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パリ経由ニースからリモネット
プラハからパリのシャルル・ド・ゴール空港へは、2時間弱のフライト。プラハ空港は、すっかりリニューアルされたようでずいぶん奇麗になっていた。なんだかパリのシャルルドゴールに似ている。
シャルルドゴール空港では、1時間少しの時間待ちで、ニースへ飛ぶ。ニースまでは、1時間半ほどのフライトである。
空港のEuropeCarで車を借りる。
日本出発前に予約を入れておくのが普通である。値段などは指定できるが、車種などは指定できなくて、相手の言うままである。
あてがわれた車は、ルノーのラグーナであった。珍しいことにオートマチックであった。走行距離は2000kmすこし。あんまり気に入らない。
よく見るとボディーに大小3カ所のへこみ傷がある。
直ぐ、換えてくれと文句を言った。その中国系の男は、後2台しか残っていないという。
ぼくの経験では、レンターカーのスタッフで中国系というか東洋系は、極めてタフというか手強い。規則を盾に取って決して引くことがない。
ここでも、ぼくの「傷物の車にフルインシュアランスを付けて貸すなどというような話は経験したこともないし、聞いたこともない」というぼくの不平に、平然と立ち向かって来た。
信用できないから、次の車をチェックさせろという希望は、「我々は車を売っている訳ではない」という理由でかなえられず、キーを貰って次の車に向かった。
それは、紺色のBMW328dであった。走行距離3000km。傷などは勿論なかった。これならまあ文句はない。
高速に乗り、モナコで降りる。
ニースのスーパーよりもモナコの王宮地下のカールフールのほうが品物が豊富である。
ここで食料を仕入れることにした。シャンパン小瓶2、ゆでえび200g、貝柱200g、ステーキ肉500gなどを買い込んでいると、大分遅くなった。
7時30分モナコから再び高速に乗る。まだ充分に日は高かった。
ベンチミーリアで高速を降り、渓谷沿いの山道に入る。
この道沿いには、断崖都市サオルジュやタンド(Tende)などの中世の村々が残っており、バロック街道とも言われる。
ニースからは、「中世の村々が残るバロック街道(ロワイヤ渓谷)ツアー」などと銘打って、この道を辿る観光バスも出ている。9時間のコースで一人150Euro。6人バス貸し切りで600Euroという。
最初、リグリア海岸より別荘地を求めてこの山道をさかのぼった時には、なんだか黒部峡谷に分け入ったような感じで興奮したものだった。
しかし、この前のトリノ・オリンビック後、ずいぶん道がよくなったようだ。とはいえ下流半分だけなのではあるが。
中間の辺りから国境のテンダトンネルの中間までは、フランス領が入り込んでいる。イタリア、フランス、イタリアと道路標識から民家のたたずまいまでがはっきりと変わるのが面白い。
9時少し前に国境のテンダトンネルを通過。ようやく夕暮れが近づいた9時、リモネットのアパートに到着した。夕まぐれの雪景色の山々が美しかった。
シャンパンで、無事到着を祝った。
シャルルドゴール空港では、1時間少しの時間待ちで、ニースへ飛ぶ。ニースまでは、1時間半ほどのフライトである。
空港のEuropeCarで車を借りる。
日本出発前に予約を入れておくのが普通である。値段などは指定できるが、車種などは指定できなくて、相手の言うままである。
あてがわれた車は、ルノーのラグーナであった。珍しいことにオートマチックであった。走行距離は2000kmすこし。あんまり気に入らない。
よく見るとボディーに大小3カ所のへこみ傷がある。
直ぐ、換えてくれと文句を言った。その中国系の男は、後2台しか残っていないという。
ぼくの経験では、レンターカーのスタッフで中国系というか東洋系は、極めてタフというか手強い。規則を盾に取って決して引くことがない。
ここでも、ぼくの「傷物の車にフルインシュアランスを付けて貸すなどというような話は経験したこともないし、聞いたこともない」というぼくの不平に、平然と立ち向かって来た。
信用できないから、次の車をチェックさせろという希望は、「我々は車を売っている訳ではない」という理由でかなえられず、キーを貰って次の車に向かった。
それは、紺色のBMW328dであった。走行距離3000km。傷などは勿論なかった。これならまあ文句はない。
高速に乗り、モナコで降りる。
ニースのスーパーよりもモナコの王宮地下のカールフールのほうが品物が豊富である。
ここで食料を仕入れることにした。シャンパン小瓶2、ゆでえび200g、貝柱200g、ステーキ肉500gなどを買い込んでいると、大分遅くなった。
7時30分モナコから再び高速に乗る。まだ充分に日は高かった。
ベンチミーリアで高速を降り、渓谷沿いの山道に入る。
この道沿いには、断崖都市サオルジュやタンド(Tende)などの中世の村々が残っており、バロック街道とも言われる。
ニースからは、「中世の村々が残るバロック街道(ロワイヤ渓谷)ツアー」などと銘打って、この道を辿る観光バスも出ている。9時間のコースで一人150Euro。6人バス貸し切りで600Euroという。
最初、リグリア海岸より別荘地を求めてこの山道をさかのぼった時には、なんだか黒部峡谷に分け入ったような感じで興奮したものだった。
しかし、この前のトリノ・オリンビック後、ずいぶん道がよくなったようだ。とはいえ下流半分だけなのではあるが。
中間の辺りから国境のテンダトンネルの中間までは、フランス領が入り込んでいる。イタリア、フランス、イタリアと道路標識から民家のたたずまいまでがはっきりと変わるのが面白い。
9時少し前に国境のテンダトンネルを通過。ようやく夕暮れが近づいた9時、リモネットのアパートに到着した。夕まぐれの雪景色の山々が美しかった。
シャンパンで、無事到着を祝った。
カレル王の王冠
ちょうど今の時期、プラハ城では、カレル王の王冠が開帳展示されているから、それを見に行ったらどうかとパベルが言い出した。レストランで夜の食事をしている時である。
50年から100年に一回という展示で、チェコ中の人が押し掛け、それに世界からの観光客が加わるからとんでもない行列になる。最低5時間は並ばないと中に入れない。「どうだいナオキ。並ぶかい」
その顔は、並ぶわけないよなあ、といっている。ぼくは、その意を受けて「いやだね」といった。
王冠と王杖と王玉の三種だそうで、これは7つの鍵の掛かった部屋に仕舞われているそうである。その鍵を保管する7人が順番に鍵をあけ、ようやくその保管室の扉が開くのだそうである。
そんなのは、日本にもあって三種の神噐というんだと、ぼくは説明する。
「ところで、その王冠が入っている部屋の扉を7人が開けたら、フロアはビカピカだったんだって。どうしてほこりが積もってないのかなあ。きっと掃除のおばさんが毎日掃除してるんだよ」とパベルは冗談を言った。
これは、※パベルが教えてくれたサイト※。
チェコ語のサイトなのでまったく読めないけれど、最下段に動画があって、そこでは7人が順番に鍵を開けている様子を見ることができる。
ところが、あとでネットで調べたら、たしかにプラハ城の王冠展示は19日から29日まで行われている、50年に一回というのは、パベルの間違いか誇張のようである。
記事によるとこの100年で10回は開帳されている。
翌日、プラハ城を見学した。パベルのボルボで城の裏門に着いた。こちらからの方が近いという。
王冠の展示館には、なるほど長蛇の列が出来ているようであった。その一部を写真に撮った。
ぼくは、プラハは4回目。一回くらいはプラハ城に行かなかった時もあると思うけれど、決して初めてではない。
でも、なんだか初めてのように新鮮な感じで見て回ることが出来た。
衛兵の行列行進は始めでだった。
カフカの家も見た。でもなんでカフカがこんな城内に住んでいたのだろうと思った。
一番印象に残ったのは、地下の拷問室で、たぶんそこに降りたのは、きっと初めてだったのではないかと思う。うまく言い表せない恐怖の感情を憶えた。その数々の鉄製の拷問用器具の精密さに感心しながらも恐怖の感情は増幅させられた。
途中からパベルは、オークションが始まるからといって、一行と別れた。年に一回行われるオークションで、お母さんに頼まれた絵と彫刻を落とすのだそうである。後で合流した時に聞いたら、どちらも競り負けたそうである。
世界最古と言われるカレル橋の直ぐ近くのレストランの水辺のテーブルで食事をした。モルドウの水面には、水鳥が泳ぎ、絶え間なく船が往来していた。
彼らとは、今日でお別れ。ポーリンは夜、パベルが乗って来た車でブルーノに帰り、パベルは仕事で、明日早朝の飛行機でチェコの東方の町オストラバに向かうという。お別れに二人で写真を撮った。
50年から100年に一回という展示で、チェコ中の人が押し掛け、それに世界からの観光客が加わるからとんでもない行列になる。最低5時間は並ばないと中に入れない。「どうだいナオキ。並ぶかい」
その顔は、並ぶわけないよなあ、といっている。ぼくは、その意を受けて「いやだね」といった。
王冠と王杖と王玉の三種だそうで、これは7つの鍵の掛かった部屋に仕舞われているそうである。その鍵を保管する7人が順番に鍵をあけ、ようやくその保管室の扉が開くのだそうである。
そんなのは、日本にもあって三種の神噐というんだと、ぼくは説明する。
「ところで、その王冠が入っている部屋の扉を7人が開けたら、フロアはビカピカだったんだって。どうしてほこりが積もってないのかなあ。きっと掃除のおばさんが毎日掃除してるんだよ」とパベルは冗談を言った。
これは、※パベルが教えてくれたサイト※。
チェコ語のサイトなのでまったく読めないけれど、最下段に動画があって、そこでは7人が順番に鍵を開けている様子を見ることができる。
ところが、あとでネットで調べたら、たしかにプラハ城の王冠展示は19日から29日まで行われている、50年に一回というのは、パベルの間違いか誇張のようである。
記事によるとこの100年で10回は開帳されている。
翌日、プラハ城を見学した。パベルのボルボで城の裏門に着いた。こちらからの方が近いという。
王冠の展示館には、なるほど長蛇の列が出来ているようであった。その一部を写真に撮った。
ぼくは、プラハは4回目。一回くらいはプラハ城に行かなかった時もあると思うけれど、決して初めてではない。
でも、なんだか初めてのように新鮮な感じで見て回ることが出来た。
衛兵の行列行進は始めでだった。
カフカの家も見た。でもなんでカフカがこんな城内に住んでいたのだろうと思った。
一番印象に残ったのは、地下の拷問室で、たぶんそこに降りたのは、きっと初めてだったのではないかと思う。うまく言い表せない恐怖の感情を憶えた。その数々の鉄製の拷問用器具の精密さに感心しながらも恐怖の感情は増幅させられた。
途中からパベルは、オークションが始まるからといって、一行と別れた。年に一回行われるオークションで、お母さんに頼まれた絵と彫刻を落とすのだそうである。後で合流した時に聞いたら、どちらも競り負けたそうである。
世界最古と言われるカレル橋の直ぐ近くのレストランの水辺のテーブルで食事をした。モルドウの水面には、水鳥が泳ぎ、絶え間なく船が往来していた。
彼らとは、今日でお別れ。ポーリンは夜、パベルが乗って来た車でブルーノに帰り、パベルは仕事で、明日早朝の飛行機でチェコの東方の町オストラバに向かうという。お別れに二人で写真を撮った。
チェコ・フィルを聴く
4月26日
いい天気。窓の外のビルの隙間から青空がのぞく。
9時頃と言ってあったが、寝坊してパベルのアパートに行ったのは10時半だった。ホテルのすぐそば50メートルと離れないところにパベルのアパートがある。
このアパートには妻の秀子と泊まったことがあったのを思い出した。あの時に比べると部屋の絵画の数がうんと増えているという気がした。パベルの父親のパボルが生前に買い足したのだろう。部屋という部屋の壁は、絵画で埋め尽くされているという感じ。
父親パボルは有名な脳外科医であったが、パベル達子供2人を連れて、チェコからオランダに亡命した。オランダの大学では、日本の東海大学からの医学留学生を指導していたと聞いた。母親も脳外科の学者で、パベルは学者夫婦の子供ではあるが、なぜかまったく違った方面の道を進んでいる。
アムステル大学からロッテルダム大学大学院、この頃バンコックでぼくと知り合うのだが、ここを出てKLMオランダ航空社長の秘書になる。数年で止めて、KLMソフトウェアのセールス員として後進国に売り歩く。
ヘッドハンティングされてABMアムロ銀行の副頭取に。ここも数年で止めて、今度は廃棄物処理・リサイクル会社で働いている。町のし尿処理から産廃処理、核廃棄物処理までを扱うという。
ところで、部屋に掛けてある絵のうち一番興味を持ったのを載せておく。何を描いたものなのかを聞こうと思っていたが、忘れて聞きそびれてしまった。
朝食というかブランチを用意してくれていたが、ぼくはまず持参した鯖寿しを食することにした。外国への到着が夜遅くなる時には、いつも鯖寿しを持って行くことにしている。竹の皮で巻いた鯖寿しは日持ちするしどこでも食べられ重宝する。
パベルも美味しいといって3切れも食べた。
今日の予定は、午後のチェコフィルのコンサートのみである。
パベル夫妻とアパートを出て10分足らず歩き、トラムの停車場に着く。そばに大きな教会があった。
「なんと言う教会?」「知らない」
プラハ近郊に生まれたのになんで知らんのかい。ぼくが不服そうな顔をしたからか、パベルは門のところまで走って行ったけれど、分からなかったみたい。考えてみれば、ぼくだって、京都で外人に「このお寺なんという名?」と聞かれて、どれだけ答えられるだろうか。ちょっと気の毒な気がした。
ガイドしてくれるパベル達が選んだのは、トラムでカレル橋の一つ上流の橋の袂まで行き、橋を渡ってからモルドウ川の左岸を下流に向かって歩き、それからカレル橋を渡るという周回コースをにしたようである。
橋を渡ってモルドウ川左岸を行くここ旧市街側の川沿いは、公園風になっていて家屋やレストランもある。その壁がかなりの高さまで変色している。何年か前の洪水の時の浸水の跡だという。そういえばその頃、バペルから義援金の要請メールがきて、知り合いに転送配信したことがあったのを思い出した。
カレル橋は例によって世界中からの観光客でおおいに混雑雑踏している。両側には似顔絵描き、大道音楽芸人などが隙間なく並んでいる。
パベルが突然「ナオキ、あれを撮れ」というので見ると、なるほど絵になりそうなじいさんが座っていた。カメラを向けると「ノー、ノー」といいながら、腕で顔を隠してしまう。隙をうかがってシャッターを押そうとするが、その瞬間を目ざとく察知してしまう。
パベルが「カメラを貸して」とぼくのカメラを持って引き返し、人ごみに隠れて写そうとしたが、やっぱり駄目だったようである。
カレル橋を渡り終えしばらく行くと、ドボルザーク・ホールのある「芸術家の家」に着いた。ここで、午後三時からの、チェコフィルを聴くことになっている。
ともがインターネットで買ったチケットは二階の最後列で余りよい席とは思えなかった。パベルに頼んで、いい席を手に入れてもらおうと思っていた。
ぼくはプラハに来るたびに、オーケストラやオペラあるいは演劇等を楽しむことにしているのだが、切符の手配をしてくれるのはいつもパベルだった。それも当日の開演直前。
「君は隠れていて、その柱の陰に」
そういうと彼はそこここに立っているダフ屋と交渉を始めるのが常であった。
話はなかなかまとまらない。どんどん時間が経って行く。時にはもう一人のダフ屋が割り込んで来たりする。そして、話がまとまるのは、いつも開演の5分前くらいなのである。そして、いつも値段は大体半額くらいになっていた。
パベルは切符を見て、「いい席だよ。換える必要はないのではないか」という。
インターネットで買ったチケットは、1600円くらい。あんまり安いのでよくない席だと思ったのは、早とちりだったようである。今残っている席は最前列のみで、それは止めた方がいいとポーリンもいった。
パベルは、近くのホテルで人と会う予定があると言う。その男は、彼と会うためにはるばるブルーノからやって来た。
「難しい話で、その男は怒り狂っているから、後で会うときにはぼくの顔には青あざが出来ているかもしれないよ」と、パベルは半分真顔で言って去った。
ぼく達とポーリンは、ドボルザーク・ホールのあるビル「芸術家の家」の中にある喫茶室でお茶を飲んだ。
ほとんど満席の会場。高齢者が圧倒的の多い。演奏が始まった。
曲目は、スメタナの交響詩「チェコの森と牧場から」とチャイコフスキー「シンフォニーNo.4」
チェコ・フィルの音は、いかにもという感じの硬質で冷たい感じの音のような気がした。まったく耳に優しくないような感じの音を聞きながら、ぼくは居眠りを楽しんだ。
先日の京都祇園甲部歌舞練場での都をどりでもぼくはよく眠ったが、そういうなのは最高の贅沢だと、ぼくは思っている。
いい天気。窓の外のビルの隙間から青空がのぞく。
9時頃と言ってあったが、寝坊してパベルのアパートに行ったのは10時半だった。ホテルのすぐそば50メートルと離れないところにパベルのアパートがある。
このアパートには妻の秀子と泊まったことがあったのを思い出した。あの時に比べると部屋の絵画の数がうんと増えているという気がした。パベルの父親のパボルが生前に買い足したのだろう。部屋という部屋の壁は、絵画で埋め尽くされているという感じ。
父親パボルは有名な脳外科医であったが、パベル達子供2人を連れて、チェコからオランダに亡命した。オランダの大学では、日本の東海大学からの医学留学生を指導していたと聞いた。母親も脳外科の学者で、パベルは学者夫婦の子供ではあるが、なぜかまったく違った方面の道を進んでいる。
アムステル大学からロッテルダム大学大学院、この頃バンコックでぼくと知り合うのだが、ここを出てKLMオランダ航空社長の秘書になる。数年で止めて、KLMソフトウェアのセールス員として後進国に売り歩く。
ヘッドハンティングされてABMアムロ銀行の副頭取に。ここも数年で止めて、今度は廃棄物処理・リサイクル会社で働いている。町のし尿処理から産廃処理、核廃棄物処理までを扱うという。
ところで、部屋に掛けてある絵のうち一番興味を持ったのを載せておく。何を描いたものなのかを聞こうと思っていたが、忘れて聞きそびれてしまった。
朝食というかブランチを用意してくれていたが、ぼくはまず持参した鯖寿しを食することにした。外国への到着が夜遅くなる時には、いつも鯖寿しを持って行くことにしている。竹の皮で巻いた鯖寿しは日持ちするしどこでも食べられ重宝する。
パベルも美味しいといって3切れも食べた。
今日の予定は、午後のチェコフィルのコンサートのみである。
パベル夫妻とアパートを出て10分足らず歩き、トラムの停車場に着く。そばに大きな教会があった。
「なんと言う教会?」「知らない」
プラハ近郊に生まれたのになんで知らんのかい。ぼくが不服そうな顔をしたからか、パベルは門のところまで走って行ったけれど、分からなかったみたい。考えてみれば、ぼくだって、京都で外人に「このお寺なんという名?」と聞かれて、どれだけ答えられるだろうか。ちょっと気の毒な気がした。
ガイドしてくれるパベル達が選んだのは、トラムでカレル橋の一つ上流の橋の袂まで行き、橋を渡ってからモルドウ川の左岸を下流に向かって歩き、それからカレル橋を渡るという周回コースをにしたようである。
橋を渡ってモルドウ川左岸を行くここ旧市街側の川沿いは、公園風になっていて家屋やレストランもある。その壁がかなりの高さまで変色している。何年か前の洪水の時の浸水の跡だという。そういえばその頃、バペルから義援金の要請メールがきて、知り合いに転送配信したことがあったのを思い出した。
カレル橋は例によって世界中からの観光客でおおいに混雑雑踏している。両側には似顔絵描き、大道音楽芸人などが隙間なく並んでいる。
パベルが突然「ナオキ、あれを撮れ」というので見ると、なるほど絵になりそうなじいさんが座っていた。カメラを向けると「ノー、ノー」といいながら、腕で顔を隠してしまう。隙をうかがってシャッターを押そうとするが、その瞬間を目ざとく察知してしまう。
パベルが「カメラを貸して」とぼくのカメラを持って引き返し、人ごみに隠れて写そうとしたが、やっぱり駄目だったようである。
カレル橋を渡り終えしばらく行くと、ドボルザーク・ホールのある「芸術家の家」に着いた。ここで、午後三時からの、チェコフィルを聴くことになっている。
ともがインターネットで買ったチケットは二階の最後列で余りよい席とは思えなかった。パベルに頼んで、いい席を手に入れてもらおうと思っていた。
ぼくはプラハに来るたびに、オーケストラやオペラあるいは演劇等を楽しむことにしているのだが、切符の手配をしてくれるのはいつもパベルだった。それも当日の開演直前。
「君は隠れていて、その柱の陰に」
そういうと彼はそこここに立っているダフ屋と交渉を始めるのが常であった。
話はなかなかまとまらない。どんどん時間が経って行く。時にはもう一人のダフ屋が割り込んで来たりする。そして、話がまとまるのは、いつも開演の5分前くらいなのである。そして、いつも値段は大体半額くらいになっていた。
パベルは切符を見て、「いい席だよ。換える必要はないのではないか」という。
インターネットで買ったチケットは、1600円くらい。あんまり安いのでよくない席だと思ったのは、早とちりだったようである。今残っている席は最前列のみで、それは止めた方がいいとポーリンもいった。
パベルは、近くのホテルで人と会う予定があると言う。その男は、彼と会うためにはるばるブルーノからやって来た。
「難しい話で、その男は怒り狂っているから、後で会うときにはぼくの顔には青あざが出来ているかもしれないよ」と、パベルは半分真顔で言って去った。
ぼく達とポーリンは、ドボルザーク・ホールのあるビル「芸術家の家」の中にある喫茶室でお茶を飲んだ。
ほとんど満席の会場。高齢者が圧倒的の多い。演奏が始まった。
曲目は、スメタナの交響詩「チェコの森と牧場から」とチャイコフスキー「シンフォニーNo.4」
チェコ・フィルの音は、いかにもという感じの硬質で冷たい感じの音のような気がした。まったく耳に優しくないような感じの音を聞きながら、ぼくは居眠りを楽しんだ。
先日の京都祇園甲部歌舞練場での都をどりでもぼくはよく眠ったが、そういうなのは最高の贅沢だと、ぼくは思っている。
プラハに着く
アムステルダム〜プラハは、SkyEuropeという新しい会社を使うことにした。飛行時間は2時間なのだが、特別のディスカウントで運賃はひどく安く、たったの4700円なのである。
チェックインで、エクセスを請求される。5キロのオーバーだと言う。
日本からアムスまでのKLMでは、何も言われなかったぞ。なんとか通してくれないか、と粘ったが駄目だという。「分かった、ではディスカウントしてくれ」
「いえいえ、もう運賃で充分ディスカウントしていますよ」と、まったく取りつく島もない。
まあこれで普通並みの料金になったのかと、納得せざるを得なかった。
搭乗ゲートは、とてつもなく離れたところで、おまけにキャリーも備えてない。これが同じスキポール空港なのかとあきれてしまった。
約1時間半のフライトでプラハ空港に着いたのは、夜の11時だった。
「無理かもしれないけど、空港に着いたらとにかく電話してくれ。迎えに行くから」と言って来ていたパベルだったが、電話したらもう来ているという。
久しぶりの再会。元気そうである。
会社に買わせたという新しいボルボを、パベルはまるでバイクのように運転して、15分くらいで宿に着いた。
Residence Belgickaというヨーロッパスタイルのホテルのようなアパートである。奇麗で上質の案内誌によると、mamaisonという会社の経営で、チェコ、ポーランド、ハンガリー、スロバキアなど8カ所以上に高級ホテルのチェーンを持っているという。
4・5階建てのビルが建ち並ぶ住宅街の道路角にあるホテルの入り口で、荷物を下ろしていると、道の反対側からポーリンが駆け寄って来た。
明るい街灯に照らされて、ポーリンは今も美しくて若々しかった。彼女は汽車でやってきたという。
200キロ離れた隣町のブルーノから、穴ぼこだらけの道を走って来たパベルは、かなり疲れていると思われた。
部屋までやって来て、「もうすぐ寝るなら帰るけど、外でいっぱいやるかどうかは君の判断だよ」というので、「ではちょっとだけ」と答えた。
「じゃあロビーで待ってる」
夜半を過ぎた通りを数分歩いて、そこここにあるバーの一軒に入った。店のスタッフたちがパベルに話しかけている。久しぶりですね、元気ですかなどと言っているのだろう。
生ビールを注文、ポーリンはジントニックで久方ぶりの再会に乾杯。
チェックインで、エクセスを請求される。5キロのオーバーだと言う。
日本からアムスまでのKLMでは、何も言われなかったぞ。なんとか通してくれないか、と粘ったが駄目だという。「分かった、ではディスカウントしてくれ」
「いえいえ、もう運賃で充分ディスカウントしていますよ」と、まったく取りつく島もない。
まあこれで普通並みの料金になったのかと、納得せざるを得なかった。
搭乗ゲートは、とてつもなく離れたところで、おまけにキャリーも備えてない。これが同じスキポール空港なのかとあきれてしまった。
約1時間半のフライトでプラハ空港に着いたのは、夜の11時だった。
「無理かもしれないけど、空港に着いたらとにかく電話してくれ。迎えに行くから」と言って来ていたパベルだったが、電話したらもう来ているという。
久しぶりの再会。元気そうである。
会社に買わせたという新しいボルボを、パベルはまるでバイクのように運転して、15分くらいで宿に着いた。
Residence Belgickaというヨーロッパスタイルのホテルのようなアパートである。奇麗で上質の案内誌によると、mamaisonという会社の経営で、チェコ、ポーランド、ハンガリー、スロバキアなど8カ所以上に高級ホテルのチェーンを持っているという。
4・5階建てのビルが建ち並ぶ住宅街の道路角にあるホテルの入り口で、荷物を下ろしていると、道の反対側からポーリンが駆け寄って来た。
明るい街灯に照らされて、ポーリンは今も美しくて若々しかった。彼女は汽車でやってきたという。
200キロ離れた隣町のブルーノから、穴ぼこだらけの道を走って来たパベルは、かなり疲れていると思われた。
部屋までやって来て、「もうすぐ寝るなら帰るけど、外でいっぱいやるかどうかは君の判断だよ」というので、「ではちょっとだけ」と答えた。
「じゃあロビーで待ってる」
夜半を過ぎた通りを数分歩いて、そこここにあるバーの一軒に入った。店のスタッフたちがパベルに話しかけている。久しぶりですね、元気ですかなどと言っているのだろう。
生ビールを注文、ポーリンはジントニックで久方ぶりの再会に乾杯。
プラハからリモネット 2008春
2008年のゴールデンウィーク、いつものリモネットに行きました。
いつもと違って12日間という短い期間の旅でした。
まずは久しぶりにプラハを訪れ、パベル夫妻との旧交を温めることが出来ました。
1.プラハへ〜アムステルダムでの道草〜
2.プラハに着く
3.チェコ・フィルを聴く
4.カレル王の王冠
5.パリ経由ニースからリモネット
6.リモネーゼとクネーゼ
7.リモーネの人々
8.歯医者カンタ・カルロ先生
9.イプシロンのルーフキャリー
10. ルーフキャリー、遂にゲット!
いつもと違って12日間という短い期間の旅でした。
まずは久しぶりにプラハを訪れ、パベル夫妻との旧交を温めることが出来ました。
1.プラハへ〜アムステルダムでの道草〜
2.プラハに着く
3.チェコ・フィルを聴く
4.カレル王の王冠
5.パリ経由ニースからリモネット
6.リモネーゼとクネーゼ
7.リモーネの人々
8.歯医者カンタ・カルロ先生
9.イプシロンのルーフキャリー
10. ルーフキャリー、遂にゲット!
プラハへ〜アムステルダムでの道草〜
チェコに行くのは、4年ぶりである。
あれは、2003年の夏のことで、イタリアのピエモンテからルノーのカングーでハイウェーをすっ飛んで、ウィーンへ。ウィーンから100キロのブルーノまでを往復した。(この時の記事は高田直樹ドットコムの「イタリア旅行記(2003年夏)」参照)
ブルーノはプラハの東南200キロの町である。オーストリア国境に近く、ウィーンから100kmの距離にある。この記事にあるように旧友のパベルがオランダからここに移転して来たので、彼に会いに行った訳である。
今回のヨーロッパ行きでは、イタリアに行く途中に、ベルギーのブリュッセルに寄り道してムール貝でも堪能しようと考えていた。
ところが、ブルーノのパベルが、もしかしたら来年アムステルダムに戻るかもしれないと報せて来た。それを聞いたともが、「パベルがいる間にぜひプラハに行きたい。わたし行ったことないから」といいだした。ムール貝は諦めてプラハに向かうことになった。
プラハに行くのは、息子の結婚式以来のこと。ぼくがパベルの助力を得て息子の結婚式をプラハの旧市庁舎(あの天文時計のあるところ)で挙げたのは、京都市がプラハと姉妹都市を結ぶ前年だったから、1995年のこと。ということは、なんと13年ぶりのことなのである。
パベルに連絡すると、夫婦でプラハ市内に所有するアパートまで先行して待っていてくれるという。このアパートには、これまでに二回ほど泊まったことがあった。でも今回のわれわれの泊まりは、そのアパートから50メートルも離れていないところにある〈Residence Belgicka〉というキッチン付きの宿を予約してくれたという。
前日のKLM便がエンジントラブルでキャンセルになったとかで、関空発アムステルダム行きの便はほぼ満席だった。そして珍しいことに予定より1時間も早くスキボール空港に着いた。
乗り継ぎのプラハ行きの便は夜の10時。4時間以上も時間があるので、汽車で町に出ることにして、アムステルダム中央駅までの切符をかった。
中央駅からメインストリートを少しばかり行き、裏道に入る。運河に面した通りが、いわゆる飾り窓の女のいる道筋である。
バンコックでパベルと出会った翌年、ぼくは70歳半ばを越えた母親を連れて、ヨーロッパを旅した。もう20年も前のことだったろうか。
ロンドンに入り、そこからアムステルダム、バリ、ベニス、ローマと各所2・3泊づつする2週間の旅だった。なかでも特筆すべきはパリ〜ベニス間の、オリエンタル急行に乗ったことである。車中1泊する旅であるが、切符はなんと17万円であった。
JALに乗務し始めたばかりの娘の美奈が、パリで合流出来るというので、最高の<客あしらい>を学ぶためには乗るべきだと説得して、一緒することになった。
車掌は、どう勘違いしたのか、娘にぼくのことを「ユアハズバンド」と言うので、美奈は必死で「ノー、マイファーザー」と何度言っても、またしても「ユアハズバンド」を繰り返したようだ。きっと東洋の金持ちが、若い奥さんを貰いその母親も一緒で旅していると思い込んだのだろう。
アムステルダムでは、学生のパベルがエスコートしてくれた。夜、母親をホテルに残して、ぼくとバベルは夜の街に出た。「飾り窓の女」は、どのガイドブックにも書いてあった通り、写真撮影は御法度である。
パベルは、「大丈夫、大丈夫。写しなさいよ」という。
飾り窓の入り口には、大体一人の男の用心棒が立っている。その何人かとパベルは親しげに声をかけ合っている。驚いたことに、みんな高校時代のクラスメートなのだそうだ。
写真を写しているのに気付いた女が、大きな叫び声をあげて飛ぶ出してくると、ぼく達は、「逃げろ」と走った。こんなことを数回繰り返したら、パベルが「これくらいにしておいた方が身のためだ」といった。
そんな昔の思い出を懐かしみながら運河沿いをたどって行くと、面白い公衆トイレがあった。実にユニーク。かつて空港トイレの便器に描かれた蠅に感心したものであったが、この便器にも感心してしまった。
運河沿いの道を右にそれて行くと、ホテル・クラスノポリスキーの前に出る。そこからはダム広場が見渡せた。ダム広場は、アムステルダムの中心ともいえ、いつものように観光客が群れていた。
ここからローキンの通りを道沿いに商店に沿って歩いて行くと、時々行くパリのマキシムの支店のレストランがあった。例によって入り口には白アスパラが束ねて置いてある。一気の食欲をそそられてしまった。
お目当てのシガー専門店の「ハニエス」は、ほんの50メートル先である。とりあえずここでアスパラを食べようと、外のテーブルに座り「アスパラのオムレツ」と白ワインを注文した。
エスプレッソを飲みながらシガーを楽しんだりとゆっくりしすぎたのが失敗だった。たどり着いた直ぐ先の「ハニエス」は閉まっていた。6時閉店。30分遅れだった。
戻りも汽車にしようと、中央駅行きの市電に飛び乗った。中には切符販売機がない。いつもの伝でただ乗りで駅に着き、空港に戻った。
あれは、2003年の夏のことで、イタリアのピエモンテからルノーのカングーでハイウェーをすっ飛んで、ウィーンへ。ウィーンから100キロのブルーノまでを往復した。(この時の記事は高田直樹ドットコムの「イタリア旅行記(2003年夏)」参照)
ブルーノはプラハの東南200キロの町である。オーストリア国境に近く、ウィーンから100kmの距離にある。この記事にあるように旧友のパベルがオランダからここに移転して来たので、彼に会いに行った訳である。
今回のヨーロッパ行きでは、イタリアに行く途中に、ベルギーのブリュッセルに寄り道してムール貝でも堪能しようと考えていた。
ところが、ブルーノのパベルが、もしかしたら来年アムステルダムに戻るかもしれないと報せて来た。それを聞いたともが、「パベルがいる間にぜひプラハに行きたい。わたし行ったことないから」といいだした。ムール貝は諦めてプラハに向かうことになった。
プラハに行くのは、息子の結婚式以来のこと。ぼくがパベルの助力を得て息子の結婚式をプラハの旧市庁舎(あの天文時計のあるところ)で挙げたのは、京都市がプラハと姉妹都市を結ぶ前年だったから、1995年のこと。ということは、なんと13年ぶりのことなのである。
パベルに連絡すると、夫婦でプラハ市内に所有するアパートまで先行して待っていてくれるという。このアパートには、これまでに二回ほど泊まったことがあった。でも今回のわれわれの泊まりは、そのアパートから50メートルも離れていないところにある〈Residence Belgicka〉というキッチン付きの宿を予約してくれたという。
前日のKLM便がエンジントラブルでキャンセルになったとかで、関空発アムステルダム行きの便はほぼ満席だった。そして珍しいことに予定より1時間も早くスキボール空港に着いた。
乗り継ぎのプラハ行きの便は夜の10時。4時間以上も時間があるので、汽車で町に出ることにして、アムステルダム中央駅までの切符をかった。
中央駅からメインストリートを少しばかり行き、裏道に入る。運河に面した通りが、いわゆる飾り窓の女のいる道筋である。
バンコックでパベルと出会った翌年、ぼくは70歳半ばを越えた母親を連れて、ヨーロッパを旅した。もう20年も前のことだったろうか。
ロンドンに入り、そこからアムステルダム、バリ、ベニス、ローマと各所2・3泊づつする2週間の旅だった。なかでも特筆すべきはパリ〜ベニス間の、オリエンタル急行に乗ったことである。車中1泊する旅であるが、切符はなんと17万円であった。
JALに乗務し始めたばかりの娘の美奈が、パリで合流出来るというので、最高の<客あしらい>を学ぶためには乗るべきだと説得して、一緒することになった。
車掌は、どう勘違いしたのか、娘にぼくのことを「ユアハズバンド」と言うので、美奈は必死で「ノー、マイファーザー」と何度言っても、またしても「ユアハズバンド」を繰り返したようだ。きっと東洋の金持ちが、若い奥さんを貰いその母親も一緒で旅していると思い込んだのだろう。
アムステルダムでは、学生のパベルがエスコートしてくれた。夜、母親をホテルに残して、ぼくとバベルは夜の街に出た。「飾り窓の女」は、どのガイドブックにも書いてあった通り、写真撮影は御法度である。
パベルは、「大丈夫、大丈夫。写しなさいよ」という。
飾り窓の入り口には、大体一人の男の用心棒が立っている。その何人かとパベルは親しげに声をかけ合っている。驚いたことに、みんな高校時代のクラスメートなのだそうだ。
写真を写しているのに気付いた女が、大きな叫び声をあげて飛ぶ出してくると、ぼく達は、「逃げろ」と走った。こんなことを数回繰り返したら、パベルが「これくらいにしておいた方が身のためだ」といった。
そんな昔の思い出を懐かしみながら運河沿いをたどって行くと、面白い公衆トイレがあった。実にユニーク。かつて空港トイレの便器に描かれた蠅に感心したものであったが、この便器にも感心してしまった。
運河沿いの道を右にそれて行くと、ホテル・クラスノポリスキーの前に出る。そこからはダム広場が見渡せた。ダム広場は、アムステルダムの中心ともいえ、いつものように観光客が群れていた。
ここからローキンの通りを道沿いに商店に沿って歩いて行くと、時々行くパリのマキシムの支店のレストランがあった。例によって入り口には白アスパラが束ねて置いてある。一気の食欲をそそられてしまった。
お目当てのシガー専門店の「ハニエス」は、ほんの50メートル先である。とりあえずここでアスパラを食べようと、外のテーブルに座り「アスパラのオムレツ」と白ワインを注文した。
エスプレッソを飲みながらシガーを楽しんだりとゆっくりしすぎたのが失敗だった。たどり着いた直ぐ先の「ハニエス」は閉まっていた。6時閉店。30分遅れだった。
戻りも汽車にしようと、中央駅行きの市電に飛び乗った。中には切符販売機がない。いつもの伝でただ乗りで駅に着き、空港に戻った。
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