5.ペシャワールにて
昨夜半、アマンより連絡があり、ペシャワールのPC(パールコンチネンタルホテル)が2晩しか取れないと言ってきました。特に長居する必要もないし、滞在地では、一番危険な場所だとも思っていたので、「いいよ。それでいい」と予定を一日切り上げて2晩で戻ることにしました。
ドライバーと車のアレンジをした。ドライバーはぼくがよく知っている男だから安心してくれということでした。アマンは同行できなくなったらしい。
昼すぎ、ドライバーがやってきました。10人乗りくらいのバスです。一緒に現れたアマンは「どうです。これなら快適でしょう」
快適も何もガラガラではないか。
ドライバーは頭はもう白い50代の男で、名前をボラという。魚みたいな名前ね、と家内がいい、そう思ってよく見ると顔もボラに似ているような気がしました。
ところが、ペシャワールのPCについたとき、ボラが胸に付けているTravel Agent のCox & Kings の名札を見ると、Mr. Masud Ur Lehman と書いてあるではありませんか。お前立派な名前があるではないか、と英語で言ったのですが、彼はニコニコと笑っているのみです。マスードは、英語がほとんどわからないようです。
ボラがニックネームだとしたらそれはどんな意味なのか、誰かにそっと尋ねてみようと思っています。
ペシャワールは、アフガニスタンに最も近いパキスタンの町で、国境のカイバー峠を越えたアレキサンダー大王もこの町を通ってインド亜大陸に入りました。インド経由でやってきた仏教とアレキサンダー軍がもたらしたギリシャ彫刻の技法が融合して生まれたのが、ガンダーラ美術、ガンダーラ仏像です。
ラワルピンディーとペシャワールの中間に世界文化遺産で、最大のガンダーラ遺跡のタキシラ遺跡があり、ここでもガンダーラ文化が花開きました。タキシラを取り巻く山の各所に僧院があり、その当時、中国を始め世界各国からから学僧が勉強に訪れたのです。
BC190年頃にギリシャ人が建設を始めたとされますから、2000年以上前ということになります。
ペシャワールの住民の多くは、山の民といわれるパシュトーン語を話すパタン人で、どの時代も誰にも屈服しなかった独立自尊の民といわれます。もちろん、イギリス植民地時代にも、何回ものイギリス討伐軍にもなびきませんでした。チャーチルは、若い軍人時代カイバー峠での戦闘に参加しています。
僕はなぜかパターン人が好きで、なぜか馬が合う感じなのです。
先日の記事で報告したミンゴーラでの自爆テロは、住民の過激派グループと軍及び民兵の対立の中で起こった事件といえます。
ここペシャワールでの今朝のThe Newsの朝刊の一面トップは、ドバイでアジア労働者が100人解雇されデモが起こったという記事に並んで、スワットでの戦闘の続報が、Tense calm in Swat(スワットでの緊張した静寂)というタイトルで報じられています。軽機関銃を構えて、ミンゴーラのバザールを巡回する民兵たちの写真入りです。
(ミンゴーラ・ペシャワール発)3日間にわたる過激派と治安部隊との凄まじい戦闘の後、表立たない裏面での錯綜した休戦が報じられてはいる。
過激派は、5人の民兵職員を含む12人を生け捕りにしたと宣言した。そのうち4人の首を刎ねたとも報じています。
いくつかの報告によれば、この戦闘で死亡した16人の民兵の死体は、いまもコット村とマングラワール村の野原に放置されており、厳しい対立の中で、誰もそれを集めにゆけない状況が続いている・・・などと、報じています。
両者は、互いに仕掛けたのは相手方であると、FMラジオなどで応酬し合っているようです。
「我々は、決して最初に発泡したのではない。それは政府であって彼らはいつも我らのホームを攻撃する。マウラナ・シャー・ドゥランはこの地方で広く聞かれている彼のラジオでそう語った」
「休戦などまったくない。前から言っているように、我々が最初の発砲したことは決してない。民兵コマンダーでスポークスマンのシラジューディンは言明した」などなど。
また、別の新聞 National Herald Tribune のトップは、60人の過激派が死亡という副題付きで「過激派と民兵軍は休戦に達した」と報じています。その次の記事で、「大統領は過激主義者達に戦闘をやめるように要請」という記事が載っている。
こうした記事と裏腹に、そこから150キロほどのこのペシャワールの市街では、いつもの喧噪と雑踏の日々がいつもと変わらず続いているようです。今日キサカニ(正確にはキスワクニ)バザールに出かけ、特にそう感じました。
明日は、昼にチェックアウトし、ゆっくりイスラマバードに帰るつもりです。
今日のアサヒコムによると、ムシャラフを狙った自爆テロがラワルピンディーであったようです。ちょうどぼくがイスラマバードを出立した直ぐ後のことのようです。
イスラマバードとラワルピンディーについて、説明しておきます。
イスラマバードは1960年代に建設が始まった新都市で、昔からあったラワルピンディーの北方20キロほどのところにある正方形区画の新都市です。出来上がるまでに何十年もかかっていて、まだ完成していないともいえます。
ラワルピンディは、昔からあった都市で、道はラジャバザールのセンターから、ヨーロッパのように放射状に延びています。
言ってみれば、オールドデリーとニューデリーみたいなものかもしれません。
もともと、カラチが首都だったのですが、商人の支配を嫌った軍人達が新首都を作ろうとしたともいわれました。
やはり無人の原野に人為的に作られた町というのは、長い年月が経って大分様子が変わってきたとはいえ、カラチやイスラマバードに比べ、何か無機質な感じがするのはぼくだけではないと思うのですが。
今回ムシャラフ大統領が自爆テロ攻撃を受けたのは、ラワルピンディ近郊の公邸執務室で、大統領官邸はイスラマバードにあるのだそうです。彼はこの二つを行き来するのですが、その度ごとにイスラマとピンディ間の高速道路が封鎖されるので、一般人は迷惑しています。
ドライバーと車のアレンジをした。ドライバーはぼくがよく知っている男だから安心してくれということでした。アマンは同行できなくなったらしい。
昼すぎ、ドライバーがやってきました。10人乗りくらいのバスです。一緒に現れたアマンは「どうです。これなら快適でしょう」
快適も何もガラガラではないか。
ドライバーは頭はもう白い50代の男で、名前をボラという。魚みたいな名前ね、と家内がいい、そう思ってよく見ると顔もボラに似ているような気がしました。
ところが、ペシャワールのPCについたとき、ボラが胸に付けているTravel Agent のCox & Kings の名札を見ると、Mr. Masud Ur Lehman と書いてあるではありませんか。お前立派な名前があるではないか、と英語で言ったのですが、彼はニコニコと笑っているのみです。マスードは、英語がほとんどわからないようです。
ボラがニックネームだとしたらそれはどんな意味なのか、誰かにそっと尋ねてみようと思っています。
ペシャワールは、アフガニスタンに最も近いパキスタンの町で、国境のカイバー峠を越えたアレキサンダー大王もこの町を通ってインド亜大陸に入りました。インド経由でやってきた仏教とアレキサンダー軍がもたらしたギリシャ彫刻の技法が融合して生まれたのが、ガンダーラ美術、ガンダーラ仏像です。
ラワルピンディーとペシャワールの中間に世界文化遺産で、最大のガンダーラ遺跡のタキシラ遺跡があり、ここでもガンダーラ文化が花開きました。タキシラを取り巻く山の各所に僧院があり、その当時、中国を始め世界各国からから学僧が勉強に訪れたのです。
BC190年頃にギリシャ人が建設を始めたとされますから、2000年以上前ということになります。
ペシャワールの住民の多くは、山の民といわれるパシュトーン語を話すパタン人で、どの時代も誰にも屈服しなかった独立自尊の民といわれます。もちろん、イギリス植民地時代にも、何回ものイギリス討伐軍にもなびきませんでした。チャーチルは、若い軍人時代カイバー峠での戦闘に参加しています。
僕はなぜかパターン人が好きで、なぜか馬が合う感じなのです。
先日の記事で報告したミンゴーラでの自爆テロは、住民の過激派グループと軍及び民兵の対立の中で起こった事件といえます。
ここペシャワールでの今朝のThe Newsの朝刊の一面トップは、ドバイでアジア労働者が100人解雇されデモが起こったという記事に並んで、スワットでの戦闘の続報が、Tense calm in Swat(スワットでの緊張した静寂)というタイトルで報じられています。軽機関銃を構えて、ミンゴーラのバザールを巡回する民兵たちの写真入りです。
(ミンゴーラ・ペシャワール発)3日間にわたる過激派と治安部隊との凄まじい戦闘の後、表立たない裏面での錯綜した休戦が報じられてはいる。
過激派は、5人の民兵職員を含む12人を生け捕りにしたと宣言した。そのうち4人の首を刎ねたとも報じています。
いくつかの報告によれば、この戦闘で死亡した16人の民兵の死体は、いまもコット村とマングラワール村の野原に放置されており、厳しい対立の中で、誰もそれを集めにゆけない状況が続いている・・・などと、報じています。
両者は、互いに仕掛けたのは相手方であると、FMラジオなどで応酬し合っているようです。
「我々は、決して最初に発泡したのではない。それは政府であって彼らはいつも我らのホームを攻撃する。マウラナ・シャー・ドゥランはこの地方で広く聞かれている彼のラジオでそう語った」
「休戦などまったくない。前から言っているように、我々が最初の発砲したことは決してない。民兵コマンダーでスポークスマンのシラジューディンは言明した」などなど。
また、別の新聞 National Herald Tribune のトップは、60人の過激派が死亡という副題付きで「過激派と民兵軍は休戦に達した」と報じています。その次の記事で、「大統領は過激主義者達に戦闘をやめるように要請」という記事が載っている。
こうした記事と裏腹に、そこから150キロほどのこのペシャワールの市街では、いつもの喧噪と雑踏の日々がいつもと変わらず続いているようです。今日キサカニ(正確にはキスワクニ)バザールに出かけ、特にそう感じました。
明日は、昼にチェックアウトし、ゆっくりイスラマバードに帰るつもりです。
今日のアサヒコムによると、ムシャラフを狙った自爆テロがラワルピンディーであったようです。ちょうどぼくがイスラマバードを出立した直ぐ後のことのようです。
イスラマバードとラワルピンディーについて、説明しておきます。
イスラマバードは1960年代に建設が始まった新都市で、昔からあったラワルピンディーの北方20キロほどのところにある正方形区画の新都市です。出来上がるまでに何十年もかかっていて、まだ完成していないともいえます。
ラワルピンディは、昔からあった都市で、道はラジャバザールのセンターから、ヨーロッパのように放射状に延びています。
言ってみれば、オールドデリーとニューデリーみたいなものかもしれません。
もともと、カラチが首都だったのですが、商人の支配を嫌った軍人達が新首都を作ろうとしたともいわれました。
やはり無人の原野に人為的に作られた町というのは、長い年月が経って大分様子が変わってきたとはいえ、カラチやイスラマバードに比べ、何か無機質な感じがするのはぼくだけではないと思うのですが。
今回ムシャラフ大統領が自爆テロ攻撃を受けたのは、ラワルピンディ近郊の公邸執務室で、大統領官邸はイスラマバードにあるのだそうです。彼はこの二つを行き来するのですが、その度ごとにイスラマとピンディ間の高速道路が封鎖されるので、一般人は迷惑しています。
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