高田直樹著作纂

著作纂.jpg 私に還暦が近づいたとき、教え子で京大の先生をしている竹田晋也くんが、「先生の著作をまとめましょう」と言い出した。大学では、そういうことが慣例となっているらしかった。
 彼が音頭を取り、みんなが協力してくれて、出来上がったのがこの大きて重い「高田直樹著作纂」である。大きさはA3版で重さはなんと8キロもある。
 単行本になったものを除くほとんどの著作が収まっている。

番外1「プラハの夏」

 いま、『高田直樹著作纂』の年表で調べてみると、ぼくがプラハに行ったのは54歳で教師を辞めた翌年、1992年の夏のことでした。
 それにしても、この頃、ものすごい勢いで外国に行っているし、国内でも矢継ぎ早に出歩いている。列挙してみましょうか。こんな具合です。
 1991年6・7月、退職して直ぐのスイスクラン・モンタナ滞在。7・8月、ボストンよりサンフランシスコ近郊ロス・ガトス滞在。9月帰国して、来日したパベルと若狭へバイクツーリング。12月より翌年1月、パキスタン旅行、ラワルピンディ、ペシャワール、クウェッタ、カラチを歴訪。
 1992年3月、サンフランシスコのウィンドウズ・エキスポへ。6月、ロンドンでの<Europe OOP Conference>へ。終了後、オランダに渡り、車でプラハへ。
 8月、帰国して直ぐ、野尻、佐々木と共に槍〜劔の縦走。そして、下山するや直ぐ、妻秀子を連れて、一週間のタイ・チェンマイ行。
 9月、受験勉強の次女を除いた、妻、長女、長男の高田家4人で、パキスタンへ向かい、念願のミナピン村再訪を果たす。ディラン峰遠征より27年ぶりのことでした。
 12月、教え子や、祇園の舞妓の美年子など12人を連れてパキスタンツアー。そして、翌1993年1月より、この「異国4景」を執筆することになります。さて、本題の番外編です。

 「べルリンの壁」崩壊からの2年少し、プラハの町は、何か活気にあふれているようでした。それにしても、それは、今から15年前のこと。デジカメもインターネットもない時代です。記憶はもどかしく霞がかかっている感じです。
 さて、プラハ近郊の団地の8階のアパートの一室で起きだしたぼくは、冷水のシャワーを使います。市の職員が夏休みのバカンスを取り、そのため給湯がストップしているのだそうです。震え上がるくらいの冷たい水です。息を止めて一気に水をかぶります。

 パベルは、ぼくを車に乗せ直ぐ近くのパブのような食堂に連れて行きました。ここの自慢料理は、ウサギのシチュウです。肉切れから散弾が2個出てきました。直ぐそばの草原や林には、野うさぎがいっぱいいるのだそうです。
 午後はショッピング。なんでもびっくりするほど安い。チェコグラスを大量に買いあさってしまいました。
 これは、あとでプラハ空港でのチェックインの際、重量オーバーの追加料金を請求されることになります。パベルとポーリンは、二人ともKLMの職員ですから、なんとかフリーで通そうと色々方策を尽くしてがんばってくれましたが、駄目でした。オランダと旧ソ連を脱したばかりのエアロフロートでは、どうにも勝手が違うようでした。

 プラハは、モーツアルトが大好きだった町です。彼が、この何度も訪れたプラハでいつも滞在したのは友人の別荘で、ベルトラムカ荘と呼ばれる館でした。
 交響曲第38番は通称「プラハ」と呼ばれていますが、これは彼がここで作曲した訳ではないようです。どうして、そう呼ばれるようになったかは、分かりません。ここで作曲されたのは、「ドン・ジョバンニ」でした。
 このベルトラムカ荘に行きました。午後には、中庭の芝生の上での弦楽合奏のコンサートがあり、シャンパンが振る舞われます。純白のガーデンチェアに座り、シャンパンを含みながら聞く弦楽四重奏は空中に漂い、そして青く澄み切ったプラハの空に消えて行きました。

 ちょうど、世界各国で演じられている『レ・ミゼラブル』を国立オペラ座でやっていて、パベルとポーリンは行く予定なので一緒しようと誘われました。切符は、と聞くと、パベルは「大丈夫。任せとけ」といいました。
 当日、劇場の前まで行くと、パベルはぼくを石の円柱の陰に隠し、劇場前に立っている数人の男と交渉を始めています。
 開演ギリギリになって、ようやく切符が手に入りました。なんと半値近い値段です。パベルは、そのダフ屋を値切り倒したようでした。
 実はぼくは、この「レ・ミゼラブル」ロンドンでも見たことがありました。だから今回はチェコ語の「レ・ミゼラブル」という訳でした。そばのポーリンが、あらすじを説明してくれようとするので、ぼくは「ありがとう。知ってるよ」と答えました。
 「えーっ、どうして知ってるの」とポーリンは驚いています。
 日本人は、大体こうした文芸作品や音楽に対しての知識は、世界でも抜きん出ているのではないかと、ぼくは思っています。
 ロス・ガトスのラリーの家にいた頃、彼がメキシコレストランに僕を連れて行きました。バンドグループがテーブルにやってきたので、ぼくは「ベサメムーチョ」とリクエストしました。
 演奏が始まると、店の客全員が大合唱を始め、ラリーは驚いて「どうして知っているんだ」と聞いたものです。だって、有名な曲だもんという答えに、彼はぽかんとしていました。