リカルド・カシンの訃報
1987年、78歳でピッツ・パディレーを攀るカシン
(パキスタン山岳会から、リカルド・カシンの訃報が届いた。イギリスのTelegraph紙からの転載らしかった。我が国のブログには、あまり詳報がないので、ここに載せることにした。
Riccardo Cassin, who has died aged 100, was one of the most prolific mountaineers of the 20th century, with 100 first-time ascents among his 2,500 climbs; he also became one of Italy's leading makers of climbing equipment through his internationally-known Cassin brand.
(リカルド・カシンは100歳で亡くなった。彼は、攀った2500のルートのうち100が初登攀という20世紀に於ける最も多産なクライマーの一人であった。それのみならず、カシンブランドという世界的に知られるイタリアの登攀用具の一流メーカーでもあった)
カシンは80代半ばになっても攀っていた。60年以上に及ぶキャリアー、アルプス、ヒマラヤや南・北アメリカで多くの挑戦的なルートを登り、それらのルートはいまもってクライマーのスキルと大胆さを計るベンチマークとなっている。彼の登攀の大部分は、ボルトや特殊なブーツを使わず、自家製のピトン、麻で編んだザイル、工業的な使用に向いた鉄のカラビナなどを使ってなされた。
リカルド・カシンは1909年の1月2日、北イタリアのポルデノン地方の小作農の家庭に生まれた。リカルドが3歳の時、彼の父はカナダに移民し、そこの鉱山事故で死んだ。そして残された12歳の少年は鍛冶屋で働いた。17歳の時、コモ湖のそばのLeccoに移り、そこの製鉄所で仕事を得た。彼が最初に好きになったのはボクシングだった。しかし直ぐに、コモ湖とガルダ湖にかぶって聳える山々に熱中するようになった。
彼の最初の登攀は、Monte ResegoneとTorre Triesteのもので、自分等のことをla Nova Italia(イタリアの新星)と呼んでいたグループー彼らは後にRagni di Lecco(the Lecco Spidersレッコの蜘蛛)として知られるようになるーの人たちと一緒だった。
カシンと友人ビットリオ・ラッティは、1935年ドロミティのラヴァレド(Lavaredo)西峰に初登した時、そのあたりで名を知られるようになった。2年後、ラッティとジーノ・エスポジトが不可能と見ていたスイスアルプスのピッツ・パディレーで国際的な名声を得ることになった。
レッコの三人の男達は、コモからのイタリア人のライバルペアーに偶然に出会って合流した。凄まじい嵐で雨が降り、雪となり落石が多かった。5人のクライマーは、頂上に達するために協力して実力を振り絞った。コモから来た二人は、カシンと二人の友人たちが担ぎ降ろそうとしたが、疲労して死んだ。
このレッコの男が取ったルートは現在、カシンルートとして知られている。
1938年、カシンはエスポジト(Esposito)とウゴ・ティッツォーニ(Ugo Tizzoni)と組んで、アイガー北壁を狙うことにした。それは、ドイツ人の二人とオーストリア人の二人が北壁をやっつけ、これを知ったヒトラーが「支配者民族」の完璧なサンプルとして、4人にとってはきまり悪かったろうが、パレードさせたことを知っただけだった。
がっかりして、3人のイタリア人は視線をモンブラン山塊グランドジョラス北壁のウォーカー稜(Walker Spur)に向けた。彼らはそこに向かったが、不安定な天候のため、山中で82時間を要した。
第二次大戦が勃発した時、カシンは軍需工場に徴用された。しかし彼は直ぐにパルチザンとの繋がりを作り、ムッソリーニ軍と占領しているナチス軍の両方を相手に、レジスタンス細胞と連携しながら登攀技術を使って戦った。彼の最良の友で登攀仲間のヴィットリオ・ラッティは、彼のそばでドイツ軍に撃たれてレッコで死んだ。
1947年、カシンはデザインと登山用具の作製を始め、ピトン、ハンマー、アイス-アックスそしてハーネス、そして後には羽毛服などの衣服装備を作った。それは、競争が激しくなって1997年には昔からの競争相手のCAMPに身売りすることになったけれど、大変成功したブランドとして今に残っている。
中年のカシンは、いくつかの国際遠征登攀隊を率いている。しかし彼は、1945年の世界第2の処女峰K2への登頂を目指した隊に呼ばれなかったことに落胆した。4年後、パキスタンにあるガッシャブルムⅣの初登頂を目指す隊を率いた。彼自身登頂することはなかったけれど。
1961年、52歳のカシンは、北アメリカの最高峰のアラスカ・マッキンレー峰への技術的に困難なルートー現在カシンリッジとして知られるーからの初登頂者として、ジョン・F・ケネディー大統領からの祝電を受けた。1984年、78歳の時、初登頂50周年として、ピッツ・パディレーに再登攀した。このイベントにメディアが疑いを持っているのを知って、彼は写真で証明するため一週間後に再び攀った。
リカルド・カシンは、Commendatore della RepubblicaやGrande Ufficiale della Repubblicaを含むいくつもの栄誉賞を受けている。
彼は、レッコの近くのピアニレシネーリ(Piani Resinelli)で8月6日に没した。1940年に結婚した妻のイルマは先立ったので、3人の息子が彼の世話をしていた。
(2009年8月10日)
(以下が原文です。誤訳があれば、遠慮なくご指摘ください)
Riccardo Cassin
Riccardo Cassin was born into a peasant family at San Vito al Tagliamento, in northern Italy's Pordenone province, on January 2 1909. When Riccardo was three his father emigrated to Canada, where he died in a mining accident, and the boy left school at 12 to work for a blacksmith. At 17 he moved to Lecco, by Lake Como in the Lombardy region, where he found a job at a steel plant. His first love was boxing, but he soon became fascinated by the mountains that tower over Lake Como and Lake Garda.
His first climbs were Monte Resegone and the Torre Trieste, alongside a group of friends from Lecco who called themselves la Novl celebrity in 1935 when they became the first climbers to reach the western summit of the Lavaredo, in the Dolomites. Two years later came international fame, when he, Ratti and Gino Esposito took on what appeared to be the impossible Piz (or Pizzo) Badile in the Swiss Alps.
The three friends from Lecco ran into a rival Italian pair, from Como. Then a terrible storm brought rain, snow and falling rocks. The five climbers pooled their resources to reach the summit, but the two from Como, despite being carried back down by Cassin and his friends, died of exhaustion. The route taken by the men from Lecco is now known as the Via Cassin, or Cassin's Route.
In 1938 Cassin, Esposito and Ugo Tizzoni set off to attempt the North Wall of the Eiger, only to find that two Germans and two Amples of the "Master Race". Disappointed, the three Italians set their sights on the so-called Walker Spur, on the north face of the Grandes Jorasses peak in the Mont Blanc massif. They succeeded, but had to spend 82 hours on the mountain in treacherous weather conditions.
When the Second World War broke out Cassin was drafted into a munitions factory. But he soon established links with the partisans, with whom he fought against both Mussolini's army and the occupying Nazi forces, using his climbing skills while acting as a link between resistance cells. His best friend and climbing companion, Vittorio Ratti, was shot dead alongside him in Lecco by German troops.
In 1947 Cassin began designing and making equipment, starting with pitons, hammers, ice-axes and harnesses before moving into articles of clothing such as eiderdown jackets. It became, and remains, a highly successful brand, although increased competition forced him to sell to his old local rivals, CAMP, in 1997.
In middle age Cassin led several successful international climbing expeditions, but he was disappointed to be left out of the team which planted an Italian flag on the virgin summit of K2, the world's second-highest mountain, in 1954. Four years later he led the Italian team which made the first ascent of Gasherbrum IV, in Pakistan, although he himself did not go for the summit.
In 1961, at the age of 52, he was sent a telegram of congratulation by President John F Kennedy after he became the first person to reach the summit of Mount McKinley in Alaska, the highest peak in North America, via the technically-challenging route now known as the Cassin Ridge. In 1987, when he was 78, he re-climbed the Piz Badile to mark the 50th anniversary of the first climb. After the disbelieving media woke up to the event, he climbed it again a week later to provide them with pictures.
Riccardo Cassin received several of Italy's highest honours, including Commendatore della Repubblica and Grande Ufficiale della Repubblica.
He died at Piani Resinelli, near Lecco, on August 6. His wife Irma, whom he married in 1940, predeceased him, and he is survived by their three sons.
Published August 10 2009
原文Telegraph誌
(パキスタン山岳会から、リカルド・カシンの訃報が届いた。イギリスのTelegraph紙からの転載らしかった。我が国のブログには、あまり詳報がないので、ここに載せることにした。
Riccardo Cassin, who has died aged 100, was one of the most prolific mountaineers of the 20th century, with 100 first-time ascents among his 2,500 climbs; he also became one of Italy's leading makers of climbing equipment through his internationally-known Cassin brand.
(リカルド・カシンは100歳で亡くなった。彼は、攀った2500のルートのうち100が初登攀という20世紀に於ける最も多産なクライマーの一人であった。それのみならず、カシンブランドという世界的に知られるイタリアの登攀用具の一流メーカーでもあった)
カシンは80代半ばになっても攀っていた。60年以上に及ぶキャリアー、アルプス、ヒマラヤや南・北アメリカで多くの挑戦的なルートを登り、それらのルートはいまもってクライマーのスキルと大胆さを計るベンチマークとなっている。彼の登攀の大部分は、ボルトや特殊なブーツを使わず、自家製のピトン、麻で編んだザイル、工業的な使用に向いた鉄のカラビナなどを使ってなされた。
リカルド・カシンは1909年の1月2日、北イタリアのポルデノン地方の小作農の家庭に生まれた。リカルドが3歳の時、彼の父はカナダに移民し、そこの鉱山事故で死んだ。そして残された12歳の少年は鍛冶屋で働いた。17歳の時、コモ湖のそばのLeccoに移り、そこの製鉄所で仕事を得た。彼が最初に好きになったのはボクシングだった。しかし直ぐに、コモ湖とガルダ湖にかぶって聳える山々に熱中するようになった。
彼の最初の登攀は、Monte ResegoneとTorre Triesteのもので、自分等のことをla Nova Italia(イタリアの新星)と呼んでいたグループー彼らは後にRagni di Lecco(the Lecco Spidersレッコの蜘蛛)として知られるようになるーの人たちと一緒だった。
カシンと友人ビットリオ・ラッティは、1935年ドロミティのラヴァレド(Lavaredo)西峰に初登した時、そのあたりで名を知られるようになった。2年後、ラッティとジーノ・エスポジトが不可能と見ていたスイスアルプスのピッツ・パディレーで国際的な名声を得ることになった。
レッコの三人の男達は、コモからのイタリア人のライバルペアーに偶然に出会って合流した。凄まじい嵐で雨が降り、雪となり落石が多かった。5人のクライマーは、頂上に達するために協力して実力を振り絞った。コモから来た二人は、カシンと二人の友人たちが担ぎ降ろそうとしたが、疲労して死んだ。
このレッコの男が取ったルートは現在、カシンルートとして知られている。
1938年、カシンはエスポジト(Esposito)とウゴ・ティッツォーニ(Ugo Tizzoni)と組んで、アイガー北壁を狙うことにした。それは、ドイツ人の二人とオーストリア人の二人が北壁をやっつけ、これを知ったヒトラーが「支配者民族」の完璧なサンプルとして、4人にとってはきまり悪かったろうが、パレードさせたことを知っただけだった。
がっかりして、3人のイタリア人は視線をモンブラン山塊グランドジョラス北壁のウォーカー稜(Walker Spur)に向けた。彼らはそこに向かったが、不安定な天候のため、山中で82時間を要した。
第二次大戦が勃発した時、カシンは軍需工場に徴用された。しかし彼は直ぐにパルチザンとの繋がりを作り、ムッソリーニ軍と占領しているナチス軍の両方を相手に、レジスタンス細胞と連携しながら登攀技術を使って戦った。彼の最良の友で登攀仲間のヴィットリオ・ラッティは、彼のそばでドイツ軍に撃たれてレッコで死んだ。
1947年、カシンはデザインと登山用具の作製を始め、ピトン、ハンマー、アイス-アックスそしてハーネス、そして後には羽毛服などの衣服装備を作った。それは、競争が激しくなって1997年には昔からの競争相手のCAMPに身売りすることになったけれど、大変成功したブランドとして今に残っている。
中年のカシンは、いくつかの国際遠征登攀隊を率いている。しかし彼は、1945年の世界第2の処女峰K2への登頂を目指した隊に呼ばれなかったことに落胆した。4年後、パキスタンにあるガッシャブルムⅣの初登頂を目指す隊を率いた。彼自身登頂することはなかったけれど。
1961年、52歳のカシンは、北アメリカの最高峰のアラスカ・マッキンレー峰への技術的に困難なルートー現在カシンリッジとして知られるーからの初登頂者として、ジョン・F・ケネディー大統領からの祝電を受けた。1984年、78歳の時、初登頂50周年として、ピッツ・パディレーに再登攀した。このイベントにメディアが疑いを持っているのを知って、彼は写真で証明するため一週間後に再び攀った。
リカルド・カシンは、Commendatore della RepubblicaやGrande Ufficiale della Repubblicaを含むいくつもの栄誉賞を受けている。
彼は、レッコの近くのピアニレシネーリ(Piani Resinelli)で8月6日に没した。1940年に結婚した妻のイルマは先立ったので、3人の息子が彼の世話をしていた。
(2009年8月10日)
(以下が原文です。誤訳があれば、遠慮なくご指摘ください)
Riccardo Cassin
Riccardo Cassin was born into a peasant family at San Vito al Tagliamento, in northern Italy's Pordenone province, on January 2 1909. When Riccardo was three his father emigrated to Canada, where he died in a mining accident, and the boy left school at 12 to work for a blacksmith. At 17 he moved to Lecco, by Lake Como in the Lombardy region, where he found a job at a steel plant. His first love was boxing, but he soon became fascinated by the mountains that tower over Lake Como and Lake Garda.
His first climbs were Monte Resegone and the Torre Trieste, alongside a group of friends from Lecco who called themselves la Novl celebrity in 1935 when they became the first climbers to reach the western summit of the Lavaredo, in the Dolomites. Two years later came international fame, when he, Ratti and Gino Esposito took on what appeared to be the impossible Piz (or Pizzo) Badile in the Swiss Alps.
The three friends from Lecco ran into a rival Italian pair, from Como. Then a terrible storm brought rain, snow and falling rocks. The five climbers pooled their resources to reach the summit, but the two from Como, despite being carried back down by Cassin and his friends, died of exhaustion. The route taken by the men from Lecco is now known as the Via Cassin, or Cassin's Route.
In 1938 Cassin, Esposito and Ugo Tizzoni set off to attempt the North Wall of the Eiger, only to find that two Germans and two Amples of the "Master Race". Disappointed, the three Italians set their sights on the so-called Walker Spur, on the north face of the Grandes Jorasses peak in the Mont Blanc massif. They succeeded, but had to spend 82 hours on the mountain in treacherous weather conditions.
When the Second World War broke out Cassin was drafted into a munitions factory. But he soon established links with the partisans, with whom he fought against both Mussolini's army and the occupying Nazi forces, using his climbing skills while acting as a link between resistance cells. His best friend and climbing companion, Vittorio Ratti, was shot dead alongside him in Lecco by German troops.
In 1947 Cassin began designing and making equipment, starting with pitons, hammers, ice-axes and harnesses before moving into articles of clothing such as eiderdown jackets. It became, and remains, a highly successful brand, although increased competition forced him to sell to his old local rivals, CAMP, in 1997.
In middle age Cassin led several successful international climbing expeditions, but he was disappointed to be left out of the team which planted an Italian flag on the virgin summit of K2, the world's second-highest mountain, in 1954. Four years later he led the Italian team which made the first ascent of Gasherbrum IV, in Pakistan, although he himself did not go for the summit.
In 1961, at the age of 52, he was sent a telegram of congratulation by President John F Kennedy after he became the first person to reach the summit of Mount McKinley in Alaska, the highest peak in North America, via the technically-challenging route now known as the Cassin Ridge. In 1987, when he was 78, he re-climbed the Piz Badile to mark the 50th anniversary of the first climb. After the disbelieving media woke up to the event, he climbed it again a week later to provide them with pictures.
Riccardo Cassin received several of Italy's highest honours, including Commendatore della Repubblica and Grande Ufficiale della Repubblica.
He died at Piani Resinelli, near Lecco, on August 6. His wife Irma, whom he married in 1940, predeceased him, and he is survived by their three sons.
Published August 10 2009
原文Telegraph誌
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