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監督岩の由来〜「点の記」木村監督との出合い〜

点の記.jpg 乗越はこの時期にしてはえらく混雑していた。「点の記」と記した幟を持っている人が居り、撮影隊の大グループだと知れた。到着して休んでいるぼく達にやって来た撮影隊の一人が、映画「点の記」の宣伝パンフレットを手渡してくれた。彼らも劔澤小屋に入るらしかった。
 別山乗越でしばらく休憩して、眼下に見える劔澤小屋を目指して下る。最初の水平のトラバースして岩場のルートをくだり、劔沢・真砂の大滝で遭難死した富山大の地質学者、石井逸太郎博士の遭難碑を過ぎると、道はやや平坦となる。
 突然、「こんにちは。いやあ、ここからの眺めは素晴らしい」という声が聞こえた。見ると男が一人、道の左手下方に寝そべっている。「いやあんまり寝心地の良さそうな岩があったのでねぇ」と一人べらべらしゃべりかけてくる。なるほど男は、平らな長方形の岩の上に横たわっていた。

 「気持ち良さそうですね。天気もいいし」とぼくは返した。「この辺りは、三田平といいましてね」と説明してくれたが、この人三田平という名前の由来を知っているのかしらと思った。それに、三田平はもう少し下である。
 木村大作.jpg この人が、あの「点の記」の映画監督・木村大作と知れたのは、劔澤小屋に着いてからのことである。彼とは、小屋の食堂でまた会い、しばらく話しをする機会があった。山の映画を撮る監督はみんなそうなのかもしれないが、極めて活発活動的な人と思えた。
 話しの後に、面白い話を聞かせて頂いて楽しかったですと言うと、彼は「いやぁ、先生の話は、びんびん胸に来ましたよ」と返した

劔澤小屋集合写真.jpg その日、長駆雷鳥平から劔岳に登頂した井川君達府大山岳会のロートル一同は、ヘッドランプに助けがいる頃になってようやく、元気で小屋に帰り着いた。ずっとぼくは、本当に心配だった。もし、たいしたことがなくても、なにかことが起これば、きっと「タカダナオキが付いとりながら」と言われるに決まっている。
 彼らが帰り着いたとき、ほっとして、帳場の友邦に「いやよかった。なんかあったら、ぼくが付いとりながらと、きっと言われる」といった。すると友邦は、間髪入れず「オレが真っ先に言うちゃぁ」といった。
 翌朝、慌ただしく下山する一行と一緒に集合写真を撮った。

監督岩.jpg 4日後、みんなと別れて小屋に居残っていたぼくと関田は、先に帰る野尻を送って劔沢を登った。あの木村大作氏が寝そべっていた岩のところに来た時、ぼくは興味に駆られて、同じように寝そべってみた。あの時と同じようによい天気だった。
 なんともいい気持ち。劔が眼前に大きく広がって見えた。なるほど素晴らしい展望岩、展望ベッドではないか。
 ぼくはこの岩を「監督岩」と名付けることにした。
 
 小屋の人たち、昔と変わらず親切であった。記憶にあった幼稚園児の新平君は、素敵な若者に成長し、結婚もしていた。
 むかし、文蔵さんは、息子の友邦を評して、「友邦はほんとにお客さんのことを親身に心配する。オレはだから小屋のことはあいつに任せられる」とぼくに語ったことがあった。
 新平君にもこの同じことが引き継がれているように感じられた。

 5日間の滞在の後、ぼくと関田は、下山することにした。
 下山して行きたいところが二つあった。友邦の弟の徹が、番場島山荘の管理人をやっているので、そこに行きたいと思ったのである。それに、芦峅部落の栄治さんにも会いたかった。
 栄治さんは、第一回南極観測隊の設営隊員として参加した芦峅ガイドの一人で、芝ヤンの荼毘に一緒に東大谷をくだった人である。最近授勲を受けている。
 芦峅は電車で行けるが、馬場島には交通の便はない。ぼくは、家に電話して、秀子に車を持って来るように依頼した。

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