旅はBirdyを連れて(2002年春)

 どうした風のふきまわしか、BD−1 Birdyなる折りたたみ自転車に興味を持ち、即購入。
 その年の春に、このBirdyを携えてヨーロッパはイタリア、フランス、オランダなどを走った記録です。
 イギリスの作家スティーブンソンの『旅は驢馬を連れて』をもじって、「旅はBirdyを連れて」としました。

旅はBirdyを連れて(1)
旅はBirdyを連れて(2)
旅はBirdyを連れて(3)

記録映画「ハラハリ」第3部



記録映画「ハラハリ」第2部



記録映画「ハラハリ」第1部



記録映画「ハラハリ」(1969年制作) on YouTube

 1969年夏、京都カラコルムクラブ辺地教育調査隊を組織して西パキスタンに赴き、ランドクルーザーを駆って、5000kmを走破した時の記録です。スワットヒマラヤの未知のハラハリ氷河をつめ、未踏のマナリ・アンを越えた記録映画。松竹映画社よりの機材貸与と16mmフィルムの提供を得ました。撮影は隊員の関田和雄。 
 制作に際して、京都市広報課寺島卓治氏に協力指導、劇団京芸藤沢薫氏にナレーション、府立桂高校放送部の女性アナウンサーにはインタビュアーとしてなど、おおくの人たちの協力があって完成したものです。
 先頃の京都府立大学山岳会創立50周年記念祝賀会での上映の為に作った、デジタルリニューアルDVD版をYouTubeにアップしました。尺の関係で3部に分かれています。

「ハラハリ」第1部(YouTube)
「ハラハリ」第2部(YouTube)
「ハラハリ」第3部(YouTube)

マギーの山

小学館『小学四年生』「マギーの山」紹介

 山と渓谷社の季刊誌で、山の世界では最も高級誌とされている『岩と雪』に、登山と「神話」の連載を始め、3回目の「槍ヶ岳からの黎明」が出てすぐの頃でした。
 突然、小学館から電話がかかり、『小学四年生』という学習誌に、著作を掲載せさせてほしいという依頼でした。
 「槍ヶ岳からの黎明」にある、ピクソール女史の「山頂の灯火」のお話を、小学生向きにリライトして載せたいのだが、いいでしょうかということでした。
 あれは、僕が作った話じゃなくて、あそこにも書いておいたように、外国の作家のオリジナルです。どうぞ載せて頂いて結構です、と返事しました。
 でも、小学館からは、律儀にも何がしかの稿料が送られてきたように記憶しています。
 それにしても、この『山頂の灯火』ほのぼのとして、なかなかいいお話ではあります。
 文もカットも、素敵です。
 末尾に載っていた、「山はだれのもの、生き方をくらべてみよう」という東京都成蹊小学校の先生の設問も、掲載しました。考え込んでしまうような内容ではないでしょうか。

「マギーの山 本文」
「山はだれのもの、生き方をくらべてみよう」

「ラップトップ型パソコン活用法」

PC-98LT

日本の歴史的コンピュータ

 googleで「PC98LT」を検索すると、かつてあった【日本の歴史的コンピュータ】 と言う項はなくなっているが、パソコン博物館で詳細を見ることができる。
 この日本初のラップトップコンピュータ、PC-98LTは1986年10月に発売された。
 前稿「ぼくの夢のパソコン」(『Oh!PC』誌1985年新年号)の「パソコンが作家になる日」でも書いているように、アウトドアで使えるパソコンを待ち望んでいた私は、即購入し実際にテストするべく、同じ年1986年の暮れからネパールに飛んだ。
OnMountain.jpg
 ポカラのサランコットの丘(1592m)に馬で登り、この小山の上でラップトップを使ってみた。
 今日では、むしろ主流となったラップトップパソコンの屋外使用および1592mの高所での歴史的使用記録といえるだろう。

 帰国して、BBSにアクセスしてみると(当時は、インターネットはなくBBSが意見交換の場だった)このLTが大いに話題になっていた。
 海外に持ち出せるだろうか?セキュリティーチェックのX線の被害は?税関で課税されないか等など。
 「年末から年始にかけて、ネパールに行って使ってきましたよ」と、私は書いた。
 
 すぐにメールが来て、『日経パソコン』ですが、取材に行きたい。翌日には、東京から斉藤記者が来宅した。

 そしてこの『日経パソコン』に載ったのが次の記事である。
 その後、私自身は、このLTにPASCAL言語をインストールし、メモソフト「メモランダム」(株式会社ソフトバンク刊)の開発やパスカル言語関係の著書の執筆に使用した。


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コーカサスの山と人の紹介・説明

「コーカサスの山と人」<上><下>
           
『なんで山登るねん』に〈三十なかば変身のきっかけはコーカサスのショック〉という章があります。
 1965年、京都山岳連盟カラコルム登山隊の最年少隊員として、初めて海外に出た私は、カルチャーショックを受けます。
 この4年後、1969年に「西パキスタンの旅」に出かけます。
 さらに二年後の1971年、旧ソ連邦・コーカサスに出かけたときの報告を、読み物として山渓本誌に2回に分けて連載したのが、『コーカサスの山と人』上・下です。
 当時、前衛登山集団として、自他共に許した「第二次RCC」が、ソ連の招待を受け、コーカサスに遠征し、登攀を行ったときのもので、私はこの「第二次RCCカフカズ遠征隊」の隊長でした。
 この時の初めてのヨーロッパは、ぼくにとっては初めての、東南アジアやインド・パキスタンなどのアジア圏などではない、その外の体験でした。
 さらに、ソ連邦(旧)は、アジア圏外の国というだけではなく、いわゆる冷戦構造下の東側の国でした。そこで肌で感じたものは、日本で常識のように言われ信じられていることと、実際とのあまりに大きなギャップだったようです。
 〈コーカサスのショック〉とは実はそうしたものであったと今思うのですが、どうしてかぼくは余りこうしたことに関しては書いてはいません。
コーカサスの山と人<上>  
コーカサスの山と人<下>          

登山と「神話」

 登山と「神話」は山と渓谷社の季刊誌『岩と雪』に、38号から43号(1974年10月〜1975年6月)の6回にわたって連載したもので、当時けっこう話題となったものです。
『なんで山登るねん』よりずっと良い、という岳人もたくさんいました。ぼくとしては、『なんで山登るねん』の基盤となっている理屈を述べたつもりだったのですが・・・。

◎登山と「神話」(全6回)
その1 スポーツ神話について
その2 宗教登山の位置づけについて
その3 『槍ヶ岳からの黎明』について
その4 「山での死」について
その5 『ホモ・ルーデンス』について
その6「シェルパレス登山について」は割愛しました。

西パキスタンの旅について

 1969年、ディラン峰遠征の4年後、学園紛争たけなわの日本をあとに、戒厳令下のパキスタンをジープで旅した記録です。
 このときの話は、『なんで山登るねん』の随所に出てきます。
 『西パキスタンの旅』は、月刊誌〈山と渓谷〉に1970年5月号より2年近く連載されました。

(この時、山渓本誌の編集部でこの連載を担当したのが、若き節田重節さんでした。連載が終わって間もなく彼が編集長となって、私に新連載を依頼し、ここに『なんで山登るねん』が生まれた訳です。)
 当時は、ネパールと違ってパキスタンの情報は大変少なかったので、この連載を海外遠征の勉強会のテキストに使った山のグループもあったと聞いております。

 この時の活動の一部、スワット・ヒマラヤのマナリ峠の地理的同定踏査の記録映画「ハラハリ」は、本サイトにアップされています。記録映画「ハラハリ」(on YouTube)

◎西パキスタンの旅(全14回)
第1回 カラコルム辺地教育調査隊の出発
第2回  シンド砂漠を走る--その1--
第3回  シンド砂漠を走る--その2--
第4回  ギルギットへの突入--その1--
第5回  ギルギットへの突入--その2--
第6回  ギルギットへの突入--その3--
第7回  ギルギットへの突入--その4--
第8回  バブサル峠への潜行--その1--
第9回  バブサル峠への潜行--その2--
第10回  幻の峠を求めて--プロローグ--
第11回  幻の峠を求めて--ガブラル谷--
第12回  幻の峠を求めて--ハラハリ谷--
第13回  幻の峠を求めて--ハラハリ氷河とマナリ・アン--
最終回  幻の峠を求めて(最終回)--エピローグ--