連載第5回「アムステルダムからプラハへ」
アムステルダムはスキポール空港に降りたつと、パベルが出迎えてくれました。
パベルというのは、以前に少し触れたことがあるので御記憶のかたもあるかもしれません。チェコ生まれでチェコ人のパベルがオランダ国籍をもつオランダ人となったのには少々の経緯があります。
パベルの両親はどちらも医学者で、お父さんのパボル・イバンニは臓器移植の権威なのですが、ずっと昔のこと世界会議で東京に来ていました。丁度そのときあの有名な「プラハの春」の事件が起こったのです。チェコの自由化要求にスターリンは戦車での弾圧で応え、ソ連邦に憧れを抱く日本の知識人にあるショックを与えます。
先頃の「天安門事件」の経緯をもっとも明確に把握できた中国人は、そのとき中国の外にいた中国人であったと同様に、パベルのお父さんもつぷさに事件を観察することが出未たのです。そしてお父さん・パボルの得た結論は、この国には未来はないというものでした。
パボルは東京からプラハに帰り着くとすぐ、密かにチェコ脱出の準備を始めます。それから5年後の夏、パベルの両親はお祖父さんとお祖母さんを残し二人の子供を連れてハンガリーを通ってルーマニアに向かいました。みなさん地図を出してご覧になればお分かりのとおり、ルーマニアというのは目的地とはまるで正反対の方向でした。でもこれも5年がかりでパボルが考えた方策の一つで、こうして彼ら家族は官憲の目を欺き、大きく迂回してオランダに亡命したのでした。その時、パベルは中学生だったそうです。
中学生のパベルはおそらく英語も駄目で、もちろんオランダ語は全く分からず、きっと大変な苦労をしたことでしょう。でも、ぼくが聞いたのは高校生の頃から両親とは離れてI人暮しをしなければならなかったというようなことだけで、そうした苦労について彼が話したことはありません。彼は祖国語であるチェコ語、母国語のオランダ語はもちろんのこと、英語、フランス語がこなせます。
彼と妹はオランダ国籍を持っていますが、お父さんとお母さんにはありません。もっともお金さえ払えばすぐ手に入るのだけれど父母らはそうしなかったのだそうです。またパベルたちがチェコのお祖父さん・お祖母さんを訪ねるのはまあ自由だったのですが、亡命したお父さんお母さんにそれは出来ないことでした。
だから『ベルリンの壁崩壊』をもっとも喜んだのはパベルの父母でした。そしてソ連邦消滅後、ずっと昔に共産党に接収されたままだったカントリーハウスを返してもらったのだそうです。
「プラハには、アパートを借りていていつでも使える。プラハから100km程の郊外にはカントリーハウスもある。一緒にいこう」と書いたファックスをパベルから受け取ったのは、1992年の春のことでした。それはちょうどぼくが、6月初めにロンドンで開かれるコンピュータソフトウェア開発の先端技術の〈オブジェクト指向プログラミング〉をテーマとする「ヨーロッパ:ウープ会議」に出席すべく準備を始めていた頃だったのです。
こうしてぼくの92年度ョーロッパ旅行、アムステルダム発スイス経由チェコ入りのコースが決まったのでした。
ヨーロッパ内は車で動くとして、エアチケットはバンコックーロンドン往復だけが必要でした。というのは、大阪ーバンコック往復はすでに持っていたからです。すこし前にサンフランシスコで買った、おお安の一年間有効のチケットは、サンフランシスコー大阪ーバンコックー大阪ーサンフランシスコというもので、大阪から先が残っていたのです。
バンコック中継のロンドン行きも悪くない。そう思いました。美味しいトロピカルフルーツとタイ料理が食せるし、大好きなホテル『バンコックリージェント』ではゆったりとリラックス出来るからです。
大急ぎでバンコックから安いロンドン行きの往復切符を取り寄せるとそれは、エアロフロート(ソ連航空)のものでした。このことを聞き知った教え子で京大の先生のタケダ君は、電話の向こうでカン高く、
「絶対止めてください。エアロフロートなんぞ。それにドバイ経由なんてとんでもない」
ほとんどの人が反対したのですが、他に思わしい切符はないし、まあいいではないかと思ったのです。ソ連邦が崩壊したからといって、なにも飛行機までクラッシユする訳でもあるまい。それに今から20年前、ソ連のコーカサス山群に遠征したときにエアロフロートにはいやほど乗ったという経験がぼくにはありました。エアロフロートの国内線は当時まるで市バスが空を飛んでいるという感じだったのですが、飛行のフイーリングはなかなかのもので、宇宙開発での実績と関係あるのかなと思ったりした記憶があったのです。
ところがこの問題のフライト、乗ってみれば別にこれということもなく、最大の問題はモスクワ空港での5時間を超す乗り継ぎ待ち時間であることが分かったのでした。しかたなくぼくは、「デューテイーフリーショップが送る新しい世界」などという大はしゃぎの垂幕の掛かった免税店で、フランスワインとキャビアの瓶詰とフォアグラの缶詰を買い込むと、この薄汚い空港の片隅で豪勢な酒席を楽しもうとしたのでした。
ワインの瓶がほとんど空になりかけたとき、黒っぽいスーツを着て口髭をはやしたかなり年配の一人の男が話しかけてきました。
「あなた、にほんじん。わたし、にほんじん、すき。わたし、イランじん」たどたどしいというにはあまりに単純で幼稚な日本語でしたが、意味はよく分かりました。習い覚えた日本語を使いたくて話しかけてきたのかと思ったのですが、彼はアラビア語以外は全く駄目なのでした。こういう人と会話するには、出来るだけ相手の使った単語をそのまま使って話すのがこつです。
「私日本人。わたし、イラン人、すき」とぼくは返しました。
「わたし、東京一年、ピザだめ、イランかえる。にほんじんともだち、たくさん。ビザだいじょうぶ。わたし、にほんじんともだち、だめ。ビザだめ」
つまり、東京に一年いたけれどビザが切れたのでイランに帰る。日本人の友達がいれば、ビザが取れるけれど、いないからビザは無理だというのです。東京でどんな仕事をしていたのかが知りたくなったので、聞いてみました。
「あなた、とうきょう、しごと、なに」
すると、彼は天井を大きく仰ぎ、モスクワ空港の建物の天井を指差して、「わたし、しごと、わたし、みんなわかる」なるほど、かれは建築関係の仕事をしていたのかと、ぼくは納得したのです。
ぼくが、イランヘ行きたいと言うと彼は次のようにいって、住所を書いてくれました。
「わたし、えいごだめ、でも、わたしおとうと、えいごだいじょうぶ、あなたでんわする、だいじょうふ。イラン、地雷いっぱいある。でもだいじょうぷ、あなたイランくる。ぜんふだいじょうぶ。」
こんな調子でぼくたちは、約一時間も話し込んだのでした。突然彼は、
「あなた、たいへんきれい。あなたすき」といい、ぼくも「わたしもあなたすき」と返しました。そして、僕たちは回教徒のやり方で抱擁しあい、別れたのでした。
アムステルダムでレンタカーを借りるのが一苦労でした。どのレンタカー会社もプラハ行きでは車を貸してくれなかったからです。パベルが駆けずりまわって、ポーランドナンバーの車でアムステルダムで乗り捨てられたルノーを捜し出しました。これならプラハで乗り捨てが可能です。エアロフロートのロンドン発の帰りの切符もプラハ発に切り替えることが出来ました。チェコのビザはわざと取りませんでした。パベルがドイツ・チェコの国境で取るのが一番簡単と教えてくれたからです。
準備万端整った感じでぼくは、まずスイスのクランを目指しました。パベルとは一週間後の午後4時にプラハのヴァーツラーブスケ広場にあるKLMのオフィス前で落ち合うことになりました。彼はその日の正午に同僚で女友達のポーリンと飛行機でプラハのKLMオフィスに着き、すぐ会議に出てちょうど4時に会議が終わるのだそうです。
アムステルダムから進路を南にとると直ぐにドイツ国境を過ぎます。デユッセルドルフからフランクフルトとアウトバーンをなお南下。バーゼルでスイスに入り、あの世界ジャズフェスティバルで有名なレマン湖のモントルーヘ達します。あとは勝手知ったローヌ川沿いの道をぶっとばし山腹の九十九折を登ると、すぐに懐かしいクランの山荘に着きました。アムステルダムからゆっくり走って約10時間のドライブでした。
数日の滞在の後、いよいよプラハに向かいました。イタリアヘ迂回してからドイツに入り、チェコの国境近くで一泊してプラハに入るつもりです。
早朝クランの山荘を出発。シンプロン峠を越えてイタリアヘ。コモ湖の畔の古めかしくて田舎風でけっこう洒落た感じのレストランの藤棚の下でイタリアワインの昼食をとりました。オーストリアを突っ切ってからドイツのアウトバーンを走って、ニュールンベルグ近くのモーテルに入ったのは、もう夜の10時過ぎでした。
翌日、午前中にチェコ国境を通過。ビールで名高いピルゼンの町でビールを飲んで昼食。パベル達とは予定通りに合流できたのです。
プラハは美しい町でした。うれしいことには、なんでも安いのです。日本の高層団地のようなアパートの部屋では、夏休みで市の職員がみんなバカンスに出かけ、そのせいで湯が出ないので、ポーリンは毎朝、悲鳴をあげながら、シャワーを使っていました。
モーツアルトが寄寓した邸宅。その部屋でのコンサート。『レ・ミゼラブル』の観劇と感激。歌劇『魔笛』の鑑賞。
それから空気銃を持って出掛けた、なんだか絵本の舞台のようなカントリーハウスの日々、本当にプラハはヨーロッパの京都みたいな所でした。
詳細については、いずれ稿を改めたいと思っています。
パベルというのは、以前に少し触れたことがあるので御記憶のかたもあるかもしれません。チェコ生まれでチェコ人のパベルがオランダ国籍をもつオランダ人となったのには少々の経緯があります。
パベルの両親はどちらも医学者で、お父さんのパボル・イバンニは臓器移植の権威なのですが、ずっと昔のこと世界会議で東京に来ていました。丁度そのときあの有名な「プラハの春」の事件が起こったのです。チェコの自由化要求にスターリンは戦車での弾圧で応え、ソ連邦に憧れを抱く日本の知識人にあるショックを与えます。
先頃の「天安門事件」の経緯をもっとも明確に把握できた中国人は、そのとき中国の外にいた中国人であったと同様に、パベルのお父さんもつぷさに事件を観察することが出未たのです。そしてお父さん・パボルの得た結論は、この国には未来はないというものでした。
パボルは東京からプラハに帰り着くとすぐ、密かにチェコ脱出の準備を始めます。それから5年後の夏、パベルの両親はお祖父さんとお祖母さんを残し二人の子供を連れてハンガリーを通ってルーマニアに向かいました。みなさん地図を出してご覧になればお分かりのとおり、ルーマニアというのは目的地とはまるで正反対の方向でした。でもこれも5年がかりでパボルが考えた方策の一つで、こうして彼ら家族は官憲の目を欺き、大きく迂回してオランダに亡命したのでした。その時、パベルは中学生だったそうです。
中学生のパベルはおそらく英語も駄目で、もちろんオランダ語は全く分からず、きっと大変な苦労をしたことでしょう。でも、ぼくが聞いたのは高校生の頃から両親とは離れてI人暮しをしなければならなかったというようなことだけで、そうした苦労について彼が話したことはありません。彼は祖国語であるチェコ語、母国語のオランダ語はもちろんのこと、英語、フランス語がこなせます。
彼と妹はオランダ国籍を持っていますが、お父さんとお母さんにはありません。もっともお金さえ払えばすぐ手に入るのだけれど父母らはそうしなかったのだそうです。またパベルたちがチェコのお祖父さん・お祖母さんを訪ねるのはまあ自由だったのですが、亡命したお父さんお母さんにそれは出来ないことでした。
だから『ベルリンの壁崩壊』をもっとも喜んだのはパベルの父母でした。そしてソ連邦消滅後、ずっと昔に共産党に接収されたままだったカントリーハウスを返してもらったのだそうです。
「プラハには、アパートを借りていていつでも使える。プラハから100km程の郊外にはカントリーハウスもある。一緒にいこう」と書いたファックスをパベルから受け取ったのは、1992年の春のことでした。それはちょうどぼくが、6月初めにロンドンで開かれるコンピュータソフトウェア開発の先端技術の〈オブジェクト指向プログラミング〉をテーマとする「ヨーロッパ:ウープ会議」に出席すべく準備を始めていた頃だったのです。
こうしてぼくの92年度ョーロッパ旅行、アムステルダム発スイス経由チェコ入りのコースが決まったのでした。
ヨーロッパ内は車で動くとして、エアチケットはバンコックーロンドン往復だけが必要でした。というのは、大阪ーバンコック往復はすでに持っていたからです。すこし前にサンフランシスコで買った、おお安の一年間有効のチケットは、サンフランシスコー大阪ーバンコックー大阪ーサンフランシスコというもので、大阪から先が残っていたのです。
バンコック中継のロンドン行きも悪くない。そう思いました。美味しいトロピカルフルーツとタイ料理が食せるし、大好きなホテル『バンコックリージェント』ではゆったりとリラックス出来るからです。
大急ぎでバンコックから安いロンドン行きの往復切符を取り寄せるとそれは、エアロフロート(ソ連航空)のものでした。このことを聞き知った教え子で京大の先生のタケダ君は、電話の向こうでカン高く、
「絶対止めてください。エアロフロートなんぞ。それにドバイ経由なんてとんでもない」
ほとんどの人が反対したのですが、他に思わしい切符はないし、まあいいではないかと思ったのです。ソ連邦が崩壊したからといって、なにも飛行機までクラッシユする訳でもあるまい。それに今から20年前、ソ連のコーカサス山群に遠征したときにエアロフロートにはいやほど乗ったという経験がぼくにはありました。エアロフロートの国内線は当時まるで市バスが空を飛んでいるという感じだったのですが、飛行のフイーリングはなかなかのもので、宇宙開発での実績と関係あるのかなと思ったりした記憶があったのです。
ところがこの問題のフライト、乗ってみれば別にこれということもなく、最大の問題はモスクワ空港での5時間を超す乗り継ぎ待ち時間であることが分かったのでした。しかたなくぼくは、「デューテイーフリーショップが送る新しい世界」などという大はしゃぎの垂幕の掛かった免税店で、フランスワインとキャビアの瓶詰とフォアグラの缶詰を買い込むと、この薄汚い空港の片隅で豪勢な酒席を楽しもうとしたのでした。
ワインの瓶がほとんど空になりかけたとき、黒っぽいスーツを着て口髭をはやしたかなり年配の一人の男が話しかけてきました。
「あなた、にほんじん。わたし、にほんじん、すき。わたし、イランじん」たどたどしいというにはあまりに単純で幼稚な日本語でしたが、意味はよく分かりました。習い覚えた日本語を使いたくて話しかけてきたのかと思ったのですが、彼はアラビア語以外は全く駄目なのでした。こういう人と会話するには、出来るだけ相手の使った単語をそのまま使って話すのがこつです。
「私日本人。わたし、イラン人、すき」とぼくは返しました。
「わたし、東京一年、ピザだめ、イランかえる。にほんじんともだち、たくさん。ビザだいじょうぶ。わたし、にほんじんともだち、だめ。ビザだめ」
つまり、東京に一年いたけれどビザが切れたのでイランに帰る。日本人の友達がいれば、ビザが取れるけれど、いないからビザは無理だというのです。東京でどんな仕事をしていたのかが知りたくなったので、聞いてみました。
「あなた、とうきょう、しごと、なに」
すると、彼は天井を大きく仰ぎ、モスクワ空港の建物の天井を指差して、「わたし、しごと、わたし、みんなわかる」なるほど、かれは建築関係の仕事をしていたのかと、ぼくは納得したのです。
ぼくが、イランヘ行きたいと言うと彼は次のようにいって、住所を書いてくれました。
「わたし、えいごだめ、でも、わたしおとうと、えいごだいじょうぶ、あなたでんわする、だいじょうふ。イラン、地雷いっぱいある。でもだいじょうぷ、あなたイランくる。ぜんふだいじょうぶ。」
こんな調子でぼくたちは、約一時間も話し込んだのでした。突然彼は、
「あなた、たいへんきれい。あなたすき」といい、ぼくも「わたしもあなたすき」と返しました。そして、僕たちは回教徒のやり方で抱擁しあい、別れたのでした。
アムステルダムでレンタカーを借りるのが一苦労でした。どのレンタカー会社もプラハ行きでは車を貸してくれなかったからです。パベルが駆けずりまわって、ポーランドナンバーの車でアムステルダムで乗り捨てられたルノーを捜し出しました。これならプラハで乗り捨てが可能です。エアロフロートのロンドン発の帰りの切符もプラハ発に切り替えることが出来ました。チェコのビザはわざと取りませんでした。パベルがドイツ・チェコの国境で取るのが一番簡単と教えてくれたからです。
準備万端整った感じでぼくは、まずスイスのクランを目指しました。パベルとは一週間後の午後4時にプラハのヴァーツラーブスケ広場にあるKLMのオフィス前で落ち合うことになりました。彼はその日の正午に同僚で女友達のポーリンと飛行機でプラハのKLMオフィスに着き、すぐ会議に出てちょうど4時に会議が終わるのだそうです。
アムステルダムから進路を南にとると直ぐにドイツ国境を過ぎます。デユッセルドルフからフランクフルトとアウトバーンをなお南下。バーゼルでスイスに入り、あの世界ジャズフェスティバルで有名なレマン湖のモントルーヘ達します。あとは勝手知ったローヌ川沿いの道をぶっとばし山腹の九十九折を登ると、すぐに懐かしいクランの山荘に着きました。アムステルダムからゆっくり走って約10時間のドライブでした。
数日の滞在の後、いよいよプラハに向かいました。イタリアヘ迂回してからドイツに入り、チェコの国境近くで一泊してプラハに入るつもりです。
早朝クランの山荘を出発。シンプロン峠を越えてイタリアヘ。コモ湖の畔の古めかしくて田舎風でけっこう洒落た感じのレストランの藤棚の下でイタリアワインの昼食をとりました。オーストリアを突っ切ってからドイツのアウトバーンを走って、ニュールンベルグ近くのモーテルに入ったのは、もう夜の10時過ぎでした。
翌日、午前中にチェコ国境を通過。ビールで名高いピルゼンの町でビールを飲んで昼食。パベル達とは予定通りに合流できたのです。
プラハは美しい町でした。うれしいことには、なんでも安いのです。日本の高層団地のようなアパートの部屋では、夏休みで市の職員がみんなバカンスに出かけ、そのせいで湯が出ないので、ポーリンは毎朝、悲鳴をあげながら、シャワーを使っていました。
モーツアルトが寄寓した邸宅。その部屋でのコンサート。『レ・ミゼラブル』の観劇と感激。歌劇『魔笛』の鑑賞。
それから空気銃を持って出掛けた、なんだか絵本の舞台のようなカントリーハウスの日々、本当にプラハはヨーロッパの京都みたいな所でした。
詳細については、いずれ稿を改めたいと思っています。
Comments
感想を書きたいのですが睡眠不足で頭が回りません(汗)
またあらためて来ます.