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アフガン難民支援レポート(10)

今日17日(日曜日)、イスラマバードを発ち、ラホールに来ました。ようやく、ホッとリラックスし、久しぶりにくつろいでいます。

昨日、ぼくたちは、報告にイスラマバードのカシミール官庁のグルザールを訪問し、彼の部屋に待機していた、アフガン難民局の長官サイード・アシフ・シャーとの二人に、経過を報告しました。
彼らは、ぼくの実験室のアイデアを既に聞き知っているようでした。
ぼくが、その話をするとグルザールは、いい考えだと思うと答え、ペシャワールのコミッショナーに話したかどうかを尋ねました。
すべては、ペシャワールの難民局が決定権を持っているのだそうです。サイード長官は、「実験室の件だけど、お金がかかる。建物と中の設備とどちらを優先したいのですか」と、少し意外な質問をしました。
だって、イムランは2000$あればいいといったのですから。それに、あのシェルマンキャンプで、ほぼ完成している小学校の建設費を尋ねた時、彼はよく分からないと答えました。ぼくがさらに、君の推測を言ってくれと迫ると、イムランは「1万ドルくらいかな」と答えたのです。
ぼくはともかく、「どっちかといえば、やはり建物が先ということになりますね」と答えました。

ぼくは、わざと一人飛ばして座っている岩橋に、「小学校一個でどれくらいかかるんや」と尋ね、岩橋は「1万くらいですかね」と、答えました。
「長官。小学校一つでは一万と聞いています。そのなかの実験室はその何分の一かでしょう」
それはそうです。ただ、学校はいくつもある。あのアザヘルには6つ。みんな同時に作らないと、不公平だということにもなります。
そういえば、それは確かにそうかもしれません。

グルザールと長官はウルドー語で話し合いを始めました。完全には追えなかったのですが、グルザールは、一気に作らなくてもモデルを作れば、他の物もそれに習うんではないかと、言っていました。
グルザールが、実験室を必要としているのは、高校だけなのだよといいました。小中には、サイエンスという科目はないのですか、とぼくは尋ねました。
中学校には、あるにはあるが、教科書の絵と図だけで実験はないんだよ、とグルザール。

でも、科目があるのなら実験は必要でしょう。机の上に一匹の昆虫を置いただけでも、実験は可能です。解剖も出来ます。
生徒を二手に分ける。長い紐を用意するグループとその半分の短い紐を持つグループに分けます。
錘をつけて、振り子運動をさせ、一斉に振り子の回数を勘定させる。短いほうが倍になるはずです。
この時に必要な用具といえば、紐と錘だけでしょう。大げさの実験装置はなくても実験は出来ます。
グルザール氏は、笑いながら聞いていました。

でも、これまでこうした実験室のプログラムは皆無であったそうです。初めてであれば、それなりの実施案の構築が必要です。実施案を作るためにもお金が必要。ともかくお金がないと、なんにも進まないだろうとは思いました。
お金の支払いはどうするのか。支払えば、領収書を渡すが、という話が冒頭でありました。ぼくは支払いは銀行を通したいと答え、長官は可能ですと答えました。
国全体が利権国家のようなこの国では、まあ仕組みが巧妙なだけで日本も似たようなものかもしれませんが、銀行を通したからといってどこまで信用できるか極めて疑問だ、とぼくは思っています。
こんな枠組みの決まらない状況で、渡したお金はどこに消えてしまうか分かったもんではない。この国では、難民救済事業は、間違いなく甘くて美味しいビジネスなのです。

傍らに座っている秀子に、「あれ何人から集めたお金やねん」ときいてから、ぼくはこういいました。
たいした額のお金ではないにしても、これはワイフが友人150人から集めたお金です。その150人のドナーにぼくは責任を負っている。有効に使うという責任を負わされていると思っています。これは、普通のお金ではなく、プライベートなお金です。だから、最初には、その一部だけを渡したいと思っています。
長官が、どれだけ?と聞くので、ぼくは半分といおうか4分の一といおうかと迷っていて、ようやく「4分の一」と答えるのと、長官が「ともかくプランニングが先決だね」というのが、同時でした。

ぼくが、その場所、規模、内容などは、お任せしますといったので、岩橋が帰国する直前の19日に、岩橋宛にPROPOSAL(計画起案書)をファックスし、日本のぼくに見せてもらいましょう、ということになったのでした。
岩橋が、再びイスラマに戻るのは来春のことであるし、話はそうすらすらとは進まないようです。
その夜、4人でマリオットホテルのチャイニーズレストラン「DYNASTY」のテーブルを囲んで、ぼく達は今日の感想を語り合ったのでした。
・グルザールさんのあんまり最初に比べると冴えない表情が気になるなあ。
・ムシャラフの就任式の何やかやで単純に疲れたはっただけと違うんか。
・サイード長官が、金が足らんみたいな事をゆうとったのは、なんでやろ。
・まあ、これはあんまり美味しい話やないと思ったことは確かでしょう。
・なんにしても、彼らが金が要らんということはありええへんのとちがうか。
・恥ずかしいくらい小さいお金でも?小さいお金?大金ですよ。この国では。
・難民キャンプも、いつまでたってもなくならへんのやし。急くことはない。
・そらそうや、なくしたら困るもん。この国の巨大ビジネスや。

こんな会話を続けながら、ぼくは一人、思いつきから発したとはいえ、こ実験室のアイディアは、えらく巨大なものではないかと思い始めていたのです。
ぼくは、けっこう誇大妄想的になり、こんなことを考えてました。
科学、いわゆる自然科学は、近代文明の発達とともに進歩し、その対象の自然を破壊するところまで来た。
また、科学的思考の極は、共産主義体制というような非人間的態勢を生み出したし、オームのようなカルト集団も誕生させてしまった。
一方では、その反動としてイスラム原理主義に代表されるような、非科学的精神主義的でファナティックな集団を誕生させている。
テロリストは、難民キャンプから生まれるとも言われている。
タリバーン(神学生)は、コーランのみを学び、科学を学ぶことはない。
回教徒は、その精神主義と科学教育における実証実験主義をバランスよく学ぶ必要がある。精神教育と科学教育のバランス。このことは回教徒のみに当てはまることなのだろうか。
日本の現代教育の巨大命題ではないのか。

おわり
高田直樹

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