<< 岩登り技術(文部省登山研修所制作/1973年) | main | 中国からフンザへ(2008年夏) >>

Essay「源流のガヤガヤ」が聞こえてくる

日本百名山midium.jpg 昨年(2008年)1月から始まった週刊日本百名山も今年の正月で完結したようです。
 本棚で、前回の企画だと思うのですが、同じ週刊日本百名山を見つけました。黒部五郎岳の原稿を書いたのを思い出しました。
 2001年に朝日新聞社の依頼で[週刊]日本百名山No.15 黒部五郎岳 笠ヶ岳に書いたエッセイです。
 同じ册の笠ヶ岳の項には、平林克敏さんが書いておられます。氏には、今回の京都府立大学山岳部の鳴沢岳遭難事故の調査委員会の委員長をお願いしております。それにしても、あの頃の黒部源流はほんとに別世界の異次元空間でした。懐かしくなって、アップすることにしました。

源流タイトルsmall.jpg
「源流のガヤガヤ」が聞こえてくる

 ぼくが初めて黒部五郎岳に登ったのは、もうずいぶんと昔の話で、驚いたことに40年以上も前のことなんです。大学山岳部のリーダーになって、初めて穂高岳の涸沢合宿の後、剣岳まで縦走しました。ぼくの縦走の計画を聞いた先輩のオガワはんは独特の早口で、
 「黒部五郎で泊まるんか。あ、あそこのカールはな、夜中になったら人の呼び声がするちゅう話や」
 オーイ、オーイというその呼び声につられて、テントの外に出てはいかんというのです。
 「あの辺はな、道に迷うて死んだやつがいっぱいいよるんや」
 オガワはんはそう言っておどかしました。
 黒部五郎岳の「ごろう」は、ゴーロつまりごろごろした大岩から付いた名前だそうです。そんな、大岩をちりばめたように点在させ、清流が流れ、三方を壁に囲まれた黒部五郎岳のカール底の草原の夜のテントで、ぼくは本当にその声を聞いたのです。でも、死人が呼んでいるなどとは、信じられなかったし、信じたくもなかったので、あれはきっとカールの壁に当たった風が渦巻いて出る音と違うかな。ぼくは勝手にそう考えたのでした。

●ぼくの庭、ぼくの生け簀……

源流スナップlarge.jpgあの頃の山々は、ほんとうに物の怪がいても不思議はないくらい、人里離れ奥深く神秘めいた場所でした。道も、今ほどはっきりはしていませんでした。黒部五郎岳に向かって、三俣蓮華岳を横切っているとき、ぼくたちは道を見失ってしまいました。


黒部源流で渓流釣りを楽しむ(平成10年夏)
 先頭に出たぼくが、道を求めてザレ場を横切っていくと、踏み跡がありました。見つけたぞ。大喜びでその足跡を追ってゆくと、子熊を連れた親熊が、なんでついて来るんや、という面もちで、振り返っていたのです。ごめん、ごめん。そういうつもりやないんや。山の中では、生きているもんも、死んでるもんもみんな仲間や、そんな気分だったようです。
 このときの、黒部五郎岳を通過しつつ見た源流のたたずまいが心に焼き付き、それからぼくは黒部源流の虜となります。
源流著者名small.jpg それから10年以上、毎年のように剣岳での岩登り合宿の後は必ず源流に行き、祖父沢の出合に居座るのが常となりました。そこでは呼び声はしませんでしたが、1人で焚き火などをしていると、茂みの方でガヤガヤと人の声がするのです。仲間内では、これを「源流のガヤガヤ」と呼んでいました。物の怪も仲間みたいなものでした。
 あのあたりは、間違いなくぼくの庭だったし、羽虫を追って飛び跳ねているイワナたちは、好きなときに好きなだけとれる生け簀の魚みたいなものでした。見上げると、黒々とした岩壁を見せて聳える黒部五郎岳は、天気の行方を知らせてくれる友達でした。
 数年前、黒部五郎小舎の小池さんの好意で、ぼくが選んだおいしいものを荷上げしてもらい、久しぶりで源流に遊びました。その瀬音、風のそよぎ、雨上がりに黒部五郎の岩壁に懸かる滝の形。みんなみんな昔のままでした。
 そのつもりで昔のように腰を落ち着ければ、「カールの呼び声」も「源流のガヤガヤ」もきっと聞ける。そんな気がしたのでした。
<高田直樹 たかだなおき 64歳。登山家、龍谷大学非常勤講師(教育情報処理)、(株)クリエイトジャパン取締役。高校教諭の傍らカラコルム、コーカサス、中国など多くの未踏峰を踏破。一方で数多くのパソコンデータベースをソフトを開発。現在、科警研「犯罪データベース」などを開発中。>

Comments

Comment Form

Remember Me?