• HOME
  • Archives: December 2007

高田直樹著作纂

著作纂.jpg 私に還暦が近づいたとき、教え子で京大の先生をしている竹田晋也くんが、「先生の著作をまとめましょう」と言い出した。大学では、そういうことが慣例となっているらしかった。
 彼が音頭を取り、みんなが協力してくれて、出来上がったのがこの大きて重い「高田直樹著作纂」である。大きさはA3版で重さはなんと8キロもある。
 単行本になったものを除くほとんどの著作が収まっている。

8.ナジールに会う

 イスラマ出発の前日、ナジールと電話が繋がり、彼のオフィスで会うことになりました。
ナジール.jpg ナジールというのは、ナジール・サビールという世界的に有名な登山家です。
 パキスタンには世界の14のうち5つの8000峰がありますが、ナジールはナンガパルバットを除く4座のパキスタンの8000m峰と、エベレストに登頂しています。
 彼と知り合ったのは、はるか昔のことです。
 その頃、ぼくはパキスタンを毎年のように訪れていました。パキスタンに行きたいという教え子などが毎年いて、例年行事のようにパキスタンツァーをしていました。 
 その旅は、毎日が新鮮な驚きにあふれ、古き良き時代のパキスタンはほんとに楽しい国だったのです。
 ラワルピンディでは、その頃にはもう2・3流ホテルになってしまった、かつての高級ホテル・フラッシュマンホテルを、ぼくは定宿としていました。
 ナジールは、ナジールサビール・エキスペディション(ナジールサビール遠征隊)という少々変な名前の旅行エージェントをやっていましたから、時々このエージェントを使うこともありました。
 彼のエージントを使っていないときでも、ふらりとホテルに現れ、いつも宿泊費を払ってくれました。「いえいえ、私が払えば安いもんですから、気にしないで」というのです。
 
 彼は、ムスリムですが、イスマイリー派という極めてマイナーで、余り戒律にとらわれい柔軟な宗派に属しています。イスマイリー派の本山は、彼の生地のフンザにあります。
 フンザは、かつて不老長寿の桃源郷として世界に紹介されました。中国との国境近く、パキスタンの最北端に位置する山岳地帯にあるこの地は、近づくことが困難でした。だから世界中の旅行者の垂涎の地となり、その後も世界の観光スポットとなっています。
 フンザには、桑の実から作った「フンザパニー(フンザの水)」という名前の蒸留酒があり、イスマイリー派の住民はムスリムでありながら、みんなこれを飲んでいたのです。またフンザでは、ブルカという顔面を覆う布をかぶった女性を見ることはありません。パキスタンを旅してきた旅行者にとっては、これは新鮮な驚きであったでしょう。

 中国からカシュガルを経て、4700メートルのクンジェラーブ峠を越え、フンザを通ってラワルピンディに至るルートは、昔から存在していました。ぼくが、1965年のディラン峰遠征の帰途、ギルギットにいた時、中華人民共和国となった中国からの初めての駱駝のキャラバン(隊商)がやってくると大騒ぎでした。
 その後、中国によって、このルートは自動車道路いわゆるカラコルム・ハイウェイとして開通しました。
 また、インドに発する仏教はこのルートを通って大陸に伝えられました。そのため、カラコルム・ハイウェイ沿いには、約2000カ所の磨崖仏(岩面に彫られた仏画)が存在するといわれます。
 ナジールの話では、インダスにダム建設の話があり、そうすれば磨崖仏はダムの底に没する。切り取って保存するなど何かの対策を講じないといけないと思うが、なかなか難しい。何か訴え方を考えてくれませんかという話でした。
 パルベイツを通じてムシャラフに頼むのが早道とも思いましたが、ムシャラフはそんなことを聞く状態ではありません。
 アマンに聞くと、「この国では、何かやろうとすると、必ずああでもないこうでもないという反対が起こり、なかなか事は進まない。まだ計画段階ではっきりしない話だと思いますよ」といっていました。

 ぼくが教師を辞めて直ぐの頃のことだと思います。フラッシュマンに滞在するぼくの所にナジールが現れ、突然こう切り出しました。
 「タカダさん。ぼくにコンピューターを教えてくれませんか。私日本に行きますから」
 彼は、前年にハリウッドに招かれ、K2登山を題材にした映画のアドバイザーを務めたのだそうです。彼の登山エージェントの仕事も繁華を極め、ファックスの整理が大変で、コンピューターの導入が急務だという話です。ハリウッドから少しまとまったお金が入ったのでコンピューターを買いたい。教えてください。とまあ、そんな話でした。
 ぼくがOKしたので、彼は来日し、ぼくが紹介した我が家の隣の安アパートに住みます。ぼくの会社で、勉強することより、あちこち出歩くことが多かったようです。
 ぼくの家でお酒を飲みながら語り明かすこともままありました。特に話が合ったのは、スーフィズムについてでした。これについてはまたの機会に書きます。
 そんな訳で、コンピューターは結局ものになりませんでした。
 40日ほどが過ぎて、彼は帰国するのですが、その後しばらくして、フンザ選出の国会議員に立候補して見事当選します。
 その時、彼は教育担当だったので、ぼくに補佐官になって計画立案をしてくれないか、ギルギットに住まいは用意するからと依頼してきましたが、断りました。
 約5年間PPP(あのベナジール・ブットーの)議員を務めます。止めて直ぐ、エベレスト登頂を目指し、2年越しで成功を勝ち取りました。
 そんな訳で、かれはいまや、パキスタンでは唯一のエベレスト登頂者、えらい有名人なのです。
 フンザに家を新築したのですが、空き家の侭なので、いつでも使ってくれればいいといつも言ってくれています。季節のいい時期に数ヶ月フンザに滞在するのもいいかなあとも思うのですが、通信環境も悪いし、テレビの「鬼平犯科帳」も「相棒」も見れないなあとつい二の足をふんでしまいます。

 彼とは、前回も会えなかったので、ほぼ3年ぶりでした。
 積もる話もあって3時間以上も話しました。
 そのなかで中心になったのはパキスタンの状況についてでした。
 彼は、最高裁は「違憲」の判断をムシャラフに下す可能性が大きいといいました。ぼくは、「そうではないでしょう。そんなことになったら、パキスタンは大混乱ですよ」
 そうですよ。大変なことになります。でも判事の大半は違憲に傾いているといわれてますからねぇ。
 このナジールの判断は、結果的に正しかった。それでムシャラフは先回りして、非常事態(state of emargency)を宣言し、混乱を防いだことになります。とすれば、今回の状況は、ほとんどのパキスタン国民に取って、想定内の出来事だったといえそうです。
 ナジールがいつも言っていることは、一番悪いのはあごひげをつけた年寄りのムッラー(聖職者)たちである。コーランだけに凝り固まった彼らは世界を見ようとせずこの国を危険に落とし込んでいるというのです。
 この前の立てこもりの原因は、最も力のあるムッラーの息子が、秘密裏にあの教会にアフガニスタンより運び込んだ大量の武器弾薬を備蓄したことにあったそうです。
 「本当ですか。それにしても、9.11から世界はほんとに変わりましたねぇ」
 その通り、とナジール。でももっといえば、ホメイニ革命から変わり始めていたようにも思えますよ。そして決定的には9.11です。あの時、ブッシュはムシャラフに電話して、「テロリスト達につくか、アメリカにつくか」とおどした。ムシャラフはしかたなく、アメリカについたんだと私は思いますよ。
 この時、もしベナジール・ブットーがプレジデントだったら、恐怖のあまり頭真っ白、おしっこチビッタと思います。ナジールは手を股の間にやりながら、こう力説しました。彼は、PPP(パキスタン人民党)の議員だったし、党首のブットーのことはよく知っていますから、この説明には迫力がありました。
 アメリカが、ブットーを押し立てようとする意味が分かったように思えました。
 それから彼は、9.11の時ツウィンタワーには、一人のイスラエル人もいなかったという事実をあげながら、謀略説の説明を始めたので、いやよく知ってるよと遮りました。
 ナジールはアメリカと結託しているムシャラフを批判し始めました。これもぼくは遮り、「ぼくは、アユブカーン、ヤヒアカーン、ジアウルハクとずっとパキスタンの軍事政権を見てきたけれど、ムシャラフが最も世界状況に通じ、パワーポリティックスを理解していると思うんだが」
 ナジールは、でもアメリカの言いなりになりすぎるというので、「とにかく一番の悪者はアメリカです」
 そうです。ムッラーたちもそう主張しているのです。「そうですか。ムッラーは正しいじゃないですか」とぼく。
 そうですね、と意外にも簡単にナジールは同意しました。
 ぼくはなおも「ムシャラフは完全にアメリカの言いなりにはならず、うまい具合にやっていると思う」とムシャラフを支持すると、「それはタカダさん。日本だって同じでしょ」
 ぼくは黙ってうなづくしか仕方なかったのでした。

 いまウィキペディアのパキスタンの国内政治の項を見てみると、こんな記述がありました。
-----地方においては部族制社会の伝統が根強く、その慣習法が国法を上回る状態となっていて、中央政府による統制がほとんど効かない状態になっている。この無政府状態が、アフガニスタンとの国境地域にオサマ・ビンラディンなどのアル・カーイダ主要メンバーが潜伏しているという指摘の根拠となっている。南西部のバローチスターン州ではイギリス植民地時代からの独立運動が根強い。----
 これはぼくにいわすれば、独立運動というより昔から独立国なのです。パキスタンのいうことなど聞かない。事実、この国に向かう物資は、カラチ港に陸揚げされても課税されないのです。イギリス統治の時代からそうだった。

 北西辺境州は、ぼくが何度か書いているパシュトーン語を話すパターン族の国であるし、ここにいう南西部とは、バローチ語を話すバローチの国でした。
 今度訪れたペシャワールは、アフガニスタン国境の町。ほとんどがパタン族です。
 一方昔よく訪れたクエッタは、イラン国境で、バローチの町です。ここはパキスタン軍隊の基地なのですが、大分前、バローチの族長と軍が対立関係となり、とんでもない危険な状況が続いていました。
 これが、ぼくが、十年このかたクウェッタに行かない理由です。
 何年か前、中学の先生がここを通ってイランに入ったところで殺されました。最近起こった拉致事件で拉致され、あちこちに連れ回されている日本人大学生もクウェッタからイランに入って難に遭いました。
 でも最近は状況は変わっているのだそうです。
 今回の旅で、イスラマ空港で、一人のパキスタン軍人に会いました。
 帰りのカラチへの便に乗るべく、イスラマ空港に行った時のことです。PIAのストによるフライトキャンセルを知り、送ってきてもう帰ってしまったアマンを呼び戻すため、そばにいた一人のパキスタン人に携帯を借りたのです。
 彼は、クウェッタ駐留の軍人だそうです。状況を聞くと大変平和だといいます。何年か前、軍が族長を殺し平和が戻ったのだそうです。
 考えてみれば、スワット渓谷の戦闘状態も昔のクウェッタと同じ状況かも知れないけれど、外国からアフガニスタン経由で外国人が流入してきているところが違うし、ムシャラフのいうようにそこが最も問題かもしれません。そして国内には、彼らを支持する勢力が存在する。とんでもないややこしい状況です。

 まあクウェッタに平和が戻ったのなら、僕の好きなクウェッタ・セレナ・ホテルに泊まりに行ってもいいなと思い、その軍人にそう言うと、いつでも来てくれ、モーストウェルカムだと答えました。

 スワットに流れ込むムシャラフいうところの無法者、それをたどると、アフガニスタン、そして中東、最後はイスラエル・パレスチナ問題に行き着く。ぼくにはそう思えてしまいます。現在の困難な世界状況のもつれの根源を知るには、イスラエル建国のあたりに戻る必要があるという気がしています。

7.戒厳令はない

AirBlue機内食.jpg 昨日午後、依然としてPIAのストが解けないので、AirBlueという別の飛行機でカラチに移動してきました。
 現在カラチシェラトンで、くつろいでいます。
 昨日は、空港から馴染みの宝石店に直行して、祇園のおかあさん用に買ったムガール王朝時代の掘り出し物ペンダントを帯留めに加工する依頼をしました。今日中に出来るかどうか難しいところなのですが、たぶん出来るでしょう。
 PIAのストは明日には解除されそうだとの情報がありますが、もし解除されなければ、インドの移動できず困ったことになります。その場合には、他の飛行機を探すか、または行く先をバンコックに変更するなどの方法を考えるつもりです。PIAのデリー便は月水土しか飛んでいませんから。

 昨夜深更、ムシャラフのテレビ演説を聴きました。昨日は早くから、普通は30チャンネル以上あるテレビが、2チャンネルほどになり、後はすべてno program avairableという表示のみになっていました。きっと、ムシャラフの演説を聴かすための処置だったのでしょう。
 演説は、ウルドー語で始まり、後半は英語に切り替わり、最後はウルドー語になって終わりました。パキスタンは、会話を含めて演説などを、英語とウルドー語を織り交ぜて行うのはごく普通のことです。かくかくしかじかである、とウルドー語で述べ、何故かといえば(ビコウズbecouse)とここからは英語になる、いう具合に。
 スピーチは4・50分にわたり、こうゆう処置をとらざるを得なかったのは、パキスタンのためを思ってのことである。さもなければ、自殺攻撃の頻発によってパキスタンの国自体が自殺に追い込まれる。私に時間をくださいと切々と訴える内容でした。
 デモクラシーを強調し、アブラハムリンカーの言葉を引用したりするものでしたが、英語もウルドー語も充分でないぼくには、すべてを聞き取れた訳ではありませんでした。

 先ほど息子とSkypeで交信し、お昼のNHKテレビニュースをSkypeを通して見ました。戒厳令とはいっても、軍がで出張っているのは国会議事堂周辺のみの用で、他はまったく平時と変わらないといえます。ここからちでも、ホテルの中も町の中も普通の日曜日の様子で、何も変わったことはありません。
サリームと直樹.jpg ディラン遠征隊のときからの知り合いのセイロンジュエリーの2代目のアシームの話では、戒厳令などはどこにも出ていないということです。どうやら少し誇張した話を鵜呑みにしての日本の報道だったのではないかと思います。
 要はアフガン国境のトライバルテリトリー、特にスワット渓谷沿いで展開している政府側の軍隊と外国からの過激派を含む原理主義者達との戦いを終結させるために、そして政治的な反対勢力と聖職者達の結集による混乱などを防ぐために緊急事態宣言が必要ということになったのでしょう。
 これらについてはまた後に書くことにします。 

ComentLetter.jpg 今朝食にレストランに行ってきました。朝食のブッフェはどうかと聞かれたので、ミニステーキが気に入っているけれど、今日のは少し固かったねといったら、
 「保温しているから、どうしても時間が経つと固くなってしまうんです。新しく焼いてお持ちしましょう」
 しばらくして、焼きたての大きめのミニステーキが運ばれてきました。これは、少しチップを置かないといけないかなと思っていたら、ボーイが紙と鉛筆をもってきて、コメントを書いてくれと言ってきました。
 11時に宝石店のアシームが、えらく早めに出来上がった依頼のものを持ってやって来ることになっているので、「部屋で書くよ」紙を預かりました。これでチップは必要なくなりました。
 でも書き出したら、結構長くなってB5一杯になってしまいました.

 明日のデリー便のコンファームも完了し、日本の友人の皆さんには心配をかけましたが、明日の9:55の便でデリーに向かう体制が整いました。

6.イスラマに戻る

 ペシャワールを発って、開通したばかりでガラガラにすいた3車線のハイウェイを2時間近く走ったのち、運転手のボーラは初めて言葉を発しました。正午過ぎ、ペシャワールのバザールを出発する時、「これからイスラマに向かう」と指示したきり、その後ぼくが一切話しかけなかったからでしょうが。
「マァーリ・・オォット」
 マリオットホテルに行くのですか?と聞いたのです。
 実におっとりのんびりしています。でも運転は非常にうまい。飛ばすときは飛ばしますが、どんな雑踏でも安心して乗っておれます。
 ほんとに素朴実直という感じ。指定した時間にはきっちりとやってきて、ホテル構内のホテル入り口が見える場所にパークし、はるか向こうからじっと見張っているのでしょうが、ぼく達の姿が現れるやいなや素早く飛び出してくるのでした。
 バザールでも、戻ると言った時間に1時間遅れようが2時間経とうが、遠くからぼく達を見つけ出し、車のそばからやってきて、雑踏の中を先導してくれました。
 
 アマンに、あだ名の意味を聞きました。ボーラというのは、simpleという意味だそうです。simpleには、単純な人、ばかの他に、素朴な、無邪気な、純真ななどの意味がありますが、なるほどこの形容はすべて彼に当てはまるように思えました。日本語にするのは難しいけれど「ぼんやりさん」とでもなりましょうか?
 彼はピンディ近郊の町、ハリプールで生まれました。ピンディにやってきても、その生活は貧しい彼に取って大変厳しく、仕事用の車の中で寝泊まりするという生活を3年間も続けたそうです。
 この話を聞いて、別れるときに渡すチップを少し増やしてしまいました。

 ピンディでは、町に出歩く人がなくなり、どの商店も閑古鳥が鳴いているそうです。昨日の公邸への自爆攻撃の所為だそうです。
 アマンは、とんでもなく大きな音がして、びっくりした。商売はあがったりです、となげきました。音は4キロ四方で聞こえたと新聞にありましたから、アマンの店では、きっと大きな音だったのでしょう。
新聞記事1.jpg ペシャワールのPCで、各種英字新聞5誌ほどに目を通しましたが、地方紙にあたるCity News などが、最も生々しい情景を書いています。
 -----人の身体の部分が路上のあちこちにゴロゴロと転がっている。
 2人のレスキュ−1122の職員と2人の軍の人が、多分自殺攻撃者のものと思われる人の頭を取るために樹に登った。それは、樹の枝にひっかかっていた。-----
 身体の破片が、空中に舞い散る目撃者の談話などがあり、読んでいて気持ちが悪くなりました。
 そしてひとつ気付いたことは、どの新聞も自殺攻撃(suicide attack)あるいはsuiside blast(自殺爆発、自殺攻撃)とは呼んでも、自殺テロ(suiside terrolism)とは呼んでいないことでした。その理由は、分かるような気がしました。

 夕食は、ホテルのステーキハウスで取ることにしました。
 アマンがくれたボルドーの赤2005年を、黒のプラスチック袋でくるんで持ち込みました。
 ボーイはぼくが足下に置いたボトルに気付いたのか、水用以外にもう一つグラスを持ってきてくれました。グラスはいずれも濃いブルーで、遠目には水かどうか分かりません。去年は、ボトルを持ち去り、ティーポットに移し替えて持ってきたのですが、ティーカップで飲むワインというのはどうにも気分が出なかったものでした。

 ムスリムの国ですから、飲酒は禁じられていますが、外国人は関係ありません。ただ公衆の面前で公然と飲むことは、控えなければ行けません。
 パキスタンに着いて直ぐの夕食はパキスタン料理屋さんでした。パルベイツの家で供されたブルゴーニュの白のボトルに残ったワインを、ザヒードが持ってきていました。
パルベイツ夫妻と.jpg パルベイツは、ぼくが「美味しい」とほめたので、ホテルで飲むようにと同じもの2本と飲み残しをザヒードに渡したのです。
 白ワインで焼き肉はどうも、とぼくは、ジャンボプラウンを注文しました。ザヒードといえば、堂々とワインを卓上に置ぎ、冷やすための氷を頼みました。
 「君たちは外国人だから関係ない。文句を言われたらパルベイツのゲストだといいなさい。それですべてオーケーだ」とパルベイツが大見得を切ったからなのですが、ぼくはちょっと気になりました。
 案の定、しばらくすると店のマスターがやってきました。「向こうの夫人たちが苦情を言っている」というのです。入ってきてからのザヒードの態度は少し大きすぎたようでした。
 どこの国でも、おばはんはうるさいのです。

T-boneSteak.jpg さて、ぼくが注文したステーキは、450gTボーンのミディアムレアー。オーストラリア肉です。値段は5600円。
 デザートには、メニューになかったのですが、聞くと出来るというので、カスタードプリンとエスプレッソダブルを頼みました。
 みんな美味しかった。
 吸いきれなかったホヨドモントレー・Limited 2005のシガーを手にプールサイドに移動し、テーブルに腰を下ろしました。
 プールの周囲にぐるりと配置された椅子とテーブルには人っ子一人なく、水面が静かに揺らいでいます。少し肌寒さを感じるくらいで、酷熱のパキスタンも過ごしやすい季節になってきたようです。

5.ペシャワールにて

 昨夜半、アマンより連絡があり、ペシャワールのPC(パールコンチネンタルホテル)が2晩しか取れないと言ってきました。特に長居する必要もないし、滞在地では、一番危険な場所だとも思っていたので、「いいよ。それでいい」と予定を一日切り上げて2晩で戻ることにしました。
 ドライバーと車のアレンジをした。ドライバーはぼくがよく知っている男だから安心してくれということでした。アマンは同行できなくなったらしい。
 昼すぎ、ドライバーがやってきました。10人乗りくらいのバスです。一緒に現れたアマンは「どうです。これなら快適でしょう」
 快適も何もガラガラではないか。
ボラ.jpg ドライバーは頭はもう白い50代の男で、名前をボラという。魚みたいな名前ね、と家内がいい、そう思ってよく見ると顔もボラに似ているような気がしました。
 ところが、ペシャワールのPCについたとき、ボラが胸に付けているTravel Agent のCox & Kings の名札を見ると、Mr. Masud Ur Lehman と書いてあるではありませんか。お前立派な名前があるではないか、と英語で言ったのですが、彼はニコニコと笑っているのみです。マスードは、英語がほとんどわからないようです。
 ボラがニックネームだとしたらそれはどんな意味なのか、誰かにそっと尋ねてみようと思っています。

キサカニ果物屋.jpg ペシャワールは、アフガニスタンに最も近いパキスタンの町で、国境のカイバー峠を越えたアレキサンダー大王もこの町を通ってインド亜大陸に入りました。インド経由でやってきた仏教とアレキサンダー軍がもたらしたギリシャ彫刻の技法が融合して生まれたのが、ガンダーラ美術、ガンダーラ仏像です。
 ラワルピンディーとペシャワールの中間に世界文化遺産で、最大のガンダーラ遺跡のタキシラ遺跡があり、ここでもガンダーラ文化が花開きました。タキシラを取り巻く山の各所に僧院があり、その当時、中国を始め世界各国からから学僧が勉強に訪れたのです。
 BC190年頃にギリシャ人が建設を始めたとされますから、2000年以上前ということになります。
 
 ペシャワールの住民の多くは、山の民といわれるパシュトーン語を話すパタン人で、どの時代も誰にも屈服しなかった独立自尊の民といわれます。もちろん、イギリス植民地時代にも、何回ものイギリス討伐軍にもなびきませんでした。チャーチルは、若い軍人時代カイバー峠での戦闘に参加しています。
 僕はなぜかパターン人が好きで、なぜか馬が合う感じなのです。

 先日の記事で報告したミンゴーラでの自爆テロは、住民の過激派グループと軍及び民兵の対立の中で起こった事件といえます。
新聞記事2.jpg ここペシャワールでの今朝のThe Newsの朝刊の一面トップは、ドバイでアジア労働者が100人解雇されデモが起こったという記事に並んで、スワットでの戦闘の続報が、Tense calm in Swat(スワットでの緊張した静寂)というタイトルで報じられています。軽機関銃を構えて、ミンゴーラのバザールを巡回する民兵たちの写真入りです。
 (ミンゴーラ・ペシャワール発)3日間にわたる過激派と治安部隊との凄まじい戦闘の後、表立たない裏面での錯綜した休戦が報じられてはいる。
 過激派は、5人の民兵職員を含む12人を生け捕りにしたと宣言した。そのうち4人の首を刎ねたとも報じています。
 いくつかの報告によれば、この戦闘で死亡した16人の民兵の死体は、いまもコット村とマングラワール村の野原に放置されており、厳しい対立の中で、誰もそれを集めにゆけない状況が続いている・・・などと、報じています。
 両者は、互いに仕掛けたのは相手方であると、FMラジオなどで応酬し合っているようです。
 「我々は、決して最初に発泡したのではない。それは政府であって彼らはいつも我らのホームを攻撃する。マウラナ・シャー・ドゥランはこの地方で広く聞かれている彼のラジオでそう語った」
 「休戦などまったくない。前から言っているように、我々が最初の発砲したことは決してない。民兵コマンダーでスポークスマンのシラジューディンは言明した」などなど。
 また、別の新聞 National Herald Tribune のトップは、60人の過激派が死亡という副題付きで「過激派と民兵軍は休戦に達した」と報じています。その次の記事で、「大統領は過激主義者達に戦闘をやめるように要請」という記事が載っている。

キサカニバザール宝石通り.jpg こうした記事と裏腹に、そこから150キロほどのこのペシャワールの市街では、いつもの喧噪と雑踏の日々がいつもと変わらず続いているようです。今日キサカニ(正確にはキスワクニ)バザールに出かけ、特にそう感じました。
 明日は、昼にチェックアウトし、ゆっくりイスラマバードに帰るつもりです。


 今日のアサヒコムによると、ムシャラフを狙った自爆テロがラワルピンディーであったようです。ちょうどぼくがイスラマバードを出立した直ぐ後のことのようです。
 イスラマバードとラワルピンディーについて、説明しておきます。
イスラマバードは1960年代に建設が始まった新都市で、昔からあったラワルピンディーの北方20キロほどのところにある正方形区画の新都市です。出来上がるまでに何十年もかかっていて、まだ完成していないともいえます。
 ラワルピンディは、昔からあった都市で、道はラジャバザールのセンターから、ヨーロッパのように放射状に延びています。
 言ってみれば、オールドデリーとニューデリーみたいなものかもしれません。
 もともと、カラチが首都だったのですが、商人の支配を嫌った軍人達が新首都を作ろうとしたともいわれました。
 やはり無人の原野に人為的に作られた町というのは、長い年月が経って大分様子が変わってきたとはいえ、カラチやイスラマバードに比べ、何か無機質な感じがするのはぼくだけではないと思うのですが。
 今回ムシャラフ大統領が自爆テロ攻撃を受けたのは、ラワルピンディ近郊の公邸執務室で、大統領官邸はイスラマバードにあるのだそうです。彼はこの二つを行き来するのですが、その度ごとにイスラマとピンディ間の高速道路が封鎖されるので、一般人は迷惑しています。

4.イスラマバードへ

 27日、正午の便に乗るべく、シェラトンホテルを出て、空港へ向かう。
 9時に部屋を出てロビーに降りると、ドライバーのムシュターグだけが、ロビーに突っ立って待っていました。滞在中ずっとエスコトートしてくれたザヒードは来れないと、昨夜夜中の別れ際に言っていました。
 PIAは時間通り、12時きっかりにテイクオフ。全座席の背にテレビのついた真新しい機材で、インドまで飛んできたJAL便と同じものだが、こちらの方が見るからに新しい。調べると、ボーイング777-300ERという2003年に開発された機種で、国際線用のものである。それを、たかが2時間足らずのカラチーイスラマ間に使うというのは、贅沢な気もした。

 タイムテーブルよりかなり早く到着して、スーツケースを2個載せたキャリーを押しながら送迎ロビーに出て行くと、花束を携えたアマンが飛び出してきました。
 白づくめのトップファッションで、かっこのいいサングラスをかけ、先が広く反っくり返った最新型の黒のエナメル靴を履いています。
 「カシミールから昨日戻ったばかりなんです。連絡が遅れて申し訳ない」
 キャリーを押すアマンに従いながら迎えのひとの列の前を通り過ぎて行くと、「MR. NAOKI TAKADA」と書いたボードを掲げた人がいる。
 「わたしが高田ですが・・・」
 横からアマンが、「そうか、そうか。じゃぁ君たちは荷物だけをマリオットホテルに運んでくれ」
 アマンは、えらくでかいベンツにぼく達を導きました。
 「あれっ、前のベンツは?」「ぼくの車は売りました。これは友人から借りたもの」
 フロントウィンドウには、黄色の三角で丸にAと入ったステッカーが2枚はってあります。これがあると空港の滑走路のタラップの下まで入れるのだそうです。「ムシャラフ達も乗る車なんだ」
 どこでそんなものを借りてきたのかと思いましたが尋ねはしませんでした。

「マリオットはねぇ。スタッフが友達だから頼んだんだけど、すでにブッキングが入ってるというんです。値段を聞くとそっちの方が大分高かったので、キャンセルしてくれといったんです。16000だったんです。こっちの方は12000」
「それはありがとう」
 また、昨年のドバイと同じことが起こったと思いました。
 ドバイのときは、もっと大変でした。パルベイツは、ドバイに2つも店を持っているから、詳しいだろうと「何か耳寄りな情報があれば知らせてほしい」とイスラマからメールしただけなのに、彼はミスタータカダが行くからエスコトートしろと命じたらしい。それで、ドバイのスタッフは大張りきりでリゾートホテルを予約した。
 ぼくは、イスラマからオンラインの直前予約で「ホリデイイン」を大変利口な値段でブックしていたのです。
 空港に迎えにきたスタッフは、自分が予約したホテルに連れて行くといいます。ぼくは必要ないといい、延々と押し問答。
 彼は今キャンセルしたらお金を取られるから困るというのですが、俺の知ったことかと、ホリデイインに向かわせたのです。
 翌日ホリデイインに現れて、そこはパキスタン人、けろりとして「さあどこへでも案内します」というので、さすがに気の毒で、「全部自分たちでやるから、もう来なくてもいい」と断ったのでした。
 今回も、カラチでパルベイツの家に行き、出してくれたフランスブルゴーニュの白ワインを飲みながら、聞かれるままに大体のスケジュールを話したら、「分かった、ぼくが全部アレンジするよ」というので、軽く「ありがとう」と言っただけなのです。

 カラチもイスラマバードも、いつもとなんにも変わりはありません。
マリオットゲート.jpg 変わったところといえば、マリオットのセキュリティーチェックが、人員が増えより厳重になったというくらいの差です。これは、カラチのシェラトンでもそうですが、ホテルに入るのと飛行機に搭乗するのとが同じだと思って頂いたらいいと思います。
 マリオットホテルの入り口ゲートのガードマンは、倍くらいの6・7人に増え、前のボンネット後ろのトランクを開けさせ、3人が鏡のついた棒を車のしたに差し込んでチェックします。ゲート内の通路も普通のときの半分に狭められていました。
 まあチェックが厳しいということは、それだけ安全性が高まるということで困ったことではないのです。
 50年近くもずっと来つづけているイスラマやピンディでは、なんだか故郷の町にいるような気分になったりするのですが、とはいえバンコックでのようにプールサイドでくつろぐという気は起こりません。

 マリオットホテルのインターネット環境は、部屋のデスクからラインでもWiFiでも繋がります。値段は、1時間180+TAX。シェラトンは1時間200で、あと12時間1200。24時間の3つのラジオボタンで選択するのみの操作でした。
 部屋番号@inhouseというIDをいれ、8デジットのパスワードで好きなだけ接続するこのホテルの方がリーゾナブルな気がします。
 昨日、ともと中村亘君との三者のビデオチャットが楽しめました。ほんとにテクノロジーの進歩を実感した次第です。

アマン.jpg 明日は、アマンの運転でペシャワールに向かいます。

3.新聞(DAWN)を読む

シェラトンチェック.jpg 今泊まっているシェラトンホテルでは、毎日部屋に新聞が入る。英字紙のDAWNで、1965年にディラン峰遠征隊でやってきたときからのなじみの物である。
 だいたい、朝食に食堂に降りるときに見出しだけを立ち読みで見て、面白そうなのがあれば、持って行くし、そうでなければベッドの上に放り投げる。
 今朝は、一面トップのBloodbath in Swat: 17 FC personnel killedという記事が目に飛び込んできた。
 持参して、クロワッサンと小片のステーキを食べながら読む。
 「スワットでの大殺戮:17名の民兵職員が死亡」。Bloodbathとはすごい。一面血の海という感じ。
 場所は、スワットのミンゴーラというところで、「西パキスタンの旅」の経路でもある。また日本人のグループツアーで、フンザからの帰りに何度も通ったことのある場所なのである。
 政府が攻勢を強めつつある武装勢力の鎮圧のために数千の軍隊をスワット谷に送り込んだ後の自爆攻撃で、爆弾は自家製の物であった。42名の兵士の載ったトラックは裂け、17名が死に34名が負傷した・・・などと大変詳しく報道されている。
 英字では、どこのタレベエがどう言ったとニュースの出所がはっきりしているのが、日本の新聞と違うところだ。日本では、例えば火事の報道で、「失火と見られる」と書くだけだが、英字では、「消防隊の隊長の誰それは、失火であろうと語った」と書く。

一面の2段目の記事は、Benazir lashes out at 'political madressahs'(ベナジールは政治的なmadressahを激しく批判)という物だが、このマドレサアが分からない。
記事には、ベナジール・ブットーの言葉として、「我々は、マドレサの内のすべてを調査しないと行けない。それらは、文明の一部であり、文化や宗教の一部であるが、他のものがある。羊の皮をかぶったオオカミどもがマドラサの名をかたっている」などとあるから、何となく想像がつくような気もした。
 ホテルのフロントのお兄さんに記事を見せて尋ねてみる。「ふるいウルドーの言葉なので、ちょっと・・・」と、カウンターを出て、コンシアージのおじさんに尋ねに出かけた。
 おじさんは少し考えて、子供の学校のことです。
 「すると、テロリズムに関係があるんですか」と尋ねると、そばにいたお姉さんが、「いえいえ、まったく違います」といった。

 部屋に戻って、何となくグーグルでナジブラ・ブットーを引くと、<タリバーンとは>という項が出てきた。このウィキペディアのタリバーンの「起源と発展」の説明の中にイスラム神学校(マドラサ)とあるではないか。
 とすれば、テロリズムと関係ないとはいえないと思うんですが、お姉さま。
 記事全体を読んだらもっとはっきりするとは思うのだが、3ページ目に続くとなっているのを全部読む気にはなれなくて止めてしまった。でもマドラサの意味もはっきりしたし、なんだかすっとした。

 明日は、イスラマバードに移動する。2時間ほどのフライト。

2.パキスタン・カラチに着く

 パキスタンへ向かう初めての経路、インド経由というルートを取るにあたっては、何となく不安がありました。
 ご存知のように、印パは基本的に仲が悪い。宗教的に違うといっても、その原因を作ったのは、イギリスです。現在の世界の争乱の原点とも言えるイスラエル問題を考えればいいでしょう。英国という国は、世界の紛争のことごとくを作り出したとんでもない国というのがぼくの昔からの認識なのですが。
 それも自分は表に出ないで、うまい具合に裏に回ってどこかの国にやらせるところが狡猾でもっと悪いし腹が立つ。20世紀に入ってからは、主にアメリカを操っている。
 さて、第二次大戦が終わり、インド亜大陸はイギリス植民地を脱して、独立したのですが、その時にインドとパキスタンに別れました。ムスリムとヒンズーの人々は混ざってすんでいた故郷の地を捨てて、極めて短期間のうちに定められた地域に移動しなければなりませんでした。
 大混乱の中、ヒンズー教徒とムスリムは互いに血で血を洗うような暴虐の限りを尽くしながら移動して行ったのです。これが世に言うパーティション(分離)です。
 パキスタンはインドを挿んで東と西という、およそ地政学的に信じられないような配置となりました。
 こんなことが続くはずもなく、東パキスタンはインドの画策で独立運動が起こり、バングラデシュとして独立国となりました。同時に西パキスタンと言う名前もなくなりました。ぼくの「西パキスタンの旅」は、だからその少し前の旅行記なのです。
 インドとパキスタンは、何度も戦争を繰り返しています。

 話が脱線しましたが、もう少し続けます。
 現在アメリカに取って頭が痛いことの一つは、パキスタンが核を持っていることです。印パともに核保有国です。
 インドは以前からずっと、大国だけが核を持ちながら、核開発を他の国に認めないのは、理屈に合わないと至極理の当然の主張を繰り返していました。
 世界には、自分の国が地球の中心にあると信じる国が二つあります。中国とインド。中国の中華思想というやつで、これはどうも手前勝手の論理を立てすぎる。大体漢民族とはそうしたものだと思うのですが。
 一方インドの中華思想は、もっとグローバルで、論理的で、公正です。その一つの例を、極東軍事裁判のパール判事の主張に見ることができるでしょう。だから、インドが核実験を行ったのは、至極当然に思えます。
 インドが核実験に成功するや、間髪を入れずにパキスタンも核実験を試み成功しました。大変皮肉なことに、それまで何度となく戦争を繰り返していた両国は、ともに核保有国となってから、急に接近し友好ムードが高まったようでした。

 話を冒頭に戻して、インド経由でパキスタンに入るというのは、余り普通じゃない。それにぼくには、インド空港の様子などはまったく分かっていないし、空気が読めないのではないか。そう言う危惧を抱いていました。
 そうした心配は、チェックインで、ライターがチェックにかかった後におこりました。葉巻用のトーチライターが見つかり、これを没収するというのです。
「俺は世界中の空港に行ったけれど、そんなことを言われたのは初めてだ」とがんばりました。でも、規則で駄目の一点張り。
 そうか。そしたら小箱に詰めて荷物として載せてくれ。
 そばの係官が、ヒンディー語で「きっと高いもんなんだよ」と言っているのを聞いて、「いやいや、高くはないけど、俺はこれが気に入っているから捨てられない」と言いました。そして、何日か後にここに戻ってくるから、その時まで保管しておいてくれないか、と頼みました。
 すると、「分かった、それではそのライターのガスを抜いてくれ。そしたら持ち込んでもいいから」
 かくして、ライターの持ち込みは許されたという訳です。
 その時になって気付いたのですが、そばに3つの巨大な貯金箱状の透明で円筒形の函があって、中にはライターやはさみがぎっしりと詰まっているのが見えました。

 やれやれと搭乗口に向かって歩いて行くと、向こうから2人のオフィサーがやってきて、ぼくの名前を手に持った紙切れを見ながら確認しました。税関まで戻ってくれというのです。どうして。理由を言ってくれという質問には答えず、とにかく戻せという指示が来ているというのです。
 「奥さんはここで待っていてください」と通路脇の椅子を示すと、彼らはさあどうぞとぼくを促しました。
 まず案内されたのは、荷物がデポされている荷物室。自分のスーツケースを示すと、彼らはそれを引っ張って税関事務所に向かいました。税関オフィスの中から偉そうな係官が出てきて、質問を浴びせかけました。
 インドには何日滞在した。一晩だけ。
 なにを買った。なんにも。
 お金、ドルはいくら持っている。ぼくは持ってない。家内はいくらか持ってるが、いくらかは聞かないと。100ドルくらいかな。
 このスーツケースにはなにが入っている。ぼくとワイフの着替えと下着・・・。そんなもんかな。
 インドにはなにしにきたんだ。
 ああそうか、一泊だけしてカラチに飛ぶというのは普通じゃないからかとぼくは気付き、こう説明しました。
 娘がJALで働いているので、JALで飛ぼうと思ったけれどカラチには飛んでない。デリーには飛んでるからデリー経由にしたんだよ。
 あなたは日本でどんな仕事をしてるんですか。ぼくは少し考えてから、「プロフェッサー」と答えました。彼は一瞬あごを引いた感じで、ぼくの顔を眺めていましたが、「それはそれは、なにを教えているんですか」
 ぼくがさてなんと答えてやろうかなと考えていると、「Which proper subject do you teach?」
 ぼくは、「コンピューター」と答え、彼はさらにあごを引いた感じで、「いいです。結構です」といいながら、手を脇に振りもう行っていいというジェスチャーをしました。僕を連れてきた男の一人が、スーツケースを「開けなくていいのですか」と訊き、かれは「オーケー、ノーニード」と答えたのです。

 再度別の窓口のセキュリティーゲートを通ります。爪切り、ネイルカッター、シガーカッターと細かにチェックされます。色々珍しいものが出てくるので、係官はそれを楽しんでいるようでした。
 その中国系の顔立ちをした係官が、突然「私は、5年間この仕事をしているが、あなたのように流暢に英語もヒンディー語もしゃべる日本人には初めて会いました」といいました。
 「それはよかった(Nice to see you)」とぼくがいい、I'm happy tooと彼が返したので、ぼくは「アッチー、バータイ(その言やよし)」というと、周りにいる数人の係官が一斉に笑いました。

 それにしても、どうしてこういうことになったのか。色々推測してもどうも理由が分かりません。なんか起こりそうという予感が的中したことは、確かです。
 問題は、これだけにとどまりませんでした。
 午後2時に搭乗。フライトは2時40分の予定でした。2時半にアナウンスがありエンジンの調整に時間がかかるので、出発は1時間程度遅れます。
 3回ほど機長からのアナウンスがあり、もうしばらくかかりますというのが繰り返されました。結局テイクオフしたのは、6時でした。
 なんと搭乗してから4時間も機内で待たされたのでした。
 驚いたのは、乗客の誰一人文句を言う者やイライラする者がいなかったことです。最後まで、遅れてすみませんというお詫びの言葉もありませんでした。3回目のアナウンスでは、皆様の更なる忍耐をお願いしたい(もう少し我慢してください)。I ask your more patienceという言葉がありました。
 ぼくもあんまり気にならなかったし、ゆっくり直してよ。確信の持てるまで飛ばないで、という気持ちでした。

カラチ空港タクシー出札.jpg ようやく6時になってテイクオフし、8時に無事カラチ空港に到着。なんと3時間半の延着です。迎えの車はいませんでした。
 でも、ガンジー空港と違ってボリに来る運転手はいないし、コンピューターで制御された車の送迎システムで、極めて快適にシェラトンホテルに到着しました。
 息子2人はどちらも日本人の女性と結婚して東京に住んでいるという運転手のアガ・サリームは、「ほら、ここがあの爆発騒ぎの場所だよ」と教えてくれました。
そこは、きれいな道路に歩道橋が架かっているところで、百人を超す死者の血しぶきと肉片は、どこへ行ったのだろうという気がしたのでした。

1.インドに着く

 昔インドに来たのは、1965年のディラン峰遠征の帰り、それに続く69年の「西パキスタンの旅」の帰りの2回だけ。69年のときは、女房の土産のキャッツアイを買いにボンベイ経由でセイロン(今のスリランカ)に渡った。
 いずれにしろ、ほぼ40年ぶりといえる。
 インドの発展は凄まじいなどといわれているから、一体どんなんだろうと思って、約10時間を超すフライトの後、インディラガンジー空港に降り立った。

インデラガンジー空港.jpg 別にこれといって近代化されている訳でもない、というのが最初の印象だった。
 だだ、インド人の服装は、なんだかアメリカの田舎の空港を連想させた。パキスタンのようなシャルワルカミーズを着たひとはまったく見当たらない。それだけアメリカナイズされたということか。
 ガンジーは、イギリスの服を買うな自分で紡ごうと呼びかけたのだが、ガンジー空港でのこの状態はなんだか皮肉に思えた。

名前を書いたカードを持った、ものすごい数のひとが並ぶ、なんだかバンコック空港を思い出すようなひとの列の中を抜けてゆくと、EXITの表示があって、プライベートタクシー、ロードタクシーと書いてある。この方向かなと思っていると、一人の男が話しかけてきた。
「タクシーかい。どこまで行く」
「Dee Marks Hotel。いくらかね」
「750ルピーだよ」
そう言われても、高いのか安いのかまったく見当もつかない。スーツケースなどの荷物を満載したキャリーを押しながら、外に出るときれいな乗用車が並んでいた。
「750は高いではないか(サットソウ、パッチャース。マンガーハイ)」
とりあえず、値切るに限ると思ってそう言ってみた。インドのヒンディー語は、パキスタンのウルドゥ語とほとんど一緒なのだ。
「そんなことは無い。20キロも離れてるんだよ。サーブ、ドルで払うのかい。ドルなら20ドルだよ」

インドタクシー出札.jpg メータータクシーは無いようだ。タクシーの相場が分からないまま値切っていてもしようがない。そう思って、家内にここで荷物とともに待つように言うと、空港内に取って返した。タクシーの運ちゃんがついてくるので「お前は来なくていい」と追い返した。
空港でタクシーの値段を聞きたいのだがと尋ねていると、何人ものタクシーの運ちゃんが次々と寄ってくる。ある男は800といい別の男は700という。
 一人の男が「それは当然あなたはプリペイドタクシーに乗るべきですよ。ついてらっしゃい」なるほど、その出口には、EXITプリペイドタクシーと書いた札がかかっていた。窓口で、行き先を告げると、住所を聞かれた。インターネット予約で打ち出したバウチャーペーパーのアドレスを示すと、150といった。一瞬耳を疑い、問い直したがやはり150ルピーだった。どの運ちゃんもボリ過ぎではないか。

家内のところに戻ると、何人かが値を競ってきて今は500になっているという。「あかんあかん。あっちや」
パキスタンとなんにも変わらんではないか。勿論このごろでは、パキスタンの空港には、いつも迎えの車が待っているから、こんなことは無いのだから、正確には昔のパキスタンと言うべきなのだが。
プリペイドタクシーの窓口で150ルピーを支払い、バウチャーペーパーをもらう。これを見せてバンタクシーにのりこむ。このタクシー色といいしつらえといい、20年前のパキスタンと一緒ではないか。
古いモーリスのバンのタクシーは、チェックポイントでバウチャーペーパーを見せ、台帳に記入してもらってから空港を走り出た。
喧噪と砂埃の道を走る。車といい、ゴミだらけの道といい、昔のパキスタンではないか。カラチの空港周辺のほうが、もっときれいだ。
ITの発展で、発達目覚ましい国というイメージはかなり消えて行く感じであった。

この国での時差は、マイナス3時間半、お金1インドルピーは約3円。この4スターホテルは1泊170ドル。Rates To Go(直前予約サイト)でようやく探し当てたもので、デリーのホテルは軒並みとんでもなく高い。
インターネットへは、WiFiでつながるそうだが、ロビーからだけというので、明朝そこから繋ぐつもり。

0.成田のInternet Access コーナーにて

今成田空港。
Internet Accessというコーナーがあって、使用料は10分100円也。
ミクシーに入って、これを書いています。
今日は14時40分のJAL便でデリーまで飛び、明日カラチに入ります。
あっちの様子など、また書くつもりですので、乞うご期待。
出発まで1時間ほど時間があります。ちょっと早く来過ぎたかな。
まあ本でも読んで過ごそうか
というところで、残りは40秒。
では

  • HOME
  • Archives: December 2007