アフガン難民支援レポート(5)
この難民キャンプにきて、今から33年も前のあの「辺地教育調査隊」(「西パキスタンの旅」参照)の経験が、急に生々しく蘇ってきたのです。このキャンプの様子は、あの時訪れたシンド、パンジャブ、スワットなどの僻地の村とあまり変わらないのです。
大きな違いは、ありました。果樹園や大きな樹木が一切ないことでしょうか。でも裸足で家から飛び出してくる子供たちは、30数年前のパキスタン国内と何も変わらなかったのです。
最初に案内された小学校は、言ってみれば大き目の家を学校にしたという感じです。くぐり戸みたいな門を抜けて中に入ると、中庭があり回りに小さな部屋があります。
それぞれの部屋が教室になっていて、30人ほどの少女が、清潔な淡い青色のシャルワルカミーズを着て、ござの上にぎっちりと座っています。
ぼくが、中をのぞくと一斉に立ち上がり直立不動の姿勢をとりました。
6歳の1年から6年生まで〆て10クラスあるのだそうです。
一年生は、ウルドー語を勉強中で、まだ完全に聞き取れません。そばの教育担当コミッショナーが、パシュトーン語で通訳しますと言うので、ぼくは少しだけ挨拶しました。
こんにちは。皆さんとあえてうれしいです。がんぱって勉強してください。
と、これだけのウルドー語の挨拶なのですが、翻訳のパシュトーン語は、もっと長かったようで、なにやら付け加えて話されたようでした。
可愛い一年生の少女達は、真剣な顔つきで聞いていました。
6年生になると、英語を学び始めます。英語で話してやってくださいということなので、また少し話しました。
あまり聞き取れないようなので、ウルドー語に変えるとみんなニコニコしました。
でも、How do you think, English difficult?ときくと、みんな一斉に頷きました。
学年二クラスというのもあるので、足らない分は、戸外のフライシートを張った下にシートを敷き、教室としています。
これは、難民キャンプの学校のイメージです。
屋内のクラスは、辺地教育調査隊の時のイメージで、暗い部屋の中で、手に小さな黒板を持って石墨で字を書くのです。
大きな違いは、あの時、このようなガールスクールは存在しなかった。それに、こんなにぎっしり詰まってはいませんでした。
このあと、ボーイズスクールを見ました。基本的にはガールズスクールと変わりませんが、どうも身なりが、少女達のほうが、綺麗なような気がしました。
この二つの学校を見ているときに、ドクターイムランが、彼らに必要なものは、実験室じゃないかなと、言ったのです。来る途中、ぼくはこんなことを話していました。
すべての物は、すでに各国のNGOによって支給されているような気がする。それ以外のもの、必要なもの、何か盲点になっているものがないものか。
ラボラトリー!。それはいい。ぼくは、実はかつて、化学の教師だったんだ。
鉛筆、紙、教科書などは、絶対に必要なものではある。でもそれが既に与えられる態勢が出来上がっているし、みんな使えばなくなるものでしょう。
君が言っていたように、残るもの長い効果のあるものがいい。イムランはそういったのです。
でも、付け加えて、小学校には、実験室と言う支出の枠はないそうなのだ。
高校ではあるのだが、これはパキスタン政府が支出することになっている。
難民支援は、各国のあるいはNGO団体のテリトリーが決まっているそうで、小学校はドイツ。中学校は、どことか。そして、高校は、パキスタン政府の管轄なのだそうです。
この実験室のアイデアは大いに気に入りました。なにしろイメージが湧くのです。
薬学博士のイムランも同じなのでしょう。彼にに聞いてみると、一つの実験室は2000$位で出来るといいます。それなら、いくつも出来るではないか。
ぼくは、大乗り気になって、このアイデアを推し進めてくれるように言ったのです。
2時間足らずで視察は終わり、ぼくたちはパールコンチネンタルホテルでイムランと別れました。
彼は、明朝8:45にこのホテルに迎えに来ます。9:00から北西辺境州難民局に赴き、難民局長官とのブリーフィングを行わなければなりません。
その後、カブール方向に向かい、カイバル峠を越えて進みます。
国境近くの最も新しい難民キャンプを見に行く予定になっているそうです。その国境への最フロントの難民キャンプを見て、もしかしたらぼくの考えは、実験室から別のアイディアに変わるかもしれない。
そんな気もしています。
高田直樹
大きな違いは、ありました。果樹園や大きな樹木が一切ないことでしょうか。でも裸足で家から飛び出してくる子供たちは、30数年前のパキスタン国内と何も変わらなかったのです。
最初に案内された小学校は、言ってみれば大き目の家を学校にしたという感じです。くぐり戸みたいな門を抜けて中に入ると、中庭があり回りに小さな部屋があります。
それぞれの部屋が教室になっていて、30人ほどの少女が、清潔な淡い青色のシャルワルカミーズを着て、ござの上にぎっちりと座っています。
ぼくが、中をのぞくと一斉に立ち上がり直立不動の姿勢をとりました。
6歳の1年から6年生まで〆て10クラスあるのだそうです。
一年生は、ウルドー語を勉強中で、まだ完全に聞き取れません。そばの教育担当コミッショナーが、パシュトーン語で通訳しますと言うので、ぼくは少しだけ挨拶しました。
こんにちは。皆さんとあえてうれしいです。がんぱって勉強してください。
と、これだけのウルドー語の挨拶なのですが、翻訳のパシュトーン語は、もっと長かったようで、なにやら付け加えて話されたようでした。
可愛い一年生の少女達は、真剣な顔つきで聞いていました。
6年生になると、英語を学び始めます。英語で話してやってくださいということなので、また少し話しました。
あまり聞き取れないようなので、ウルドー語に変えるとみんなニコニコしました。
でも、How do you think, English difficult?ときくと、みんな一斉に頷きました。
学年二クラスというのもあるので、足らない分は、戸外のフライシートを張った下にシートを敷き、教室としています。
これは、難民キャンプの学校のイメージです。
屋内のクラスは、辺地教育調査隊の時のイメージで、暗い部屋の中で、手に小さな黒板を持って石墨で字を書くのです。
大きな違いは、あの時、このようなガールスクールは存在しなかった。それに、こんなにぎっしり詰まってはいませんでした。
このあと、ボーイズスクールを見ました。基本的にはガールズスクールと変わりませんが、どうも身なりが、少女達のほうが、綺麗なような気がしました。
この二つの学校を見ているときに、ドクターイムランが、彼らに必要なものは、実験室じゃないかなと、言ったのです。来る途中、ぼくはこんなことを話していました。
すべての物は、すでに各国のNGOによって支給されているような気がする。それ以外のもの、必要なもの、何か盲点になっているものがないものか。
ラボラトリー!。それはいい。ぼくは、実はかつて、化学の教師だったんだ。
鉛筆、紙、教科書などは、絶対に必要なものではある。でもそれが既に与えられる態勢が出来上がっているし、みんな使えばなくなるものでしょう。
君が言っていたように、残るもの長い効果のあるものがいい。イムランはそういったのです。
でも、付け加えて、小学校には、実験室と言う支出の枠はないそうなのだ。
高校ではあるのだが、これはパキスタン政府が支出することになっている。
難民支援は、各国のあるいはNGO団体のテリトリーが決まっているそうで、小学校はドイツ。中学校は、どことか。そして、高校は、パキスタン政府の管轄なのだそうです。
この実験室のアイデアは大いに気に入りました。なにしろイメージが湧くのです。
薬学博士のイムランも同じなのでしょう。彼にに聞いてみると、一つの実験室は2000$位で出来るといいます。それなら、いくつも出来るではないか。
ぼくは、大乗り気になって、このアイデアを推し進めてくれるように言ったのです。
2時間足らずで視察は終わり、ぼくたちはパールコンチネンタルホテルでイムランと別れました。
彼は、明朝8:45にこのホテルに迎えに来ます。9:00から北西辺境州難民局に赴き、難民局長官とのブリーフィングを行わなければなりません。
その後、カブール方向に向かい、カイバル峠を越えて進みます。
国境近くの最も新しい難民キャンプを見に行く予定になっているそうです。その国境への最フロントの難民キャンプを見て、もしかしたらぼくの考えは、実験室から別のアイディアに変わるかもしれない。
そんな気もしています。
高田直樹
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