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アフガン難民支援レポート(6)

14日。
約束通り、9時15分前に、イムラン運転の車が来ました。
ペシャワールの町の大通りの雑踏を抜けると、右手にカチャガリ難民キャンプが現れます。18年前の1984年、秀子を案内したのは、このキャンプでした。
あの時、道路左手にいくつも出来ていた、砲撃による巨大な窪みは、埋め立てられたのか跡形はありません。
このキャンプは、数万人もいた難民がほとんど帰郷したので、廃止になったそうで、街道沿いの家並みを残して、すべて取り壊され、まるで鋤で耕された田んぼのようになって、それが地平線まで広がっていました。

DSC00004.jpgしばらく走って、左折れするとそこに大きな北西辺境州アフガン難民局のビルがありました。














銃剣をつけた衛兵の立つ門をくぐり、車は玄関に向かいます。
大勢の人が出迎え、イムランは順番に抱擁の挨拶です。
進み出た儀典長に伴われて玄関を通ると、両側に立つ衛兵が、ターンと踵を踏み鳴らして敬礼したので、びっくりしました。階段を上り、廊下を通りながらも、イムランは駆け寄って挨拶する人々に答礼し大変です。
6年間ここに勤務していたんだよ、とイムランがいいました。
これは後で分かったことなのですが、なんと彼は、ここの前長官だったのです。
ぼくは見なかったのですが、岩橋によれば、長官室には歴代長官のリストがディスプレーされており、前長官が、ドクターイムラン、その前はあのグルザールだった。
(ムシャラフ−>)パルベイツ−>グルザール−>イムラン−>現長官という驚くべき凄いリンケージが、浮かび上がったことになる訳です。

PB140146.jpg長官室に入り、挨拶を交わし、恰幅のいい長官の説明を聞きました。
そばのイムランが、彼らは何度もブリーフィングをしているので、ほとんど了解済みだといいました。
ぼくは、昨日のアザヘールの難民キャンプ訪問の様子を話し、1969年の辺地教育調査隊の追憶を話しました。
イムランが、彼は実験室を作ったらどうかと考えているのだと紹介し、「ぼくはかつて化学の教師だったのです」というと、長官大いに頷き「それは全くいい考えだ」と同意を示しました。
先が長いのでと、イムランが辞去の意を告げ、約20分ほどで、ぼくたちは部屋を出ました。
DSC00006.jpg玄関では20人を超える人達の見送りを受けました。反対側には、着飾った5人の儀杖兵が一列に直立不動で立っており、岩橋がカメラを向けていました。
ここから、一人の制服警官が同乗しました。
北西辺境州に入るには、警官の同行が義務ずけられているのだそうです。
カイバル峠に向かって少し進むと、チェックポストがあり、ここでもう一人の警官が同行するようです。彼の乗るスペースはないので別の車がぼく達を先導することになりました。岩橋によれば、これは特別なことなのだそうです。

走り出してすぐ、ドクター・イムランは、「ここはもうトライバルエリアです。ここでは武器弾薬、麻薬など何でも手に入る。天国以外はすべて買えるのです」と言いました。
道は意外にすいていました。半年前は家財道具を積んでカブールに向かうトラックで渋滞状況だったんです、と岩橋が説明しました。
左手に大きな邸宅が現れ、小さな門から中にずらりと並ぶ高級外車が、一瞬見えました。麻薬御殿なのだそうです。
PB140205.jpgカブールに続く街道を右折れし、ジャムロードの集落を抜けて谷の道に入りました。九十九折れの道を登ります。そこここの山の上に望楼やお城(シャンガイフォート)が見え、それらはみんな昔、英国が作ったのだそうです。カイバル峠というポイントは特になく、この辺全体をそういうんだよと、イムランが説明しました。



PB140337_1.jpg10時40分、分水嶺の峠を越えると急に前が開け、遥か彼方に雪を頂いたヒンヅークッシュの山並みが、白い線のように左右に伸びていました。







続きはすぐに。
高田直樹

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