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野田万次郎先生追悼文

 ぼくの発案で、大学時代の恩師野田先生の追悼文集を作ることになり、それに載せるために書いた文です。

野田先生の思い出
 考えてみれば、ぼくは大学の教授と学生との会話として、今では信じられないようなやり取りをしていたものだ。そんな気がしています。それは古きよき時代の牧歌的雰囲気の大学だったからなのか。
 野田先生とのやり取りの記憶で最初のものは、多分教養実験に関するものだったと思います。

 日本が高度成長に向かい始めた頃、おんぼろ校舎で学ぶ私たち西京大学農芸化学科教養課程の学生には、各講座の実験が課せられます。栄養科学、生物化学、土壌肥料、醸造発酵などの講座をへめぐりながら、それぞれの講座の特徴を知り選択の資とするという意味だったと思います。
 そこで、生物化学での実験テーマは「アミノ酸のペーパークロマトグラフィー」というものでした。
 試料のアミノ酸は、各自の毛髪を加水分解して得るのだそうです。還流冷却器をつけた装置での加水分解には、24時間以上数日かかるという説明でした。
 ぼくは、野田教授の部屋に行き「せんせい、試料のアミノ酸は毛髪から得ないといけないのですか」と聞きました。先生は、
 「そ、そらなんでもかめへんねけど」とおっしゃいました。
 ぼくは、その時なんかアミノ酸を含むのアンプルでも使ってやろうと考えていましたから、これで言質はとったと内心で思ったのです。でも、このアミノ酸のアンプルは何がよかろうか、ダダではないし、もっと安いものはないかと考え、思いついたのは学生食堂のうどんの汁でした。これなら「おばちゃん、ちょっとうどんのだし頂戴な」で、いくらでももらえる。
 脱塩処理をするのに少々工夫が要りました。でも、ともかく綺麗に縞状に発色したペーパークロマトの紙を持って野田先生のところに行ったのは、たしか2日後だったと思います。ほかのみんなは、まだ加水分解中でした。
 野田先生は、しばらくそれを眺めていましたが、「なんでやってん」とたずねられ、ぼくが「うどんの汁です」というと、「ほんまに要領のええやっちゃな」と少々苦々しげにおっしゃったように思いました。
 あとで折に触れて伺ったことなのですが、先生は学者は職人であれというのが持論であったように思います。おそらくそうした親方という観点から見れば、ぼくはかなりけしからぬ弟子であったのだと思われます。
 卒論のテーマとして与えられたのは、「脂肪酸の簡易ペーパークロマトグラフィー」というものでした。通常半日から一日かかる展開時間を短縮する方法を見つけるというものです。
 方法論の開発というものは試行錯誤を繰り返しながら進むものです。先生は、いろいろと方法についてのアドバイスをくださいました。
 今、ある段階から次のステップに進むのに4つの方法が考えられたとする。その時ぼくは、もっとも可能性が高いものからやろうとします。でも先生は、もっとも可能性の低いものからやることを薦めているのではないか。ぼくにはそんなに感じられました。
 「そんなのやっても駄目に決まってます」「やってもみんとなんで分かるんや」
というようなやり取りが何度も繰り返されたように思います。
 一度ぼくが「あかんと分かってるもんは、やりません」と言い切ったので、怒った先生は声を荒げて、「分かった。君がやらんのやったらぼくがやる」そういって部屋を出て行かれたこともありました。
 今にして思えば、まさに盲目へびで、偉い学者の先生に言いたい放題、まさに汗顔の至りの極みみたいな話です。このテーマは、「油脂化学」とかいう雑誌に載ったということを、だいぶ後で知りました。

 大学を卒業して何年かした後のこと。
 ぼくは、結婚することになり、先生に仲人をお願いしようと大学を訪れました。仲人を頼むのなら野田先生以外は考えられない、得意の一人合点で勝手にそう決め込んでいたのです。
 仲人はしないことに決めている。これまでもみんな断ってきた。そういう話でした。
 一向にぼくが諦めようとしないので、先生は逆襲に転じられたようでした。
 「おまえ、わしに仲人頼んで旧悪の口封じをしょうと思てるんとちがうか」「なんですか、それ」「いや、わしもいろいろ聞いてるで」
 なんぼいうても引き受けられん。諦めたほうがいいという先生に、しばらく考えてからぼくはこう尋ねました。
 「ところで、先生はどなたに仲人してもらはったんですか」
 「そら、おまえ、部屋の教授やがな」
という予想通りの答えが返ってきました。
 「先生、先生がお願いされたと同じ理由でぼくは先生にお願いしているんですが」
 しばしの沈黙の後、承諾の返事を得ることができたのでした。
 でも、ぼくより少し前に寺田氏がお願いしに来ていたそうです。すでに断ったんだけれど、君だけ受けるという話にはできんからということで、ぼくは野田先生の2回目の仲人をお願いしたことになったのでした。
 そのうちに子供をつれて、一家五人でお宅にご挨拶に伺いたいと折に触れて思いつつ長い年月が経ってしまいました。
 思い返せば、自由で奔放で、充実していながらなにか怠惰でもあった、あの私にとっての黄金の日々にあって、もっとも強い影響を与えて下さったのは、野田先生でした。その先生といま幽明界を異にすることになって、なお茫漠とした思いにとらわれています。

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