園で落ち合う予定で、滝谷を攀って、そこで遭難死するという筋立てなんです。
コスゲさんは、小説が好きだったようです。なかでも、井上靖が好きで、ほとんど読んでいる様子でした。そしてまあ誰でもそうなのかも知れませんが、登場人物を自分を含めての誰かにあてはめるのがクセのようでした。彼が井上靖が好きだったのは、多分、その小説にある、俗にいう「男のロマン」みたいなものにひかれていたんではないか、そんな気がします。
この時、コスゲ先生は「高校に変る気はないか」とぼくに聞きました。
もともと、ぼくは、小学校や中学の教師はいややと思っていたんです。小学生や中学生は、まだ人格が固まっていない。でも高校生ともなると、ぼく自身の経験からしても、もうほとんど人格が出来あがっている。だから、教師を自主的に取捨選択できるし、自分にとって、いい影響だけを選択的に受取ることもできる。つまり、高校の教師であれば、生徒への影響などを考えて、自分をとりつくろう必要が比較的少ないんではないか。まあ、比較の問題として、より自由に振舞え、自分自身であり得るんではないだろうか。いつも自分は自分自身でありたい、と昔から思っていたぼくは、このコスゲ先生の問いに、
「できれば、変りたいですなあ。いやべつに、今の中学がイヤという訳ではないんですが‥‥‥」
と、即座に答えたのでした。でも、この話は、これだけで、
「気いつけて行っといで。シガの報告待ってるしなあ」
という声を背に、ぼくはおいとましたのです。
♣♣♣♣
中学の終業式があったその日の夜行で、ぼくは上高地に向かいました。
そこには、予定通り、セキタとタカヒコの二人がぼくを待ち受けていました。彼等は、大学の女子山岳部の付添いで、西穂高岳へ登るために、先行していたのです。女子山岳部の連中が、西穂高を登った後に、ぼくたちの食糧・装備を、ベース・ハウスの横尾山荘に運び込んでくれていました。
ぼくたち三人は、ここに腰をすえ、毎日、双眼鏡で、第一ルンゼを観察しました。だいたい、高島屋のビルを二〇数個積み重ねた位の高距の屏風岩からは、雪崩と落石が、連日、速射砲のように落下していました。ルンゼというのは、岩溝のことで、第一ルンゼは、屏風岩に、丁度、中華料理のスプーンを逆さに立てたみたいな感じの溝になっています。全ての雪崩と落石は、みんなここに集中してくるのです。
気易く取り付いたら、オダブツ間違いなしという感じ。もう止めようという気持と闘いながら、それでもしつこく、ぼくは毎日双眼鏡をのぞいていました。
一週間もした頃、ようやく、やれる、という気になりました。降雪の後、二日間は危ないこと、落石の周期性や時間帯などが分ってきたからです。
ぼくとセキタの二人は、タカヒコのサポートを受けて、まだ暗いうちに出発し、取付で夜明けを待っていました。その時の気持というのは、後に報告書に書いたように、ほんとの話、〈ぼく達は、恐れと迷いとためらいを超えて、いまはもう、ある透明の心境であった〉のです。
下部の雪崩の危険区域は素早く抜け出したものの、ぼく達は上部の氷壁にてこずりました。セキタは、薄氷のはったツルツルの岩壁でスリップし、細い潅木に片腕でぶら下ってしまいました。そして、「タカダはん、助けて、助けて」という悲痛な叫びと共に、つぶての様に落下していったのです。不思議にも彼は無傷でした。一方ぼくの方は、この個所を登るとき、ロープを握った掌が痙攣して、はなれなくなり、口で指をこじあけねばなりませんでした。
まあ、そんな、いつもと違ったこともあったけれど、ぼく達二人は、二日かかって、無事、この記録的登攀をやりとげたんです。
満ち足りたというか、半ば虚脱状態みたいな気分で、ぼくは松本でセキタと別れ、シガに向かいました。
A子さんは、ちゃんと待っていました。その夜、部屋のベランダから星がよく見えるので、ここの方がいい、とぼくはフトンを引っぱり出して、そこで寝ました。
たしか三日間ほど一緒に滑りました。でも気力体力を使い切った感じのぼくは、半分は心ここにあらずといった態でボケーとしていたようです。今思い返してみても、はとんど何にも憶い出せません。ただ、ベランダで見た、あの星空だけが穂高の星と奇妙に重なりあって浮ぶだけなのです。
6.何事であれ現場主義がかんじん
♣
大学の五年生の時、ぼくは、教育実習で、桂高校にいったのです。
少しエラの張った顔で、背のあんまり高くない人の常として、ピンと背筋をのばした先生が、キビキビした、いかにもスポーツマンらしい動きで、ぼくの前に現われました。
指導教官のコスゲ先生でした。ぼくが、
「始めまして。西も東も分りませんが、どうかよろしく」
と、あいさつした時、彼の顔にチラと不快な表情が走ったような気がして、ぼくはしまったと思いました。きっと、彼は、こうした世慣れた云い方がきらいなのかも知れないし、もしかしたら、構えた切口上に聞えたのかも知れない。そう思ったからです。
大学のオリエンテーションで、いやに大袈裟な説明を聞かされ、先輩からも、変な教官にあたると大変だとおどされ、正直いって、ぼくは少々ビビっていたのかも知れません。
ところが、桂高校の化学の準備室は、ぼくの大学の研究室とおんなじ様に木造の老朽で、床がギシギシゆうところまでそっくり。おまけに彼はスキーが趣味だそうで、けっこう話が合いそうでした。そして、ぼくが、山岳部員だと知ると、「それはいい。授業で山の話聞かせてやって下さい」などといったのです。ぼくはホッとしました。
「ぼくが最初の授業だけやります。あとは、全部まかします。いつもそうしてますから……」 彼は、全く事務的口調でそう通告しました。
二週間の教育実習は、夏休み前の一週間と夏休み後の一週間に分かれていました。だから、前半では、夏山合宿を前にひかえて、ぼくの関心は、ほとんどそっちの方に行ってしまっていたようです。後半では、山ぼけで、ボケーッとしているうちに終ってしまい、特にこれといった印象はありません。
最初の時間、コスゲ先生の模範授業を見学しました。さすがにプロだけのことはあるという感じでした。実にスムーズで、ポイントをおさえていて、明快そのものでした。ただ彼が、何度も、「調べてみると…・‥」と前おきして、法則・結論へ導びくための前提をスパッと云うのが、気になりました。だって、その前提をどう調べるかが大問題で、その方法論を見つけるだけで何年も何十年もかかっているのが科学の歴史なんですから‥‥‥。
でも、もしそんなことを詳しく説明していたら、それだけで、一年間の授業のほとんどが済んでしまうでしょう。ぼくも、いま化学の教師で、彼とおんなじように「調べてみると‥‥‥」 とやっています。
何人かの理科の実習生を代表して公開研究授業をやることになって、ぼくは「調べてみると・‥‥」のない授業をやってやろうと思いました。大勢の教師や、実習生を前にして、ぼくは、ベンゼンのビンを片手に、教科書には全く説明のない「ベンゼンの構造式決定のいきさつ」について、丸まる一時間の授業をやったのでした。
生物の実習生の一人が、「オレの先生、お前の研究授業ばっかりほめよる」とぼやいていましたから、ぼくの研究授業はけっこう評判よかったらしいのです。
♣♣
コスゲ先生は、毎時間、丸椅子をぶら下げて、ぼくと一緒に教室にゆき、後に座って、ぼくの授業を聞いていました。彼は、内容や授業のやり方について後でほとんどコメントしませんでした。気にしたぼくがきいてみても、「あれでいいです」 というだけでした。
ぼくは、自分が本職の教師になり、実習生を受け持つようになって始めて、彼の立派さが分ったように思いました。だいたい、自信のないくだらん教師ほど、やれ声が小さいだとか、まだ黒板の方を向きすぎてますだとか、そんな本質ではない些細なことを口やかましくいう。
さて、「やってやりなさいよ」といわれて、ぼくはよく、授業で山の話をしたものです。
死にそうになった話や、死んだ友人を薪で焼いた話など、生徒は真剣に聴いていました。でも、一番熱心に、一番喜こんで、ぼくの話を聞いていたのは、コスゲ先生ではなかったかと思います。ぼくも気をつけて、クラスが違ってもおんなじ話は二度としないようにしました。
授業が終って、並んで廊下を歩いていると、突然、ぼくに注意を促がし、
「ほれ、あのこ、美人やろ」
といったりしたものです。
その頃には、彼は、ぼくにとっては、もう指導教官というより、なんか少しこわい兄貴といった感じになっていたようです。だから、教育実習が終ってからも、招かれるままに、ぼくの大学に比較的近い彼の家によく出掛けたのです。
無邪気で、可愛いい、全然奥様らしくない奥さんが一緒にいました。化学の助手さんからきいて、彼が熱烈な恋愛の末に結婚したということを、ぼくは知っていました。でも、一向そういう感じでもないなと、ぼくが思っていると、奥さんが、
「この人、可愛いい女生徒には、すごく高いプレゼントしたりするんよ。けど、私には何にもくれないの」
と、ぼくに不平を告げ、コスゲ先生は、
「当り前や、釣った魚に餌やるバカがおるか」
と一笑に付しました。
たしか、二・三回目に行った時だったと思います。大学の文化祭の直ぐ後のことでした。
その頃、ぼくは、短大の女の子に熱をあげていました。もう二年越しだとはいっても、ようやく名前と住所が分った時だったんです。文化祭のフォーク・ダンスでようやく名前だけをきき出し、住所は学生課のオケイちゃんに頼んで調べてもらったのです。
コスゲさんに、この話をすると、
「そこやったら近いで。一緒に見にいこ」
そういうが早いか、ぼくをスクーターに乗せて走り出しました。もう夜でした。その商店みたいな家の前の電柱の蔭から家の中をのぞきながら、コスゲさんは、
「その娘出てきよらんなあ。あれオヤジやろ。こわそうやなあ」
などといっていました。
♣♣♣
福知山から亀岡に勤めが変り、一年ほどした頃から、ぼくはYMCAで英会話の勉強を始めたんです。
海外の山登りは、海外渡航がままならぬ当時としては、ぼくにとって、まだ夢みたいな話ではありました。しかし、どんなことであれ、夢を夢として、夢みているだけでは、それは、所詮夢でしかない。けれど、その夢を実現する為に必要なことを、何でもいいから実行動としてやってさえおれば、その時、それは、単なる夢ではなくなるはずだ。ぼくはそう信じていたのです。
だから、就職してからも、マウンテン・ワールドや、アルパインジャーナルといった年刊の洋書を取寄せて研究していたし、英会話や英文タイプも独習してはおりました。
亀中では、空き時間に、英語の先生の許しを得て借りた、えらく旧式の英文タイプをガチャガチャ、バタバタ叩いていたら、教頭先生が、
「そんなもん練習しとってやんか。えらいなあ」
と、本音とも批難ともつかぬようなことをいったものでした。
英文タイプは、二カ月もせぬうちに、なんとか打てるようになりました。勢いにのって、ついでに邦文タイプもやってやろう、とぼくは、事務室に通ったのですが、こっちの方はえらく困難で、数日もしないうちに諦めてしまったのです。
一方、英会話の方は、やっぱり、外人と実際に話さないと自習ではあかんと思いだし、YMCAの外人会話に入った訳です。上級コースに入るほどの自信はとてもなかったし、中級でさえ、どうかなと、少し不安だったのですが、初級というのも面白くないという感じで、ぼくは結局中級を選びました。多分、半年位通ったと思います。上手くなったような気もしました。反面、そんな気がしただけだったのかも知れません。
今にして思えば、やっぱりあれは、畳の上の水練だったということです。数年後に、ぼくは、夢が実現した形で、カラコルムに行くのですが、パキスタンでの一日は、日本での練習の何ケ月にも相当すると思いました。
パキスタン人の多くが、ぼく達が、中・高・大学と十年間も英語を学んでいると聞いて、冗談をいっていると思ったようです。その時にぼくは感じたのですが、ぼく達は、英語ではなくて、英語学を学んだのだということでした。それは、丁度、いくら栄養学を勉強しても料理が作れないのとおんなじなんではないか。そしてさらにいえば、いくらお料理教室の秀才でも、山でめしがうまく作れるとは限らない。ところが、逆に、山でめしを作った経験があれば、街でも、どんな時でも、なんとか喰う物を作るのはたやすい話なんです。
やっぱり、何事であれ、現場主義、実地体験が必須なんではなかろうか、と思うのです。
♣♣♣♣
YMCAに通いだして、数ケ月たった頃だったと思います。その外人会話のクラスは、ぼくの危惧に反して、あんまりうまい奴がいなくて、ぼくは上手な方の数人に入っていました。人間そうなると調子づくもんで、さぼりのぼくとしては、異例に真面目に出席していたようです。
そんなある日、授業が終って、建物の外に出た所で、ぼくは、一人の女の子に再会したのです。もう、一年も会っていなかった。A子さんは、やはりここに通っていて、初級コースに入っているのだそうです。
「むづかして困ってんの、教えて」
懐かしさもあって、ぼくは、彼女と「再会」という名のキッサ店に行きました。いや別にカッコつけた訳ではなく、何となく入ったんです。
中級コースの優等生として、大いにのっていたぼくは、でかい面して、口うつしの発音練習をやりました。うす暗い、そのキッサ店の中で、真剣な表情で、たどたどしく、口をゆがめて後を追う彼女の唇が、奇妙にコケティッシュに映り、ぼくは、キスしたい衝動にかられたのでした。でも、以前とおんなじように、ぼくは真面目な態度で、一緒に帰りの電車に乗りました。
学生の頃、ぼくは河原町の、「山小舎」だったか「灯」だったか忘れてしまいましたが、そうした山小舎みたいな感じのキッサ店によく行っていました。
昼頃、大学へ行くと、研究室を回って、「すまん、モクくれや」とタバコを集めます。十数本集めた所で、自分の部屋へ帰り、タバコを吸って、やってくる山岳部の後輩とだべっていると直ぐ夕方になってしまいます。その頃になると、いつも決って連れのダンボーが現われ、「よお、タカダ、どや、センターいこか」。センターというのは、ぼくたちの符牒で四条河原町あたりの事でした。
市電で行き着くと、もうその辺りは、通勤帰りのサラリーマンでラッシュでした。
「お前、金あるんやろ」
「ないぞ、お前ある思てた」
「アホか、出よかいうて誘うからあると思うやんケ」
でも、ダンボーは、少しもあわてず、「なんとかなる」と、そのまま、人の流れの中に立っているのです。ものの二〇分としないうちに、彼の知り合いが通りかかり、彼は、二人分のコーヒ代を貸りてしまいます。膳所高のラグビー部のエースだった彼には、沢山の友人がいるんだそうでした。
そこで、ぼく達は、いつものキッサ店にゆき、閉店近くまでねばります。それからまた大学にとって帰り、もう誰もいない、深夜の大学の冷たく光るガラス器具にとりまかれ、水道の滴の音だけが、チョポン、チョポンと異様に響く、少し不気味な感じの実験室で、一人実験を始めるのでした。
さて、あのキッサ店に、ウエイトレスとして、A子さんが現われたのは、もう卒論をまとめ始めていた頃だったと思います。
大学の五年生の時、ぼくは、教育実習で、桂高校にいったのです。
少しエラの張った顔で、背のあんまり高くない人の常として、ピンと背筋をのばした先生が、キビキビした、いかにもスポーツマンらしい動きで、ぼくの前に現われました。
指導教官のコスゲ先生でした。ぼくが、
「始めまして。西も東も分りませんが、どうかよろしく」
と、あいさつした時、彼の顔にチラと不快な表情が走ったような気がして、ぼくはしまったと思いました。きっと、彼は、こうした世慣れた云い方がきらいなのかも知れないし、もしかしたら、構えた切口上に聞えたのかも知れない。そう思ったからです。
大学のオリエンテーションで、いやに大袈裟な説明を聞かされ、先輩からも、変な教官にあたると大変だとおどされ、正直いって、ぼくは少々ビビっていたのかも知れません。
ところが、桂高校の化学の準備室は、ぼくの大学の研究室とおんなじ様に木造の老朽で、床がギシギシゆうところまでそっくり。おまけに彼はスキーが趣味だそうで、けっこう話が合いそうでした。そして、ぼくが、山岳部員だと知ると、「それはいい。授業で山の話聞かせてやって下さい」などといったのです。ぼくはホッとしました。
「ぼくが最初の授業だけやります。あとは、全部まかします。いつもそうしてますから……」 彼は、全く事務的口調でそう通告しました。
二週間の教育実習は、夏休み前の一週間と夏休み後の一週間に分かれていました。だから、前半では、夏山合宿を前にひかえて、ぼくの関心は、ほとんどそっちの方に行ってしまっていたようです。後半では、山ぼけで、ボケーッとしているうちに終ってしまい、特にこれといった印象はありません。
最初の時間、コスゲ先生の模範授業を見学しました。さすがにプロだけのことはあるという感じでした。実にスムーズで、ポイントをおさえていて、明快そのものでした。ただ彼が、何度も、「調べてみると…・‥」と前おきして、法則・結論へ導びくための前提をスパッと云うのが、気になりました。だって、その前提をどう調べるかが大問題で、その方法論を見つけるだけで何年も何十年もかかっているのが科学の歴史なんですから‥‥‥。
でも、もしそんなことを詳しく説明していたら、それだけで、一年間の授業のほとんどが済んでしまうでしょう。ぼくも、いま化学の教師で、彼とおんなじように「調べてみると‥‥‥」 とやっています。
何人かの理科の実習生を代表して公開研究授業をやることになって、ぼくは「調べてみると・‥‥」のない授業をやってやろうと思いました。大勢の教師や、実習生を前にして、ぼくは、ベンゼンのビンを片手に、教科書には全く説明のない「ベンゼンの構造式決定のいきさつ」について、丸まる一時間の授業をやったのでした。
生物の実習生の一人が、「オレの先生、お前の研究授業ばっかりほめよる」とぼやいていましたから、ぼくの研究授業はけっこう評判よかったらしいのです。
♣♣
コスゲ先生は、毎時間、丸椅子をぶら下げて、ぼくと一緒に教室にゆき、後に座って、ぼくの授業を聞いていました。彼は、内容や授業のやり方について後でほとんどコメントしませんでした。気にしたぼくがきいてみても、「あれでいいです」 というだけでした。
ぼくは、自分が本職の教師になり、実習生を受け持つようになって始めて、彼の立派さが分ったように思いました。だいたい、自信のないくだらん教師ほど、やれ声が小さいだとか、まだ黒板の方を向きすぎてますだとか、そんな本質ではない些細なことを口やかましくいう。
さて、「やってやりなさいよ」といわれて、ぼくはよく、授業で山の話をしたものです。
死にそうになった話や、死んだ友人を薪で焼いた話など、生徒は真剣に聴いていました。でも、一番熱心に、一番喜こんで、ぼくの話を聞いていたのは、コスゲ先生ではなかったかと思います。ぼくも気をつけて、クラスが違ってもおんなじ話は二度としないようにしました。
授業が終って、並んで廊下を歩いていると、突然、ぼくに注意を促がし、
「ほれ、あのこ、美人やろ」
といったりしたものです。
その頃には、彼は、ぼくにとっては、もう指導教官というより、なんか少しこわい兄貴といった感じになっていたようです。だから、教育実習が終ってからも、招かれるままに、ぼくの大学に比較的近い彼の家によく出掛けたのです。
無邪気で、可愛いい、全然奥様らしくない奥さんが一緒にいました。化学の助手さんからきいて、彼が熱烈な恋愛の末に結婚したということを、ぼくは知っていました。でも、一向そういう感じでもないなと、ぼくが思っていると、奥さんが、
「この人、可愛いい女生徒には、すごく高いプレゼントしたりするんよ。けど、私には何にもくれないの」
と、ぼくに不平を告げ、コスゲ先生は、
「当り前や、釣った魚に餌やるバカがおるか」
と一笑に付しました。
たしか、二・三回目に行った時だったと思います。大学の文化祭の直ぐ後のことでした。
その頃、ぼくは、短大の女の子に熱をあげていました。もう二年越しだとはいっても、ようやく名前と住所が分った時だったんです。文化祭のフォーク・ダンスでようやく名前だけをきき出し、住所は学生課のオケイちゃんに頼んで調べてもらったのです。
コスゲさんに、この話をすると、
「そこやったら近いで。一緒に見にいこ」
そういうが早いか、ぼくをスクーターに乗せて走り出しました。もう夜でした。その商店みたいな家の前の電柱の蔭から家の中をのぞきながら、コスゲさんは、
「その娘出てきよらんなあ。あれオヤジやろ。こわそうやなあ」
などといっていました。
♣♣♣
福知山から亀岡に勤めが変り、一年ほどした頃から、ぼくはYMCAで英会話の勉強を始めたんです。
海外の山登りは、海外渡航がままならぬ当時としては、ぼくにとって、まだ夢みたいな話ではありました。しかし、どんなことであれ、夢を夢として、夢みているだけでは、それは、所詮夢でしかない。けれど、その夢を実現する為に必要なことを、何でもいいから実行動としてやってさえおれば、その時、それは、単なる夢ではなくなるはずだ。ぼくはそう信じていたのです。
だから、就職してからも、マウンテン・ワールドや、アルパインジャーナルといった年刊の洋書を取寄せて研究していたし、英会話や英文タイプも独習してはおりました。
亀中では、空き時間に、英語の先生の許しを得て借りた、えらく旧式の英文タイプをガチャガチャ、バタバタ叩いていたら、教頭先生が、
「そんなもん練習しとってやんか。えらいなあ」
と、本音とも批難ともつかぬようなことをいったものでした。
英文タイプは、二カ月もせぬうちに、なんとか打てるようになりました。勢いにのって、ついでに邦文タイプもやってやろう、とぼくは、事務室に通ったのですが、こっちの方はえらく困難で、数日もしないうちに諦めてしまったのです。
一方、英会話の方は、やっぱり、外人と実際に話さないと自習ではあかんと思いだし、YMCAの外人会話に入った訳です。上級コースに入るほどの自信はとてもなかったし、中級でさえ、どうかなと、少し不安だったのですが、初級というのも面白くないという感じで、ぼくは結局中級を選びました。多分、半年位通ったと思います。上手くなったような気もしました。反面、そんな気がしただけだったのかも知れません。
今にして思えば、やっぱりあれは、畳の上の水練だったということです。数年後に、ぼくは、夢が実現した形で、カラコルムに行くのですが、パキスタンでの一日は、日本での練習の何ケ月にも相当すると思いました。
パキスタン人の多くが、ぼく達が、中・高・大学と十年間も英語を学んでいると聞いて、冗談をいっていると思ったようです。その時にぼくは感じたのですが、ぼく達は、英語ではなくて、英語学を学んだのだということでした。それは、丁度、いくら栄養学を勉強しても料理が作れないのとおんなじなんではないか。そしてさらにいえば、いくらお料理教室の秀才でも、山でめしがうまく作れるとは限らない。ところが、逆に、山でめしを作った経験があれば、街でも、どんな時でも、なんとか喰う物を作るのはたやすい話なんです。
やっぱり、何事であれ、現場主義、実地体験が必須なんではなかろうか、と思うのです。
♣♣♣♣
YMCAに通いだして、数ケ月たった頃だったと思います。その外人会話のクラスは、ぼくの危惧に反して、あんまりうまい奴がいなくて、ぼくは上手な方の数人に入っていました。人間そうなると調子づくもんで、さぼりのぼくとしては、異例に真面目に出席していたようです。
そんなある日、授業が終って、建物の外に出た所で、ぼくは、一人の女の子に再会したのです。もう、一年も会っていなかった。A子さんは、やはりここに通っていて、初級コースに入っているのだそうです。
「むづかして困ってんの、教えて」
懐かしさもあって、ぼくは、彼女と「再会」という名のキッサ店に行きました。いや別にカッコつけた訳ではなく、何となく入ったんです。
中級コースの優等生として、大いにのっていたぼくは、でかい面して、口うつしの発音練習をやりました。うす暗い、そのキッサ店の中で、真剣な表情で、たどたどしく、口をゆがめて後を追う彼女の唇が、奇妙にコケティッシュに映り、ぼくは、キスしたい衝動にかられたのでした。でも、以前とおんなじように、ぼくは真面目な態度で、一緒に帰りの電車に乗りました。
学生の頃、ぼくは河原町の、「山小舎」だったか「灯」だったか忘れてしまいましたが、そうした山小舎みたいな感じのキッサ店によく行っていました。
昼頃、大学へ行くと、研究室を回って、「すまん、モクくれや」とタバコを集めます。十数本集めた所で、自分の部屋へ帰り、タバコを吸って、やってくる山岳部の後輩とだべっていると直ぐ夕方になってしまいます。その頃になると、いつも決って連れのダンボーが現われ、「よお、タカダ、どや、センターいこか」。センターというのは、ぼくたちの符牒で四条河原町あたりの事でした。
市電で行き着くと、もうその辺りは、通勤帰りのサラリーマンでラッシュでした。
「お前、金あるんやろ」
「ないぞ、お前ある思てた」
「アホか、出よかいうて誘うからあると思うやんケ」
でも、ダンボーは、少しもあわてず、「なんとかなる」と、そのまま、人の流れの中に立っているのです。ものの二〇分としないうちに、彼の知り合いが通りかかり、彼は、二人分のコーヒ代を貸りてしまいます。膳所高のラグビー部のエースだった彼には、沢山の友人がいるんだそうでした。
そこで、ぼく達は、いつものキッサ店にゆき、閉店近くまでねばります。それからまた大学にとって帰り、もう誰もいない、深夜の大学の冷たく光るガラス器具にとりまかれ、水道の滴の音だけが、チョポン、チョポンと異様に響く、少し不気味な感じの実験室で、一人実験を始めるのでした。
さて、あのキッサ店に、ウエイトレスとして、A子さんが現われたのは、もう卒論をまとめ始めていた頃だったと思います。
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